孤悲纏綿──こひてんめん

クイン舎

文字の大きさ
5 / 36
五十崎檀子の手記 

しおりを挟む
 あの日はちょうど学校の休校日でしたから、わたしは誰に憚ることなく平日の昼日中に在宅するというこどもにとっては一種の背徳的な愉悦を堪能し、のんびりと羽を伸ばしながら午後の時間を過ごしていました。
 祖父と父は仕事で出ており、祖母の茂代しげよも用事で家を空けていたので、留守を預かる母と二人、石油ストーブのあたたかく焚かれた居間で、オセロだか双六だかをして遊んでいると、不意に「ごめんください」と、やけに耳の奥にはっきりと響く声が、奇妙なアクセントのついた発音でおとないを告げるのが聞こえました。
 人見知りのわたしにとって他人の訪問を告げる声はいつも警鐘のように不快な音として認識されますものが、何故だかこのときは、その柔らかい中にも芯のある声や奇妙なアクセントが妙に気を惹いて、声の主を見てみたいという強い好奇心が湧きました。それで母のあとにくっついて、わたしも部屋を出て玄関に向かうことにしたのです。
 途端に廊下の肌を引き締めるような冷たい空気が頬に触れ、早くも声の主を確かめたいという意思を挫けさせようとしましたが、母の手編みの赤い分厚いカーディガンの前を掻き合わせ、応対に出ようと廊下を急ぐ母の後ろを一生懸命について行きました。
 薄暗い玄関に黒い人影がひっそりと佇んでいるのを見た瞬間、一瞬どきりと大きく心臓が鼓動を打って、わたしは思わず足を止めてしまいました。けれどそんなわたしに構うことなく玄関へと急ぐ母に置いて行かれまいと、わたしはすぐに我に返って慌てて母の後を小走りに追いました。
 近づいて行くにつれ、人影は黒いスーツに同じく黒のネクタイを締め、右手に古びた黒革の重そうな旅行鞄を提げた一人の青年であることがわかりました。
 わたしの郷はほんとうに小さな村でしたし、ましてや村民の多くと交流を持つ祖父や父を持っているともなると、嫌でも村に暮らす大概の人とは顔見知りになるものでした。それで通学の途中や祖父のお使いで郵便局に切手を買いに行くときなど、行く手に人影が見えたりすると、それがどんなに遠目であってもどこの誰かというのがすぐにわかるくらいでした。ですから、このとき玄関に立った人がまったく見知らぬ青年であることは、すぐにわかりました。
 青年は薄暗がりに黒いスーツ姿で佇んでいることもあって、白い顔だけが薄暗い中に浮かび上がっているように見えるのですが、その肌というのが、皮膚があまりに薄いために静脈が透けてでもいるのか、まるで青白く光るようで、どこか常人とは違う一種浮世離れのした雰囲気が辺りに滲み出しているのでした。
 それでなくても知らない人が苦手だった上、その青年の独特の空気に、わたしは漠然とした不安を覚える一方で、不思議にもいつにない期待感とも呼べる胸騒ぎが起こるのを感じ、どきどきと緊張しながら青年の立つ玄関へと近づいて行きました。
 静かに土間に佇んでいる青年の顔がはっきりと目に映り出すと、わたしは思わず息を呑んで瞠目どうもくせずにはいられませんでした。その青年が、生まれてこの方ついぞ見たことのないような、非常にきれいな目鼻立ちをしていたからでした。
 ついに青年のすぐ目の前に立ったわたしを誰か見る人があったなら、その人にはきっとわたしが呆けた表情で不躾にも青年を凝視して突っ立っている、如何にも垢抜けない田舎の子ども然として見えたことでしょう。
 とにかくそれくらい、わたしはこの青年のきれいなことに驚いたのでした。同時にわたしは男性を「きれい」だと思うその感覚自体にも驚いていました。
 それまで男の人というものは、たとえば逞しい二の腕であるとか広い背中であるとか、俗にいう男らしさの表出とされるような雄々しさなり荒々しさなりを称賛するものだとしか知り得ませんでしたが、このとき目の前に立った青年というのは確かに男性でありながら、そうしたある意味では父や父の友人たちから染みだしているような動物的な粗野さを伴う男性の匂いが一向にせず、まさに「きれい」というのがしっくりと当てはまるのでした。
 青年のあまりに美しいことに驚いたわたしは、まさか起きたまま夢でも見ているのではないだろうかと自分の頬をつねってみたいような気分になったのですが、そうする代わりに傍らに立った母の顔を見上げてみました。
 すると母の方でも頬をわずかに紅潮させて、瞬きもせずに青年を見つめているのでした。
 母のその様子に、この青年が夢でも幻でもなく現実に目の前に立っているのだということを覚ると、わたしは再びゆっくりと首を回して視線を青年に戻し、それこそ穴が開きそうなほどまじまじとその全身を見回しました。
 きちんとスーツを着込んだ青年はあがかまちから五十センチほどは低い土間に立っていましたが、それでも当時百三十センチほどの身長だったわたしとそれほど目線の高さに違いはなく、その体つきはほっそりとして若木のようなしなやかな印象を与えていました。
 黒い艶のある髪を丁寧に後ろに撫でつけた青年の白い顔の中でも特にわたしの目を引いたのは、美しい流線形を描く目でした。
 しかしその目元には、ちょうど背後から射しこむ弱い冬の陽ざしが逆光となり、木陰のようなひんやりとした影が作られていたので、わたしはもっとよく見てみたいと思い、じっと青年の目の中を覗き込みました。
 するとその瞳が透き通る水晶のような青色をしていることに気がついて、わたしの心臓は飛び出さんばかりになりました。
 ところがそのとき、青年の青い瞳以上にわたしの目を驚愕に見開かせたものがありました。
 それは青年の体のまわりにゆらゆらと揺れている、あたかもひっそりと燃える蝋燭の炎を吹き消したときに立ち昇る煙のような、或いは夏の暑いときに見える陽炎のような、奇怪なもやを思わすものでした。
 わたしは息を呑み、そのいささか異様と言わざるを得ない気配を漂わせているそれに思わず目を凝らしましたが、見れば見るほど妖気とも言うべき怪しさに満ち、不気味に蠢いているように見えて来るのでした。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...