孤悲纏綿──こひてんめん

クイン舎

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五十崎檀子の手記 

十二

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 するとそのとき黙って話を聴いていた祖父が、いきなりぽんと片膝を叩いて言いました。
「よし、わかった。わしは今まであんたをうちの大事な嫁だと思ってきたが、今日からわしはあんたを自分のほんとうの、血を分けた娘だと思おう。ああそうだとも、あんたはわしの娘なんだ」
「……お義父さん……?」
「うん、だが待てよ。そうなると、一彦とは兄妹で結婚したことになるか。そいつはちょっとまずいな」
 驚いて息を呑んでいる気配だった母が堪えきれないように吹き出すと、祖父もまたあたたかいその体温のままの微笑みで部屋の空気を緩めるようでした。
「……とにかく、聡子さんは大事な家族の一員だと、わしはずっと思っているよ」
「……はい」
 母が涙を拭ったらしい気配が伝わって、わたしも心にほんのりと温もりが灯るようでした。と、不意に母の雰囲気が緊張に引き締まり、
「……あの、お義父さん、ほんとうに大丈夫でしょうか……明日の、その、お客様ですが……。お義母さんの言った通り、さる筋だなんて言って、依頼主を曖昧に濁すのはおかしくありませんか……?」
 わたしの心臓は俄かに鼓動を速め、つないだ手を通して祖父にまで伝わってしまうのではないかと心配になりました。
「うん……だがまあ、守秘義務というやつもあるだろうしな。その青年の言っていることが……わしはたぶんある程度は真実なんだろうと思っているんだが、とにかくその仕事の依頼主というのが国の関係者なのか個人なのかはわからんが、いずれにしても名前を出すことが憚られるというのは理解ができる」
「……確かにそうでしょうが、話が話なだけに、後々ほんとうに国際問題になるようなことはないかと……」
「……いや、きっとそんなことにはならないだろう」
 やけに固い、確信をほのめかすような声で言った後、祖父は俄かに緊張をはらんだ場の空気を鷹揚に和ませようと試みる口調で、
「いやまあ、聡子さんの話を聞く分ではその青年はかなり日本語が達者なようじゃないか。とすると、その青年は確かに中国の出身者なのかもしれないが、日本に暮らして長いのかもしれん。そう考えてみると依頼主というのは、何も中国の政府とばかり決まったわけではないかもしれん。日本に暮らす華僑かきょうかもしれないし、もっと言うなら、実はそもそも日本の依頼だという可能性だってあるかもしれん。なんにせよ、聡子さんがそんなに心配することはないよ」
「……はい」
「それじゃ、わしもそろそろ眠るとしようかな」
「あ、はい。すみませんお義父さん、なんだか引き留めてしまって……」
「いや、かまわんよ。いい話ができた」
 祖父は寝ているふりを続けているわたしの手をそっと注意深く布団の中に入れ、頭をやさしく撫でると、母にはねぎらいの言葉をかけて部屋を出て行きました。
 急にしんと静まり返った部屋の空気に、わたしは母まで出て行ってしまったのかと思い、薄目を開いて見てみました。すると、薄暗いこども部屋の中、枕もとにぼんやりと灯る橙色の明かりに照らされて、母の顔が浮かんでいるのが見えました。
 わたしはそのとき初めて、母という人が、なんと美しい女性であるかということに気づかされ、驚かされました。
 それまでも、わたしは学校の級友たちや村の老人などが母のことを指して美人だと言うのをよく聞いていましたから、母という人が他人から見たときに美しいという称賛を与えられるに値する女性だと言うことはなんとなく理解して、それがまた密かに自慢なのでもありましたが、しかしあくまで母は母であり、一人の女性であるという認識をもって見るというようなことはこれまで一度もありませんでした。
 けれどこのとき、障子を隔てた廊下のその奥に頼りなく彷徨う視線を漂わせながら、こごったため息を吐いているような、そんなひっそりとした母の横顔が白熱灯の明かりに照らされて障子に果敢はかなく滲む影を作っているのを見た瞬間、わたしはそこに母ではない一人の見知らぬ女性が端座していると思うと同時に、ぼんやりと物思いに沈むような母のその美しさが、わたしの内側に眠る未知の意識を強く揺さぶり起こすような衝撃に、我知らず胸が震えるのを感じました。
 しかし次の瞬間わたしの胸はまた、木の葉が突然の突風に巻き上げられて騒がしく駆け巡るように、得体の知れない不安で煽り立てられるような気持ちに襲われました。わたしはまだ祖父の温もりの残る手を出して布団の端を思わずぎゅっと握りしめ、
「……お母さん……」
 呼びかけたわたしの声は小さくかすれ、今にも冷たい空気の中に消え入りそうでしたが、母は思いがけず大声で呼び止められた人のように肩を揺すって振り向きました。
「檀子、起きてたの」
 狼狽が奥底おうていに揺れるような、どこかそわそわした不安げな声で訊ねられ、
「うん、今目が覚めた……」
 咄嗟にそう返事をしました。すると眠っているふりをして祖父と母の会話に聞き耳を立てていたことへの罪悪感がふつふつと湧いてきました。
 母は唇を噛んで瞳を潤ませているわたしの様子を見ると、ひどく具合が悪いものと思ったらしく、俄かに眉を心配に曇らせて、
「大丈夫? 熱が上がっているのかしら」
 頬にひんやりと冷え切った母の指が触れました。
「あら、少し下がってるみたいね」
 そう言った母の声には安堵の響きがあり、その顔はもうよく見知った母のそれに戻っていました。
 母はわたしの額の手ぬぐいを取って、再び桶の中に潜らせました。水の中に手ぬぐいを泳がせて絞る母の指先はいかにも冷たそうで、その凍えた手を伝って滴る水滴が桶に張った水の表面を打って、部屋の闇に吸い込まれていくのを聞いていると、涙があふれてこぼれそうになりました。
 手ぬぐいを再びわたしの額に乗せながら、
「どう、少しは楽になっている?」
「……うん、ちょっと楽になってる、かな……」
「そう、よかった。ほかにどこか具合の悪いところはない? お腹は?」
「ううん、平気。痛くない……」
「それならひとまずは安心ね。……昼間来た人のことでわたし達がずっと騒がしくしていたものだから、少し神経が高ぶっていたのかもしれないわね。あなたは赤ちゃんの頃から、ちょっとかんの強いところがあったから。でもまぁ、これならほんとうにすぐに良くなるわよ」
 母はそう言って微笑むと、立ち上がって部屋の押し入れを開けました。わたしが病気になった時のために、そこにはいつも母の布団が仕舞われてあるのでした。
 出してきた組布団をわたしの寝床の隣に敷いて横になった母が、わたしの方に体を向けて、まるで幼い子にするように布団の胸元をやさしくぽんぽんと叩きはじめると、わたしは心の底からほっと溶け出すような気分になりました。母が赤ん坊のようにわたしをあやすその心地よいリズムに誘われて、わたしは再びうつらうつらと瞼を閉じていき、深い眠りに就きました。それから翌朝まで、わたしは夢も見ずにぐっすりと眠ったのでした。


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