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本編
平穏無事を希望します
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「魔王様、起きてくださいませ」
「んー、あとちょっと」
魔界の権力において頂点に立つ男は、ロザリアの呼びかけにも、むにゃむにゃと寝ぼけた声で返事をするだけで、一向に起きる気配がない。
多くの魔力を含んだ低くて艶のある声を耳にすると、仕事も立場も忘れて、彼の言葉に従ってしまいたくなる。けれども、いかんせん発言の内容と状況がロザリアを正気にとどめていた。
ロザリアは一旦彼を目覚めさせることを中断し、大きな窓を覆っている分厚いカーテンを開く。
魔王城のなかでもかなり上層に位置するこの寝室からは、魔界が遠くまで見渡せる。
北に目を向けると雪に覆われた白い山々がよく見える。東に目を向ければ、のんびりとした平原が広がっている。
魔王の持つ魔力と、彼だけが持つ理力が魔界の隅々まで行き届いており、魔界は今日も平穏を保っている。
眼下に広がる城下街には、朝から魔界の強い太陽の光が降り注ぎ、色鮮やかな屋根を照らしていた。
「はぁ……」
ロザリアはため息を禁じえなかった。
窓に向かって吐き出された彼女のため息は、ほんの一瞬だけ窓を白く曇らせる。
ロザリアの豊かな青みがかった灰色の髪は、ひっつめに結いあげられ、仕事の邪魔にならないようにしてある。
支給されたメイドのお仕着せは、膝よりも少し下まである丈のふんわりとした黒のワンピースで、フリルのついた白いエプロンがかわいらしくて、そこだけはロザリアも気に入っていた。
魔王城という魔界に暮らす者にとっては憧れの職場で働き始めてから、早くも一週間ほどが過ぎたが、ロザリアはどうにも慣れることができずにいる。
ロザリアは魔界では稀なすみれ色の目をすがめ、城下の町並みを見下ろした。
ここで働き始める前であったならば、のんびりと朝食を食べている時間だった。
けれどもなんの因果か、魔王城でメイドとして働くことになってしまい、あまつさえ、魔王専属のお世話係となってしまったことを、ロザリアは嘆かずにはいられない。
――父さんの、バカ……。
城下町で家具職人をしている父は、すこし頼りないところがあるものの、ロザリアにとっては自分を男手一つで育ててくれた大好きな父親だ。
ただの家具職人でしかない父と、魔王に仕える四公爵の一人である母がどのようにして出会い、自分が生まれたのか、ロザリアは知らない。
父と母のロマンスなど、気恥ずかしくて聞けやしない。
けれど公爵を務めるほど魔力の強い母にとって、魔力の少ない父親はただの子種扱いでしかなく、正式な伴侶ではない。
ゆえに、ロザリアには母と一緒に暮らした記憶がない。
幼い彼女を育ててくれたのは、情けなくて、ちょっと涙もろくて、とてもやさしい父親と、城下に住む下町の人々だ。
母という存在にほんのりと持っていた憧れは、引き合わされた本人を目の前にして霧散した。
――あんなのが、私の母さんだなんて、認めないんだから!
脳裏によみがえった不快な記憶に蓋をして、ロザリアは部屋の中央に置かれた天蓋つきの大きなベッドに向き直る。
魔王を起こすのは職務なのだから、しかたがないのだと、自らに言い聞かせ、ゆっくりとベッドに近づいた。
「魔王様、どうか起きてくださいませ」
「うぅん。名前……」
「は?」
ロザリアは思わず間抜けな声を漏らす。
――今、魔王様はなんと言った?
「名前を呼んでくれたら……、目が覚める……かも」
ロザリアは再びこぼれそうになったため息を、どうにか口の中で噛み殺した。
もぞもぞと動く布団の中では、魔王の威厳もなにもあったものではない。
――絶対に起きてるよね? それに、どうして私が魔王様の名前を呼ばなくちゃいけないの? こんなの仕事じゃなきゃ、やってられない! ……だけど、ちゃんと仕事をこなさないと家に帰れないんだから我慢よ、ロザリア。
ロザリアはこみ上げる怒りを押さえ込み、気を取り直して口を開く。
「エヴァンジェリスタ様、どうか起きてくださいませ」
「おはよう、ロザリア」
ロザリアが魔王の名前を呼んだ途端、布団が大きくめくれ、中から人影が現れる。
闇夜を思わせる漆黒の髪は腰の辺りまで伸び、天に浮かぶ月のような金色の瞳がロザリアを見返していた。
愛しげに細められた目に見つめられて、鼓動が跳ね上がったロザリアはお仕着せのスカートの端をきゅっと握り締めた。
彼の耳の上に張り出した大きな艶のある角は、くるりと曲がっていて、魔力の強さのほどを物語っている。
端整な顔立ちは、いつまでも見つめていたくなるほど美しい。
――見ている分には、とってもいい目の保養なんだけど……。
ロザリアに向かってにっこりと笑顔を見せた魔王は、先ほどまでのぐずつきが嘘のように、きびきびとした動きでベッドを出る。
ロザリアは慌てて室内履きを足元に用意し、薄い寝間着一枚で眠っていた魔王にガウンを差し出した。
大きくはだけていた胸元がガウンで隠れると、ロザリアの早く脈打っていた心臓も少し落ち着いてくる。
「おはようございます。魔王様」
魔王の後ろに回ったロザリアは彼にガウンを着せ掛けると、用意していた紅茶をカップに注いで彼に差し出した。
「うん、今日もおいしいよ」
優雅な仕草でカップを傾ける魔王の姿は、いつまでも眺めていたくなるほど絵になっていた。
当代魔王、エヴァンジェリスタの一日はこうして始まる。
そして、魔王付きのメイドとなってしまったロザリアの一日もまた始まるのだった。
「んー、あとちょっと」
魔界の権力において頂点に立つ男は、ロザリアの呼びかけにも、むにゃむにゃと寝ぼけた声で返事をするだけで、一向に起きる気配がない。
多くの魔力を含んだ低くて艶のある声を耳にすると、仕事も立場も忘れて、彼の言葉に従ってしまいたくなる。けれども、いかんせん発言の内容と状況がロザリアを正気にとどめていた。
ロザリアは一旦彼を目覚めさせることを中断し、大きな窓を覆っている分厚いカーテンを開く。
魔王城のなかでもかなり上層に位置するこの寝室からは、魔界が遠くまで見渡せる。
北に目を向けると雪に覆われた白い山々がよく見える。東に目を向ければ、のんびりとした平原が広がっている。
魔王の持つ魔力と、彼だけが持つ理力が魔界の隅々まで行き届いており、魔界は今日も平穏を保っている。
眼下に広がる城下街には、朝から魔界の強い太陽の光が降り注ぎ、色鮮やかな屋根を照らしていた。
「はぁ……」
ロザリアはため息を禁じえなかった。
窓に向かって吐き出された彼女のため息は、ほんの一瞬だけ窓を白く曇らせる。
ロザリアの豊かな青みがかった灰色の髪は、ひっつめに結いあげられ、仕事の邪魔にならないようにしてある。
支給されたメイドのお仕着せは、膝よりも少し下まである丈のふんわりとした黒のワンピースで、フリルのついた白いエプロンがかわいらしくて、そこだけはロザリアも気に入っていた。
魔王城という魔界に暮らす者にとっては憧れの職場で働き始めてから、早くも一週間ほどが過ぎたが、ロザリアはどうにも慣れることができずにいる。
ロザリアは魔界では稀なすみれ色の目をすがめ、城下の町並みを見下ろした。
ここで働き始める前であったならば、のんびりと朝食を食べている時間だった。
けれどもなんの因果か、魔王城でメイドとして働くことになってしまい、あまつさえ、魔王専属のお世話係となってしまったことを、ロザリアは嘆かずにはいられない。
――父さんの、バカ……。
城下町で家具職人をしている父は、すこし頼りないところがあるものの、ロザリアにとっては自分を男手一つで育ててくれた大好きな父親だ。
ただの家具職人でしかない父と、魔王に仕える四公爵の一人である母がどのようにして出会い、自分が生まれたのか、ロザリアは知らない。
父と母のロマンスなど、気恥ずかしくて聞けやしない。
けれど公爵を務めるほど魔力の強い母にとって、魔力の少ない父親はただの子種扱いでしかなく、正式な伴侶ではない。
ゆえに、ロザリアには母と一緒に暮らした記憶がない。
幼い彼女を育ててくれたのは、情けなくて、ちょっと涙もろくて、とてもやさしい父親と、城下に住む下町の人々だ。
母という存在にほんのりと持っていた憧れは、引き合わされた本人を目の前にして霧散した。
――あんなのが、私の母さんだなんて、認めないんだから!
脳裏によみがえった不快な記憶に蓋をして、ロザリアは部屋の中央に置かれた天蓋つきの大きなベッドに向き直る。
魔王を起こすのは職務なのだから、しかたがないのだと、自らに言い聞かせ、ゆっくりとベッドに近づいた。
「魔王様、どうか起きてくださいませ」
「うぅん。名前……」
「は?」
ロザリアは思わず間抜けな声を漏らす。
――今、魔王様はなんと言った?
「名前を呼んでくれたら……、目が覚める……かも」
ロザリアは再びこぼれそうになったため息を、どうにか口の中で噛み殺した。
もぞもぞと動く布団の中では、魔王の威厳もなにもあったものではない。
――絶対に起きてるよね? それに、どうして私が魔王様の名前を呼ばなくちゃいけないの? こんなの仕事じゃなきゃ、やってられない! ……だけど、ちゃんと仕事をこなさないと家に帰れないんだから我慢よ、ロザリア。
ロザリアはこみ上げる怒りを押さえ込み、気を取り直して口を開く。
「エヴァンジェリスタ様、どうか起きてくださいませ」
「おはよう、ロザリア」
ロザリアが魔王の名前を呼んだ途端、布団が大きくめくれ、中から人影が現れる。
闇夜を思わせる漆黒の髪は腰の辺りまで伸び、天に浮かぶ月のような金色の瞳がロザリアを見返していた。
愛しげに細められた目に見つめられて、鼓動が跳ね上がったロザリアはお仕着せのスカートの端をきゅっと握り締めた。
彼の耳の上に張り出した大きな艶のある角は、くるりと曲がっていて、魔力の強さのほどを物語っている。
端整な顔立ちは、いつまでも見つめていたくなるほど美しい。
――見ている分には、とってもいい目の保養なんだけど……。
ロザリアに向かってにっこりと笑顔を見せた魔王は、先ほどまでのぐずつきが嘘のように、きびきびとした動きでベッドを出る。
ロザリアは慌てて室内履きを足元に用意し、薄い寝間着一枚で眠っていた魔王にガウンを差し出した。
大きくはだけていた胸元がガウンで隠れると、ロザリアの早く脈打っていた心臓も少し落ち着いてくる。
「おはようございます。魔王様」
魔王の後ろに回ったロザリアは彼にガウンを着せ掛けると、用意していた紅茶をカップに注いで彼に差し出した。
「うん、今日もおいしいよ」
優雅な仕草でカップを傾ける魔王の姿は、いつまでも眺めていたくなるほど絵になっていた。
当代魔王、エヴァンジェリスタの一日はこうして始まる。
そして、魔王付きのメイドとなってしまったロザリアの一日もまた始まるのだった。
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