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第四章 PHANTOM OF CRY
第九話 トラジック・アジテータ
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あれ以上、岩永になにを聞くことも、言うことも出来なかった。
一時休戦で、別れて数十分。
吾妻は息を吐いた。嘆いているのか、疲れているのか。
「…」
我慢するべきだ。
白倉を想うこと、傍にいることを。
だって、白倉が岩永のようになったら、嫌だ。
彼が自分の全てを忘れたら。
出会って今までの記憶も、自分に芽生え始めた想いも。
跡形もなく消えてしまうなら、会いたくない。
我慢するから。
待つから。
廊下の向こうに感じた気配に、吾妻は胡乱な視線を向ける。
岩永は上の階に行ったから違う。
なら、遠慮はしない。
手を突きだして、炎を発生させた瞬間、その場に異質な音に気づいた。
ピピピ、と、アラームのように鳴る音。
そこで吾妻はハッとした。初めて聞くからわからなかった。
これは、パートナーが近づいた時、腕の機械が鳴らす音。
廊下の角から出てきた男は、吾妻を見つけてホッとした。
吾妻は呼吸が止まって、全身で発火を止める。
荒い息を吐く。床に座り込みそうになった。
「吾妻」
よかった、とこちらに駆け寄ってくる華奢な身体。
「リタイアにはなってないとは思ってたけど…」
「…白倉」
顔を上げて、姿勢を直し、傍に立った白倉を見下ろす。
「白倉こそ、無事でよかったよ」
「うん…」
素直な気持ちを口にすると、白倉は嬉しそうに微笑んだ。
「吾妻、なあ…」
吾妻の手を軽く、指でつついて、白倉は上目遣いに言う。
「抱きついたら駄目?」
「…………はっ!?」
前触れもないお強請りに、吾妻はいろんな意味でびっくりした。
心臓を一気に酷使するような驚きだ。
「……え? 白倉?」
「寂しかった。いなかったから、お前。
だから、一回ぎゅってして」
「……え、や……」
吾妻は狼狽した。
嬉しい。すごく嬉しい。頼まれなくてもこっちから思う存分したい。
でも、今、我慢すると思ったんだ。
だって、岩永みたいに、彼が俺を忘れたら。
自分を見上げて頬を赤くした白倉は、不意に傷付いた顔をする。
「…なに? その、我慢するって決めたのに…て顔」
「……書いてあった?」
「ボケんな。そういう話と空気じゃない。
顔に本気で書いてあったら蹴りいれてる」
白倉は心底本気の声音で怒って、吾妻を睨む。
「なんで?
我慢しなくていいって俺、言った!」
自分の胸に左手を当て、右手を大きく動かして白倉は訴える。
傷付いた顔で、泣きそうに。
「…だけど」
「…俺がいいって、決めるの俺じゃないか。
なのに九生も時波も、しまいにはお前まで!」
だって、
岩永は言っていた。
「どうして、お前は白倉とのことを、咎めない?」と聞いた自分に。
「…今、咎めて変わるんか?
お前を好きな白倉と、白倉を好きなお前の気持ちに、一時停止がかけられるんか?」
そう言った。
無意味だ、と。
そうだ。我慢なんか本当は出来ない。
離れていても、自分は白倉を想う。
愛して、見つめて、ただただ一心に。
思いは募るばかりで、消えないんだ。
「頭の中から、…消えたらなんなんだよ」
白倉は俯いて、呟く。震えて、掠れた声。
「そしたら、また覚えたらいい。
何遍だって、お前のこと好きになってやるから、俺の傍にいろ!!」
白倉は悲鳴のように叫んで、嘆き疲れたように項垂れる。
胸を撃つ。あまりに、苦しいそれは、強い喜び。
白倉の手を掴んで、抱きしめる。
「こっち、来て」
「…」
抱きすくめたまま、耳元で囁いた吾妻に、白倉は疑問を訴える瞳を向けた。
肩にその身体を抱き上げて、中庭に面した窓を開ける。
白倉と自分の周囲に炎の壁を張った。
そこに、複数の超能力がぶつかって散る。
「人が集まってきちゃった」
窓枠に足をかけて、一気に飛び降りた。
白倉を、きつく抱きしめて。
人気のない十六階廊下。
岩永は自販機でオレンジジュースを買って、プルタブをひき開けた。
「…はー…」
吾妻と戦わないで済んだのは助かった。
一人はきつい。
缶に口を付けて、また一口飲み込む。
考える。
落ち込んだこともあった。
記憶の欠落。
でも、戻らないのだ。
いくら悩んで、心をすり減らし、苦しんだところで。
なにひとつ、思い出せない。
忘れたのではなく、消えてしまったから。
だから、やめた。
足音がして、岩永は缶を床に置く。
気配を殺して、構えた。
先手必勝だ。こっちは一人だから、敵の攻撃より速く仕掛けなければ負ける。
だが廊下の向こうから姿を見せたのは、禿頭の長身の男。
村崎だ。
自分と同じで一人。
岩永は、自分に気づいて顔を歪めた村崎を見つめ、迷った。
多分、攻撃しないと攻撃される。
でも、出来ない気がする。
それは、自分だけだけど。村崎は違うだろうけど。
「…パートナー、リタイアしたん?」
それでも問うた声が少し弾んでいて、自分に心底懲りないなと思った。
「……」
村崎はなんとも言えない顔で、岩永を見ると視線を背けた。
関係ないって言われるか、攻撃される。そう予想した。
「…お前もか?」
「……え?」
「パートナーのリタイア。お前もか?」
村崎はそう聞いてきた。
一瞬、顔を背けようとはしたが、しかたないという風にこちらに近寄ってきた。
「う、うん! 結構最初に……、あ、嬉しいわけやなくて」
思い切り元気よく返事をしてしまい、岩永はすぐ消沈した。
流河にも、村崎のパートナーにも失礼だった。
「そんなんわかるわ」
村崎はにべもない。いちいち言うな、という風に。
「…やんな」
胸がじくじくと痛む。
でも、もっと、話していたい。
なんでだろう。
覚えていないのに。
いつも彼は、冷たいのに。
村崎が不意に視線を険しくする。自分に向けられたのだと、岩永は胸が痛くなった。
だが、大股で近寄った村崎の手が伸びて、肩を掴むと抱き寄せられた。
自分の背後に手をかざし、村崎は岩盤の壁を生みだした。
そこに、衝撃のぶつかる音。
向こう側に、誰かがいたのだ。
村崎の手が動く。砂が踊って、壁で岩永からは見えない廊下の向こうへ。
悲鳴がしたあと、静かになった。
「……」
村崎がホッと息を吐く。
岩永はそれどころではない。
今の自分は初めて感じる腕の中の温もり。匂い。
顔が赤くなってる。
「…」
村崎は岩永の異変に気づいて、視線を寄越すが、なにも言わない。
少し、痛みが戻ってくる。
気持ち悪いと思う。今の自分。
「…しゃあないな」
村崎は向こうの廊下に座り込んで、リタイアか、と嘆いている先ほどの攻撃の主を見遣って呟いた。
「え?」
「お互い一人はきついやろ」
村崎は少し離れると、ため息混じりに言った。
「パートナーを失ったもん同士なら、ペアの再登録は許可されとるしな。
…かまへんな?」
「…………」
それは、一緒に組んでくれるということで。
ああ、懲りない。
本当に懲りない。自分。
だって、これはしかたなくだ。
自分は強いから、勝つために組むには「無難」なだけで。
「…うん!!」
それでも、こんなに嬉しくて、勢いよく笑って頷く自分。
報われないと思う。
村崎は少しだけ、困惑した顔をして、自分を見つめた。
それから、ほんの少し、僅かに、口元を緩めて笑った。
嫌いになんてなれない。
こんなささやかな優しさすら、嬉しくて、好きで。
諦められなくて。
どうしたって、傷付いた手を伸ばした。
中庭の生い茂った木々の間に隠れて、吾妻は白倉の頭を撫でた。
「こわいよ」
「…」
優しく、不安げに言う。白倉の隣に、巨躯を丸めて座った吾妻。
白倉を見つめて、微笑む。やはり、どこかに影を潜ませて。
「白倉が、僕のこと忘れたら」
「…でも、」
「うん」
わかってる、とそっと抱きしめられる。
「僕も、離れるのは、こわい」
心から想った声だとわかる声。
白倉の胸が、震えた。
ああ、いつからこんなに。
「…白倉」
切なそうに、自分を見下ろす吾妻に手を伸ばす。
首にすがりつく。
吾妻の首に、そっと軽くキスを落とした。
「……時間、止まったらいい」
「…うん」
「離れたくない…」
「うん」
ずっと、ずっと、この腕の中にいたい。
吾妻の優しい笑顔を、見ていたい。
「…白倉」
「ん?」
呼ぶ声に、白倉はゆっくりと顔を上げた。
「僕のこと、好き?」
その顔が、何故かぼやけた。
よく見えない。
「……吾妻は?」
「…好きだよ」
吾妻が泣いているんだろうか。
声と、自分を抱く手が震えている。
その感触が、なんでだろうか、遠い。
「好きだよ。
なにより、誰より。
あの日から、…あの日からずっとずっと…」
あの日からと言われて、浮かぶのは、体育館の出会い。
いきなりみんなの前で告白されて、心底気持ち悪かった。
「愛しくて、傍にいたくてたまらない。
本当に、僕も堪えらない。傍にいたい。
抱きしめていたい。キスして、好きって言いたい。
夜も朝も、毎日、毎日、…ずっと…!」
そっと、吾妻にすがる。その手が、弱かった。
精一杯、胸元に頬を擦り寄せた。
胸の中が、しびれてる。
嬉しくて、愛しくて、切ない。
「…愛してる。愛してる。…白倉」
吾妻が言う。泣きそうな声で。
あの日から。あの日からずっと。
探していた。
本当は、キミに再び出会うために、NOAに来たんだ。
もう一度、キミが呼ぶ「吾妻」という名を聞きたかった。
吾妻はきつく白倉を抱きしめた。
白倉が好きだ。
離せない。手放せない。
やっぱり、無理だ。
離れるなんて出来ない。
好きで、好きで、悲しくて、切なくて、胸が潰れそう。
「…白倉…」
こんなにも、好きだから、離れられない。
白倉は、僕の全てだった。
白倉が、僕を覚えていなくても。
「…愛してる………」
あの日からずっと。
僕を、孤独の淵からすくい上げてくれた人。
「…白倉」
手を伸ばして、抱きしめた身体を見つめて、顔を上げさせて。
薄く開いた唇に、そっと自分のそれを重ねた。
きつく、一心に抱きしめた。
腕の中にいるキミの温もりを。その温かさに、僕は生きていると知るから。
離したくなかった。
あの時、抱きしめることの敵わなかったその身体を、抱くためだけに、生きてきた。
再び出会ったキミは僕を知らず、僕の右目のことも知らず。
でも、僕に優しく話しかけた。優しく思いやった。
誓ってくれた。
キスを、くれた。
「…好きだよ………」
こんなに好きなのに、離れられるはずがなかった。
手放せるはずがなかった。
遠くから見ていることが、出来るはずなかったんだ。
キミと離れた距離が、隙間の空気が、僕の指を切り裂いて痛くて。
腕の中に閉じこめる。
離れられるはずがなかった。
こんなにも、愛しているから。
「……吾妻」
白倉の頬を、透き通った涙が流れる。
翡翠の瞳が、真っ直ぐに吾妻を見つめた。
「…俺も」
震えた声が、自分を呼んだ。
目を閉じて、泣きながら、静かに、夜の中で咲く白い花のようにキミは微笑む。
腕の中。ことり、と自分の胸元に乗せられた頭。
力無く、閉じた瞼。
「……白倉……………?」
掠れた声で、吾妻は呼んだ。
白倉は目を閉じたまま、目覚めない。
力のない四肢。体温が低い気がする。
閉じたまま、自分を見ない瞳。
「………白倉…………………………?」
暴走キャリアは、宿主の心や記憶、身体を喰らう。
きっかけは、
「…………白倉………」
泣き出しそうに呼んだ。
起きて。目を開けて。
何度でも呼ぶから、お願い。
お伽噺で、キスで目覚めるお姫さま。
逆だ。
キスで、深い深い眠りに、落としてしまった。
こんなものを見たくて、君を捜して来たんじゃない。
こんな、ものを。
「原因不明の昏睡状態?」
白倉と九生の部屋。
白倉が眠っている奥の寝室には、九生と時波がいる。
居間に集まった夕と、岩永、流河は教師から聞いた僅かな情報に顔をしかめた。
「多分、暴走キャリアが原因だろうって」
「でも」
岩永は二人を見渡して、眉を寄せる。
「暴走せぇへんかったやんか」
流河と夕は息を呑んだ。
以前暴走を起こした本人に言われると、その本人に記憶がないとわかっていても、衝撃を受ける。
「それに、まさか本気で恋心がきっかけやと決まっとらんし」
「…それを断言できるの?」
流河は言葉を選んで、慎重に問いかけた。
「え?」
「恋心がきっかけじゃないって、岩永クンは断言できるの?」
言ってしまってから、ひどい言い方になったかもしれないと流河は危ぶむ。
だが、岩永は平然とした顔で、
「断言はせぇへん。覚えとらんし。
やけど、違うと思うねん。なんか腑に落ちひん」
とはっきり言った。
流河と夕は顔を見合わせる。
事件の核心をつく会話は嫌だ。
心が痛い。疲れる。
本人が、平然としているから余計に。
今の言葉に反論すれば、岩永を傷付けるんじゃないかと危惧する。
「どうやら、それは当たっとるかもしれん」
寝室から九生が出てきた。
「医師の先生にも診てもらったが、二つ目の力は完全に覚醒しとるそうじゃ」
「…じゃあ、」
「暴走したわけじゃ、ないな」
九生の言葉に、全員がホッと息を吐く。
さっきの気まずい空気から抜け出せた安堵でもある。
「ただ、ずっと意識が戻らん。
だから、全然副作用を受けとらんとは言い切れん。
暴走せんかっただけで、記憶が…ない可能性もあるわけじゃ」
視線を落とし、声を震わせた九生に、三人は言葉を失う。
顔を見合わせたが、なにも浮かばない。
胸が塞がる気持ちがする。
「………」
九生は自分の口元を押さえて、息を吐く。
気持ちを整えるように。
「…吾妻は?」
「…あ」
単刀直入な問いに、岩永が視線を泳がせる。躊躇って。
「あのな、吾妻は、悪…」
「そんなんわかっとる」
岩永の困惑を読んだように、九生は言い切った。
「…わかっとる。悪かったんは、どうも、俺らの方やの」
九生は肩を落とした。
岩永は胸にわき上がってきた思いのままに、首を横に振った。
「別にお前らも間違っとらん。
そんなん言うたら、覚えとらん俺かて悪いやん。
…悪いヤツは、多分おらんと思う」
言葉の最後に行くにつれ、勢いを失い掠れていく岩永の声を聞き、九生は微かに微笑んだ。
「そうじゃの」
そう、優しく言った。
「…まあ、だから、一人自分を責めとるじゃろうあいつにもそう言いたくてな」
自分の腕に触れ、撫でながら九生は言う。少し気まずそうに。
それ以上に、吾妻を思いやって。
「…俺が行ってきてええ?」
岩永は手を小さく挙げて、笑った。
「俺の方が、言うこと言ってやれると思う。
少なくとも」
視線を寝室の方に向ける。
「白倉の、望んどることは…」
白倉が眠りに落ちて、一週間が経った。
全く、変化はない。
自分の所為だ。
やはり、なにがなんでも離れるべきだった。
堪えるべきだったのだ。
知っていたのに、彼らの心を傷付けてまで真実を知ったのに。
それでなおなにも出来なかったなら、それはただの興味本位だ。
なにも活かせないのなら、それが興味本位に探る愚かな人間となにが違う。
「ここおったんか」
背後で下生えを踏む音がした。
NOAがある都市の端。
自然を残す小さな山と湖には、動物も多い。
以前はそういうところにばかりいたから、動物と自然が好きだった。
街を見渡せる山の、なだらかな丘。
振り返ると、岩永がいた。
こんなに高い山だと知らなかったらしく、普通のスニーカーに制服。
汗を掻いている。
「…見つけるん苦労した」
「…どうして来たの」
「当たり前やろ」
吾妻の自暴自棄な問いに、岩永はあさっての返事を寄越す。
「なにが」
「お前がいっちゃん……。
て、決めつけたらあかんけど、…責めとんのとちゃうか?
やったら、違うって言いに来んでどうする」
吾妻の傍に立って、岩永は吾妻を見下ろした。
生い茂った草の上。向こうに森となって立ち並ぶ木々。
「違くない」
「違う」
「違わない!」
岩永に背を向け、叫んで、吾妻は溢れてきた涙を拭う。
「離れよう。我慢しようって誓ったのに、白倉を前にして、堪えらなくて…」
「やからそんな必要あれへん!」
岩永はさっきの自分より、大きな声で否定した。
ぼんやりと彼を見上げた吾妻を、息を乱しながら見つめ返す。
「俺はなんも覚えとらんし、確証ひとつわからんし。
でも、ちがうんやもん。
距離とってほしいとか、諦めて欲しいとか、そんなん違う。
少なくとも俺は、そんなん一度も思わんかった」
言い終わって、岩永は荒くなった呼吸を整えようと胸に手を当てた。
「覚えてないって……」
「ああ。今のは“今”の俺の意見やからな」
記憶もない、昔を知らない自分の気持ちだ、と岩永。
呼吸を落ち着けているが、まだ肩が上下している。
「…俺はそう思う。
最後どうなるかわかっとっても、それでも傍におって欲しい。
忘れたって、もう一度好きになったるから、傍におってって」
『そしたら、また覚えたらいい。
何遍だって、お前のこと好きになってやるから、俺の傍にいろ!!』
白倉も、そう言ったんだ。
吾妻は目を見開く。
夕焼けに照らされる山。
立っている岩永の姿。
「俺は、待ってて欲しかった。
…帰ってきた時、変わらず傍で、待っとって欲しかった。
…知らんくても、覚えるから、教えて欲しかった。
…記憶がないからて、手放されたなかった」
赤く染まった頬を、泣きそうに、それでも堪える意志の強い瞳を、心底綺麗だと初めて思う。
いつも見つめていた、白倉と同じ、揺らがない意志の瞳。
「…」
岩永と視線が絡む。
吾妻は不意に微笑んで、立ち上がった。
岩永の傍を通り過ぎる。
「吾妻」
「帰る」
驚いて自分を追ってきた岩永に笑いかけた。
まだ少し泣きそうにして。
「白倉のとこ、帰るよ」
それでも、心から願って言った。
岩永は、瞳を揺らして、安堵に頬を緩ませる。
「白倉の傍で、待ってる。傍にいる。諦めない。
そう、誓った。
……守る」
目覚めたキミが、もし僕を知らなくても。
また、僕を知らなくても。
あの日のように、僕を「初めて見る」顔で見ても。
待っている。
何度でも。
手を伸ばす。
隣に、いるから。
また、笑ってくれるなら。
吾妻が泣いてる気がする。
瞼が重くて、開かない。
四肢に力が入らない。
だって、俺の意志を無視して、我慢するって、離れるってわけわからない。
傍にいて。
俺がいやだ。堪えられない。
知らないなら、教えて。
あの日からってお前が言った。
俺は、知らないうちにお前と出会っていた?
俺が覚えていないだけ?
なら覚えるから。
視界が開ける。
茜に染まる空。
高い空の上。浮かんでいる身体。
下に山がある。
そこで眠る、吾妻の姿を見つけた。
そこに行きたくて、手を伸ばした。
吾妻が目を覚まして、こちらを見上げてきた。立ち上がる姿。
急に身体が落下する。
落下する感覚に、悲鳴を上げそうになって堪える。
地面に落ちる寸前、ふありと浮かんで、受け止めようとした吾妻の腕の中にゆっくりと降りた。
自分を見つめる吾妻がいる。
ホッとした。嬉しくなった。
「吾妻」
笑ってそう呼んだら、吾妻は目をまん丸にした。
やがて、ああ、と納得したように手を打つ。
「あんた、天使さん?」
「………は?」
今度は白倉が目をまん丸にする番だ。
吾妻は構わず嬉しそうに微笑んだ。
「こんな綺麗な人見たんはじめて。それに空から降ってきたね。
天使さん」
そう言って、子供みたいに無邪気に微笑んだ。
その右目には、包帯が巻かれていた。
一時休戦で、別れて数十分。
吾妻は息を吐いた。嘆いているのか、疲れているのか。
「…」
我慢するべきだ。
白倉を想うこと、傍にいることを。
だって、白倉が岩永のようになったら、嫌だ。
彼が自分の全てを忘れたら。
出会って今までの記憶も、自分に芽生え始めた想いも。
跡形もなく消えてしまうなら、会いたくない。
我慢するから。
待つから。
廊下の向こうに感じた気配に、吾妻は胡乱な視線を向ける。
岩永は上の階に行ったから違う。
なら、遠慮はしない。
手を突きだして、炎を発生させた瞬間、その場に異質な音に気づいた。
ピピピ、と、アラームのように鳴る音。
そこで吾妻はハッとした。初めて聞くからわからなかった。
これは、パートナーが近づいた時、腕の機械が鳴らす音。
廊下の角から出てきた男は、吾妻を見つけてホッとした。
吾妻は呼吸が止まって、全身で発火を止める。
荒い息を吐く。床に座り込みそうになった。
「吾妻」
よかった、とこちらに駆け寄ってくる華奢な身体。
「リタイアにはなってないとは思ってたけど…」
「…白倉」
顔を上げて、姿勢を直し、傍に立った白倉を見下ろす。
「白倉こそ、無事でよかったよ」
「うん…」
素直な気持ちを口にすると、白倉は嬉しそうに微笑んだ。
「吾妻、なあ…」
吾妻の手を軽く、指でつついて、白倉は上目遣いに言う。
「抱きついたら駄目?」
「…………はっ!?」
前触れもないお強請りに、吾妻はいろんな意味でびっくりした。
心臓を一気に酷使するような驚きだ。
「……え? 白倉?」
「寂しかった。いなかったから、お前。
だから、一回ぎゅってして」
「……え、や……」
吾妻は狼狽した。
嬉しい。すごく嬉しい。頼まれなくてもこっちから思う存分したい。
でも、今、我慢すると思ったんだ。
だって、岩永みたいに、彼が俺を忘れたら。
自分を見上げて頬を赤くした白倉は、不意に傷付いた顔をする。
「…なに? その、我慢するって決めたのに…て顔」
「……書いてあった?」
「ボケんな。そういう話と空気じゃない。
顔に本気で書いてあったら蹴りいれてる」
白倉は心底本気の声音で怒って、吾妻を睨む。
「なんで?
我慢しなくていいって俺、言った!」
自分の胸に左手を当て、右手を大きく動かして白倉は訴える。
傷付いた顔で、泣きそうに。
「…だけど」
「…俺がいいって、決めるの俺じゃないか。
なのに九生も時波も、しまいにはお前まで!」
だって、
岩永は言っていた。
「どうして、お前は白倉とのことを、咎めない?」と聞いた自分に。
「…今、咎めて変わるんか?
お前を好きな白倉と、白倉を好きなお前の気持ちに、一時停止がかけられるんか?」
そう言った。
無意味だ、と。
そうだ。我慢なんか本当は出来ない。
離れていても、自分は白倉を想う。
愛して、見つめて、ただただ一心に。
思いは募るばかりで、消えないんだ。
「頭の中から、…消えたらなんなんだよ」
白倉は俯いて、呟く。震えて、掠れた声。
「そしたら、また覚えたらいい。
何遍だって、お前のこと好きになってやるから、俺の傍にいろ!!」
白倉は悲鳴のように叫んで、嘆き疲れたように項垂れる。
胸を撃つ。あまりに、苦しいそれは、強い喜び。
白倉の手を掴んで、抱きしめる。
「こっち、来て」
「…」
抱きすくめたまま、耳元で囁いた吾妻に、白倉は疑問を訴える瞳を向けた。
肩にその身体を抱き上げて、中庭に面した窓を開ける。
白倉と自分の周囲に炎の壁を張った。
そこに、複数の超能力がぶつかって散る。
「人が集まってきちゃった」
窓枠に足をかけて、一気に飛び降りた。
白倉を、きつく抱きしめて。
人気のない十六階廊下。
岩永は自販機でオレンジジュースを買って、プルタブをひき開けた。
「…はー…」
吾妻と戦わないで済んだのは助かった。
一人はきつい。
缶に口を付けて、また一口飲み込む。
考える。
落ち込んだこともあった。
記憶の欠落。
でも、戻らないのだ。
いくら悩んで、心をすり減らし、苦しんだところで。
なにひとつ、思い出せない。
忘れたのではなく、消えてしまったから。
だから、やめた。
足音がして、岩永は缶を床に置く。
気配を殺して、構えた。
先手必勝だ。こっちは一人だから、敵の攻撃より速く仕掛けなければ負ける。
だが廊下の向こうから姿を見せたのは、禿頭の長身の男。
村崎だ。
自分と同じで一人。
岩永は、自分に気づいて顔を歪めた村崎を見つめ、迷った。
多分、攻撃しないと攻撃される。
でも、出来ない気がする。
それは、自分だけだけど。村崎は違うだろうけど。
「…パートナー、リタイアしたん?」
それでも問うた声が少し弾んでいて、自分に心底懲りないなと思った。
「……」
村崎はなんとも言えない顔で、岩永を見ると視線を背けた。
関係ないって言われるか、攻撃される。そう予想した。
「…お前もか?」
「……え?」
「パートナーのリタイア。お前もか?」
村崎はそう聞いてきた。
一瞬、顔を背けようとはしたが、しかたないという風にこちらに近寄ってきた。
「う、うん! 結構最初に……、あ、嬉しいわけやなくて」
思い切り元気よく返事をしてしまい、岩永はすぐ消沈した。
流河にも、村崎のパートナーにも失礼だった。
「そんなんわかるわ」
村崎はにべもない。いちいち言うな、という風に。
「…やんな」
胸がじくじくと痛む。
でも、もっと、話していたい。
なんでだろう。
覚えていないのに。
いつも彼は、冷たいのに。
村崎が不意に視線を険しくする。自分に向けられたのだと、岩永は胸が痛くなった。
だが、大股で近寄った村崎の手が伸びて、肩を掴むと抱き寄せられた。
自分の背後に手をかざし、村崎は岩盤の壁を生みだした。
そこに、衝撃のぶつかる音。
向こう側に、誰かがいたのだ。
村崎の手が動く。砂が踊って、壁で岩永からは見えない廊下の向こうへ。
悲鳴がしたあと、静かになった。
「……」
村崎がホッと息を吐く。
岩永はそれどころではない。
今の自分は初めて感じる腕の中の温もり。匂い。
顔が赤くなってる。
「…」
村崎は岩永の異変に気づいて、視線を寄越すが、なにも言わない。
少し、痛みが戻ってくる。
気持ち悪いと思う。今の自分。
「…しゃあないな」
村崎は向こうの廊下に座り込んで、リタイアか、と嘆いている先ほどの攻撃の主を見遣って呟いた。
「え?」
「お互い一人はきついやろ」
村崎は少し離れると、ため息混じりに言った。
「パートナーを失ったもん同士なら、ペアの再登録は許可されとるしな。
…かまへんな?」
「…………」
それは、一緒に組んでくれるということで。
ああ、懲りない。
本当に懲りない。自分。
だって、これはしかたなくだ。
自分は強いから、勝つために組むには「無難」なだけで。
「…うん!!」
それでも、こんなに嬉しくて、勢いよく笑って頷く自分。
報われないと思う。
村崎は少しだけ、困惑した顔をして、自分を見つめた。
それから、ほんの少し、僅かに、口元を緩めて笑った。
嫌いになんてなれない。
こんなささやかな優しさすら、嬉しくて、好きで。
諦められなくて。
どうしたって、傷付いた手を伸ばした。
中庭の生い茂った木々の間に隠れて、吾妻は白倉の頭を撫でた。
「こわいよ」
「…」
優しく、不安げに言う。白倉の隣に、巨躯を丸めて座った吾妻。
白倉を見つめて、微笑む。やはり、どこかに影を潜ませて。
「白倉が、僕のこと忘れたら」
「…でも、」
「うん」
わかってる、とそっと抱きしめられる。
「僕も、離れるのは、こわい」
心から想った声だとわかる声。
白倉の胸が、震えた。
ああ、いつからこんなに。
「…白倉」
切なそうに、自分を見下ろす吾妻に手を伸ばす。
首にすがりつく。
吾妻の首に、そっと軽くキスを落とした。
「……時間、止まったらいい」
「…うん」
「離れたくない…」
「うん」
ずっと、ずっと、この腕の中にいたい。
吾妻の優しい笑顔を、見ていたい。
「…白倉」
「ん?」
呼ぶ声に、白倉はゆっくりと顔を上げた。
「僕のこと、好き?」
その顔が、何故かぼやけた。
よく見えない。
「……吾妻は?」
「…好きだよ」
吾妻が泣いているんだろうか。
声と、自分を抱く手が震えている。
その感触が、なんでだろうか、遠い。
「好きだよ。
なにより、誰より。
あの日から、…あの日からずっとずっと…」
あの日からと言われて、浮かぶのは、体育館の出会い。
いきなりみんなの前で告白されて、心底気持ち悪かった。
「愛しくて、傍にいたくてたまらない。
本当に、僕も堪えらない。傍にいたい。
抱きしめていたい。キスして、好きって言いたい。
夜も朝も、毎日、毎日、…ずっと…!」
そっと、吾妻にすがる。その手が、弱かった。
精一杯、胸元に頬を擦り寄せた。
胸の中が、しびれてる。
嬉しくて、愛しくて、切ない。
「…愛してる。愛してる。…白倉」
吾妻が言う。泣きそうな声で。
あの日から。あの日からずっと。
探していた。
本当は、キミに再び出会うために、NOAに来たんだ。
もう一度、キミが呼ぶ「吾妻」という名を聞きたかった。
吾妻はきつく白倉を抱きしめた。
白倉が好きだ。
離せない。手放せない。
やっぱり、無理だ。
離れるなんて出来ない。
好きで、好きで、悲しくて、切なくて、胸が潰れそう。
「…白倉…」
こんなにも、好きだから、離れられない。
白倉は、僕の全てだった。
白倉が、僕を覚えていなくても。
「…愛してる………」
あの日からずっと。
僕を、孤独の淵からすくい上げてくれた人。
「…白倉」
手を伸ばして、抱きしめた身体を見つめて、顔を上げさせて。
薄く開いた唇に、そっと自分のそれを重ねた。
きつく、一心に抱きしめた。
腕の中にいるキミの温もりを。その温かさに、僕は生きていると知るから。
離したくなかった。
あの時、抱きしめることの敵わなかったその身体を、抱くためだけに、生きてきた。
再び出会ったキミは僕を知らず、僕の右目のことも知らず。
でも、僕に優しく話しかけた。優しく思いやった。
誓ってくれた。
キスを、くれた。
「…好きだよ………」
こんなに好きなのに、離れられるはずがなかった。
手放せるはずがなかった。
遠くから見ていることが、出来るはずなかったんだ。
キミと離れた距離が、隙間の空気が、僕の指を切り裂いて痛くて。
腕の中に閉じこめる。
離れられるはずがなかった。
こんなにも、愛しているから。
「……吾妻」
白倉の頬を、透き通った涙が流れる。
翡翠の瞳が、真っ直ぐに吾妻を見つめた。
「…俺も」
震えた声が、自分を呼んだ。
目を閉じて、泣きながら、静かに、夜の中で咲く白い花のようにキミは微笑む。
腕の中。ことり、と自分の胸元に乗せられた頭。
力無く、閉じた瞼。
「……白倉……………?」
掠れた声で、吾妻は呼んだ。
白倉は目を閉じたまま、目覚めない。
力のない四肢。体温が低い気がする。
閉じたまま、自分を見ない瞳。
「………白倉…………………………?」
暴走キャリアは、宿主の心や記憶、身体を喰らう。
きっかけは、
「…………白倉………」
泣き出しそうに呼んだ。
起きて。目を開けて。
何度でも呼ぶから、お願い。
お伽噺で、キスで目覚めるお姫さま。
逆だ。
キスで、深い深い眠りに、落としてしまった。
こんなものを見たくて、君を捜して来たんじゃない。
こんな、ものを。
「原因不明の昏睡状態?」
白倉と九生の部屋。
白倉が眠っている奥の寝室には、九生と時波がいる。
居間に集まった夕と、岩永、流河は教師から聞いた僅かな情報に顔をしかめた。
「多分、暴走キャリアが原因だろうって」
「でも」
岩永は二人を見渡して、眉を寄せる。
「暴走せぇへんかったやんか」
流河と夕は息を呑んだ。
以前暴走を起こした本人に言われると、その本人に記憶がないとわかっていても、衝撃を受ける。
「それに、まさか本気で恋心がきっかけやと決まっとらんし」
「…それを断言できるの?」
流河は言葉を選んで、慎重に問いかけた。
「え?」
「恋心がきっかけじゃないって、岩永クンは断言できるの?」
言ってしまってから、ひどい言い方になったかもしれないと流河は危ぶむ。
だが、岩永は平然とした顔で、
「断言はせぇへん。覚えとらんし。
やけど、違うと思うねん。なんか腑に落ちひん」
とはっきり言った。
流河と夕は顔を見合わせる。
事件の核心をつく会話は嫌だ。
心が痛い。疲れる。
本人が、平然としているから余計に。
今の言葉に反論すれば、岩永を傷付けるんじゃないかと危惧する。
「どうやら、それは当たっとるかもしれん」
寝室から九生が出てきた。
「医師の先生にも診てもらったが、二つ目の力は完全に覚醒しとるそうじゃ」
「…じゃあ、」
「暴走したわけじゃ、ないな」
九生の言葉に、全員がホッと息を吐く。
さっきの気まずい空気から抜け出せた安堵でもある。
「ただ、ずっと意識が戻らん。
だから、全然副作用を受けとらんとは言い切れん。
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胸が塞がる気持ちがする。
「………」
九生は自分の口元を押さえて、息を吐く。
気持ちを整えるように。
「…吾妻は?」
「…あ」
単刀直入な問いに、岩永が視線を泳がせる。躊躇って。
「あのな、吾妻は、悪…」
「そんなんわかっとる」
岩永の困惑を読んだように、九生は言い切った。
「…わかっとる。悪かったんは、どうも、俺らの方やの」
九生は肩を落とした。
岩永は胸にわき上がってきた思いのままに、首を横に振った。
「別にお前らも間違っとらん。
そんなん言うたら、覚えとらん俺かて悪いやん。
…悪いヤツは、多分おらんと思う」
言葉の最後に行くにつれ、勢いを失い掠れていく岩永の声を聞き、九生は微かに微笑んだ。
「そうじゃの」
そう、優しく言った。
「…まあ、だから、一人自分を責めとるじゃろうあいつにもそう言いたくてな」
自分の腕に触れ、撫でながら九生は言う。少し気まずそうに。
それ以上に、吾妻を思いやって。
「…俺が行ってきてええ?」
岩永は手を小さく挙げて、笑った。
「俺の方が、言うこと言ってやれると思う。
少なくとも」
視線を寝室の方に向ける。
「白倉の、望んどることは…」
白倉が眠りに落ちて、一週間が経った。
全く、変化はない。
自分の所為だ。
やはり、なにがなんでも離れるべきだった。
堪えるべきだったのだ。
知っていたのに、彼らの心を傷付けてまで真実を知ったのに。
それでなおなにも出来なかったなら、それはただの興味本位だ。
なにも活かせないのなら、それが興味本位に探る愚かな人間となにが違う。
「ここおったんか」
背後で下生えを踏む音がした。
NOAがある都市の端。
自然を残す小さな山と湖には、動物も多い。
以前はそういうところにばかりいたから、動物と自然が好きだった。
街を見渡せる山の、なだらかな丘。
振り返ると、岩永がいた。
こんなに高い山だと知らなかったらしく、普通のスニーカーに制服。
汗を掻いている。
「…見つけるん苦労した」
「…どうして来たの」
「当たり前やろ」
吾妻の自暴自棄な問いに、岩永はあさっての返事を寄越す。
「なにが」
「お前がいっちゃん……。
て、決めつけたらあかんけど、…責めとんのとちゃうか?
やったら、違うって言いに来んでどうする」
吾妻の傍に立って、岩永は吾妻を見下ろした。
生い茂った草の上。向こうに森となって立ち並ぶ木々。
「違くない」
「違う」
「違わない!」
岩永に背を向け、叫んで、吾妻は溢れてきた涙を拭う。
「離れよう。我慢しようって誓ったのに、白倉を前にして、堪えらなくて…」
「やからそんな必要あれへん!」
岩永はさっきの自分より、大きな声で否定した。
ぼんやりと彼を見上げた吾妻を、息を乱しながら見つめ返す。
「俺はなんも覚えとらんし、確証ひとつわからんし。
でも、ちがうんやもん。
距離とってほしいとか、諦めて欲しいとか、そんなん違う。
少なくとも俺は、そんなん一度も思わんかった」
言い終わって、岩永は荒くなった呼吸を整えようと胸に手を当てた。
「覚えてないって……」
「ああ。今のは“今”の俺の意見やからな」
記憶もない、昔を知らない自分の気持ちだ、と岩永。
呼吸を落ち着けているが、まだ肩が上下している。
「…俺はそう思う。
最後どうなるかわかっとっても、それでも傍におって欲しい。
忘れたって、もう一度好きになったるから、傍におってって」
『そしたら、また覚えたらいい。
何遍だって、お前のこと好きになってやるから、俺の傍にいろ!!』
白倉も、そう言ったんだ。
吾妻は目を見開く。
夕焼けに照らされる山。
立っている岩永の姿。
「俺は、待ってて欲しかった。
…帰ってきた時、変わらず傍で、待っとって欲しかった。
…知らんくても、覚えるから、教えて欲しかった。
…記憶がないからて、手放されたなかった」
赤く染まった頬を、泣きそうに、それでも堪える意志の強い瞳を、心底綺麗だと初めて思う。
いつも見つめていた、白倉と同じ、揺らがない意志の瞳。
「…」
岩永と視線が絡む。
吾妻は不意に微笑んで、立ち上がった。
岩永の傍を通り過ぎる。
「吾妻」
「帰る」
驚いて自分を追ってきた岩永に笑いかけた。
まだ少し泣きそうにして。
「白倉のとこ、帰るよ」
それでも、心から願って言った。
岩永は、瞳を揺らして、安堵に頬を緩ませる。
「白倉の傍で、待ってる。傍にいる。諦めない。
そう、誓った。
……守る」
目覚めたキミが、もし僕を知らなくても。
また、僕を知らなくても。
あの日のように、僕を「初めて見る」顔で見ても。
待っている。
何度でも。
手を伸ばす。
隣に、いるから。
また、笑ってくれるなら。
吾妻が泣いてる気がする。
瞼が重くて、開かない。
四肢に力が入らない。
だって、俺の意志を無視して、我慢するって、離れるってわけわからない。
傍にいて。
俺がいやだ。堪えられない。
知らないなら、教えて。
あの日からってお前が言った。
俺は、知らないうちにお前と出会っていた?
俺が覚えていないだけ?
なら覚えるから。
視界が開ける。
茜に染まる空。
高い空の上。浮かんでいる身体。
下に山がある。
そこで眠る、吾妻の姿を見つけた。
そこに行きたくて、手を伸ばした。
吾妻が目を覚まして、こちらを見上げてきた。立ち上がる姿。
急に身体が落下する。
落下する感覚に、悲鳴を上げそうになって堪える。
地面に落ちる寸前、ふありと浮かんで、受け止めようとした吾妻の腕の中にゆっくりと降りた。
自分を見つめる吾妻がいる。
ホッとした。嬉しくなった。
「吾妻」
笑ってそう呼んだら、吾妻は目をまん丸にした。
やがて、ああ、と納得したように手を打つ。
「あんた、天使さん?」
「………は?」
今度は白倉が目をまん丸にする番だ。
吾妻は構わず嬉しそうに微笑んだ。
「こんな綺麗な人見たんはじめて。それに空から降ってきたね。
天使さん」
そう言って、子供みたいに無邪気に微笑んだ。
その右目には、包帯が巻かれていた。
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