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其の十八 毒舌王子の隠れ家(20)
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微かに物憂さの影がちらつく横顔を暫くの間、僕は黙って見詰めていた。けれど、次第に延々と続くかに思える無言が心配になって来た。不機嫌ゆえの緘黙という訳ではなさそうだったが、僕の言った事が冬月を何か愉快ならざる気分にさせている事は間違いないだろう。僕は汗ばみ始めた指先でそろそろと眼鏡を上げ、
「……あの、冬月……」
返事の代わりに琥珀色の視線だけを投げて寄越し、面倒臭そうな瞬きをする冬月をドキドキと窺い、
「その……、僕などが立ち入った事を言って、気を悪くしたのなら、すまない……」
冬月は無言のまま、じっと横目に僕を見ていたが、ほどなく正面に顔を向け直すと、やおら徳利の首を掴んで突き出した。
「え……っ!? あ、あの……ちょっと待ってくれ……」
押し付けるように差し出された徳利を断る訳にもいかず、僕はなみなみ残っていた猪口の中身を何とか咽喉の奥に流し込み、新たな酒を受けた。
透明な液體が光を反射する様子を見ていると、再び酔いの熱がこもり始めた頭の中に、きらびやかな帝都ホテルの貴賓喫茶室で秋の日射しに照り映えていた澪子さんの麗姿が、靄の向こうからユラユラと立ち現れて来るように想起された。
「……なぁ、冬月……」
言い掛けて、ひっく、と吃逆が出た拍子に、卓の上にほんの少し、酒を零してしまった。無意識にシャツの袖で拭いながら、そこに集った淑女たちの誰よりも優雅で、気品あふれる美貌を華やかな微笑と共に香らせていた澪子さんを思い浮かべつつ、
「僕には、君があんなにも素敵な女性の何が気に入らないのか、どうしても理解できないんだ」
冬月は僕の濡れた袖口を少しの間黙って見ていたが、軈て片頬を歪めて視線を上げ、
「すまないと言ったその舌の根も乾かないうちにまた随分と踏み込んだ発言をするね」
「あ……。……御免……」
ハタと気が付き、カクンと頸を折った。
「どうもいけない……。こんなに酒を呑んだのは、生れて初めてなものだから……」
呂律の怪しい舌で弁解をしつつ、立ち込める霧のように広がる酔いのせいですっかり鈍くなっている頭に手を当てた。
冬月は皮肉っぽい低い嗤いを聞かせると、自分の杯を一息に空け、再び酒で満たし始めた。
「ま、いいさ。戯講と思って設けた席だ。どうせだから無礼講ついでに君の無分別な質問にも答えてやるよ。僕は別に天花寺澪子自身が気に入らないと言う訳じゃない」
「それじゃ、どうしてそう頑なに縁談を断ろうとするんだ」
間髪を入れず口から飛び出した僕の問いに冬月は呆れ気味の鼻嗤いをすると、吊り上がったままの唇に猪口を持って行き、ほんの少し湿らせた。それから気怠げに卓に片肘をつき、
「面倒だからだよ。彼女に限らず、女がね」
「め、面倒って、君……」
うんざりした口吻で肘をついた腕に寄り掛かる冬月を見詰め、僕は思わず頬を引きつらせた。
「そんな理由、通る訳ないだろ……」
「僕と君では物の考え方がかなり違っているというのは最初からわかっている事だし、主義や思想はそもそも千差万別な物ではあるけどね、しかし僕の感覚の問題を君お得意の常識だの良識だのではかって非難するのはあまりに筋違いだよ。たとえばこの酒を不味いと思って飲む君に僕が旨いと言ったとして、それはおかしい、まったくもって間違いだよ、なんて言えるかい? 上等な酒であろうとなかろうと旨い不味いを決定するのは当人の味覚、つまり感覚だろ。物事に対する感じ方だって同じだよ。感覚に対して理屈を持ち出して批判するなんて愚かにも程がある」
「え、え、いや、ぼ、僕だってこの酒は旨いと……」
「第一だよ、仮に僕にとって女が面倒だというのが縁談を断る正当な理由にはならないという君の個人的見解を採用してやるとして、いったいどんな動機なら尤もだと言うんだ」
「ど、どんなって……、それは、その……」
「だが君がどんな動機を提示したところで、それはあくまでも君が納得する理由でしかないんだ。つまり僕が同意する事は絶対にないって話だ。それとも君はこの僕を言い伏せる事が出来るとでも思っているのかい。いいだろう、小鳥遊、言ってみろよ。どんな理由なら意にそわない見合いを断る正当な理由になると言うんだ?」
責め立てるような続け様の言葉に返答を窮していると、冬月はフン、と不機嫌な鼻息を吹き、少しの間口を閉ざしていたが、卓の上で弄ぶように猪口を回しながら、低い聲で言った。
「けど、彼女の言動の点で些か気に喰わない部分があるのも事実ではあるよ」
「えっ? げ、言動って……」
眼鏡を押し上げ記憶をたどるが、打てば響くようだった受け答えからは、澪子さんの聡明さや思いやり、優しい心ばかりが思い出され、僕には不満足だと言わなければならない何かがあるとは思えなかった。
まさか黒葛瑛資に対する厳しい態度の事を指してそう言うのかとも思ったが、主人として無礼な振る舞いをした使用人を叱責するのは当然の務めであるし、冬月自身もそれらしい事を澪子さんに言っていた事から、その可能性は簡単に打ち消せる。となると、いったいぜんたい何が気に入らないのか、さっぱり思いつかない。頸を捻って頭を悩ませていると、冬月はくるくると弄んでいた猪口を止め、
「僕は彼女から押し付けがましい厚意を感じて仕方ないんだよ。例えるなら弱齢の人間に対する見当違いな老婆心の押し売りだ。実際に彼女は僕より二つほど歳が上だからね、百歩譲って何か妙な勘違いをしているんだろうと考えて遣り過ごしてしまう事も出来なくはない。だが天花寺澪子のあれは年齢差から来る意識的な言動と言うよりは、彼女の性分を起因とした対人関係上の無意識的な癖のような物が表面化していると思えてならない。僕は女に限らず、他人にああいう態度で接せられるのは好まないんだよ」
いつになく投げやりな調子が気になったが、また何か言って不機嫌の火種を再燃させるような愚かは避けたかった。肯定も否定も出来ず、仕方なく黙って手元の猪口を覗き込むと、透き通る池のような水面に所在なく目を瞬かせている自分の顔が映っているのに気が付いた。気まずい恥ずかしさで小さく息を吐き出したのと、皮肉っぽい嗤いの湛え直された琥珀色の瞳が僕を見たのは、ほとんど同時だった。
「すぐに立ち消えになる僕の縁談話なんかもういいよ。それより君の事を話そうじゃないか」
「え……っ」
突然矛先が振り向けられた事に驚き、大きく息を吸い込んだ。
「……あの、冬月……」
返事の代わりに琥珀色の視線だけを投げて寄越し、面倒臭そうな瞬きをする冬月をドキドキと窺い、
「その……、僕などが立ち入った事を言って、気を悪くしたのなら、すまない……」
冬月は無言のまま、じっと横目に僕を見ていたが、ほどなく正面に顔を向け直すと、やおら徳利の首を掴んで突き出した。
「え……っ!? あ、あの……ちょっと待ってくれ……」
押し付けるように差し出された徳利を断る訳にもいかず、僕はなみなみ残っていた猪口の中身を何とか咽喉の奥に流し込み、新たな酒を受けた。
透明な液體が光を反射する様子を見ていると、再び酔いの熱がこもり始めた頭の中に、きらびやかな帝都ホテルの貴賓喫茶室で秋の日射しに照り映えていた澪子さんの麗姿が、靄の向こうからユラユラと立ち現れて来るように想起された。
「……なぁ、冬月……」
言い掛けて、ひっく、と吃逆が出た拍子に、卓の上にほんの少し、酒を零してしまった。無意識にシャツの袖で拭いながら、そこに集った淑女たちの誰よりも優雅で、気品あふれる美貌を華やかな微笑と共に香らせていた澪子さんを思い浮かべつつ、
「僕には、君があんなにも素敵な女性の何が気に入らないのか、どうしても理解できないんだ」
冬月は僕の濡れた袖口を少しの間黙って見ていたが、軈て片頬を歪めて視線を上げ、
「すまないと言ったその舌の根も乾かないうちにまた随分と踏み込んだ発言をするね」
「あ……。……御免……」
ハタと気が付き、カクンと頸を折った。
「どうもいけない……。こんなに酒を呑んだのは、生れて初めてなものだから……」
呂律の怪しい舌で弁解をしつつ、立ち込める霧のように広がる酔いのせいですっかり鈍くなっている頭に手を当てた。
冬月は皮肉っぽい低い嗤いを聞かせると、自分の杯を一息に空け、再び酒で満たし始めた。
「ま、いいさ。戯講と思って設けた席だ。どうせだから無礼講ついでに君の無分別な質問にも答えてやるよ。僕は別に天花寺澪子自身が気に入らないと言う訳じゃない」
「それじゃ、どうしてそう頑なに縁談を断ろうとするんだ」
間髪を入れず口から飛び出した僕の問いに冬月は呆れ気味の鼻嗤いをすると、吊り上がったままの唇に猪口を持って行き、ほんの少し湿らせた。それから気怠げに卓に片肘をつき、
「面倒だからだよ。彼女に限らず、女がね」
「め、面倒って、君……」
うんざりした口吻で肘をついた腕に寄り掛かる冬月を見詰め、僕は思わず頬を引きつらせた。
「そんな理由、通る訳ないだろ……」
「僕と君では物の考え方がかなり違っているというのは最初からわかっている事だし、主義や思想はそもそも千差万別な物ではあるけどね、しかし僕の感覚の問題を君お得意の常識だの良識だのではかって非難するのはあまりに筋違いだよ。たとえばこの酒を不味いと思って飲む君に僕が旨いと言ったとして、それはおかしい、まったくもって間違いだよ、なんて言えるかい? 上等な酒であろうとなかろうと旨い不味いを決定するのは当人の味覚、つまり感覚だろ。物事に対する感じ方だって同じだよ。感覚に対して理屈を持ち出して批判するなんて愚かにも程がある」
「え、え、いや、ぼ、僕だってこの酒は旨いと……」
「第一だよ、仮に僕にとって女が面倒だというのが縁談を断る正当な理由にはならないという君の個人的見解を採用してやるとして、いったいどんな動機なら尤もだと言うんだ」
「ど、どんなって……、それは、その……」
「だが君がどんな動機を提示したところで、それはあくまでも君が納得する理由でしかないんだ。つまり僕が同意する事は絶対にないって話だ。それとも君はこの僕を言い伏せる事が出来るとでも思っているのかい。いいだろう、小鳥遊、言ってみろよ。どんな理由なら意にそわない見合いを断る正当な理由になると言うんだ?」
責め立てるような続け様の言葉に返答を窮していると、冬月はフン、と不機嫌な鼻息を吹き、少しの間口を閉ざしていたが、卓の上で弄ぶように猪口を回しながら、低い聲で言った。
「けど、彼女の言動の点で些か気に喰わない部分があるのも事実ではあるよ」
「えっ? げ、言動って……」
眼鏡を押し上げ記憶をたどるが、打てば響くようだった受け答えからは、澪子さんの聡明さや思いやり、優しい心ばかりが思い出され、僕には不満足だと言わなければならない何かがあるとは思えなかった。
まさか黒葛瑛資に対する厳しい態度の事を指してそう言うのかとも思ったが、主人として無礼な振る舞いをした使用人を叱責するのは当然の務めであるし、冬月自身もそれらしい事を澪子さんに言っていた事から、その可能性は簡単に打ち消せる。となると、いったいぜんたい何が気に入らないのか、さっぱり思いつかない。頸を捻って頭を悩ませていると、冬月はくるくると弄んでいた猪口を止め、
「僕は彼女から押し付けがましい厚意を感じて仕方ないんだよ。例えるなら弱齢の人間に対する見当違いな老婆心の押し売りだ。実際に彼女は僕より二つほど歳が上だからね、百歩譲って何か妙な勘違いをしているんだろうと考えて遣り過ごしてしまう事も出来なくはない。だが天花寺澪子のあれは年齢差から来る意識的な言動と言うよりは、彼女の性分を起因とした対人関係上の無意識的な癖のような物が表面化していると思えてならない。僕は女に限らず、他人にああいう態度で接せられるのは好まないんだよ」
いつになく投げやりな調子が気になったが、また何か言って不機嫌の火種を再燃させるような愚かは避けたかった。肯定も否定も出来ず、仕方なく黙って手元の猪口を覗き込むと、透き通る池のような水面に所在なく目を瞬かせている自分の顔が映っているのに気が付いた。気まずい恥ずかしさで小さく息を吐き出したのと、皮肉っぽい嗤いの湛え直された琥珀色の瞳が僕を見たのは、ほとんど同時だった。
「すぐに立ち消えになる僕の縁談話なんかもういいよ。それより君の事を話そうじゃないか」
「え……っ」
突然矛先が振り向けられた事に驚き、大きく息を吸い込んだ。
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