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第118話 荒くれ者の涙

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 ジリアンに案内されて入った納屋の中は酒盛りをするための環境が整えられていた。
 ボルドは思わずおどろいて目をく。
 
「わ、私は酒を飲めないので……」

 ボルドは生涯しょうがいでただの一度も酒というものを飲んだことがない。
 奴隷どれいの時はもちろん、ブリジットの情夫となってからも酒は口にしなかった。
 飲酒をすると夜伽よとぎに差し支えがある場合があるためだ。
 だが奴隷どれい時代に隊商の主たちが酒に酔い、ひどくからまれた経験があるので、ボルドは酒にはあまり良い印象を抱いていなかった。
 ブリジットはたしなむ程度には飲んでいたが、彼女はまったく顔色も態度も変わらなかったことを良く覚えている。

「茶もあるから心配すんな。別に飲めない奴に無理に勧めるつもりはねえよ」

 そう言うとジリアンは酒瓶さかびんとなりに置かれた急須を手に取り、ボルドのカップにぬるめの茶を注ぐ。
 
「おまえのことを色々と聞かせろよ、リビーたちからよく聞かれるんだ。あいつはどんな男なんだと。その度にワタシが適当に答えるんだが、いい加減、話に真実味がなくてな。困ってたんだ」

 それがリビーたちに疑われた原因なのではないかとボルドは思った。
 そんなボルドの内心など知らずに、意気揚々とジリアンは自分のグラスに酒を注ぐ。
 透明のグラスになみなみと注がれる綺麗きれいな赤色の葡萄ぶどうしゅ酒を見ながら、ボルドは内心で頭を抱える。 

(それにしても困ったことになったな)

 身の上話は出来ればしたくない。
 うそで塗り固めるほどにボロが出やすくなる。
 ジリアンは追放された身の上とはいえ分家の女である可能性が高い。
 ボルドがブリジットの情夫だったと知られてしまえば、その情報が分家に伝わる可能性がある。

 ボルドが一番恐れているのは、自分が分家の人質にされ、ブリジットへの交渉に使われてしまうことだ。
 それだけは避けなければならなかった。
 この時に備えて頭の中で作り上げた虚構つくりものの過去をボルドはゆっくりと話し始める。
 その話にジリアンはあれやこれやと質問をしつつグラスを傾け、あっという間に一時間が過ぎた。

「なるほどな。ガキの頃は貧しかったけど、その貴族のお嬢様に見初みそめられて人生が変わったってわけか」
「……ええ。それはもう大きく変わりました。それまで誰かに求められたことなんてなかったので。それももう終わった話ですが」
「その貴婦人のところに戻れないなら、親元へ帰ろうと思わなかったのか?」
「親はどちらも強盗に殺されてしまったので、私には戻る場所はなかったのです」

 グラスに口をつけようとしていたジリアンはその話に動きを止めた。
 そして半分ほど葡萄ぶどう酒の残ったグラスをテーブルに置くと言った。

「色々あったんだな。おまえも。発見された時、川に浮かんでいたのはなぜだ?」

 その問いにボルドはわずかに言葉に詰まった。
 だが、彼が言葉をひねり出そうとしているのを見るとジリアンは言った。

「いや、いいや。言わなくて。大事なことは今こうしておまえが生きているという事実だろ。五体満足だし、生きる場所もある。人生これからじゃねえか」

 そう言うとジリアンはやさしくボルドの肩をポンと叩いた。
 ジリアンの気遣きづかいにボルドは胸が痛んだ。
 それでも本当のことは言えない。

「私もそうさ。前に話した好いた男が死んだ時、もう人生終わったと思ったよ。故郷も失い、家族も失い、好きな男も失った。そんな時は戦場に出て派手に討ち死にしたいと思うのがダニアの女だが、その戦場に立つ機会すら失った。まさしく羽をもがれた鳥だ」

 そう言うとジリアンはグラスに半分残っていた葡萄ぶどう酒をグッと一気に飲み干し、今度は別の酒壺さかつぼから透明な蒸留酒を陶器に注ぐ。
 強いアルコールのにおいがただよい、ジリアンはうまそうにそれを口に含んだ。
 それから自分の愛した男がどんな人物だったのか、自分がその男とどう過ごしたか、彼がどんな最後を迎えたのかをジリアンは滔々とうとうと語った。

 語るほどに酒は進み、酒が進むほどに口はよく回る。
 ボルドはジリアンの話をじっくりと聞き、丁寧ていねいに言葉を返していく。
 そこからさらに一時間ほどの間に彼女はすっかり酔いが回り、饒舌じょうぜつだったその口は少しずつ呂律ろれつがあやしくなってきた。

「あいつが生きていてくれれば……」

 そう言ったきりジリアンはガクッと項垂うなだれて、それ以上まったくしゃべらなくなった。
 眠ってしまったのだろうか?
 そう思ったボルドはジリアンの顔をのぞきこもうとした。
 するとジリアンがいきなりガバッとボルドに抱きついてきたのだ。

「うわっ……」

 ソファーの上に押し倒されるボルドの上に、ジリアンはのしかかってくる。
 彼女の顔が紅潮しているのは酒のせいだと思い、ボルドは必死に彼女をなだめにかかった。

「ジ、ジリアンさん。飲み過ぎですよ」
「なあ……ワタシとのこと、本気で考えてみる気はないか? 今はまだその貴婦人のことを忘れられねえだろうけど、ワタシもおまえも前に進まなきゃならないだろ?」

 そう言うとジリアンはグッとボルドに体重を乗せる。
 柔らかな胸のふくらみがあごの辺りに押し付けられ、彼女が胸元に塗った香油のかぐわしいにおいがボルドの鼻を突く。
 もうどう暴れても逃げられない。
 声を上げようかと思ったその時だった。
 
 ボルドのひたいにポタリと一滴ひとしずくの水が落ちた。
 それがジリアンの流した涙だと気付いたのは、彼女がかすれた涙声を発したからだ。

「……何で死んじまったんだよ。クリフ……」

 愛した男の名を呼んだきり、ジリアンの体からフッと力が抜け、静かな寝息が聞こえてきた。
 いに負けて彼女が寝入ったのだ。
 ボルドはゆっくりと彼女の下から抜け出てソファーの下に降りると立ち上がる。
 そしてソファーに横たわるジリアンを見つめた。
 その目元は涙でれている。

 戦場で大暴れをする荒くれ者ぞろいのダニアの女たちも、辛い時には涙することをボルドはよく知っている。
 ブリジットもそうだったことを思い返しながら、ボルドは衣服のふところから清潔な手拭てぬぐいを取り出し、それで彼女の涙をく。
 そして酒壺さかつぼに栓をして、ジリアンを起こさないよう静かにテーブルの上を片付けた。 
 
(この人も辛いんだ……)

 ボルドは納屋の壁にかけられた毛織物を取るとそっとジリアンの体にかけた。
 昼間はまだ暑さの残る時期だが、朝晩は冷える。 

【お茶ごちそうさまでした。風邪かぜひかないで下さいね】

 そう書き置きを残すとボルドは静かに納屋を後にするのだった。
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