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五十崎檀子の手記
九
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祖父は蔵を見せることを許可したものの、何か懸念でもあるのか、食卓の上に視線を彷徨わせていました。そんな祖父を気遣わしそうに見ている母の傍らで、わたしはまるで翌日に何か楽しい行事が控えているときのような、俄かに心のわくわくと浮き立つ感覚になって、思わず食卓に肘をついてしまい、祖母にきつく叱られました。けれど心に灯った興奮の火はいつまでも消えず、わたしに華やかな高揚感をもたらし続けていました。
と、母が再び不安を色濃くした目を父に向け、
「……あなた、明日はうちにいてくれる?」
「無理に決まってるだろ。明日は県から役人が来るんだよ。今年の春に県内の優良中学生を対象にした植栽見学が計画されているとかで、候補の山林を見て回ってるんだと」
父の言葉を聞いた途端、何か言おうと口を開いた母を押さえ、浮足立った様子の祖母が身を乗り出しました。
「あら、それじゃお酒の注文しとかなきゃいけないわね」
「いや、お袋。明日は町で接待をやって家には連れて来ないから、酒はいらないよ」
「あら、そう」
祖母が気抜けしたようにほっと息を吐いたのを見届けて、母がようやく口を開きました。
「蔵を見せることにいちばん乗り気なのはあなたじゃない。明日あなたが居ないんじゃどうしようもないわ」
「仕事なんだから仕方ないだろ。だいたい、お袋がいるじゃないか」
「わたしだって明日は昼から婦人会の集まりがあるわよ」
「でもお袋、婦人会の集まりは気が張るから嫌いだっていつも言ってるじゃないか。ちょうどいいから欠席したらどうだよ」
「役員を引き受けているのに欠席なんかしたら、それこそ何を言われるかわからないじゃないの。それにそんな素性の怪しい人間の相手なんかできませんよ、わたしは」
自然、一同の視線は祖父に集まりました。しかし忙しい身である祖父が、真偽のほどもわからない用件を携えた来訪者のために在宅することがあるなど、誰も思ってはいませんでした。
「……お義父さんも、無理に決まっていますよね……」
母が半ば自分に言い聞かせるような調子で呟いたところ──ほんとうに誰もが予期していなかったことでしたが──じっと食卓の上を見ていた祖父が、こう言ったのでした。
「いや、わしが応対しよう」
皆驚いて祖父を見ました。もちろん、わたしもびっくりして祖父に目を向けました。
「でも、それじゃ明日は会社は?」
目を丸く見開きながら、祖母はほとんど叫ぶような大声で尋ねました。対する祖父はいつも通りの落ち着いた口調で、
「一彦がいるのだから問題ない。それに明日来る役人さんはずいぶん若い人らしいからな。年寄りがいない方が話も進むだろう」
「でも……」
「これまでだって、もっと重要な仕事を一彦に任せたことはいくらもあるんだ。いつまでも古い人間が居座っていては後身が育たない。明日この家にそんな客があると言うならちょうどいい、わしが対応するさ。聡子さん、わしが出るから安心しなさい」
そう言われた母はほんとうに安心したようで、肩からは力が抜け、泣きそうにも見える笑顔を浮かべて頷きました。
「親父が相手をしてくれるなら一番話が早いじゃないか」
父は両手を揉み合わせながら、嬉々とした表情で頷きました。祖母は納得のいかない顔つきで最後まで不服らしい様子を示していましたが、しかしそれ以上反対もできず黙り込んでしまいました。
わたしはお茶碗に残ったご飯粒を一生懸命口に運びながら、それがなかなか飲み込めないので苦労していました。心が体からふわふわと浮いて出たようで、まるでご飯を噛んでいる気がしないのでした。来客があることを知ってこんな風に興奮するというのは、人見知りのわたしにはほとんどないことでしたから、こんなときどういう風に気持ちを落ち着けていいのかがわからず、しかしまた祖母に叱られることも嫌だったので、おとなしく食事に専念するふりをしてはいましたが、心は早くも翌日に飛んで向かうようでした。
その夜は子ども部屋で一人床に就いてからも、異様なほど神経が昂ぶってなかなか寝付かれませんでした。しかし真夜中を少し過ぎた頃、昂ぶった感覚にもようやく高い低いの波ができ、ちょうどその谷間のところでうつらうつらと眠りに入ることができました。ところがようやく浅い眠りに就いたわたしは、悪夢にうなされ始めました。それは昼間見た李大龍のあの細長い影のような体を取り巻いていた妖気がいくつもの恐ろしい化け物の姿に変わって、逃げまどうわたしをしつこく追い回すという夢でした。
わたしはとうとう大きな叫び声を上げて飛び起きました。開いた目に飛び込んで来た暗闇に、夢で見た化け物たちが蠢いているのが見え、わたしは再度大声を上げて布団に潜り込み、ぎゅっと目を閉じました。全身は汗でびっしょり濡れ、体の節々が嫌な感じに痛んでいました。わたしはその感覚を何度も経験してよく知っていたので、自分が熱を出していることに気がつきました。
廊下の遠くの方から、ばたばたと近づいて来るいくつもの足音が聞こえて来たと思った次の瞬間には、血相を変えた母に掛け布団ごと抱き起されていました。枕もとの電燈を誰かが点けたらしく、暗い冬の夜の部屋に母や祖父や祖母、父の顔が、灯籠の火のように浮かび上がって見えました。
「檀子、どうしたの!?」
母のきんきんと張り詰めたような声に問いかけられましたが、わたしはぐったりと力の入らない体で荒い呼吸を繰り返していました。額に添えられた母の冷たい手を感じると、その心地良さに無意識にほっと熱い息が漏れ出しました。
「すごい熱だわ」
母の言葉を受けて、張り詰めていた場の空気がいきなり雪崩のようにどっと緩んだのがわかりました。
「なんだ、熱か。いや、それならまぁ。飯のときにおまえが変なことを言うから、俺はてっきり誰か忍び込む奴でもあったかと思ったぜ」
父は顎をさすりながら言ってため息を吐き、緊張がほぐれた安心からか大きな欠伸をしました。多かれ少なかれ皆同じように思っていたらしく、不安と安堵の入り混じったため息が、深夜のこども部屋に響きました。
と、母が再び不安を色濃くした目を父に向け、
「……あなた、明日はうちにいてくれる?」
「無理に決まってるだろ。明日は県から役人が来るんだよ。今年の春に県内の優良中学生を対象にした植栽見学が計画されているとかで、候補の山林を見て回ってるんだと」
父の言葉を聞いた途端、何か言おうと口を開いた母を押さえ、浮足立った様子の祖母が身を乗り出しました。
「あら、それじゃお酒の注文しとかなきゃいけないわね」
「いや、お袋。明日は町で接待をやって家には連れて来ないから、酒はいらないよ」
「あら、そう」
祖母が気抜けしたようにほっと息を吐いたのを見届けて、母がようやく口を開きました。
「蔵を見せることにいちばん乗り気なのはあなたじゃない。明日あなたが居ないんじゃどうしようもないわ」
「仕事なんだから仕方ないだろ。だいたい、お袋がいるじゃないか」
「わたしだって明日は昼から婦人会の集まりがあるわよ」
「でもお袋、婦人会の集まりは気が張るから嫌いだっていつも言ってるじゃないか。ちょうどいいから欠席したらどうだよ」
「役員を引き受けているのに欠席なんかしたら、それこそ何を言われるかわからないじゃないの。それにそんな素性の怪しい人間の相手なんかできませんよ、わたしは」
自然、一同の視線は祖父に集まりました。しかし忙しい身である祖父が、真偽のほどもわからない用件を携えた来訪者のために在宅することがあるなど、誰も思ってはいませんでした。
「……お義父さんも、無理に決まっていますよね……」
母が半ば自分に言い聞かせるような調子で呟いたところ──ほんとうに誰もが予期していなかったことでしたが──じっと食卓の上を見ていた祖父が、こう言ったのでした。
「いや、わしが応対しよう」
皆驚いて祖父を見ました。もちろん、わたしもびっくりして祖父に目を向けました。
「でも、それじゃ明日は会社は?」
目を丸く見開きながら、祖母はほとんど叫ぶような大声で尋ねました。対する祖父はいつも通りの落ち着いた口調で、
「一彦がいるのだから問題ない。それに明日来る役人さんはずいぶん若い人らしいからな。年寄りがいない方が話も進むだろう」
「でも……」
「これまでだって、もっと重要な仕事を一彦に任せたことはいくらもあるんだ。いつまでも古い人間が居座っていては後身が育たない。明日この家にそんな客があると言うならちょうどいい、わしが対応するさ。聡子さん、わしが出るから安心しなさい」
そう言われた母はほんとうに安心したようで、肩からは力が抜け、泣きそうにも見える笑顔を浮かべて頷きました。
「親父が相手をしてくれるなら一番話が早いじゃないか」
父は両手を揉み合わせながら、嬉々とした表情で頷きました。祖母は納得のいかない顔つきで最後まで不服らしい様子を示していましたが、しかしそれ以上反対もできず黙り込んでしまいました。
わたしはお茶碗に残ったご飯粒を一生懸命口に運びながら、それがなかなか飲み込めないので苦労していました。心が体からふわふわと浮いて出たようで、まるでご飯を噛んでいる気がしないのでした。来客があることを知ってこんな風に興奮するというのは、人見知りのわたしにはほとんどないことでしたから、こんなときどういう風に気持ちを落ち着けていいのかがわからず、しかしまた祖母に叱られることも嫌だったので、おとなしく食事に専念するふりをしてはいましたが、心は早くも翌日に飛んで向かうようでした。
その夜は子ども部屋で一人床に就いてからも、異様なほど神経が昂ぶってなかなか寝付かれませんでした。しかし真夜中を少し過ぎた頃、昂ぶった感覚にもようやく高い低いの波ができ、ちょうどその谷間のところでうつらうつらと眠りに入ることができました。ところがようやく浅い眠りに就いたわたしは、悪夢にうなされ始めました。それは昼間見た李大龍のあの細長い影のような体を取り巻いていた妖気がいくつもの恐ろしい化け物の姿に変わって、逃げまどうわたしをしつこく追い回すという夢でした。
わたしはとうとう大きな叫び声を上げて飛び起きました。開いた目に飛び込んで来た暗闇に、夢で見た化け物たちが蠢いているのが見え、わたしは再度大声を上げて布団に潜り込み、ぎゅっと目を閉じました。全身は汗でびっしょり濡れ、体の節々が嫌な感じに痛んでいました。わたしはその感覚を何度も経験してよく知っていたので、自分が熱を出していることに気がつきました。
廊下の遠くの方から、ばたばたと近づいて来るいくつもの足音が聞こえて来たと思った次の瞬間には、血相を変えた母に掛け布団ごと抱き起されていました。枕もとの電燈を誰かが点けたらしく、暗い冬の夜の部屋に母や祖父や祖母、父の顔が、灯籠の火のように浮かび上がって見えました。
「檀子、どうしたの!?」
母のきんきんと張り詰めたような声に問いかけられましたが、わたしはぐったりと力の入らない体で荒い呼吸を繰り返していました。額に添えられた母の冷たい手を感じると、その心地良さに無意識にほっと熱い息が漏れ出しました。
「すごい熱だわ」
母の言葉を受けて、張り詰めていた場の空気がいきなり雪崩のようにどっと緩んだのがわかりました。
「なんだ、熱か。いや、それならまぁ。飯のときにおまえが変なことを言うから、俺はてっきり誰か忍び込む奴でもあったかと思ったぜ」
父は顎をさすりながら言ってため息を吐き、緊張がほぐれた安心からか大きな欠伸をしました。多かれ少なかれ皆同じように思っていたらしく、不安と安堵の入り混じったため息が、深夜のこども部屋に響きました。
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