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五十崎檀子の手記
五
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わたしはと言うと、この美貌の青年が中国から来たと言うのを聞いて、彼の奇異にも聞こえる抑揚のついた言葉が、日本語を母国語としない人に見る特徴的な発音の仕方であることに思い至って、ひとり合点のいった思いがしていました。
わたしの住んでいた村は特にこれと言う史跡があるわけでもなく、日本人の観光客すらほとんど来ないようなところで、ましてや外国人などを見かけることは皆無と言ってもよいほどでしたから、実際に自分の目で外国の人というものを見たのはこのときが生まれて初めてでした。
ただでさえ外国人に免疫がなかった上、青年が夢でも見ているように美しいものですから、半ば茫然と外国の人というのは皆こんなにも美しいものなのだろうかと思うともなしに見つめ続けていると、李大龍と名乗ったその青年は、やはり微妙な違和感を伴うアクセントの、けれども非常に丁寧な言葉遣いで話を続けました。
「実は我が国がまだ清と呼ばれていた頃ですが、宗室である愛新覚羅氏が居住していた王府より、ある秘蔵の品が持ち出されました。これは唐代より脈々と皇帝に伝来していた重宝でしたが、さる事情から公にはされておらず、密かに受け継がれるべしとされた秘宝でした」
李大龍は、次第に唖然とした様子へと変わっていく母の反応を子細に窺うかのようにじっと見ながら話していました。ところが、その李大龍の体を取り巻く妖気が、まるで触手のようにうねうねと身をくねらせるように伸びて母に絡みつこうとするのに気がついたわたしは、俄かに焦眉の急を感じて思わず強く母の腕を引っ張りました。
「ねぇ、お母さん。ねぇってば」
「ちょっと黙ってなさい」
必死に腕を引っ張るわたしを、母は叱るような口調で窘めました。
と、李大龍から伸びていた妖気の手がするすると引き下がっていくのに気がつきました。李大龍の元に戻った妖気の陽炎とも蝋燭の炎ともつかぬ揺らめきは、さながら害のない犬が恭順を見せるためにその場に伏せて、大人しく主人の足下に控えている様子を連想させ、わたしはいくらかは落ち着きを取り戻すことができましたが、しかし母の腕をはなすことはできませんでした。
李大龍は水琴窟に響く水滴を思わせる密やかな静けさを湛えた声で、淡々と話を続けました。
「……王府より持ち出されたこのときも、大々的に捜索することがかなわず、結局は王朝の終焉と共にその瑰宝の件も葬り去られていました。それがこのほど、わたしどもに依頼があり、再びその行方について調査をすることになりました。依頼主はその他にも、我が国から流出した文化財などの所在を明らかにすること、そして可能であればそれらを買い戻すことを要望しています」
「は、はあ……、でも、それがうちとどういう関係が……?」
「実はこちらに、たいそう立派な蔵があると聞いてやって参りました。できれば蔵の中を拝見したいのですが、五十崎敬一郎様はご在宅でしょうか」
そう言う青年の声は穏やかなものではありましたが、柳のようにたおやかな外見の印象とは裏腹に、どこか押しの強さを感じさせました。
「その……生憎、義父も主人も出ておりまして……」
母はいかにも剣呑らしく、曖昧に言葉を濁して返答をすると、李大龍は心得たように頷き、
「では、いつ戻られますか?」
あくまで慇懃な物腰を保ちながら、それでいて引き下がる気はないと言下に覚らせようとするかのような李大龍への戸惑いと疑懼と怖れとを微かに滲ませつつ、母が何も答えられずにいますと、李大龍は無言のままおもむろに旅行鞄の口を開いて見せました。中には白い帯のついた日本の紙幣の束が、ぎっしりと詰まっていました。
母が度肝を抜かれたらしいことが、息を呑む気配でわかりました。
「……さ、さぁ、その、わたしにはわかりかねますので……」
「そうですか。それでは、また明日お伺いします」
李大龍は鞄の口を閉じて丁寧に頭を下げました。そして踵を返して去ろうとするその間際、再びちらりとこちらに青く澄んだ目を向けながら、李大龍は小さな微笑をわたしに向かって滲ませました。その瞬間、わたしの心臓はその一瞬において、確かに停止していたに違いありません。
思いがけず微笑みかけられた衝撃に全身は硬直し、体中の血という血がぼこぼこと沸騰しながら逆流するようでした。李大龍のそのわずかな微笑はわたしの心に凄まじい衝撃を与え、たちどころにわたしを彼の完全なる虜囚へと変えさせました。
わたしと母は、李大龍が出て行ってからも、すぐには動き始めることができず、暫くの間その場に立ち尽くしていました。玄関には彼の香油と思しき残り香が見えない影のように漂って、乾いた冷たい冬の空気を撫でているようでした。
「……きれいな男の人だったね」
やっとのことで沈黙を破ったわたしを、母は急に我に返った様子で振り返りました。
「檀子、しばらくは外に出ないで。庭もだめよ。家の中にいなさい。いい? わかった?」
真剣な眼差しで食い入るように見て言う母に気圧され、思わず頷きましたが、母が突然そんな風に言い出した理由を当時のわたしはよく理解できずにいました。しかしくどいぐらいに念を押す母が、李大龍のことを悪者か何かのように思ったのだということだけは察しがついて、いささか面白くない心境になりました。後になって考えてみれば、万が一にも娘の身に危険が及ぶようなことがあっては大変だと心配してのことだったというのはよくわかる話ではありますし、その親心というものは理解して余りあるものではありましたが、まだこどもであった当時のわたしには、そんな母の心情を察するところまで至らず、ただ李大龍を悪い人間だと決めつけて頭から否定しているようなその頑なな態度に、なんとも言えない嫌な気がするばかりでした。
わたしの住んでいた村は特にこれと言う史跡があるわけでもなく、日本人の観光客すらほとんど来ないようなところで、ましてや外国人などを見かけることは皆無と言ってもよいほどでしたから、実際に自分の目で外国の人というものを見たのはこのときが生まれて初めてでした。
ただでさえ外国人に免疫がなかった上、青年が夢でも見ているように美しいものですから、半ば茫然と外国の人というのは皆こんなにも美しいものなのだろうかと思うともなしに見つめ続けていると、李大龍と名乗ったその青年は、やはり微妙な違和感を伴うアクセントの、けれども非常に丁寧な言葉遣いで話を続けました。
「実は我が国がまだ清と呼ばれていた頃ですが、宗室である愛新覚羅氏が居住していた王府より、ある秘蔵の品が持ち出されました。これは唐代より脈々と皇帝に伝来していた重宝でしたが、さる事情から公にはされておらず、密かに受け継がれるべしとされた秘宝でした」
李大龍は、次第に唖然とした様子へと変わっていく母の反応を子細に窺うかのようにじっと見ながら話していました。ところが、その李大龍の体を取り巻く妖気が、まるで触手のようにうねうねと身をくねらせるように伸びて母に絡みつこうとするのに気がついたわたしは、俄かに焦眉の急を感じて思わず強く母の腕を引っ張りました。
「ねぇ、お母さん。ねぇってば」
「ちょっと黙ってなさい」
必死に腕を引っ張るわたしを、母は叱るような口調で窘めました。
と、李大龍から伸びていた妖気の手がするすると引き下がっていくのに気がつきました。李大龍の元に戻った妖気の陽炎とも蝋燭の炎ともつかぬ揺らめきは、さながら害のない犬が恭順を見せるためにその場に伏せて、大人しく主人の足下に控えている様子を連想させ、わたしはいくらかは落ち着きを取り戻すことができましたが、しかし母の腕をはなすことはできませんでした。
李大龍は水琴窟に響く水滴を思わせる密やかな静けさを湛えた声で、淡々と話を続けました。
「……王府より持ち出されたこのときも、大々的に捜索することがかなわず、結局は王朝の終焉と共にその瑰宝の件も葬り去られていました。それがこのほど、わたしどもに依頼があり、再びその行方について調査をすることになりました。依頼主はその他にも、我が国から流出した文化財などの所在を明らかにすること、そして可能であればそれらを買い戻すことを要望しています」
「は、はあ……、でも、それがうちとどういう関係が……?」
「実はこちらに、たいそう立派な蔵があると聞いてやって参りました。できれば蔵の中を拝見したいのですが、五十崎敬一郎様はご在宅でしょうか」
そう言う青年の声は穏やかなものではありましたが、柳のようにたおやかな外見の印象とは裏腹に、どこか押しの強さを感じさせました。
「その……生憎、義父も主人も出ておりまして……」
母はいかにも剣呑らしく、曖昧に言葉を濁して返答をすると、李大龍は心得たように頷き、
「では、いつ戻られますか?」
あくまで慇懃な物腰を保ちながら、それでいて引き下がる気はないと言下に覚らせようとするかのような李大龍への戸惑いと疑懼と怖れとを微かに滲ませつつ、母が何も答えられずにいますと、李大龍は無言のままおもむろに旅行鞄の口を開いて見せました。中には白い帯のついた日本の紙幣の束が、ぎっしりと詰まっていました。
母が度肝を抜かれたらしいことが、息を呑む気配でわかりました。
「……さ、さぁ、その、わたしにはわかりかねますので……」
「そうですか。それでは、また明日お伺いします」
李大龍は鞄の口を閉じて丁寧に頭を下げました。そして踵を返して去ろうとするその間際、再びちらりとこちらに青く澄んだ目を向けながら、李大龍は小さな微笑をわたしに向かって滲ませました。その瞬間、わたしの心臓はその一瞬において、確かに停止していたに違いありません。
思いがけず微笑みかけられた衝撃に全身は硬直し、体中の血という血がぼこぼこと沸騰しながら逆流するようでした。李大龍のそのわずかな微笑はわたしの心に凄まじい衝撃を与え、たちどころにわたしを彼の完全なる虜囚へと変えさせました。
わたしと母は、李大龍が出て行ってからも、すぐには動き始めることができず、暫くの間その場に立ち尽くしていました。玄関には彼の香油と思しき残り香が見えない影のように漂って、乾いた冷たい冬の空気を撫でているようでした。
「……きれいな男の人だったね」
やっとのことで沈黙を破ったわたしを、母は急に我に返った様子で振り返りました。
「檀子、しばらくは外に出ないで。庭もだめよ。家の中にいなさい。いい? わかった?」
真剣な眼差しで食い入るように見て言う母に気圧され、思わず頷きましたが、母が突然そんな風に言い出した理由を当時のわたしはよく理解できずにいました。しかしくどいぐらいに念を押す母が、李大龍のことを悪者か何かのように思ったのだということだけは察しがついて、いささか面白くない心境になりました。後になって考えてみれば、万が一にも娘の身に危険が及ぶようなことがあっては大変だと心配してのことだったというのはよくわかる話ではありますし、その親心というものは理解して余りあるものではありましたが、まだこどもであった当時のわたしには、そんな母の心情を察するところまで至らず、ただ李大龍を悪い人間だと決めつけて頭から否定しているようなその頑なな態度に、なんとも言えない嫌な気がするばかりでした。
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