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五十崎檀子の手記
十一
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「……聡子さん、あれのこと、堪忍してやってくれんか」
「……お義母さんのことなら、わたし気にしてませんから……」
一瞬、こども部屋に重い空気が流れました。わたしは無意識に思わず耳を澄まして二人の話に聞き耳を立てました。
「……わしは聡子さんのような人に、こんな辺鄙な山奥のうちなんぞに嫁に来てもらったこと、感謝してるんだよ。外の人間をあまり良く思わない村の連中もあんたのことは好いて、美人で賢い嫁をもらった一彦は果報者だと言うほどでな」
「そんな、お義父さんが良くしてくださるから……」
「いいや、あんたの人柄だよ」
祖父は小さく咳ばらいして、話を続けました。
「先代の頃、あれがうちで下働きをしていたことは知っているだろう? あれのうちでは早くに母親を亡くしてな、父親とまだ小さい弟や妹たちと粗末なあばら屋で暮らしていたんだが、その父親というのが博打打ちでな。見かねたわしの親父があれを雇ったんだ。よく働いて、自分はほとんど学校には行かなかったが、弟や妹には通わせてやってな。わしはそんなあいつの姿にほだされて、一緒になろうと決めたんだ」
「お義母さんがご苦労されたことはなんとなく聞いてはいましたが……」
「うん……。ちょうどその頃にな、あれの弟と妹が病気にかかってしまったんだ。今はこの村にも週一回は町から医者が来てくれるが、あのときはまだそんなこともなくてな。あれがあんまり必死に看病するものだから、可哀そうに思った親父が町から何度か医者を呼んでやって、あれもずいぶん熱心に看病したんだが、原因も分からないまま二人とも死んでしまった」
「……それはお義母、さぞお辛かったでしょうね……」
「ずいぶん気落ちしていたな。その後、父親もあれを残して村を出て、それから後のことはわからんままだ。突然天涯孤独の身の上になったんで、しばらくはあれも泣き暮らしていたな。だがそんなあれに、これで邪魔者が片付いて五十崎に嫁ぎやすくなった、なんてずいぶんなことを言う者もいてな。ひどいのになると、あれが弟と妹を殺したんじゃないかと流言するような者までいた」
「……ひどい話ですね……」
「うん、ひどい話だ。だが当時はあれがそんなやっかみを受けるほど家にも勢いがあったし、そういう時代でもあったんだな。あれに同情していたお袋も結婚となると話が違うと言って、それでなくても憔悴しているあれにずいぶんきつく当たったもんだ。それでわしはあれを連れて町に出ることにしたんだ。わしも若かったし、駆け落ちの真似事みたいなもんだったが、なんとかあれを守ってやりたくてな」
「……」
「若気の至りだったんだろうなぁ。もっと他に方法はあったろうに、衝動的に行動してしまった。町で二人だけで何もかも一から始めようと意気込んで……」
わたしは初めて聞く祖父と祖母の物語に耳を澄ましながら、知らず胸をときめかせていました。わたしにとっては祖父と祖母は物心ついたときから今の祖父母でありましたから、かつては母や父のように若い頃があったのだと想像するのは不思議な気分がするのでした。
「……しかし、わしは五十崎の跡取りだったからな。お袋にしても一人息子が可愛かったんだろう、三月もしないうちに折れて来てな。結局あれと二人、村に帰って来たんだ。……今思えば、もしあのとき村に帰っていなければ、もっと違う人生があったかもしれないと……あれももっと幸せだったんじゃないかと、今も時々考えるんだよ。……だが、どうか帰って来てくれと頭を下げたお袋の涙は堪えた……」
普段、自分のことをほとんど話すことのない祖父が、まるでしとしとと降る五月雨のように母に語って聞かせる昔話に、わたしは引き込まれるように耳を傾けていました。
「一彦も、あれは不肖の息子だ。あんたは教師と言う立派な仕事を辞めてまでうちに嫁に来てくれた。それなのに、あいつはあんたの覚悟も気持ちも、まったくわかっとらんとしか思えん。我が息子ながら情けない。ほんとうにすまない、聡子さん」
「お義父さん……」
母の声は泣くのを堪えているかのように震えていました。
「……お義父さん……わたし、このうちに嫁いで来て、ほんとうによかったと思っているんです。教師の仕事は確かにやりがいもあって好きでしたけど、幼いうちに両親を亡くしたわたしもまたお義母さんと同じ天涯孤独の身の上でした。そんなわたしには、家族というものを持てた今がほんとうに幸せなんです。……わたし、お義母さんは不器用なだけで、家族を心から大切に思って、守りたい一心でいっぱいなんだと思います。それは当然のことですし、わたしにはその気持ちがよくわかる……。一彦さんは……」
母はそこで少し口ごもった後、慎重に言葉を選んでいるような調子で、
「……初めて一彦さんに会ったとき、一彦さんがお義父さんのことを自慢するみたいに話すのを聞いて、とても驚いたんです。それまでそんな風に自分の父親の話をする男の人なんて周りにはいませんでしたから、この人はきっととても愛されて育って、そしてこの人の父親である男性はほんとうに立派な方なんだろうと思って、それがとても印象に残りました。わたしも一彦さんのように愛を受けて生きられたらどんなに違った人生があっただろうって、心の底から羨ましく思いました。……初めてお義父さんにお目にかかったとき、お義父さんが自分が想像していた通りの立派な方だったことで、わたしは一彦さんと結婚する決断がついたんです……」
母が小さく鼻を啜った音が聞こえました。母のそんな心情というのも、わたしには初めて聞くことでした。両親や祖父母がそろい、家族の愛情を一身に受けている今の自分というものが、ほんとうに有難い立場にあるのだと言うことを痛感せずにはいられませんでした。
「……お義母さんのことなら、わたし気にしてませんから……」
一瞬、こども部屋に重い空気が流れました。わたしは無意識に思わず耳を澄まして二人の話に聞き耳を立てました。
「……わしは聡子さんのような人に、こんな辺鄙な山奥のうちなんぞに嫁に来てもらったこと、感謝してるんだよ。外の人間をあまり良く思わない村の連中もあんたのことは好いて、美人で賢い嫁をもらった一彦は果報者だと言うほどでな」
「そんな、お義父さんが良くしてくださるから……」
「いいや、あんたの人柄だよ」
祖父は小さく咳ばらいして、話を続けました。
「先代の頃、あれがうちで下働きをしていたことは知っているだろう? あれのうちでは早くに母親を亡くしてな、父親とまだ小さい弟や妹たちと粗末なあばら屋で暮らしていたんだが、その父親というのが博打打ちでな。見かねたわしの親父があれを雇ったんだ。よく働いて、自分はほとんど学校には行かなかったが、弟や妹には通わせてやってな。わしはそんなあいつの姿にほだされて、一緒になろうと決めたんだ」
「お義母さんがご苦労されたことはなんとなく聞いてはいましたが……」
「うん……。ちょうどその頃にな、あれの弟と妹が病気にかかってしまったんだ。今はこの村にも週一回は町から医者が来てくれるが、あのときはまだそんなこともなくてな。あれがあんまり必死に看病するものだから、可哀そうに思った親父が町から何度か医者を呼んでやって、あれもずいぶん熱心に看病したんだが、原因も分からないまま二人とも死んでしまった」
「……それはお義母、さぞお辛かったでしょうね……」
「ずいぶん気落ちしていたな。その後、父親もあれを残して村を出て、それから後のことはわからんままだ。突然天涯孤独の身の上になったんで、しばらくはあれも泣き暮らしていたな。だがそんなあれに、これで邪魔者が片付いて五十崎に嫁ぎやすくなった、なんてずいぶんなことを言う者もいてな。ひどいのになると、あれが弟と妹を殺したんじゃないかと流言するような者までいた」
「……ひどい話ですね……」
「うん、ひどい話だ。だが当時はあれがそんなやっかみを受けるほど家にも勢いがあったし、そういう時代でもあったんだな。あれに同情していたお袋も結婚となると話が違うと言って、それでなくても憔悴しているあれにずいぶんきつく当たったもんだ。それでわしはあれを連れて町に出ることにしたんだ。わしも若かったし、駆け落ちの真似事みたいなもんだったが、なんとかあれを守ってやりたくてな」
「……」
「若気の至りだったんだろうなぁ。もっと他に方法はあったろうに、衝動的に行動してしまった。町で二人だけで何もかも一から始めようと意気込んで……」
わたしは初めて聞く祖父と祖母の物語に耳を澄ましながら、知らず胸をときめかせていました。わたしにとっては祖父と祖母は物心ついたときから今の祖父母でありましたから、かつては母や父のように若い頃があったのだと想像するのは不思議な気分がするのでした。
「……しかし、わしは五十崎の跡取りだったからな。お袋にしても一人息子が可愛かったんだろう、三月もしないうちに折れて来てな。結局あれと二人、村に帰って来たんだ。……今思えば、もしあのとき村に帰っていなければ、もっと違う人生があったかもしれないと……あれももっと幸せだったんじゃないかと、今も時々考えるんだよ。……だが、どうか帰って来てくれと頭を下げたお袋の涙は堪えた……」
普段、自分のことをほとんど話すことのない祖父が、まるでしとしとと降る五月雨のように母に語って聞かせる昔話に、わたしは引き込まれるように耳を傾けていました。
「一彦も、あれは不肖の息子だ。あんたは教師と言う立派な仕事を辞めてまでうちに嫁に来てくれた。それなのに、あいつはあんたの覚悟も気持ちも、まったくわかっとらんとしか思えん。我が息子ながら情けない。ほんとうにすまない、聡子さん」
「お義父さん……」
母の声は泣くのを堪えているかのように震えていました。
「……お義父さん……わたし、このうちに嫁いで来て、ほんとうによかったと思っているんです。教師の仕事は確かにやりがいもあって好きでしたけど、幼いうちに両親を亡くしたわたしもまたお義母さんと同じ天涯孤独の身の上でした。そんなわたしには、家族というものを持てた今がほんとうに幸せなんです。……わたし、お義母さんは不器用なだけで、家族を心から大切に思って、守りたい一心でいっぱいなんだと思います。それは当然のことですし、わたしにはその気持ちがよくわかる……。一彦さんは……」
母はそこで少し口ごもった後、慎重に言葉を選んでいるような調子で、
「……初めて一彦さんに会ったとき、一彦さんがお義父さんのことを自慢するみたいに話すのを聞いて、とても驚いたんです。それまでそんな風に自分の父親の話をする男の人なんて周りにはいませんでしたから、この人はきっととても愛されて育って、そしてこの人の父親である男性はほんとうに立派な方なんだろうと思って、それがとても印象に残りました。わたしも一彦さんのように愛を受けて生きられたらどんなに違った人生があっただろうって、心の底から羨ましく思いました。……初めてお義父さんにお目にかかったとき、お義父さんが自分が想像していた通りの立派な方だったことで、わたしは一彦さんと結婚する決断がついたんです……」
母が小さく鼻を啜った音が聞こえました。母のそんな心情というのも、わたしには初めて聞くことでした。両親や祖父母がそろい、家族の愛情を一身に受けている今の自分というものが、ほんとうに有難い立場にあるのだと言うことを痛感せずにはいられませんでした。
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