孤悲纏綿──こひてんめん

クイン舎

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五十崎檀子の手記 

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 わたしは得体の知れない怖れに心臓も止まらんばかりになって、何度もそれが自分の見間違いではないかと確かめましたが、そのたびに次第にはっきりと輪郭を濃くしていく妖気を目の当たりにし、知らず体は小さく震え出していました。
 そのとき突然、青年の目がゆっくりと──まるで山のいちばん清らかなところに湧いた水が柔らかな下草に滴り落ちるように、わたしの方に向けられました。青年の水宝玉を思わす瞳とぶつかった途端、全身には暗い闇を裂いて地に落ちる稲光のような衝撃が走りました。俄かに両足が大きく震え、訳もわからないまま咄嗟に母の背中に身を隠しました。
 まるで全力疾走をしたときのような息苦しさに襲われ、わたしは無意識に肩で呼吸をしていました。今すぐその場から走って逃げ出したいという衝動に駆られていながら、足は冷たい廊下にぴったりと張りつけられたまま、わずかにさえ動こうとはしないのでした。
 そればかりか、わたしの心は何かとてつもなく強い力で安全な隠れ家からわたし自身を引きずり出すかの如き激しい熱烈さをもって、青年の姿をもっと見ることを要求するのでした。
 どくどくと脈打つ心臓の音を自分のすぐ耳の横で聞きながら、恐る恐る母の背中から顔を覗かせると、隠れていたわたしに尚視線を向けていたらしく、じっとこちらを見つめる青い瞳にたちどころにつかまってしまいました。
 まるで毒草にあたって痺れを来したような手足は固く強張り、自分の意思を超えて震え続けていました。
 最早母の背中に再び身を隠そうという気はすっかり根っこから刈り取られ、わたしは青年から目を逸らすことすらできないまま、その夢幻に誘い込むような青く透き通った瞳を見つめ返していました。
 冬の晴天の日のきりりと身を引き締める冷たい風が、青年の背後で開けられたままになっている引き戸の向こうから静かに入って来て、気づかぬうちにちりちりと火照っていた体を撫でて通り過ぎていきました。その微かな風に乗って、何か甘い花の蜜のような、しっとりと油分を含んだ香りが鼻先をくすぐりました。
 それがどうやら青年の丁寧に撫でつけられた黒い髪から漂うらしいことに気がつくと、わたしはどういう訳かその匂いの中に、秘密の打ち明け話を語る吐息のような湿り気を感じ、心はそわそわと落ち着きをなくして浮足立ってしまいました。
 その拍子にやっと体を動かすことができるようになったわたしの腕を、母の手がいきなり強く掴んで引き寄せました。驚いて思わず見上げた先には、頬を赤らめて青年を見ていた先ほどまでの様子とは打って変わり、不安と怖れを滲ませた表情の母の顔がありました。
 母はわたしを自分の背中の陰に隠しながら、
「……あの、どちら様でしょうか」
 怪しみを明らかにした口調で母が訊ねるのを後ろで聞いていたわたしは、まだ早鐘のように打ち続ける心臓を押さえ、再びこっそりと顔を覗かせました。
 青年は切れ長の目で、じっとまっすぐに母をとらえました。途端に母の狼狽する気配が、その背中から伝わってきました。
「ご挨拶もせず、失礼しました」
 青年はやはり奇妙なほどくっきりと聞こえる不自然な発音でそう言うと、軽く頷くように、ひとつ頭を下げました。
 青年が提げている擦り切れた黒い旅行鞄の錆びた金具が軋むような音を立て、思わずそちらに視線をやると、スーツの袖口から覗く青年の手の甲が目に入り、我知らず胸が高鳴りました。その如何にもしっとりと湿り気を帯びた滑らかそうな肌に触れてみたいという想念が無意識に浮かび上がったことに、我ながら驚いて言葉を失ってしまいました。
 何か悪いことをして叱られる前のおろおろとした気分で自分のその思いがけない欲求にただひたすら戸惑っていましたが、ふと青年の黒いスーツの袖口から何か黒い文字の断片のようなものが見えたような気がし、困惑も忘れて思わずじっと目を凝らして見ました。
 するとやはり青年の肌の上に旧い時代の難解な漢字とも取れる、どこか複雑な象形文字のようなものが書かれているのが、彼の微かな動きと共に、袖口の向こうにちらちらと見え隠れしているのでした。
 不思議に気を引かれたわたしはその文字をもっとよく見てみたいと思いましたが、如何せん黒い袖の内側から文字の先端なのか末端なのかがほんのわずかに見えるだけで、はっきりとその詳細を掴むことができずにいると、突然その文字の一部が、波紋を描いて泳ぐ魚の尾鰭おびれのように揺らいで見えた気がして、わたしはぎょっと息を呑みました。
 そのとき青年がまたちらりとこちらを見たので、またしてもわたしの呼吸は止まりかけたのですが、しかし青年はすぐに母の方を向いて、やはりどこか異質に聞こえるアクセントで挨拶を続けました。
「突然のことで申し訳ありません。五十崎敬一郎様のお嬢様でしょうか」
「敬一郎は義理の父ですが……」
 警戒心も露わに答えた母に、青年は丁寧に頭を下げました。
「失礼いたしました。わたしは李大龍リーダーロンと申します。中国の北の地域より参りました。国のさる筋の依頼を受け、日本にはその仕事のために滞在しています」
 顔を上げた青年に、母はますます緊張の色を濃く表して、無言のまま見つめ返すだけでした。


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