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五十崎檀子の手記
三
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あの日はちょうど学校の休校日でしたから、わたしは誰に憚ることなく平日の昼日中に在宅するというこどもにとっては一種の背徳的な愉悦を堪能し、のんびりと羽を伸ばしながら午後の時間を過ごしていました。
祖父と父は仕事で出ており、祖母の茂代も用事で家を空けていたので、留守を預かる母と二人、石油ストーブのあたたかく焚かれた居間で、オセロだか双六だかをして遊んでいると、不意に「ごめんください」と、やけに耳の奥にはっきりと響く声が、奇妙なアクセントのついた発音でおとないを告げるのが聞こえました。
人見知りのわたしにとって他人の訪問を告げる声はいつも警鐘のように不快な音として認識されますものが、何故だかこのときは、その柔らかい中にも芯のある声や奇妙なアクセントが妙に気を惹いて、声の主を見てみたいという強い好奇心が湧きました。それで母のあとにくっついて、わたしも部屋を出て玄関に向かうことにしたのです。
途端に廊下の肌を引き締めるような冷たい空気が頬に触れ、早くも声の主を確かめたいという意思を挫けさせようとしましたが、母の手編みの赤い分厚いカーディガンの前を掻き合わせ、応対に出ようと廊下を急ぐ母の後ろを一生懸命について行きました。
薄暗い玄関に黒い人影がひっそりと佇んでいるのを見た瞬間、一瞬どきりと大きく心臓が鼓動を打って、わたしは思わず足を止めてしまいました。けれどそんなわたしに構うことなく玄関へと急ぐ母に置いて行かれまいと、わたしはすぐに我に返って慌てて母の後を小走りに追いました。
近づいて行くにつれ、人影は黒いスーツに同じく黒のネクタイを締め、右手に古びた黒革の重そうな旅行鞄を提げた一人の青年であることがわかりました。
わたしの郷はほんとうに小さな村でしたし、ましてや村民の多くと交流を持つ祖父や父を持っているともなると、嫌でも村に暮らす大概の人とは顔見知りになるものでした。それで通学の途中や祖父のお使いで郵便局に切手を買いに行くときなど、行く手に人影が見えたりすると、それがどんなに遠目であってもどこの誰かというのがすぐにわかるくらいでした。ですから、このとき玄関に立った人がまったく見知らぬ青年であることは、すぐにわかりました。
青年は薄暗がりに黒いスーツ姿で佇んでいることもあって、白い顔だけが薄暗い中に浮かび上がっているように見えるのですが、その肌というのが、皮膚があまりに薄いために静脈が透けてでもいるのか、まるで青白く光るようで、どこか常人とは違う一種浮世離れのした雰囲気が辺りに滲み出しているのでした。
それでなくても知らない人が苦手だった上、その青年の独特の空気に、わたしは漠然とした不安を覚える一方で、不思議にもいつにない期待感とも呼べる胸騒ぎが起こるのを感じ、どきどきと緊張しながら青年の立つ玄関へと近づいて行きました。
静かに土間に佇んでいる青年の顔がはっきりと目に映り出すと、わたしは思わず息を呑んで瞠目せずにはいられませんでした。その青年が、生まれてこの方ついぞ見たことのないような、非常にきれいな目鼻立ちをしていたからでした。
ついに青年のすぐ目の前に立ったわたしを誰か見る人があったなら、その人にはきっとわたしが呆けた表情で不躾にも青年を凝視して突っ立っている、如何にも垢抜けない田舎の子ども然として見えたことでしょう。
とにかくそれくらい、わたしはこの青年のきれいなことに驚いたのでした。同時にわたしは男性を「きれい」だと思うその感覚自体にも驚いていました。
それまで男の人というものは、たとえば逞しい二の腕であるとか広い背中であるとか、俗にいう男らしさの表出とされるような雄々しさなり荒々しさなりを称賛するものだとしか知り得ませんでしたが、このとき目の前に立った青年というのは確かに男性でありながら、そうしたある意味では父や父の友人たちから染みだしているような動物的な粗野さを伴う男性の匂いが一向にせず、まさに「きれい」というのがしっくりと当てはまるのでした。
青年のあまりに美しいことに驚いたわたしは、まさか起きたまま夢でも見ているのではないだろうかと自分の頬をつねってみたいような気分になったのですが、そうする代わりに傍らに立った母の顔を見上げてみました。
すると母の方でも頬をわずかに紅潮させて、瞬きもせずに青年を見つめているのでした。
母のその様子に、この青年が夢でも幻でもなく現実に目の前に立っているのだということを覚ると、わたしは再びゆっくりと首を回して視線を青年に戻し、それこそ穴が開きそうなほどまじまじとその全身を見回しました。
きちんとスーツを着込んだ青年は上り框から五十センチほどは低い土間に立っていましたが、それでも当時百三十センチほどの身長だったわたしとそれほど目線の高さに違いはなく、その体つきはほっそりとして若木のようなしなやかな印象を与えていました。
黒い艶のある髪を丁寧に後ろに撫でつけた青年の白い顔の中でも特にわたしの目を引いたのは、美しい流線形を描く目でした。
しかしその目元には、ちょうど背後から射しこむ弱い冬の陽ざしが逆光となり、木陰のようなひんやりとした影が作られていたので、わたしはもっとよく見てみたいと思い、じっと青年の目の中を覗き込みました。
するとその瞳が透き通る水晶のような青色をしていることに気がついて、わたしの心臓は飛び出さんばかりになりました。
ところがそのとき、青年の青い瞳以上にわたしの目を驚愕に見開かせたものがありました。
それは青年の体のまわりにゆらゆらと揺れている、あたかもひっそりと燃える蝋燭の炎を吹き消したときに立ち昇る煙のような、或いは夏の暑いときに見える陽炎のような、奇怪な靄を思わすものでした。
わたしは息を呑み、そのいささか異様と言わざるを得ない気配を漂わせているそれに思わず目を凝らしましたが、見れば見るほど妖気とも言うべき怪しさに満ち、不気味に蠢いているように見えて来るのでした。
祖父と父は仕事で出ており、祖母の茂代も用事で家を空けていたので、留守を預かる母と二人、石油ストーブのあたたかく焚かれた居間で、オセロだか双六だかをして遊んでいると、不意に「ごめんください」と、やけに耳の奥にはっきりと響く声が、奇妙なアクセントのついた発音でおとないを告げるのが聞こえました。
人見知りのわたしにとって他人の訪問を告げる声はいつも警鐘のように不快な音として認識されますものが、何故だかこのときは、その柔らかい中にも芯のある声や奇妙なアクセントが妙に気を惹いて、声の主を見てみたいという強い好奇心が湧きました。それで母のあとにくっついて、わたしも部屋を出て玄関に向かうことにしたのです。
途端に廊下の肌を引き締めるような冷たい空気が頬に触れ、早くも声の主を確かめたいという意思を挫けさせようとしましたが、母の手編みの赤い分厚いカーディガンの前を掻き合わせ、応対に出ようと廊下を急ぐ母の後ろを一生懸命について行きました。
薄暗い玄関に黒い人影がひっそりと佇んでいるのを見た瞬間、一瞬どきりと大きく心臓が鼓動を打って、わたしは思わず足を止めてしまいました。けれどそんなわたしに構うことなく玄関へと急ぐ母に置いて行かれまいと、わたしはすぐに我に返って慌てて母の後を小走りに追いました。
近づいて行くにつれ、人影は黒いスーツに同じく黒のネクタイを締め、右手に古びた黒革の重そうな旅行鞄を提げた一人の青年であることがわかりました。
わたしの郷はほんとうに小さな村でしたし、ましてや村民の多くと交流を持つ祖父や父を持っているともなると、嫌でも村に暮らす大概の人とは顔見知りになるものでした。それで通学の途中や祖父のお使いで郵便局に切手を買いに行くときなど、行く手に人影が見えたりすると、それがどんなに遠目であってもどこの誰かというのがすぐにわかるくらいでした。ですから、このとき玄関に立った人がまったく見知らぬ青年であることは、すぐにわかりました。
青年は薄暗がりに黒いスーツ姿で佇んでいることもあって、白い顔だけが薄暗い中に浮かび上がっているように見えるのですが、その肌というのが、皮膚があまりに薄いために静脈が透けてでもいるのか、まるで青白く光るようで、どこか常人とは違う一種浮世離れのした雰囲気が辺りに滲み出しているのでした。
それでなくても知らない人が苦手だった上、その青年の独特の空気に、わたしは漠然とした不安を覚える一方で、不思議にもいつにない期待感とも呼べる胸騒ぎが起こるのを感じ、どきどきと緊張しながら青年の立つ玄関へと近づいて行きました。
静かに土間に佇んでいる青年の顔がはっきりと目に映り出すと、わたしは思わず息を呑んで瞠目せずにはいられませんでした。その青年が、生まれてこの方ついぞ見たことのないような、非常にきれいな目鼻立ちをしていたからでした。
ついに青年のすぐ目の前に立ったわたしを誰か見る人があったなら、その人にはきっとわたしが呆けた表情で不躾にも青年を凝視して突っ立っている、如何にも垢抜けない田舎の子ども然として見えたことでしょう。
とにかくそれくらい、わたしはこの青年のきれいなことに驚いたのでした。同時にわたしは男性を「きれい」だと思うその感覚自体にも驚いていました。
それまで男の人というものは、たとえば逞しい二の腕であるとか広い背中であるとか、俗にいう男らしさの表出とされるような雄々しさなり荒々しさなりを称賛するものだとしか知り得ませんでしたが、このとき目の前に立った青年というのは確かに男性でありながら、そうしたある意味では父や父の友人たちから染みだしているような動物的な粗野さを伴う男性の匂いが一向にせず、まさに「きれい」というのがしっくりと当てはまるのでした。
青年のあまりに美しいことに驚いたわたしは、まさか起きたまま夢でも見ているのではないだろうかと自分の頬をつねってみたいような気分になったのですが、そうする代わりに傍らに立った母の顔を見上げてみました。
すると母の方でも頬をわずかに紅潮させて、瞬きもせずに青年を見つめているのでした。
母のその様子に、この青年が夢でも幻でもなく現実に目の前に立っているのだということを覚ると、わたしは再びゆっくりと首を回して視線を青年に戻し、それこそ穴が開きそうなほどまじまじとその全身を見回しました。
きちんとスーツを着込んだ青年は上り框から五十センチほどは低い土間に立っていましたが、それでも当時百三十センチほどの身長だったわたしとそれほど目線の高さに違いはなく、その体つきはほっそりとして若木のようなしなやかな印象を与えていました。
黒い艶のある髪を丁寧に後ろに撫でつけた青年の白い顔の中でも特にわたしの目を引いたのは、美しい流線形を描く目でした。
しかしその目元には、ちょうど背後から射しこむ弱い冬の陽ざしが逆光となり、木陰のようなひんやりとした影が作られていたので、わたしはもっとよく見てみたいと思い、じっと青年の目の中を覗き込みました。
するとその瞳が透き通る水晶のような青色をしていることに気がついて、わたしの心臓は飛び出さんばかりになりました。
ところがそのとき、青年の青い瞳以上にわたしの目を驚愕に見開かせたものがありました。
それは青年の体のまわりにゆらゆらと揺れている、あたかもひっそりと燃える蝋燭の炎を吹き消したときに立ち昇る煙のような、或いは夏の暑いときに見える陽炎のような、奇怪な靄を思わすものでした。
わたしは息を呑み、そのいささか異様と言わざるを得ない気配を漂わせているそれに思わず目を凝らしましたが、見れば見るほど妖気とも言うべき怪しさに満ち、不気味に蠢いているように見えて来るのでした。
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