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第五章 皮一重の喜劇
第六話 盤面の嵐
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その日の一時間目は、LHRで班分けが行われた。
好きな相手と、というルールがNOAの基本なので、もちろん班分けもそうだ。
「吾妻。これで文句ないじゃろ?」
吾妻の隣の机に座って、九生はにっこり微笑んだ。
「…出来れば、白倉が」
「えー? ごめん、聞こえんかった」
「……」
吾妻は怖くて、それ以上が言えない。
なんせ、朝、九生と時波に、裸の白倉とベッドにいるところを見られたのだ。
なにもしてないと言った吾妻のことなど、おそらく一ミリも信じていないだろう。
「あの、九生、時波。俺も吾妻の隣が…」
「白倉、俺が教科書を忘れた場合、お前が隣じゃないと不都合が多くてな」
白倉の隣に座った時波が真顔で言う。
岩永が「時波が教科書忘れることって天変地異と同じくらい起こらへんと思う」と小声でつっこんだ。
まだなにか言いたげな吾妻の肩を抱いて、九生はドスの利いた声で、
「同じ班にしてやるだけありがたいじゃろ?
俺らは嫌やったが、白倉が、白倉がお前と一緒がよかって言うけん、しょうがなく」
強調して繰り返す九生が怖い。
ここが教室じゃなかったら超能力の一つや二つ使うだろう。
「……」
それでも不満げな吾妻の肩を、白倉が背後から叩く。
「吾妻。ごめんな。俺が至らんばっかりに」
「あ、いや…白倉の所為じゃないよ」
沈んだ白倉の表情に、吾妻は胸が痛んだ。
真剣に否定する。
「だけど」
「平気だよ。
同じ班ってだけでうれしい。
それに、同じ班なら、ほとぼりさめたら席移動したらいいよ」
「…吾妻」
白倉が頬を染めて、吾妻を見上げる。
ああ、白倉は本当にかわいいな。
周囲を囲むサタンのことなど忘れ、見惚れてしまう。
六人一班だから、同じ班になった岩永が「俺はしらん」という顔をしたが、吾妻は見えてない。
白倉はもじもじしながら、吾妻の制服を掴む。
本当にかわいい。
「あ、あのな…吾妻」
「うん? うん」
嬉しくて微笑み、白倉の口元に顔を近づける。
吾妻にぎゅっとしがみついた白倉が、とても愛らしい口調で言った。
「調子に乗ったらハゲさすぞボケ」
―――――――。
吾妻はフリーズしてから、首をひねった。
「白倉? 今の幻聴だね? なんて?」
聞き間違えたかな?と吾妻は気を取り直して、白倉の顔を見た。
白倉は両手を組み合わせて、お花のように微笑む。
「調子に乗んな? 俺がいつでも乱入できるって忘れとるじゃろう?」
吾妻は今度こそ凍り付いた。
目の前の白倉は、確かに身体は白倉だ。本物だ。
しかし、中身が違う。
久しぶりに味わったから、九生の超能力を忘れていた。
彼の超能力は、他人の脳を操ること。
「その力は、もう使わないって話だったじゃない!? 白倉の許可とったの!?」
「…え、吾妻? なに?」
「すっとぼけるんじゃない!」
意味がわからず戸惑う白倉に、吾妻は目をつり上げる。
白倉は吾妻の剣幕に怯えて、悲しそうに瞳を揺らした。
「ごめん。俺の所為だもんな…。
俺、調子乗りすぎたみたい…ごめん」
胸が塞がれたような痛ましい声で謝り、白倉は吾妻から離れる。
吾妻はそこで「ん?」と思った。
ふと見遣った斜め横。九生があかんべをしている。
九生本人の身体だ。
ということは、
「それ、白倉本人やぞ?」
岩永が親切に教えてくれた。
吾妻はざあっと青ざめる。
「白倉! ごめん!
間違えた!」
「え…? なにが?
だって、俺が吾妻に馴れ馴れしすぎたの、ほんとだし…」
「白倉に言ったんじゃないよ! ごめんね!
愛してるよ!」
沈んでいる白倉の両肩を掴んで、愛を告げる吾妻に、白倉の頬がうっすら赤くなる。
「吾妻。え、そんな…」
「白倉のこと世界で一番愛してるよ!
もっと甘えて欲しいよ! もう不安にさせないから、僕の傍にいて!」
「……吾妻、…お前、そんな大胆だったんだな…」
白倉は満更でもない顔だが、頬が赤いのは、羞恥だ。
吾妻はハッとする。
「はーい、吾妻財前。
今はHRやでー。
愛を叫ぶなら廊下行って来ーい」
背後から響いたのは、一組の担任の声。
視界の隅でげらげら笑う九生と、無表情で手を叩く時波の姿。
岩永が呆れている。
「え? あれ? 九生は?」
九生も今、超能力使ったんだろ? 注意は?
「『証拠』を押さえられとらんから。九生は」
岩永が小声で教えてくれた。
白倉が今頃になって、九生が超能力を使ったことに気づく。
九生の頭をすっぱーん、と叩いた白倉の姿を見下ろして、吾妻は若干溜飲がさがった。
廊下に向かう吾妻を、同じ班になった夕が、がんばれ、と見送った。
「チーム、決まっとらんのですか?」
自主練習を行うトレーニングルームは、この時期混んでいる。
順番待ちの間、同じく来ていた明里に話しかけられ、夕は頷く。
「どうしよっかなーて」
「夕さんにしちゃ、珍しいっすね」
「うん」
ベンチに座って、夕は悩んだ様子だ。
明里は、なにか言いたげにして、口を閉じる。
「あ、明里。そっち先輩?」
自分の練習を終えた二年生が、こっちに駆けてきて問う。
小柄な少年と、大柄な少年。
「覚えとらへんの?」
「え?」
明里の言葉に、小柄な少年と夕が揃って疑問符を発した。
「高尾。こっちの人、以前俺たちのこと助けてくれた人だよ。
ほら、風の力使ってた」
「あー」
大柄な少年が説明すると、小柄な方が手を叩く。
「あ、ってことは、キミが静流さんの弟くんか」
夕も思い当たって、立ち上がる。
「はい、村崎志津樹です」
「吾妻二号っすわ」
明里の補足に、志津樹は苦笑した。
「そんな呼ばれ方されてんのか?」
「俺もびっくりしましたよ?
吾妻ってだれってところから」
志津樹の言葉に、夕は笑うしかない。
「あとで説明してもらいましたけど」
「…マジなん? 嵐のことは」
「俺は本気です」
にこやかに志津樹は断言して、視線を明里に寄越した。
「その人が御園さんだよね?」
「ああ…」
なんで自分に聞くのかわからない、と明里。
「誘ったらいいのに。はやく」
「ばっ…」
他意のない志津樹の言葉に、明里が真っ赤になった。
夕が首を傾げる。
「だって、そうじゃん。
同じチー…」
志津樹の言葉が途切れた。
明里が繰り出した上段蹴りを、片手で防ぐ。
明里の顔は耳まで赤い。
「だ、そーです」
志津樹はにっこり微笑んで夕に言うと、さっさと離れて自分の荷物を取りに行く。
高尾という転校生が、頭を下げた。
「あいつ、割と怖いものしらずなんで、すんません」
よくわからないフォローをして、志津樹を追いかける。
明里は毛を逆立てた猫のように荒く息を吐いている。
夕は見下ろした彼の頭を見遣って、ぽん、とその黒髪を撫でる。
明里の身体が緊張した。
「…俺が迷ってた理由なんだけど、実は誘うタイミング探してた」
「…え」
「お前と一緒がいいけど、俺から誘ったら、お前、逃げそうだろ」
夕が浮かべる優しい微笑みに、明里は頬を赤く染めて、恥ずかしそうに、
「…なんで俺があんたからの誘いで逃げるん…。アホちゃうか」
「うん。ごめんな」
夕がよしよしと撫でる手の平から逃げずに、俯く明里。
二人から遠い位置の自販機前で、九生は唐突に言われた台詞に首を傾げた。
「九生くんはいいんですか?」
「?」
唐突すぎて、意味がわからない。
九生の子供みたいな顔に、山居は苦笑する。
「白倉くんと、組まなくて」
時波は白倉と組むと言っているけど、九生はそこにはこだわっていない。
白倉と組むとは言わない。
「は? なんで?」
九生は本気で不思議そうに言った。
「…え」
「俺にはお前がおるのに」
「……」
コンマ以下の速さで言い切られ、山居は言葉を失った。
だって、班分けでは真っ先に白倉のとこ行ったのに。
不意に、九生の視線が剣呑に光る。
「…なに。山居。もしかして、俺以外と組む気か?」
低い声音に、微かに怯むと、手を掴まれた。
首を左右に振ると、九生は無邪気に微笑む。
「なら、俺と組めよ。俺はお前がよか」
山居は、驚く反面ホッとした。
純粋に嬉しい。
「はい」
頷くと、九生はにこにこと上機嫌に笑った。
トレーニングルームには、壁に沿って自販機がいくつか設置されている。
自販機に小銭をいれて、ボタンを押す。
落ちてきた缶を取りに屈んだら、誰かの影が傍に差した。
志津樹は顔を上げて、慌てて自販機の前から退いた。
見覚えのない人だ。
オレンジの明るい髪に、親しみやすそうな笑顔。
「志津樹くんだっけ?」
彼は自販機に小銭を入れて、なににするか指を彷徨わせながらそう聴いた。
「あー、有名人になってます?」
さっきも明里に言われたし、この数日で理解した。
志津樹が頭を掻きながら言うと、彼は笑った。
「んー?
俺、目撃しちゃったし、本人から聴いてもいたからさ」
そう言ってから、これにしよ、と呟き、炭酸ジュースのボタンを押す。
がこん、と落ちてきたジュースを拾わず、志津樹の方を向いた。
「本人って、嵐さん?」
「自己紹介しとくと、三年、流河理人。
岩永クンのルームメイト。で、またの名を」
微笑んだ彼の身体の横で、自販機が「キンコーン」と音を鳴らした。
自販機を指さし、
「ラッキー流河。よろしくね」
にこやかに言って、自販機の方を向くと今度はコーヒーのボタンを押した。
コーヒーが落ちてきてから、屈んで二つ取り出す。
「え? 当たり? 当てたんですか!?
っていうか今、明らかに当たるのわかってた口調でしたよね?」
目をまん丸にして食いつく志津樹に、流河は満足そうにピースを切る。
「強運を呼ぶ男だから、ラッキー流河なのさ。
すっごいでしょ。超能力ではないんだよ」
「えー、すっげー。
いーなー。俺も当てて欲しい」
「当てたげようか?」
「ほんとっすか!?
………」
志津樹は財布から小銭を出そうと開いてから、動きを止める。
「…嵐さんのルームメイトですか」
「うん、気づくの遅いよ」
「…すいません。あんまりにもすごかったんで」
やっと流河の言葉の意味と、流河がここにいる意味を察して、志津樹は前のめりになっていた姿勢を直した。
「…っていうと、嵐さんに近づくな、とかですか?」
「それは別にいいんだよ。
俺的にはキミが岩永クンの彼氏になろうが、彼が幸せならいい」
流河は笑って明るく答える。
「キミが村崎クンを忘れさせてやれるなら、それでもいいんだ」
「……、でも、無理そうだ、って感じですね」
流河の言い方は、自分では無理だという口調だ。
志津樹は微かに眉根を寄せる。
「キミでも構わないのは本当だよ?
もちろん、キミでは不足だって思うのも本当だけど」
上着のポケットにコーヒーをつっこみ、炭酸ジュースのプルタブを引き開けて、流河はあくまで穏やかに言う。
「不満じゃなく?」
「不満ではないよ。
さっき言った通りね、俺は彼が幸せならいいんだ。
少なくとも、今みたく村崎クンに無視されて傷付く状態じゃなくなれば」
「…でも、俺が嵐さんにとって、兄さんより重くはなれないだろう?」
「うん」
流河は邪気なくはっきりと頷く。
志津樹は、内心やりにくいと思った。
年上の余裕がある。加えて、腹が据わった態度だ。
「目撃したって言ってましたね」
「うん。校舎の三階から。
だから止められなくて」
「もし、止められる場所にいたら、止めました?」
その不敵さを崩したくて、強い語調で問いかけた。
「止めなかっただろうね」
しかし、流河は落ち着いた声音で、迷わず答えた。
「キミが岩永クンの特別になってもいい。
でも、土台難しそうだから、キミが村崎クンに危機感を抱かせるカンフル剤になればいい、と思ってる」
揺らぎのない口調で、悪気なく彼は断言した。
不愉快な気持ちが沸くが、とても勝てそうにない。
「友だち思いなんですね」
「どうも」
「じゃあ聴きますけど、嵐さんは本当に記憶がないんですか?」
志津樹は手に持った缶を握りしめて、流河を睨み付けた。
「本当に記憶がないよ。
どういった意図の質問かな?」
「抱きしめたらかなり怯えてたので、兄の記憶がないように見えなかったんですよ」
「そりゃあ怖いでしょ?」
流河は軽く口の端をあげた。
あっさりと言う。
「キミ、もしかして岩永クンが忘れたのは、村崎クンだけだって思ってる?」
「……違うんですか?」
志津樹が尋ねると、流河は少し呆れた表情を浮かべた。
自分に対してではないと思った。
「ほんとしょうもないね。キミのお兄さん。
一人被害者ぶってるから、キミがそんな誤解をする」
「…どういう」
「岩永クンは、一年以上前の記憶がない。
それこそ、全ての記憶がね。
彼は俺のことも、一番仲のよい友だちのことも、クラスメイトのも、先生、親の記憶も全てを失った。
だから、抱きしめられて怖いのはしかたない。
そういった免疫が皆無なんだから。
年上の余裕を俺みたいに持てないだろう。過去の記憶が全くないのだから」
志津樹は息を止めてしまった。言葉を失った。
数秒後、ゆっくりと息を吸い込む。
全ての記憶がない。
「…壊滅事件の話は、ニュースで見たんです」
「…」
大きく呼吸をして、意を決して口にした。
「俺は、嵐さんが巻き込まれたんだと思っていた」
事件に前後して、兄は彼のことを全く話さなくなったから。
「…違うんですか?」
志津樹の問いに、流河はなにも言わない。
ただ、切なそうに微笑んだ。
それが全ての答えで、それ以上は聞けなかった。
「…お守りを拾ったんですけど」
「…ああ、キミが拾っていたの?」
「やっぱ嵐さんのですか」
志津樹は覇気なく笑った。
なにげなく見たお守りの中身。一枚の紙。
一言の言葉。兄の字だった。
だから、返すことを躊躇った。
今もわからない。どうして、岩永は兄を好きなんだ。
「…今の兄が、嵐さんにあれを渡すとは思えない。
あれは、昔のですか?」
「うん」
「…じゃあどうして」
志津樹の思い詰めた声を聴いて、流河はため息を吐いた。
志津樹は驚く。
流河はうんざりしたような雰囲気だった。
「どうして、どうして。
村崎クンも、キミも、なんで“記憶”が前提?」
「…え」
「記憶がなきゃ、恋愛しちゃいけないかい?
村崎クンの記憶がない岩永クンが、村崎クンを好きなのは、おかしい?」
「……」
呆れた流河の表情を見下ろした。
流河の言葉が、胸を掴んだように、心臓が痛んだ気がした。
「岩永クン、言ってたよ。
好きだから好きなんだって。
…それじゃあ、いけないの?」
たった一年間の記憶だけ。知っているのは「昔付き合っていた」ということだけ。
嫌われていて。でも、好きになったら絶対おかしいかなんて、自分には断言できない。
決められない。
自分なら好きにならない。でも、岩永は自分じゃない。
「…ずるいです」
「うん?」
「…そう言われたら、諦めるしかないでしょう?」
柔らかい口調に微かに滲んだ切なさを感じて、流河は笑う。
「だから、どっちでも俺はいいよ」
「でも、そんな風に兄さんを好きな人に、自分を好きになってもらうのは難しいじゃないですか」
「まあそうだね」
「最後までフォローしてください」
流河を軽く詰って、志津樹は息を吐いた。
そもそも、自分だって、そんなに深い気持ちで岩永を好きだったわけじゃない。
兄がもし、彼を今も好きなのだとして、その気持ちに勝てる自信はない。
「…兄に、渡したらいいんですか?」
「そうだね」
「…俺は納得いかないんですよ」
緩やかな声音で、志津樹は言う。
「あの兄が、あんなに好きだった嵐さんを、諦められるなんて」
「諦めてはいないと思うよ。
ただ、反抗期なだけで」
「だから、流河さんが、兄さんに苛々してるらしい理由は、…まあわかるんです」
笑みを浮かべて言うと、流河は少し驚いて、それから頷いた。
「キミはいい子だね」
「けなしてます?」
「村崎クンも、同じくらい優しい人だったからさ、昔と変わってしまったなんて、思いたくはない」
切なそうな笑みを浮かべて、彼はそう言った。
靴箱に入っていた紙袋に、吾妻はげんなりした。
またチーム戦のラブレターか。しかも手紙だけじゃないのか。
取りだして、中身を一応見ると、市販のクッキーだった。
カードが同封されていて、内容はやはりチーム戦のこと。
名前を見て、吾妻は気持ち悪くなった。
男の名前だ。
「男が男に、クッキーって…」
恋愛の意でなくても気持ち悪くはないか。
なんとなく紙袋を指でつまんで持ちながら、中庭に出る。
いくつも並ぶベンチ。その傍に噴水。
ここで、以前噴水が誤作動を起こした。
挑戦状の主を焦って探した日も、今となっては懐かしい。
「あ、」
割と響く声に、吾妻は視線を動かした。
噴水の手前のベンチに座って、サンドウィッチを片手にこちらを見上げているのは久遠だ。
「ああ、あんたか」
なんとなくホッとする。
久遠の人柄をまだよく知らないが、なんとなく筋の通った人間だと思っている。
「どうしたんだよ? 一人なんて珍しい」
「うーん…」
吾妻は返事に悩んだ。
まさか、時波と九生に白倉と一緒のベッドにいるところを見つかって睨まれているから、なんて言えない。
「白倉絡み?」
「どうしてわかるの!?」
「…いや、マジかよ」
尋ねられて驚くと、久遠は引いたようだった。
カマかけただけだったらしい。
「驚かせないで」
「いや、だってさ、雪代とかにも心得聴いてたし」
「…心得?」
「吾妻の様子がおかしかったらまず白倉、って」
久遠の至極当然な口調の言葉に、吾妻は反論できなかった。
あながち、間違ってない。
固まった吾妻を見上げて、久遠は「まあいいや」と呟いた。
「で、その袋、もしかして食い物?」
サンドウィッチを全て食べてしまってから、そう尋ねる。
「よくわかったね」
「いい匂いがする」
吾妻の持ったクッキーの袋を指した久遠の表情はいかにも食べたそうだ。
吾妻はちょうどいいと思って、袋を久遠に手渡した。
「いらないからやる」
「マジで!? お前いいやつっ!」
久遠はおおはしゃぎで袋を開け、クッキーを見て目を輝かせた。
「サンキューな!」
そんなに満面の笑みでお礼を言われると後ろめたい。
なんせ、自分が買ったものではないし。
「いいよ。靴箱に入ってたものだし」
「ああ、チーム戦のラブレター?」
久遠は心得たもので、すぐにわかったようだ。
「チーム戦のって、いつもこう?」
「そうだぜ?
少なくとも俺はクッキーとかチョコとかたくさんもらう。
化野クンが“久遠は食べ物あげたらつられると思ってるんだね”って言ったくらい」
「…食いしん坊?」
吾妻の前でばくばくクッキーを食べていく姿を見て、吾妻は呟いた。
「まあ否定はしねぇ。
でも、俺をつるならやっぱ勝負とか挑んでくるガッツのあるやつじゃねーとな。
自分で戦えもしねぇヤツとはごめんだ」
「ふうん。男前だね」
「ありがとよ」
久遠は得意げに笑って、またクッキーを取り出す。
「そういや、誰からもらったんだ?
名前くらいあっただろ?」
「…覚えてない」
「おいおい」
あっさり答えた吾妻に久遠は呆れた様子だった。
吾妻は吹き上げる噴水の水を見遣って、またあの日のことを思い出す。
「そういや、四月にお前に挑戦状があったっけな」
吾妻の視線から察したのか、久遠が言った。
「ああ」
「あれ、複数犯っつーの知ってたん?」
岩永も言っていた。
久遠も言うということは、本当か。
「最近本気にした」
「そっか」
久遠はクッキーをかじって、空いた手で噴水を指さす。
「壁に紙を貼り付けたの、俺は声を使ったけどよ、吸盤の矢なら、あいつだな」
「…あいつ?」
「見たんだろ?
その少し前に図書館で、倒れた棚を止めたの」
吾妻は記憶を手繰ってすぐに思い当たった。
優衣の力だ。
「…あ」
「そ。あいつの力なら応用でいけんだろ」
確かに、影を操って倒れる棚を止めた優衣なら、紙や吾妻の額に出来る影を使って矢を止めることも出来る。
今更に思い出した。
あの時、優衣の心を読んだ時、なにかを感じた映像。
食堂の映像だ。
「ま、実際は二人じゃなくて、三人だけどよ。
もう一人は自分で見つけんだな」
久遠はベンチから立ち上がって、空になった紙袋を丸める。
吾妻を肩越しに振り返って笑った。
「じゃ、ご馳走さん」
歩きだした久遠を見送って、吾妻はもう一度噴水を見遣った。
もしかしたら、あの誤作動も、流河の共犯の仕業か?
「食べ物でつられはしないけど、若干口が軽くなるよねー」
その様子を校舎の二階から見ていた化野が、楽しそうに言った。
傍を通りかかった白倉が、窓を覗き込んで、理解する。
ベンチに座った吾妻と、離れていく久遠が見える。
「一人なんて珍しいな」
「白倉こそ、吾妻がいないの珍しいよ?」
化野は笑って言う。
「常に一緒じゃない。
若干うざいよね」
白倉は微かに不満そうに唇を結んだ。
「俺はうれしいもん」
「あ、違う違う。
白倉の気持ちを勝手に決めたわけじゃなくて、見てる側がうざいなって。
俺や時波たちの意見だってば」
白倉が幸せならそれでいいんだよ、と化野は真顔で語った。
それに、白倉の機嫌が治る。
「時波っていえば、同じチームなんだって?」
「うん。まあ、吾妻は嫌がってるけど」
「どうせそのまま決まるよ。吾妻が時波に勝てるわけがない」
化野の邪気のない言葉に、白倉も笑みを浮かべた。
白倉もそう思うからだ。
それに、同じチームに時波がいるなら、心強い。
「ねえ」
「ん?」
化野は、窓枠に手をかけて、ふと真面目な顔をした。
「キミの二つ目って、時間を操るんだよね?」
「多分。まだうまく使えないからなにが出来るかわからんけど」
「…」
化野は真剣な顔つきで、顎に手を当てる。
「もし過去に行けるなら、確かめる?」
「え?」
「岩永の暴走。原因が村崎なのかどうか」
白倉は胸が変に痛んだ気がした。
だって、そんな、今更。
「村崎が岩永を避けるのだって、根底に“自分の所為で暴走が起こった”って思うからだろ?」
「多分」
化野は窓の外を見て、淀みなく言葉を紡ぐ。
白倉は頷いたが、でも、今更だとも思った。
だって、村崎が引き金じゃなかったら、あれは一体。
「俺は納得がいかないんだよ」
「…静流じゃない、って?」
「というか、…」
化野はそのまま考え込み、黙ってしまう。
「まあ、いいや」
長い沈黙に思えたが、数秒だったかもしれない。
化野は不意にそう言って、なんでもない顔をした。
「とにかく、チーム戦は楽しみにしてるよ。
キミや風雅のチームくらいしかライバルになりそうにないからね」
窓際から離れて、化野は明るい口調で言い、手を振る。
「あ、」
「その分、キミのチームには期待してる」
なんとなく呼び止めようとした白倉の言葉を遮って言い、化野は足を止めた。
「俺を、楽しませてね? 白倉」
美しい微笑みを向けられ、白倉は背筋を走った恐怖をどうにかかみ殺す。
「Sランク四人のチームだろうし、吾妻はともかく、みんな手強いでしょ?」
肩越しに妖しく笑い、化野は前を向いて歩きだした。
残された白倉は冷や汗を掻きながら、当惑した。
「…Sランク“四人”?
…化野が勘違い…するはずないし。なんなんだ?」
どういう意味なんだろう。
廊下で岩永を見つけたのは偶然だ。
そこまで勘はよくない。
志津樹は喜色を浮かべて、近寄った。
「嵐さん」
呼びかけると、岩永は振り返って、微かに怯む。
傷付く反応だが、初対面が初対面だから無理はない。
「なにもしませんよ。
聞きたいことがあって」
「聞きたいこと…?」
「はい、二つ」
二個もある、と知って、岩永はなんだか嫌そうだ。
「チーム、決まってるんですか?」
「…まあ、御園と、流河と」
「三人?」
「うん」
迷う様子なく頷いた岩永に、志津樹は自分を指さした。
「俺も入ったらいけません?」
笑って言うと、岩永は一歩後退った。
「御園たちに聞かへんとわからん」
「聞いてみてください」
「……」
なにか言いたげな岩永も、本気で断る意志を見せない。
自分にこうして弱いのは、兄の存在があるからで、面白くはないが。
「……うん」
最終的には頷く岩永。志津樹はよかった、と喜ぶ。
「あ、もう一つ」
志津樹の言葉に、そうだもう一個あった、と思い出して、怯えたオーラを見せる。
「志津樹」
背後から志津樹を呼んだ声に、岩永は尚更びびった。
「ごめん。俺、用事あるから!」
岩永はとんでもなく慌てて言い、素早く逃げ出した。
見送るしかなくて、志津樹は肩を落とす。
「兄さん、タイミング悪い」
振り返ると、そこには兄の村崎静流。
見るからに不機嫌だ。
「わざとでしょ?」
「…なにがや」
兄の返答までの沈黙から、図星だと知る。
志津樹は苦笑した。
「…今でも好きだったりするんでしょ? あの人を」
「…寝言は寝て言え」
「またまた」
志津樹は手をひらひら振る。
自分から見て、兄はやっぱり、あの人を好きだ。
「別になにをしようって気はなかったよ。
ただ、あの人が落としたものじゃないかって思ったから」
「落とし物?」
「うん」
志津樹はポケットから、赤いお守りを取りだしてみせる。
「嵐さんが落としたっぽいんだよね」
知ってる?と純粋に問われて、村崎の思考は一瞬停止した。
志津樹の手から、お守りを拾う。
「兄さん?」
弟の声も、耳に入らない。
「…」
だって、とっくに捨てたと思っていた。
自分のことを、なに一つ覚えていないのに。
「…まだ」
持っていたなんて。
「俺、あの人と同じチームになりたいんだよね。
…兄さんがいいなら」
志津樹は控えめに言う。臆病な自分を見透かすように。
「兄さん」
自分の背中を押すような声だと思った。
弟を見ると、彼は微笑んだ。
しかたないという風に、なにかを一つ諦めて。
「好きだって思うから、好き。
それじゃあ、ダメなのかな?」
村崎は言葉が見つからず、なにも言えない。
「ただ、その人が大事で愛しいから、好き。
だから一緒にいる。
それじゃ、兄さんは、嫌?」
「…………」
なんと返事をしたらいいのか、わからない。
だって、岩永は自分を全て忘れてしまった。
あの日の彼は、二度と戻らない。
「記憶がなきゃ、嫌?
俺、わかんないよ。
嵐さんが兄さんを忘れて、他の人を好きになったならわかる。
でも、今の状況さっぱりだ。
だって、嵐さんは今も兄さんを好きじゃない」
真剣に、どこか憤った弟の顔を見たのが、初めてだと気づいた。
そんな顔を、弟にさせたことはなかった。
「俺、無関係だからさ、無神経なこと言うけど。
…あの人が忘れたのは、兄さんだけじゃないよね?」
「……」
「全部忘れたんでしょう?
でも、みんなあの人とちゃんと向き合ってる。
…どうして、兄さんだけがそっぽ向いてるの?」
返す言葉がない。
見つからないのではない。
なにも、返せない。
資格が、ない。
「俺が知ってる兄さんは、そんな人じゃなかったよね?」
「……」
今、弟を納得させる台詞を吐く権利を、自分は持たない。
手の平の上のお守りを見つめた。
これを受け取った時の、岩永を昨日のように思い出せる。
その記憶が、もう自分だけのものなのだと、もしかしたら自分の妄想の産物ではないかと。
ずっと怖かった。
「違う…」
「…兄さん」
「あれは、儂が原因やから…」
自分が、暴走の引き金を引いた。
岩永が自分を忘れた。それを促したのが自分だと。
「…もし兄さんが本当に原因だとして、でも過ぎたことだよ?」
弟は、「なんの原因か」を問わなかった。
いろいろ疑問はあっただろうに、心の中で言葉を堪えて、そう言った。
「今の嵐さんを、無視する理由になる?」
優衣や、流河の言葉は、いつも自分に痛い。
その理由をよくわかっている。
胸を縫い止める自責。
でも、彼らならそれに気を取られるよりも、歩み寄ろうとする岩永を見ろというだろう。
過ぎた過去より、今を見ろというだろう。
本当は、自分自身そう理解っていたからだ。だから痛かった。
本当は、自分もそう思っていたから。
「…儂は、昔のあいつを忘れられへんと思う」
重苦しく口を開くと、志津樹は素直に頷いてくれる。
「…せやけど、今でもあいつが好きなんや。
やから苦しい」
「…うん。
それはわかる。でも」
「苦しいんは、儂だけやないんやろう?」
志津樹が言おうとした言葉を、口にすると彼は驚いた。
「…やから」
考えなかった。
よく自分に話しかけてくる、懲りない今の岩永。
自分の痛みもなにも知らずに。
それが嫌で、いつも無視して背中を向けた。
でも、自分が背中を向けた後ろで、岩永がどんな顔をしていたのか。
どんな顔をしているのか。
知らなくてはならないんだろう。
知らずに、彼を見限ってはいけない。
自分はまだ、岩永が好きで、だから、もう一度。
声を聴いて、笑顔を見て。
“今”の岩永が、どんな風に話すのか。
どんな風に笑うのか。
知りたいと、今、はっきりと思った。
好きな相手と、というルールがNOAの基本なので、もちろん班分けもそうだ。
「吾妻。これで文句ないじゃろ?」
吾妻の隣の机に座って、九生はにっこり微笑んだ。
「…出来れば、白倉が」
「えー? ごめん、聞こえんかった」
「……」
吾妻は怖くて、それ以上が言えない。
なんせ、朝、九生と時波に、裸の白倉とベッドにいるところを見られたのだ。
なにもしてないと言った吾妻のことなど、おそらく一ミリも信じていないだろう。
「あの、九生、時波。俺も吾妻の隣が…」
「白倉、俺が教科書を忘れた場合、お前が隣じゃないと不都合が多くてな」
白倉の隣に座った時波が真顔で言う。
岩永が「時波が教科書忘れることって天変地異と同じくらい起こらへんと思う」と小声でつっこんだ。
まだなにか言いたげな吾妻の肩を抱いて、九生はドスの利いた声で、
「同じ班にしてやるだけありがたいじゃろ?
俺らは嫌やったが、白倉が、白倉がお前と一緒がよかって言うけん、しょうがなく」
強調して繰り返す九生が怖い。
ここが教室じゃなかったら超能力の一つや二つ使うだろう。
「……」
それでも不満げな吾妻の肩を、白倉が背後から叩く。
「吾妻。ごめんな。俺が至らんばっかりに」
「あ、いや…白倉の所為じゃないよ」
沈んだ白倉の表情に、吾妻は胸が痛んだ。
真剣に否定する。
「だけど」
「平気だよ。
同じ班ってだけでうれしい。
それに、同じ班なら、ほとぼりさめたら席移動したらいいよ」
「…吾妻」
白倉が頬を染めて、吾妻を見上げる。
ああ、白倉は本当にかわいいな。
周囲を囲むサタンのことなど忘れ、見惚れてしまう。
六人一班だから、同じ班になった岩永が「俺はしらん」という顔をしたが、吾妻は見えてない。
白倉はもじもじしながら、吾妻の制服を掴む。
本当にかわいい。
「あ、あのな…吾妻」
「うん? うん」
嬉しくて微笑み、白倉の口元に顔を近づける。
吾妻にぎゅっとしがみついた白倉が、とても愛らしい口調で言った。
「調子に乗ったらハゲさすぞボケ」
―――――――。
吾妻はフリーズしてから、首をひねった。
「白倉? 今の幻聴だね? なんて?」
聞き間違えたかな?と吾妻は気を取り直して、白倉の顔を見た。
白倉は両手を組み合わせて、お花のように微笑む。
「調子に乗んな? 俺がいつでも乱入できるって忘れとるじゃろう?」
吾妻は今度こそ凍り付いた。
目の前の白倉は、確かに身体は白倉だ。本物だ。
しかし、中身が違う。
久しぶりに味わったから、九生の超能力を忘れていた。
彼の超能力は、他人の脳を操ること。
「その力は、もう使わないって話だったじゃない!? 白倉の許可とったの!?」
「…え、吾妻? なに?」
「すっとぼけるんじゃない!」
意味がわからず戸惑う白倉に、吾妻は目をつり上げる。
白倉は吾妻の剣幕に怯えて、悲しそうに瞳を揺らした。
「ごめん。俺の所為だもんな…。
俺、調子乗りすぎたみたい…ごめん」
胸が塞がれたような痛ましい声で謝り、白倉は吾妻から離れる。
吾妻はそこで「ん?」と思った。
ふと見遣った斜め横。九生があかんべをしている。
九生本人の身体だ。
ということは、
「それ、白倉本人やぞ?」
岩永が親切に教えてくれた。
吾妻はざあっと青ざめる。
「白倉! ごめん!
間違えた!」
「え…? なにが?
だって、俺が吾妻に馴れ馴れしすぎたの、ほんとだし…」
「白倉に言ったんじゃないよ! ごめんね!
愛してるよ!」
沈んでいる白倉の両肩を掴んで、愛を告げる吾妻に、白倉の頬がうっすら赤くなる。
「吾妻。え、そんな…」
「白倉のこと世界で一番愛してるよ!
もっと甘えて欲しいよ! もう不安にさせないから、僕の傍にいて!」
「……吾妻、…お前、そんな大胆だったんだな…」
白倉は満更でもない顔だが、頬が赤いのは、羞恥だ。
吾妻はハッとする。
「はーい、吾妻財前。
今はHRやでー。
愛を叫ぶなら廊下行って来ーい」
背後から響いたのは、一組の担任の声。
視界の隅でげらげら笑う九生と、無表情で手を叩く時波の姿。
岩永が呆れている。
「え? あれ? 九生は?」
九生も今、超能力使ったんだろ? 注意は?
「『証拠』を押さえられとらんから。九生は」
岩永が小声で教えてくれた。
白倉が今頃になって、九生が超能力を使ったことに気づく。
九生の頭をすっぱーん、と叩いた白倉の姿を見下ろして、吾妻は若干溜飲がさがった。
廊下に向かう吾妻を、同じ班になった夕が、がんばれ、と見送った。
「チーム、決まっとらんのですか?」
自主練習を行うトレーニングルームは、この時期混んでいる。
順番待ちの間、同じく来ていた明里に話しかけられ、夕は頷く。
「どうしよっかなーて」
「夕さんにしちゃ、珍しいっすね」
「うん」
ベンチに座って、夕は悩んだ様子だ。
明里は、なにか言いたげにして、口を閉じる。
「あ、明里。そっち先輩?」
自分の練習を終えた二年生が、こっちに駆けてきて問う。
小柄な少年と、大柄な少年。
「覚えとらへんの?」
「え?」
明里の言葉に、小柄な少年と夕が揃って疑問符を発した。
「高尾。こっちの人、以前俺たちのこと助けてくれた人だよ。
ほら、風の力使ってた」
「あー」
大柄な少年が説明すると、小柄な方が手を叩く。
「あ、ってことは、キミが静流さんの弟くんか」
夕も思い当たって、立ち上がる。
「はい、村崎志津樹です」
「吾妻二号っすわ」
明里の補足に、志津樹は苦笑した。
「そんな呼ばれ方されてんのか?」
「俺もびっくりしましたよ?
吾妻ってだれってところから」
志津樹の言葉に、夕は笑うしかない。
「あとで説明してもらいましたけど」
「…マジなん? 嵐のことは」
「俺は本気です」
にこやかに志津樹は断言して、視線を明里に寄越した。
「その人が御園さんだよね?」
「ああ…」
なんで自分に聞くのかわからない、と明里。
「誘ったらいいのに。はやく」
「ばっ…」
他意のない志津樹の言葉に、明里が真っ赤になった。
夕が首を傾げる。
「だって、そうじゃん。
同じチー…」
志津樹の言葉が途切れた。
明里が繰り出した上段蹴りを、片手で防ぐ。
明里の顔は耳まで赤い。
「だ、そーです」
志津樹はにっこり微笑んで夕に言うと、さっさと離れて自分の荷物を取りに行く。
高尾という転校生が、頭を下げた。
「あいつ、割と怖いものしらずなんで、すんません」
よくわからないフォローをして、志津樹を追いかける。
明里は毛を逆立てた猫のように荒く息を吐いている。
夕は見下ろした彼の頭を見遣って、ぽん、とその黒髪を撫でる。
明里の身体が緊張した。
「…俺が迷ってた理由なんだけど、実は誘うタイミング探してた」
「…え」
「お前と一緒がいいけど、俺から誘ったら、お前、逃げそうだろ」
夕が浮かべる優しい微笑みに、明里は頬を赤く染めて、恥ずかしそうに、
「…なんで俺があんたからの誘いで逃げるん…。アホちゃうか」
「うん。ごめんな」
夕がよしよしと撫でる手の平から逃げずに、俯く明里。
二人から遠い位置の自販機前で、九生は唐突に言われた台詞に首を傾げた。
「九生くんはいいんですか?」
「?」
唐突すぎて、意味がわからない。
九生の子供みたいな顔に、山居は苦笑する。
「白倉くんと、組まなくて」
時波は白倉と組むと言っているけど、九生はそこにはこだわっていない。
白倉と組むとは言わない。
「は? なんで?」
九生は本気で不思議そうに言った。
「…え」
「俺にはお前がおるのに」
「……」
コンマ以下の速さで言い切られ、山居は言葉を失った。
だって、班分けでは真っ先に白倉のとこ行ったのに。
不意に、九生の視線が剣呑に光る。
「…なに。山居。もしかして、俺以外と組む気か?」
低い声音に、微かに怯むと、手を掴まれた。
首を左右に振ると、九生は無邪気に微笑む。
「なら、俺と組めよ。俺はお前がよか」
山居は、驚く反面ホッとした。
純粋に嬉しい。
「はい」
頷くと、九生はにこにこと上機嫌に笑った。
トレーニングルームには、壁に沿って自販機がいくつか設置されている。
自販機に小銭をいれて、ボタンを押す。
落ちてきた缶を取りに屈んだら、誰かの影が傍に差した。
志津樹は顔を上げて、慌てて自販機の前から退いた。
見覚えのない人だ。
オレンジの明るい髪に、親しみやすそうな笑顔。
「志津樹くんだっけ?」
彼は自販機に小銭を入れて、なににするか指を彷徨わせながらそう聴いた。
「あー、有名人になってます?」
さっきも明里に言われたし、この数日で理解した。
志津樹が頭を掻きながら言うと、彼は笑った。
「んー?
俺、目撃しちゃったし、本人から聴いてもいたからさ」
そう言ってから、これにしよ、と呟き、炭酸ジュースのボタンを押す。
がこん、と落ちてきたジュースを拾わず、志津樹の方を向いた。
「本人って、嵐さん?」
「自己紹介しとくと、三年、流河理人。
岩永クンのルームメイト。で、またの名を」
微笑んだ彼の身体の横で、自販機が「キンコーン」と音を鳴らした。
自販機を指さし、
「ラッキー流河。よろしくね」
にこやかに言って、自販機の方を向くと今度はコーヒーのボタンを押した。
コーヒーが落ちてきてから、屈んで二つ取り出す。
「え? 当たり? 当てたんですか!?
っていうか今、明らかに当たるのわかってた口調でしたよね?」
目をまん丸にして食いつく志津樹に、流河は満足そうにピースを切る。
「強運を呼ぶ男だから、ラッキー流河なのさ。
すっごいでしょ。超能力ではないんだよ」
「えー、すっげー。
いーなー。俺も当てて欲しい」
「当てたげようか?」
「ほんとっすか!?
………」
志津樹は財布から小銭を出そうと開いてから、動きを止める。
「…嵐さんのルームメイトですか」
「うん、気づくの遅いよ」
「…すいません。あんまりにもすごかったんで」
やっと流河の言葉の意味と、流河がここにいる意味を察して、志津樹は前のめりになっていた姿勢を直した。
「…っていうと、嵐さんに近づくな、とかですか?」
「それは別にいいんだよ。
俺的にはキミが岩永クンの彼氏になろうが、彼が幸せならいい」
流河は笑って明るく答える。
「キミが村崎クンを忘れさせてやれるなら、それでもいいんだ」
「……、でも、無理そうだ、って感じですね」
流河の言い方は、自分では無理だという口調だ。
志津樹は微かに眉根を寄せる。
「キミでも構わないのは本当だよ?
もちろん、キミでは不足だって思うのも本当だけど」
上着のポケットにコーヒーをつっこみ、炭酸ジュースのプルタブを引き開けて、流河はあくまで穏やかに言う。
「不満じゃなく?」
「不満ではないよ。
さっき言った通りね、俺は彼が幸せならいいんだ。
少なくとも、今みたく村崎クンに無視されて傷付く状態じゃなくなれば」
「…でも、俺が嵐さんにとって、兄さんより重くはなれないだろう?」
「うん」
流河は邪気なくはっきりと頷く。
志津樹は、内心やりにくいと思った。
年上の余裕がある。加えて、腹が据わった態度だ。
「目撃したって言ってましたね」
「うん。校舎の三階から。
だから止められなくて」
「もし、止められる場所にいたら、止めました?」
その不敵さを崩したくて、強い語調で問いかけた。
「止めなかっただろうね」
しかし、流河は落ち着いた声音で、迷わず答えた。
「キミが岩永クンの特別になってもいい。
でも、土台難しそうだから、キミが村崎クンに危機感を抱かせるカンフル剤になればいい、と思ってる」
揺らぎのない口調で、悪気なく彼は断言した。
不愉快な気持ちが沸くが、とても勝てそうにない。
「友だち思いなんですね」
「どうも」
「じゃあ聴きますけど、嵐さんは本当に記憶がないんですか?」
志津樹は手に持った缶を握りしめて、流河を睨み付けた。
「本当に記憶がないよ。
どういった意図の質問かな?」
「抱きしめたらかなり怯えてたので、兄の記憶がないように見えなかったんですよ」
「そりゃあ怖いでしょ?」
流河は軽く口の端をあげた。
あっさりと言う。
「キミ、もしかして岩永クンが忘れたのは、村崎クンだけだって思ってる?」
「……違うんですか?」
志津樹が尋ねると、流河は少し呆れた表情を浮かべた。
自分に対してではないと思った。
「ほんとしょうもないね。キミのお兄さん。
一人被害者ぶってるから、キミがそんな誤解をする」
「…どういう」
「岩永クンは、一年以上前の記憶がない。
それこそ、全ての記憶がね。
彼は俺のことも、一番仲のよい友だちのことも、クラスメイトのも、先生、親の記憶も全てを失った。
だから、抱きしめられて怖いのはしかたない。
そういった免疫が皆無なんだから。
年上の余裕を俺みたいに持てないだろう。過去の記憶が全くないのだから」
志津樹は息を止めてしまった。言葉を失った。
数秒後、ゆっくりと息を吸い込む。
全ての記憶がない。
「…壊滅事件の話は、ニュースで見たんです」
「…」
大きく呼吸をして、意を決して口にした。
「俺は、嵐さんが巻き込まれたんだと思っていた」
事件に前後して、兄は彼のことを全く話さなくなったから。
「…違うんですか?」
志津樹の問いに、流河はなにも言わない。
ただ、切なそうに微笑んだ。
それが全ての答えで、それ以上は聞けなかった。
「…お守りを拾ったんですけど」
「…ああ、キミが拾っていたの?」
「やっぱ嵐さんのですか」
志津樹は覇気なく笑った。
なにげなく見たお守りの中身。一枚の紙。
一言の言葉。兄の字だった。
だから、返すことを躊躇った。
今もわからない。どうして、岩永は兄を好きなんだ。
「…今の兄が、嵐さんにあれを渡すとは思えない。
あれは、昔のですか?」
「うん」
「…じゃあどうして」
志津樹の思い詰めた声を聴いて、流河はため息を吐いた。
志津樹は驚く。
流河はうんざりしたような雰囲気だった。
「どうして、どうして。
村崎クンも、キミも、なんで“記憶”が前提?」
「…え」
「記憶がなきゃ、恋愛しちゃいけないかい?
村崎クンの記憶がない岩永クンが、村崎クンを好きなのは、おかしい?」
「……」
呆れた流河の表情を見下ろした。
流河の言葉が、胸を掴んだように、心臓が痛んだ気がした。
「岩永クン、言ってたよ。
好きだから好きなんだって。
…それじゃあ、いけないの?」
たった一年間の記憶だけ。知っているのは「昔付き合っていた」ということだけ。
嫌われていて。でも、好きになったら絶対おかしいかなんて、自分には断言できない。
決められない。
自分なら好きにならない。でも、岩永は自分じゃない。
「…ずるいです」
「うん?」
「…そう言われたら、諦めるしかないでしょう?」
柔らかい口調に微かに滲んだ切なさを感じて、流河は笑う。
「だから、どっちでも俺はいいよ」
「でも、そんな風に兄さんを好きな人に、自分を好きになってもらうのは難しいじゃないですか」
「まあそうだね」
「最後までフォローしてください」
流河を軽く詰って、志津樹は息を吐いた。
そもそも、自分だって、そんなに深い気持ちで岩永を好きだったわけじゃない。
兄がもし、彼を今も好きなのだとして、その気持ちに勝てる自信はない。
「…兄に、渡したらいいんですか?」
「そうだね」
「…俺は納得いかないんですよ」
緩やかな声音で、志津樹は言う。
「あの兄が、あんなに好きだった嵐さんを、諦められるなんて」
「諦めてはいないと思うよ。
ただ、反抗期なだけで」
「だから、流河さんが、兄さんに苛々してるらしい理由は、…まあわかるんです」
笑みを浮かべて言うと、流河は少し驚いて、それから頷いた。
「キミはいい子だね」
「けなしてます?」
「村崎クンも、同じくらい優しい人だったからさ、昔と変わってしまったなんて、思いたくはない」
切なそうな笑みを浮かべて、彼はそう言った。
靴箱に入っていた紙袋に、吾妻はげんなりした。
またチーム戦のラブレターか。しかも手紙だけじゃないのか。
取りだして、中身を一応見ると、市販のクッキーだった。
カードが同封されていて、内容はやはりチーム戦のこと。
名前を見て、吾妻は気持ち悪くなった。
男の名前だ。
「男が男に、クッキーって…」
恋愛の意でなくても気持ち悪くはないか。
なんとなく紙袋を指でつまんで持ちながら、中庭に出る。
いくつも並ぶベンチ。その傍に噴水。
ここで、以前噴水が誤作動を起こした。
挑戦状の主を焦って探した日も、今となっては懐かしい。
「あ、」
割と響く声に、吾妻は視線を動かした。
噴水の手前のベンチに座って、サンドウィッチを片手にこちらを見上げているのは久遠だ。
「ああ、あんたか」
なんとなくホッとする。
久遠の人柄をまだよく知らないが、なんとなく筋の通った人間だと思っている。
「どうしたんだよ? 一人なんて珍しい」
「うーん…」
吾妻は返事に悩んだ。
まさか、時波と九生に白倉と一緒のベッドにいるところを見つかって睨まれているから、なんて言えない。
「白倉絡み?」
「どうしてわかるの!?」
「…いや、マジかよ」
尋ねられて驚くと、久遠は引いたようだった。
カマかけただけだったらしい。
「驚かせないで」
「いや、だってさ、雪代とかにも心得聴いてたし」
「…心得?」
「吾妻の様子がおかしかったらまず白倉、って」
久遠の至極当然な口調の言葉に、吾妻は反論できなかった。
あながち、間違ってない。
固まった吾妻を見上げて、久遠は「まあいいや」と呟いた。
「で、その袋、もしかして食い物?」
サンドウィッチを全て食べてしまってから、そう尋ねる。
「よくわかったね」
「いい匂いがする」
吾妻の持ったクッキーの袋を指した久遠の表情はいかにも食べたそうだ。
吾妻はちょうどいいと思って、袋を久遠に手渡した。
「いらないからやる」
「マジで!? お前いいやつっ!」
久遠はおおはしゃぎで袋を開け、クッキーを見て目を輝かせた。
「サンキューな!」
そんなに満面の笑みでお礼を言われると後ろめたい。
なんせ、自分が買ったものではないし。
「いいよ。靴箱に入ってたものだし」
「ああ、チーム戦のラブレター?」
久遠は心得たもので、すぐにわかったようだ。
「チーム戦のって、いつもこう?」
「そうだぜ?
少なくとも俺はクッキーとかチョコとかたくさんもらう。
化野クンが“久遠は食べ物あげたらつられると思ってるんだね”って言ったくらい」
「…食いしん坊?」
吾妻の前でばくばくクッキーを食べていく姿を見て、吾妻は呟いた。
「まあ否定はしねぇ。
でも、俺をつるならやっぱ勝負とか挑んでくるガッツのあるやつじゃねーとな。
自分で戦えもしねぇヤツとはごめんだ」
「ふうん。男前だね」
「ありがとよ」
久遠は得意げに笑って、またクッキーを取り出す。
「そういや、誰からもらったんだ?
名前くらいあっただろ?」
「…覚えてない」
「おいおい」
あっさり答えた吾妻に久遠は呆れた様子だった。
吾妻は吹き上げる噴水の水を見遣って、またあの日のことを思い出す。
「そういや、四月にお前に挑戦状があったっけな」
吾妻の視線から察したのか、久遠が言った。
「ああ」
「あれ、複数犯っつーの知ってたん?」
岩永も言っていた。
久遠も言うということは、本当か。
「最近本気にした」
「そっか」
久遠はクッキーをかじって、空いた手で噴水を指さす。
「壁に紙を貼り付けたの、俺は声を使ったけどよ、吸盤の矢なら、あいつだな」
「…あいつ?」
「見たんだろ?
その少し前に図書館で、倒れた棚を止めたの」
吾妻は記憶を手繰ってすぐに思い当たった。
優衣の力だ。
「…あ」
「そ。あいつの力なら応用でいけんだろ」
確かに、影を操って倒れる棚を止めた優衣なら、紙や吾妻の額に出来る影を使って矢を止めることも出来る。
今更に思い出した。
あの時、優衣の心を読んだ時、なにかを感じた映像。
食堂の映像だ。
「ま、実際は二人じゃなくて、三人だけどよ。
もう一人は自分で見つけんだな」
久遠はベンチから立ち上がって、空になった紙袋を丸める。
吾妻を肩越しに振り返って笑った。
「じゃ、ご馳走さん」
歩きだした久遠を見送って、吾妻はもう一度噴水を見遣った。
もしかしたら、あの誤作動も、流河の共犯の仕業か?
「食べ物でつられはしないけど、若干口が軽くなるよねー」
その様子を校舎の二階から見ていた化野が、楽しそうに言った。
傍を通りかかった白倉が、窓を覗き込んで、理解する。
ベンチに座った吾妻と、離れていく久遠が見える。
「一人なんて珍しいな」
「白倉こそ、吾妻がいないの珍しいよ?」
化野は笑って言う。
「常に一緒じゃない。
若干うざいよね」
白倉は微かに不満そうに唇を結んだ。
「俺はうれしいもん」
「あ、違う違う。
白倉の気持ちを勝手に決めたわけじゃなくて、見てる側がうざいなって。
俺や時波たちの意見だってば」
白倉が幸せならそれでいいんだよ、と化野は真顔で語った。
それに、白倉の機嫌が治る。
「時波っていえば、同じチームなんだって?」
「うん。まあ、吾妻は嫌がってるけど」
「どうせそのまま決まるよ。吾妻が時波に勝てるわけがない」
化野の邪気のない言葉に、白倉も笑みを浮かべた。
白倉もそう思うからだ。
それに、同じチームに時波がいるなら、心強い。
「ねえ」
「ん?」
化野は、窓枠に手をかけて、ふと真面目な顔をした。
「キミの二つ目って、時間を操るんだよね?」
「多分。まだうまく使えないからなにが出来るかわからんけど」
「…」
化野は真剣な顔つきで、顎に手を当てる。
「もし過去に行けるなら、確かめる?」
「え?」
「岩永の暴走。原因が村崎なのかどうか」
白倉は胸が変に痛んだ気がした。
だって、そんな、今更。
「村崎が岩永を避けるのだって、根底に“自分の所為で暴走が起こった”って思うからだろ?」
「多分」
化野は窓の外を見て、淀みなく言葉を紡ぐ。
白倉は頷いたが、でも、今更だとも思った。
だって、村崎が引き金じゃなかったら、あれは一体。
「俺は納得がいかないんだよ」
「…静流じゃない、って?」
「というか、…」
化野はそのまま考え込み、黙ってしまう。
「まあ、いいや」
長い沈黙に思えたが、数秒だったかもしれない。
化野は不意にそう言って、なんでもない顔をした。
「とにかく、チーム戦は楽しみにしてるよ。
キミや風雅のチームくらいしかライバルになりそうにないからね」
窓際から離れて、化野は明るい口調で言い、手を振る。
「あ、」
「その分、キミのチームには期待してる」
なんとなく呼び止めようとした白倉の言葉を遮って言い、化野は足を止めた。
「俺を、楽しませてね? 白倉」
美しい微笑みを向けられ、白倉は背筋を走った恐怖をどうにかかみ殺す。
「Sランク四人のチームだろうし、吾妻はともかく、みんな手強いでしょ?」
肩越しに妖しく笑い、化野は前を向いて歩きだした。
残された白倉は冷や汗を掻きながら、当惑した。
「…Sランク“四人”?
…化野が勘違い…するはずないし。なんなんだ?」
どういう意味なんだろう。
廊下で岩永を見つけたのは偶然だ。
そこまで勘はよくない。
志津樹は喜色を浮かべて、近寄った。
「嵐さん」
呼びかけると、岩永は振り返って、微かに怯む。
傷付く反応だが、初対面が初対面だから無理はない。
「なにもしませんよ。
聞きたいことがあって」
「聞きたいこと…?」
「はい、二つ」
二個もある、と知って、岩永はなんだか嫌そうだ。
「チーム、決まってるんですか?」
「…まあ、御園と、流河と」
「三人?」
「うん」
迷う様子なく頷いた岩永に、志津樹は自分を指さした。
「俺も入ったらいけません?」
笑って言うと、岩永は一歩後退った。
「御園たちに聞かへんとわからん」
「聞いてみてください」
「……」
なにか言いたげな岩永も、本気で断る意志を見せない。
自分にこうして弱いのは、兄の存在があるからで、面白くはないが。
「……うん」
最終的には頷く岩永。志津樹はよかった、と喜ぶ。
「あ、もう一つ」
志津樹の言葉に、そうだもう一個あった、と思い出して、怯えたオーラを見せる。
「志津樹」
背後から志津樹を呼んだ声に、岩永は尚更びびった。
「ごめん。俺、用事あるから!」
岩永はとんでもなく慌てて言い、素早く逃げ出した。
見送るしかなくて、志津樹は肩を落とす。
「兄さん、タイミング悪い」
振り返ると、そこには兄の村崎静流。
見るからに不機嫌だ。
「わざとでしょ?」
「…なにがや」
兄の返答までの沈黙から、図星だと知る。
志津樹は苦笑した。
「…今でも好きだったりするんでしょ? あの人を」
「…寝言は寝て言え」
「またまた」
志津樹は手をひらひら振る。
自分から見て、兄はやっぱり、あの人を好きだ。
「別になにをしようって気はなかったよ。
ただ、あの人が落としたものじゃないかって思ったから」
「落とし物?」
「うん」
志津樹はポケットから、赤いお守りを取りだしてみせる。
「嵐さんが落としたっぽいんだよね」
知ってる?と純粋に問われて、村崎の思考は一瞬停止した。
志津樹の手から、お守りを拾う。
「兄さん?」
弟の声も、耳に入らない。
「…」
だって、とっくに捨てたと思っていた。
自分のことを、なに一つ覚えていないのに。
「…まだ」
持っていたなんて。
「俺、あの人と同じチームになりたいんだよね。
…兄さんがいいなら」
志津樹は控えめに言う。臆病な自分を見透かすように。
「兄さん」
自分の背中を押すような声だと思った。
弟を見ると、彼は微笑んだ。
しかたないという風に、なにかを一つ諦めて。
「好きだって思うから、好き。
それじゃあ、ダメなのかな?」
村崎は言葉が見つからず、なにも言えない。
「ただ、その人が大事で愛しいから、好き。
だから一緒にいる。
それじゃ、兄さんは、嫌?」
「…………」
なんと返事をしたらいいのか、わからない。
だって、岩永は自分を全て忘れてしまった。
あの日の彼は、二度と戻らない。
「記憶がなきゃ、嫌?
俺、わかんないよ。
嵐さんが兄さんを忘れて、他の人を好きになったならわかる。
でも、今の状況さっぱりだ。
だって、嵐さんは今も兄さんを好きじゃない」
真剣に、どこか憤った弟の顔を見たのが、初めてだと気づいた。
そんな顔を、弟にさせたことはなかった。
「俺、無関係だからさ、無神経なこと言うけど。
…あの人が忘れたのは、兄さんだけじゃないよね?」
「……」
「全部忘れたんでしょう?
でも、みんなあの人とちゃんと向き合ってる。
…どうして、兄さんだけがそっぽ向いてるの?」
返す言葉がない。
見つからないのではない。
なにも、返せない。
資格が、ない。
「俺が知ってる兄さんは、そんな人じゃなかったよね?」
「……」
今、弟を納得させる台詞を吐く権利を、自分は持たない。
手の平の上のお守りを見つめた。
これを受け取った時の、岩永を昨日のように思い出せる。
その記憶が、もう自分だけのものなのだと、もしかしたら自分の妄想の産物ではないかと。
ずっと怖かった。
「違う…」
「…兄さん」
「あれは、儂が原因やから…」
自分が、暴走の引き金を引いた。
岩永が自分を忘れた。それを促したのが自分だと。
「…もし兄さんが本当に原因だとして、でも過ぎたことだよ?」
弟は、「なんの原因か」を問わなかった。
いろいろ疑問はあっただろうに、心の中で言葉を堪えて、そう言った。
「今の嵐さんを、無視する理由になる?」
優衣や、流河の言葉は、いつも自分に痛い。
その理由をよくわかっている。
胸を縫い止める自責。
でも、彼らならそれに気を取られるよりも、歩み寄ろうとする岩永を見ろというだろう。
過ぎた過去より、今を見ろというだろう。
本当は、自分自身そう理解っていたからだ。だから痛かった。
本当は、自分もそう思っていたから。
「…儂は、昔のあいつを忘れられへんと思う」
重苦しく口を開くと、志津樹は素直に頷いてくれる。
「…せやけど、今でもあいつが好きなんや。
やから苦しい」
「…うん。
それはわかる。でも」
「苦しいんは、儂だけやないんやろう?」
志津樹が言おうとした言葉を、口にすると彼は驚いた。
「…やから」
考えなかった。
よく自分に話しかけてくる、懲りない今の岩永。
自分の痛みもなにも知らずに。
それが嫌で、いつも無視して背中を向けた。
でも、自分が背中を向けた後ろで、岩永がどんな顔をしていたのか。
どんな顔をしているのか。
知らなくてはならないんだろう。
知らずに、彼を見限ってはいけない。
自分はまだ、岩永が好きで、だから、もう一度。
声を聴いて、笑顔を見て。
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