10 / 36
五十崎檀子の手記
八
しおりを挟む
どこか白けたような、一方では張り詰めたような沈黙が続く食卓で、ついに我慢の限界が来たわたしの口は我知らず勝手に開いていました。
「あの人、手に何か書いてた」
衝動的に出た言葉がそんな中身の薄いものだったことに、自分で自分に腹が立つと同時に涙が出そうになりました。きっと軽くあしらわれて終わるだろうと思っていたわたしは、しかし大人たちが俄かに緊張感の高まった様子で一斉に振り向いたことで、予期せず座の中心に引っ張り出されたような驚きに見舞われました。わけても祖父がいち早く顔を上げ、驚愕の表情を隠しもせずにわたしの顔を見つめたことで、身の内に奇妙な興奮が高まって来るのまで味わっていました。
わたしの発言が大人の関心を引くに十分な重要性を持っていたということを意識すると同時に、もしかするとわたしだけが李大龍に関する重大な秘密を知っているのかもしれないという一種恍惚として勝ち誇るような感情が、一時にわたしの体に激流となって押し寄せていました。
「何かって?」
普段あまりわたしの話に耳を貸すことの少ない父に尋ねられ、わたしは全身に熱い血の流れが怒涛の如く広がっていくのを感じながら、
「字。服の下に隠れてたし、難しい漢字だったから読めなかったけど、手にたくさん書いてあるのが見えた」
実際には袖口からちらりと文字の一部が見えていただけだったのですが、わたしは無意識にそう口走ってしまいました。しかし半ばはそれが事実であるような気もしていました。何故かそのとき、わたしは李大龍の服の下にはたくさんの文字が棲んでいると思ったのです。
けれど一瞬だけ垣間見えたその字の一部が、魚のように李大龍の肌の上で踊ったということは言わずにおきました。見間違いかもしれないと思ったからと言うよりは、それを口にしないほうが賢明だろうと思ってのことでした。
大人たちは凍りついたように沈黙していましたが、祖父が再び食卓に目を落とし、ぎこちない様子ではありましたが黙々と食事の続きを始めると、祖母は大きく息を吸い込んで、嫌悪感も露わな低い声で言いました。
「まさか、やくざ者じゃないでしょうね。そんな連中に出入りされて変な噂がたったら困りますよ」
それを聞くと父は少しばかり引きつった笑いを浮かべ、
「入れ墨をしていたからって、すぐにそうと決まる訳じゃないさ。伝統的な風習で入れ墨をしているのかもしれないし。中国にはいくつも少数民族があるから、もしかしたらそういう風習を持つ部族があって、その男はそうしたところの出なのかもしれないだろ」
「また明日来るって言ってたけど、どうしたらいいの」
母は握り締めた箸の先を小刻みに震わせながら父を見ました。
「そりゃあ……」
父はちらりと祖父に視線を向けました。
「親父、見せるくらいはいいよな」
父の言葉につられ、皆の視線が一斉に集まる中、祖父は静かに啜っていた汁椀を置きました。
一同が固唾を飲んで答えを待っていると、祖父は母の方に目を向けて、
「聡子さん、あんたも檀子の言うその漢字を見たのかね」
母はわたしの方に目を向け、思い出すような顔つきになりながら、
「どうでしょう……。もしかしたらお金を見せられたときに、ちらっと見えたような気もしますけど、はっきりとは……」
「うん、そうか……。それでその男は李大龍と名乗ったんだったな? そして目は青かった……」
「ええ、それは両方とも間違いありません。……とにかく、いきなりあんな大金を見せられて驚いてしまって……」
母の返事に、祖母は大仰なため息を吐きました。
「これだから一人娘で育った者はねぇ。ぼんやりしていては困るわよ。それで檀子が心配だなんて言って、母親ならもっと目端を利かせなくてどうするの」
祖母に睨まれた母は首をすくめて俯きました。
「すみません……」
「お袋、今そんな話をしたって仕方ないだろ。とにかく、明日どうするかだ。べつに家の中を見たいと言ってきたわけじゃない。檀子が心配なら、そいつが蔵を見ている間、檀子を絶対に近づけないようにしておけばいい話だ。ともかく、俺は蔵を見せるくらい構わないと思うんだがな。なぁ、親父。見せてやるぐらい問題ないよな?」
祖父は黙ったまま、思案しているようでした。父はそんな祖父に畳みかけるように、
「蔵なんて体裁のいいことを言ってるが、もう何年も入口を開けたことすらないがらくた置き場じゃないか。そいつの目的が何であれ、うちの蔵にそんな御大層なものがあるとも思えないし、こっちに被害が及ぶような話じゃないだろ。それにもしその男の話が事実だったとしたら、協力してやらないのはそれこそまずいんじゃないか。万一うちの蔵にそれらしいものがあってみろよ、それこそ後々国際問題にならないとも限らないじゃないか。とにかく一度見せてやれば、向こうも納得するだろ。なぁ、親父?」
「……うん、そうだな」
祖父は低い声で呟きました。途端に父は明るい笑顔になって、
「よし、決まりだな」
勢いよくビールのコップを煽り、満足そうに頷きました。祖母は何か言いたそうにしていましたが、祖父の決めたことですから、結局は何も言わずに湯のみのお茶を啜っていました。
「あの人、手に何か書いてた」
衝動的に出た言葉がそんな中身の薄いものだったことに、自分で自分に腹が立つと同時に涙が出そうになりました。きっと軽くあしらわれて終わるだろうと思っていたわたしは、しかし大人たちが俄かに緊張感の高まった様子で一斉に振り向いたことで、予期せず座の中心に引っ張り出されたような驚きに見舞われました。わけても祖父がいち早く顔を上げ、驚愕の表情を隠しもせずにわたしの顔を見つめたことで、身の内に奇妙な興奮が高まって来るのまで味わっていました。
わたしの発言が大人の関心を引くに十分な重要性を持っていたということを意識すると同時に、もしかするとわたしだけが李大龍に関する重大な秘密を知っているのかもしれないという一種恍惚として勝ち誇るような感情が、一時にわたしの体に激流となって押し寄せていました。
「何かって?」
普段あまりわたしの話に耳を貸すことの少ない父に尋ねられ、わたしは全身に熱い血の流れが怒涛の如く広がっていくのを感じながら、
「字。服の下に隠れてたし、難しい漢字だったから読めなかったけど、手にたくさん書いてあるのが見えた」
実際には袖口からちらりと文字の一部が見えていただけだったのですが、わたしは無意識にそう口走ってしまいました。しかし半ばはそれが事実であるような気もしていました。何故かそのとき、わたしは李大龍の服の下にはたくさんの文字が棲んでいると思ったのです。
けれど一瞬だけ垣間見えたその字の一部が、魚のように李大龍の肌の上で踊ったということは言わずにおきました。見間違いかもしれないと思ったからと言うよりは、それを口にしないほうが賢明だろうと思ってのことでした。
大人たちは凍りついたように沈黙していましたが、祖父が再び食卓に目を落とし、ぎこちない様子ではありましたが黙々と食事の続きを始めると、祖母は大きく息を吸い込んで、嫌悪感も露わな低い声で言いました。
「まさか、やくざ者じゃないでしょうね。そんな連中に出入りされて変な噂がたったら困りますよ」
それを聞くと父は少しばかり引きつった笑いを浮かべ、
「入れ墨をしていたからって、すぐにそうと決まる訳じゃないさ。伝統的な風習で入れ墨をしているのかもしれないし。中国にはいくつも少数民族があるから、もしかしたらそういう風習を持つ部族があって、その男はそうしたところの出なのかもしれないだろ」
「また明日来るって言ってたけど、どうしたらいいの」
母は握り締めた箸の先を小刻みに震わせながら父を見ました。
「そりゃあ……」
父はちらりと祖父に視線を向けました。
「親父、見せるくらいはいいよな」
父の言葉につられ、皆の視線が一斉に集まる中、祖父は静かに啜っていた汁椀を置きました。
一同が固唾を飲んで答えを待っていると、祖父は母の方に目を向けて、
「聡子さん、あんたも檀子の言うその漢字を見たのかね」
母はわたしの方に目を向け、思い出すような顔つきになりながら、
「どうでしょう……。もしかしたらお金を見せられたときに、ちらっと見えたような気もしますけど、はっきりとは……」
「うん、そうか……。それでその男は李大龍と名乗ったんだったな? そして目は青かった……」
「ええ、それは両方とも間違いありません。……とにかく、いきなりあんな大金を見せられて驚いてしまって……」
母の返事に、祖母は大仰なため息を吐きました。
「これだから一人娘で育った者はねぇ。ぼんやりしていては困るわよ。それで檀子が心配だなんて言って、母親ならもっと目端を利かせなくてどうするの」
祖母に睨まれた母は首をすくめて俯きました。
「すみません……」
「お袋、今そんな話をしたって仕方ないだろ。とにかく、明日どうするかだ。べつに家の中を見たいと言ってきたわけじゃない。檀子が心配なら、そいつが蔵を見ている間、檀子を絶対に近づけないようにしておけばいい話だ。ともかく、俺は蔵を見せるくらい構わないと思うんだがな。なぁ、親父。見せてやるぐらい問題ないよな?」
祖父は黙ったまま、思案しているようでした。父はそんな祖父に畳みかけるように、
「蔵なんて体裁のいいことを言ってるが、もう何年も入口を開けたことすらないがらくた置き場じゃないか。そいつの目的が何であれ、うちの蔵にそんな御大層なものがあるとも思えないし、こっちに被害が及ぶような話じゃないだろ。それにもしその男の話が事実だったとしたら、協力してやらないのはそれこそまずいんじゃないか。万一うちの蔵にそれらしいものがあってみろよ、それこそ後々国際問題にならないとも限らないじゃないか。とにかく一度見せてやれば、向こうも納得するだろ。なぁ、親父?」
「……うん、そうだな」
祖父は低い声で呟きました。途端に父は明るい笑顔になって、
「よし、決まりだな」
勢いよくビールのコップを煽り、満足そうに頷きました。祖母は何か言いたそうにしていましたが、祖父の決めたことですから、結局は何も言わずに湯のみのお茶を啜っていました。
0
あなたにおすすめの小説
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
意味がわかると怖い話
邪神 白猫
ホラー
【意味がわかると怖い話】解説付き
基本的には読めば誰でも分かるお話になっていますが、たまに激ムズが混ざっています。
※完結としますが、追加次第随時更新※
YouTubeにて、朗読始めました(*'ω'*)
お休み前や何かの作業のお供に、耳から読書はいかがですか?📕
https://youtube.com/@yuachanRio
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる