6 / 36
五十崎檀子の手記
四
しおりを挟む
わたしは得体の知れない怖れに心臓も止まらんばかりになって、何度もそれが自分の見間違いではないかと確かめましたが、そのたびに次第にはっきりと輪郭を濃くしていく妖気を目の当たりにし、知らず体は小さく震え出していました。
そのとき突然、青年の目がゆっくりと──まるで山のいちばん清らかなところに湧いた水が柔らかな下草に滴り落ちるように、わたしの方に向けられました。青年の水宝玉を思わす瞳とぶつかった途端、全身には暗い闇を裂いて地に落ちる稲光のような衝撃が走りました。俄かに両足が大きく震え、訳もわからないまま咄嗟に母の背中に身を隠しました。
まるで全力疾走をしたときのような息苦しさに襲われ、わたしは無意識に肩で呼吸をしていました。今すぐその場から走って逃げ出したいという衝動に駆られていながら、足は冷たい廊下にぴったりと張りつけられたまま、わずかにさえ動こうとはしないのでした。
そればかりか、わたしの心は何かとてつもなく強い力で安全な隠れ家からわたし自身を引きずり出すかの如き激しい熱烈さをもって、青年の姿をもっと見ることを要求するのでした。
どくどくと脈打つ心臓の音を自分のすぐ耳の横で聞きながら、恐る恐る母の背中から顔を覗かせると、隠れていたわたしに尚視線を向けていたらしく、じっとこちらを見つめる青い瞳にたちどころにつかまってしまいました。
まるで毒草にあたって痺れを来したような手足は固く強張り、自分の意思を超えて震え続けていました。
最早母の背中に再び身を隠そうという気はすっかり根っこから刈り取られ、わたしは青年から目を逸らすことすらできないまま、その夢幻に誘い込むような青く透き通った瞳を見つめ返していました。
冬の晴天の日のきりりと身を引き締める冷たい風が、青年の背後で開けられたままになっている引き戸の向こうから静かに入って来て、気づかぬうちにちりちりと火照っていた体を撫でて通り過ぎていきました。その微かな風に乗って、何か甘い花の蜜のような、しっとりと油分を含んだ香りが鼻先をくすぐりました。
それがどうやら青年の丁寧に撫でつけられた黒い髪から漂うらしいことに気がつくと、わたしはどういう訳かその匂いの中に、秘密の打ち明け話を語る吐息のような湿り気を感じ、心はそわそわと落ち着きをなくして浮足立ってしまいました。
その拍子にやっと体を動かすことができるようになったわたしの腕を、母の手がいきなり強く掴んで引き寄せました。驚いて思わず見上げた先には、頬を赤らめて青年を見ていた先ほどまでの様子とは打って変わり、不安と怖れを滲ませた表情の母の顔がありました。
母はわたしを自分の背中の陰に隠しながら、
「……あの、どちら様でしょうか」
怪しみを明らかにした口調で母が訊ねるのを後ろで聞いていたわたしは、まだ早鐘のように打ち続ける心臓を押さえ、再びこっそりと顔を覗かせました。
青年は切れ長の目で、じっとまっすぐに母をとらえました。途端に母の狼狽する気配が、その背中から伝わってきました。
「ご挨拶もせず、失礼しました」
青年はやはり奇妙なほどくっきりと聞こえる不自然な発音でそう言うと、軽く頷くように、ひとつ頭を下げました。
青年が提げている擦り切れた黒い旅行鞄の錆びた金具が軋むような音を立て、思わずそちらに視線をやると、スーツの袖口から覗く青年の手の甲が目に入り、我知らず胸が高鳴りました。その如何にもしっとりと湿り気を帯びた滑らかそうな肌に触れてみたいという想念が無意識に浮かび上がったことに、我ながら驚いて言葉を失ってしまいました。
何か悪いことをして叱られる前のおろおろとした気分で自分のその思いがけない欲求にただひたすら戸惑っていましたが、ふと青年の黒いスーツの袖口から何か黒い文字の断片のようなものが見えたような気がし、困惑も忘れて思わずじっと目を凝らして見ました。
するとやはり青年の肌の上に旧い時代の難解な漢字とも取れる、どこか複雑な象形文字のようなものが書かれているのが、彼の微かな動きと共に、袖口の向こうにちらちらと見え隠れしているのでした。
不思議に気を引かれたわたしはその文字をもっとよく見てみたいと思いましたが、如何せん黒い袖の内側から文字の先端なのか末端なのかがほんのわずかに見えるだけで、はっきりとその詳細を掴むことができずにいると、突然その文字の一部が、波紋を描いて泳ぐ魚の尾鰭のように揺らいで見えた気がして、わたしはぎょっと息を呑みました。
そのとき青年がまたちらりとこちらを見たので、またしてもわたしの呼吸は止まりかけたのですが、しかし青年はすぐに母の方を向いて、やはりどこか異質に聞こえるアクセントで挨拶を続けました。
「突然のことで申し訳ありません。五十崎敬一郎様のお嬢様でしょうか」
「敬一郎は義理の父ですが……」
警戒心も露わに答えた母に、青年は丁寧に頭を下げました。
「失礼いたしました。わたしは李大龍と申します。中国の北の地域より参りました。国のさる筋の依頼を受け、日本にはその仕事のために滞在しています」
顔を上げた青年に、母はますます緊張の色を濃く表して、無言のまま見つめ返すだけでした。
そのとき突然、青年の目がゆっくりと──まるで山のいちばん清らかなところに湧いた水が柔らかな下草に滴り落ちるように、わたしの方に向けられました。青年の水宝玉を思わす瞳とぶつかった途端、全身には暗い闇を裂いて地に落ちる稲光のような衝撃が走りました。俄かに両足が大きく震え、訳もわからないまま咄嗟に母の背中に身を隠しました。
まるで全力疾走をしたときのような息苦しさに襲われ、わたしは無意識に肩で呼吸をしていました。今すぐその場から走って逃げ出したいという衝動に駆られていながら、足は冷たい廊下にぴったりと張りつけられたまま、わずかにさえ動こうとはしないのでした。
そればかりか、わたしの心は何かとてつもなく強い力で安全な隠れ家からわたし自身を引きずり出すかの如き激しい熱烈さをもって、青年の姿をもっと見ることを要求するのでした。
どくどくと脈打つ心臓の音を自分のすぐ耳の横で聞きながら、恐る恐る母の背中から顔を覗かせると、隠れていたわたしに尚視線を向けていたらしく、じっとこちらを見つめる青い瞳にたちどころにつかまってしまいました。
まるで毒草にあたって痺れを来したような手足は固く強張り、自分の意思を超えて震え続けていました。
最早母の背中に再び身を隠そうという気はすっかり根っこから刈り取られ、わたしは青年から目を逸らすことすらできないまま、その夢幻に誘い込むような青く透き通った瞳を見つめ返していました。
冬の晴天の日のきりりと身を引き締める冷たい風が、青年の背後で開けられたままになっている引き戸の向こうから静かに入って来て、気づかぬうちにちりちりと火照っていた体を撫でて通り過ぎていきました。その微かな風に乗って、何か甘い花の蜜のような、しっとりと油分を含んだ香りが鼻先をくすぐりました。
それがどうやら青年の丁寧に撫でつけられた黒い髪から漂うらしいことに気がつくと、わたしはどういう訳かその匂いの中に、秘密の打ち明け話を語る吐息のような湿り気を感じ、心はそわそわと落ち着きをなくして浮足立ってしまいました。
その拍子にやっと体を動かすことができるようになったわたしの腕を、母の手がいきなり強く掴んで引き寄せました。驚いて思わず見上げた先には、頬を赤らめて青年を見ていた先ほどまでの様子とは打って変わり、不安と怖れを滲ませた表情の母の顔がありました。
母はわたしを自分の背中の陰に隠しながら、
「……あの、どちら様でしょうか」
怪しみを明らかにした口調で母が訊ねるのを後ろで聞いていたわたしは、まだ早鐘のように打ち続ける心臓を押さえ、再びこっそりと顔を覗かせました。
青年は切れ長の目で、じっとまっすぐに母をとらえました。途端に母の狼狽する気配が、その背中から伝わってきました。
「ご挨拶もせず、失礼しました」
青年はやはり奇妙なほどくっきりと聞こえる不自然な発音でそう言うと、軽く頷くように、ひとつ頭を下げました。
青年が提げている擦り切れた黒い旅行鞄の錆びた金具が軋むような音を立て、思わずそちらに視線をやると、スーツの袖口から覗く青年の手の甲が目に入り、我知らず胸が高鳴りました。その如何にもしっとりと湿り気を帯びた滑らかそうな肌に触れてみたいという想念が無意識に浮かび上がったことに、我ながら驚いて言葉を失ってしまいました。
何か悪いことをして叱られる前のおろおろとした気分で自分のその思いがけない欲求にただひたすら戸惑っていましたが、ふと青年の黒いスーツの袖口から何か黒い文字の断片のようなものが見えたような気がし、困惑も忘れて思わずじっと目を凝らして見ました。
するとやはり青年の肌の上に旧い時代の難解な漢字とも取れる、どこか複雑な象形文字のようなものが書かれているのが、彼の微かな動きと共に、袖口の向こうにちらちらと見え隠れしているのでした。
不思議に気を引かれたわたしはその文字をもっとよく見てみたいと思いましたが、如何せん黒い袖の内側から文字の先端なのか末端なのかがほんのわずかに見えるだけで、はっきりとその詳細を掴むことができずにいると、突然その文字の一部が、波紋を描いて泳ぐ魚の尾鰭のように揺らいで見えた気がして、わたしはぎょっと息を呑みました。
そのとき青年がまたちらりとこちらを見たので、またしてもわたしの呼吸は止まりかけたのですが、しかし青年はすぐに母の方を向いて、やはりどこか異質に聞こえるアクセントで挨拶を続けました。
「突然のことで申し訳ありません。五十崎敬一郎様のお嬢様でしょうか」
「敬一郎は義理の父ですが……」
警戒心も露わに答えた母に、青年は丁寧に頭を下げました。
「失礼いたしました。わたしは李大龍と申します。中国の北の地域より参りました。国のさる筋の依頼を受け、日本にはその仕事のために滞在しています」
顔を上げた青年に、母はますます緊張の色を濃く表して、無言のまま見つめ返すだけでした。
0
あなたにおすすめの小説
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
意味がわかると怖い話
邪神 白猫
ホラー
【意味がわかると怖い話】解説付き
基本的には読めば誰でも分かるお話になっていますが、たまに激ムズが混ざっています。
※完結としますが、追加次第随時更新※
YouTubeにて、朗読始めました(*'ω'*)
お休み前や何かの作業のお供に、耳から読書はいかがですか?📕
https://youtube.com/@yuachanRio
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる