父親に売られた兄は夕闇に翻弄される

miian

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第一章 壊れた日常の始まり

屋上の夕焼け

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 真っ暗闇の中、いくつもの薄気味悪い手が追いかけてくる。それが一体なんなのか分からない。恐怖で全身が震える。必死に一歩一歩踏み出して、先の見えない暗い道を走り続ける。ほんの少しでも気を抜いたらその手に捕まってしまう。恐怖と緊張に飲み込まれそうだ。

(はぁ、はぁ、はぁ……)

 息が上がり苦しい。ほんの一瞬足が遅くなった時、その手たちはいとも簡単に俺を捉えた。服を脱がし、逃がさないと言うように俺を絡め取る。

(助けて……助けて……たすけて……だれか……)

 声にならない叫び声をあげる。だれも、だれも、手を差し伸べてくれない……。

 手を宙にかざし抜け出そうと、もがけばもがくほど、その様はまるで溺れているようだ。俺を苦しめるその手には、表情もなく顔もないのにあざ笑う声が聞こえる。

 闇に飲み込まれないように意識を保ちたい。でも、真っ暗な靄に取り囲まれた自分はもう疲れて、瞼は閉じてしまいそうだ。いや、もう諦めていつものように目を閉じてしまおうか?そしたら……そしたら、いつかは終わりを迎えるはず……。

 瞼を完全に下ろそうとしたその時、暗闇にキラキラとした光が差し込んで、ハッと我に返る。

「おい、おい!起きろ!大丈夫か?」

 何とかして重い瞼をあげると。迅が心配した表情でこちらを覗いていた。寒い季節だと言うのに冷たい汗をかき、身体は震えていた。

「大丈夫か?」

 どうやらうなされていたらしい。でも、どんな夢を見たのかは全く思い出せない。

「おい、大丈夫か?」

 もう一度、迅が心配の声をあげた。

「あ、あぁ、大丈夫……ありがとう」

 迅が手を伸ばしたが、それをすぐに引っ込めると、上着を脱いだ。俺に向かってパサっと上着をかける。震えは止まらないのに、こんな俺を気遣ってくれる迅のその気持ちが、俺の心をじんわりと温めた。

 覗き込んでいる迅に対して平静を装い、迅の横に座る。肩があたるか、あたらないような距離。迅は何も聞かない。今日だけでなく、今までも。

 いつも他愛のない話か、同じ空を眺めている。それがいつも、居心地よくて、救いだった。

「お前、家に帰りたくないならうちくるか?どうせ親はいないし」

 迅が不意にそう言った。迅の意図が分からず、首を斜めにする。

「いつも家に帰りたくなさそうだから……」

 確かにいつも憂鬱な表情をして帰路についていた。先ほどのうなされていたことから気遣って言ってくれたのだろう。

「いや、家には帰らないと……」

 濁すように返事をする。俺が家に帰らなければ智が犠牲になる。

「なんでだよ?別に何もしない。ただ、俺はお前に……」
「……ありがとう。でも、帰らないと……」
「分かった。じゃぁ、理由だけでも教えてくれ」

 頑なに拒んでいると、迅にしては珍しい踏み込んだ質問をした。迅は俺が身体を売っていることを知っている。迅は、それについて一度も理由を聞いたことはなかった。俺もそれに救われた。親に売られたなんて、惨めで、悲しくて、それを迅に知られたくなかったから。

「理由だけ聞いたら、もう家には誘わない」

 なんと答えれば良いか分からなかった。もう全て話してしまおうか?今まで誰にも言わなかった。迅が離れてしまうと怖い。そう思った時、自分が迅に思いのほか依存していることに気付いた。それが分かった時、尚更、迅に真実を言うのはひどく怖かった。

 悩み、言い淀んでいると、迅がそっと手を置いた。触れるか触れないかの距離。顔を上げると迅は俺を見つめていた。見た目にそぐわず、迅はたまに優しい顔をする。その顔を見て言うのを決心した。

「……弟が……いるんだ」

 迅は何も言わず、静かに聞いている。

「弟を置いてはいけない。俺がどこかへ言ってしまうときっと弟が……」

 隣を見るのが怖い。

「父さんが……いや、順に言うと母さんがいなくなったんだ。そこから父さんが変わって……俺が身体を売る代わりに弟には手を出さないって約束を……」

 迅は一体、今、どういう表情をしているのだろうか?

ーー同情?

ーー憐れみ?

ーー嫌悪?

 迅は何も答えない。その沈黙が怖くてふと迅を見た。

 
 迅は、同情も憐れみも嫌悪も抱いていなかった。
 

 ただ俺だけのことをじっと見ていた。

 どんな言葉をかけても俺を慰めることはできない。迅はそれを分かっているようだった。

 でも、俺の心は安堵していた。『拒絶されなかった』その事実だけが、真っ暗闇にいる俺を救ってくれたように思った。

 頰に生暖かい何かが流れた。いつの間にか涙がこぼれ落ちていた。迅がそれを優しく拭うと、そっと抱き寄せた。
 俺が落ち着くまで迅は抱きしめ続けた。

 どれぐらい泣いていたか分からない。迅のシャツを濡らし、落ち着きを払った頃、迅の顔を見上げた。至近距離で迅と目が合う。自然と身体を動かしていた。迅の唇に自身の唇を重ねた。

 キスはあまり好きではなかった。男たちはこぞってキスをしてくる。気持ち悪い舌も入れてくる。迅も同じくセックスの時にしてくるが、迅とのキスにはそんな嫌悪感を抱かなかった。でも、自らしてはいけないような気持ちがあった。

 迅が驚いた表情をした後、今度は迅からキスをした。唇を這わせるだけの優しいキス。

 迅からのキスを拒むことはなかったが、自らしたこともなかった。迅の唇が離れたので、俺からまたキスを重ねた。


 夕日が落ちてきて、屋上の地面は夕焼けに染まっていた。
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