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【1話完結】おぼろ月のかたち
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「昼に降っていた雨、もう止んだね」
開けた窓の外をぼんやり眺めながら、由紀は言った。網戸をすり抜けて、初夏の湿った土の匂いが流れる。薄暗い六畳の部屋で、寄りそってTシャツ越しに肩のぬくもりを分け合った。
「うん、そうだね」
当真も窓のへりに置いた缶ビールを手に取り、外を眺める。夜の涼しい風がベッドの上に座る二人の間を通り、由紀の長い髪が揺れる。当真はそっと身体を離し、そばにいる由紀の、つややかな黒髪と白い肌を見ながら、缶ビールを一口飲んだ。
「なに」
きゃしゃな体を少し反って、由紀はおどける。白い頬に紅みがさす。その少女のような表情を見るたび、彼女が十歳も自分よりも年上なのだということが、当真には信じられなかった。
「いや、別に」
衣料品の販売店で使うマネキンや什器の貸出しをしている会社に新卒で入って丸三年。最初は指示されてもわからなかった什器の見積もりもほとんど苦労はなく、今では一人で営業に行くようになった。取引先の量販店や専門店を何店か回って、少し残業して、呼び出されたら行く。由紀と出会ったのはそんな何の変哲もない営業マンの日常を送っているときだった。
婦人服の主任として、由紀は転勤してきた。最初は互いに取引先同士として連絡を取り合っていた。それが映画好きなのをきっかけに仲良くなり、食事の約束をするようになり、やがて男女の関係に発展した。お互いが休日の前の夜は、当真の家で二人で過ごした。
缶チューハイを飲む彼女の頭をそっと撫でる。これが普通の恋愛だったならば、と当真はいつも思う。
「当真くん。今度、動物園に連れて行ってよ」
「え? ああ……」
「もしかして、だめ?」
由紀が振り返り、顔を覗き込む。黒目がちな瞳に、当真は吸い込まれそうになる。
「いや、急だったから」
「行ってみたいんだ。だって、有名じゃない」
「まあね」
単身で来た由紀には旦那がいたのだった。子供はいないらしい。夜を重ねるたびに、この恋の行方がわからなくなる。答えを出したいと思う一方、心地のいい関係に甘えている。情けないと思いながらも、そのことを当真自身がよく知っていた。振り返り、壁側のカラーボックスに目をやる。
「指輪、なくしちゃだめだよ」
上に載っている指輪が、射しこんだ弱い光を受けている。由紀は振り返って同じく見やり、何でもないようにまた窓の外を眺める。それから唇を尖らせ、頭をもたせた。
「当真くんはそんなこと、気にしなくていいんだよ」
踏切が遠くで鳴っている。単調な、日常の音。由紀は一人の夜もこの踏切の音を聞いているだろうか。その時、何を思うのだろうか。当真は缶ビールをあおり、へりに置く。膝の掛け布団を、腿のあたりまで引き寄せる。
「そりゃあ、気にするさ」
結婚をしていると知った時には、もう止まらなかった。何度も仕事の関係に戻ろうと話し合ったが、抑えられない感情と由紀の気持ちに触れるたび、恋の輪郭がくっきり浮かび、やっぱり惚れてしまっているのだと思い知らされる。そしてそれが途切れると旦那の影を感じ、自己嫌悪に陥るのだった。
電車が夜を走る。ゴトン、ゴトン、と硬質な音をたてて。由紀は前に風の音みたいと言っていた。建物の間を通る風の音みたい、と。マンションで育ったからそう思うらしい。
「何も、気にしないでよ」
もたせた頭を離して、由紀は缶チューハイに手を伸ばす。
旦那がどういう人なのかはわからない。許されない関係であるということが、旦那の影を濃くしている。
「あのさ、やっぱり……」
言いかけたとき、由紀は網戸を開け、身を乗り出して空を見上げた。
「おぼろ月だね」
当真も同じく見上げる。出かけた言葉は途切れて続くことなく、滲んだ月に溶けてしまった。
「うん」
「あたし、おぼろ月、好きよ」
「俺も好き、かな」
由紀は缶チューハイを飲むと、中身を確かめるように振った。それからベッドを降りて、こちらを向く。
「ビール、いる?」
「ああ、ありがとう。お願い」
缶の底にたまったビールを、一息に飲み干す。気が付けば旦那の影はうやむやになって、消えてしまった。
きっと今日みたいな滲んだ夜を見上げる日が来るだろうと、当真は思った。おぼろ月に不確かな未来が映った。
開けた窓の外をぼんやり眺めながら、由紀は言った。網戸をすり抜けて、初夏の湿った土の匂いが流れる。薄暗い六畳の部屋で、寄りそってTシャツ越しに肩のぬくもりを分け合った。
「うん、そうだね」
当真も窓のへりに置いた缶ビールを手に取り、外を眺める。夜の涼しい風がベッドの上に座る二人の間を通り、由紀の長い髪が揺れる。当真はそっと身体を離し、そばにいる由紀の、つややかな黒髪と白い肌を見ながら、缶ビールを一口飲んだ。
「なに」
きゃしゃな体を少し反って、由紀はおどける。白い頬に紅みがさす。その少女のような表情を見るたび、彼女が十歳も自分よりも年上なのだということが、当真には信じられなかった。
「いや、別に」
衣料品の販売店で使うマネキンや什器の貸出しをしている会社に新卒で入って丸三年。最初は指示されてもわからなかった什器の見積もりもほとんど苦労はなく、今では一人で営業に行くようになった。取引先の量販店や専門店を何店か回って、少し残業して、呼び出されたら行く。由紀と出会ったのはそんな何の変哲もない営業マンの日常を送っているときだった。
婦人服の主任として、由紀は転勤してきた。最初は互いに取引先同士として連絡を取り合っていた。それが映画好きなのをきっかけに仲良くなり、食事の約束をするようになり、やがて男女の関係に発展した。お互いが休日の前の夜は、当真の家で二人で過ごした。
缶チューハイを飲む彼女の頭をそっと撫でる。これが普通の恋愛だったならば、と当真はいつも思う。
「当真くん。今度、動物園に連れて行ってよ」
「え? ああ……」
「もしかして、だめ?」
由紀が振り返り、顔を覗き込む。黒目がちな瞳に、当真は吸い込まれそうになる。
「いや、急だったから」
「行ってみたいんだ。だって、有名じゃない」
「まあね」
単身で来た由紀には旦那がいたのだった。子供はいないらしい。夜を重ねるたびに、この恋の行方がわからなくなる。答えを出したいと思う一方、心地のいい関係に甘えている。情けないと思いながらも、そのことを当真自身がよく知っていた。振り返り、壁側のカラーボックスに目をやる。
「指輪、なくしちゃだめだよ」
上に載っている指輪が、射しこんだ弱い光を受けている。由紀は振り返って同じく見やり、何でもないようにまた窓の外を眺める。それから唇を尖らせ、頭をもたせた。
「当真くんはそんなこと、気にしなくていいんだよ」
踏切が遠くで鳴っている。単調な、日常の音。由紀は一人の夜もこの踏切の音を聞いているだろうか。その時、何を思うのだろうか。当真は缶ビールをあおり、へりに置く。膝の掛け布団を、腿のあたりまで引き寄せる。
「そりゃあ、気にするさ」
結婚をしていると知った時には、もう止まらなかった。何度も仕事の関係に戻ろうと話し合ったが、抑えられない感情と由紀の気持ちに触れるたび、恋の輪郭がくっきり浮かび、やっぱり惚れてしまっているのだと思い知らされる。そしてそれが途切れると旦那の影を感じ、自己嫌悪に陥るのだった。
電車が夜を走る。ゴトン、ゴトン、と硬質な音をたてて。由紀は前に風の音みたいと言っていた。建物の間を通る風の音みたい、と。マンションで育ったからそう思うらしい。
「何も、気にしないでよ」
もたせた頭を離して、由紀は缶チューハイに手を伸ばす。
旦那がどういう人なのかはわからない。許されない関係であるということが、旦那の影を濃くしている。
「あのさ、やっぱり……」
言いかけたとき、由紀は網戸を開け、身を乗り出して空を見上げた。
「おぼろ月だね」
当真も同じく見上げる。出かけた言葉は途切れて続くことなく、滲んだ月に溶けてしまった。
「うん」
「あたし、おぼろ月、好きよ」
「俺も好き、かな」
由紀は缶チューハイを飲むと、中身を確かめるように振った。それからベッドを降りて、こちらを向く。
「ビール、いる?」
「ああ、ありがとう。お願い」
缶の底にたまったビールを、一息に飲み干す。気が付けば旦那の影はうやむやになって、消えてしまった。
きっと今日みたいな滲んだ夜を見上げる日が来るだろうと、当真は思った。おぼろ月に不確かな未来が映った。
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