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第七場
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澤野の閉幕のあいさつをもって、体育館の中はしばらくの静寂と暗闇に支配される。
俺は拍手もせずにじっと腕を組んで見えなくなった舞台上を見続ける。
そして、体育館に明かりが点いて、調整室から金久保先生が降りてやって来た。
「どうだったかしら。逍遥先生」
「ええ。見ましたよ」
感想とも言えない感想を述べて、座ったままだった。
程なくしてから舞台横から八千草、三島、澤野の三人が現れ、俺の前に集まる。
「どうよ。私達のお芝居は」
自信満々といった具合に笑みを浮かべながら胸を張り、八千草がその生意気な口を開いた。
「あの、先生……結果は……?」
対して、三島は怖々と勝負の結果を尋ねる。
澤野も口を一文字に引き紡いだまま、表情を硬くしていた。
それでは、結果を言い渡すとしよう。
「そうだな……まずはっきり言って、全然なっていない。声は小さいし、細い。台詞がこちらまで届いてこない。おまけに滑舌が悪くて所々何を言っているのか分からない。聞こえない台詞ってのは、客にとってストレスでしかない」
つらつらと吐き出されるダメ出しの数々に、三人は面食らい、三島は泣き出しそうだった。
「それとミザンス……立ち位置や導線なんかのことだが、それももっと効果的なものがあった筈だ。気になって仕方がねえよ。身振り手振りも雑だし、感情全てが表に出ていない。演技面では、やっぱ素人って感じだな」
「あんたねえ、黙って聞いてりゃ……!」
声を荒げる八千草だったが、すぐに黙り込んだ。
なんだよ、何も言わないなら続けるぞ。
「それと戯曲についてだが、20分の短い芝居には適していない。壮大過ぎて返って情報過多。登場人物も多すぎてキャラが切り替わる度にこちらの意識が切れる。それと、俺がシェイクスピア好きなのを知ってその要素を所々入れたんだろうけど、無理やりすぎ」
俺が心なく辛辣な言葉を浴びせ続けても、誰も割って入ってこない。
その理由を俺自身分かっているのだが、構わず言い続けた。
「あと、音楽と照明。折角の機材が泣いてるよ。使わない方がマシだったろうな。音源もどうせテレビドラマとかで使われてたものを使用したんだろうけど、時々入る電子音が世界観と合っていない。ミスチョイスだ」
まだだ。まだ言い足りない。
「小道具は安っぽいし、メイクもなってない……」
言い出したらキリが無い。それこそ粗なら無限数見つかりそうだ。全部言ってやろうと思ったら一晩で足りるかどうかという所。
でも、言えば言う程俺の体は震え、ひくひくと頬が引き攣る。
目からは、涙が零れていた。
それでも構わずに俺は喋り続ける。
「下手くそすぎる……! 舞台の技法を知らなさすぎ。演技におけるテクニック。効果的な導線の取り方。客に対しての自分の魅せ方。声の出し方、全部ダメだ……!」
現時点での彼女たちは、どうしようも無い位に下手くそだ。救い様が無い位に。
でも、そんな彼女たちの拙い芝居に、俺は心を動かされたのだろう。じゃないとここまで取り乱したりしない。
「それから……! それから……!」
彼女たちは、自分が下手だと分かっていながらも、舞台の上に、実に活き活きと、楽しそうに演じていた。
上手いとか、下手とか関係なく、ただ自分たちのやりたいことをやりたいように、好きなだけやっていた。演劇を始めたばかりの俺自身がそうだったように。
その光景の輝かしさときたら、今のくすみきった俺には眩し過ぎる。
「う……うぐぅ……!」
ついに俺は崩れ、何も言えなくなってしまう。
生徒の前とかそんなの関係なしに、泣きじゃくっていた。
この芝居を通して、三島が何を伝えたかったのかが、今分かった。
全編を通して、王子は登場しなかった。
これはおそらく形の無い物を表していたんだ。形の無い物、それは演劇だ。形が無いゆえに、どんな姿にもなれる。
姫は王子を愛していた。俺も演劇を愛していた。
姫は王子を失った。俺も演劇を失った。
でも演劇によって残されたものが、俺の中にもある。
そして姫は、その残されたものを胸に抱き、未来へと歩み出した。
もしも、もしも俺が、他の誰でも無い俺が、この子たちに演劇を教えたとしたら……
◇
誰も居ない暗い体育館の中で、折り畳み椅子に腰かけたまま、照らされるステージをジッと見つめる。
八千草達は既に下校しており、俺は一人で考え事がしたいとこの場に残った。
いつからだっただろう。演劇を心から楽しめなくなったのは、あの事件は俺にとって役者を辞めるきっかけになっただけで、その兆しは随分と前からあったと思う。
俺にとっての演劇とは一体何だったのだろうか。昔は台詞を語っている時が楽しくて仕方が無かった。毎日毎日、朝から晩まで台本を読み、稽古をし、肉体改造をしたりしたものだ。全身隈なく演劇に浸っていた。
それがいつからか、芝居をすることが苦になっていた。
それだというのにあいつらときたら……
緊張しながらもあんなに楽しそうな顔をしやがって。
ガキのように涙を流しておきながら、顧問の件について、俺はまだ答えを出せないでいた。もう一度演劇と関わる事が、ただ単純に怖い。
椅子から立ち上がり、スッと歩き出し、舞台上へ上る。
舞台中央にどっしりと立ち、体育館の中を見渡す。良い舞台だ。こうやって暗い中で見ると、バスケやバレーコートのラインも見えず、本当にホールの舞台に立っているよう。
チリチリと照明の熱を感じながら、眼鏡を外してワイシャツの胸ポケットにしまう。
目を閉じ、肺の中に溜まった空気を全て吐き出す。そして、大きく息を吸って新鮮な空気を取り込む。
想像力を膨らませる。
ここは舞台の上で、本番真っ最中。
切り取られた世界の上には俺一人しかおらず、観客は皆俺に釘付け。
もう一度深呼吸を繰り返し、大きく吸った所で息を止め、ゆっくりとした動作で口を開いた。
「生きるべき死ぬべきか、それが問題だ」
語るのはシェイクスピアの最高傑作、『ハムレット』の第三幕、第一場。ハムレットの独白シーン。
イメージを拡大させていく。強く、強く。
目を開き、見る。
ここはデンマーク。エルシノア。父を殺され、母を汚された王子、ハムレット。
城の中に立ち並ぶ豪奢な作りの壁や柱にステンドグラス。煌びやかな装飾品の数々。
豪華な作りの建物でありながらも、ここは汚れきっていた。
「どちらが気高い心に相応しいのか……非道な運命の矢弾をじっと耐え忍ぶか、それとも怒涛の苦難に敢然と斬り掛かり、戦って相果てるか」
ハムレットは復讐に燃えていた。実の叔父に対して。
討つべき相手はすぐそこに居る。それだというのに実行に移す事が出来ない。
その事が彼の心を弱くし、気分を憂鬱にさせる。
「死ぬことは……眠る事、それだけだ。眠りによって心の痛みも、肉体が抱える数限りない苦しみも終わりを告げる。それこそ願っても無い、最上の結末だ」
そうだ。そうだ。
全てを投げ出してしまえばいい。
そうする事で苦しみから解放され、晴れて自由の身になれる。
「死ぬ。眠る。眠る。おそらくは夢を見る……そこだ、引っかかるのは」
見る夢が良い夢ならば何も問題は無い。だが果たして、やるべきことをやらずして、良い夢など見れるものだろうか。
「一体、死という眠りの中でどんな夢を見るのか? ようやく人生のしがらみを振り切ったというのに……!」
いいぞ。いい。乗ってきた。
考えなくても自然と言葉が出てくる。ハムレットの台詞を通して、俺自身の気持ちを言葉の、一文字一文字に乗せる。
久しぶりの感覚だ。懐かしい……!
だが、まだ、まだ足りない。
八千草の芝居は、もっとのびのびとしていた。もっと純粋で真っ直ぐに。もっと心の奥底から感情や想いや意思、覚悟をひねり出していた。
まだ、まだまだ。もっともっともっと俺自身の感情を出せ……!
「そして、苦しい人生をおめおめと生き延びてしまうのだ。さもなけば誰が我慢するものか!」
吐き出す。全てを吐き出す。
「世間の非難中傷、権力者の不正、高慢な輩の無礼、失恋の痛手、長引く裁判、役人の横柄、優れた人物が耐え忍ぶ、くだらぬ奴らの言いたい放題……! そんなものに耐えずとも、短剣の一突きで人生にけりを付けられるというのに……?」
違う! イメージが足りない!
「誰が不満を抱え、汗水たらして辛い人生という重荷に耐えるものか。死後の世界の恐怖さえなければ……!」
愚直に、荒々しく、でも冷静に、熱く、熱く、熱く……!
「行けば帰らぬ人となる黄泉の国。それを恐れて、意志はゆらぎ、想像もつかぬ苦しみに身を任せるよりは、今の苦しみに耐える方がましだと思ってしまう」
さあ、いよいよ最後だ。
いつまでもグズグズしてんなよ、ハムレット!
「こうして、物思う心は我々を臆病にしてしまう。決意本来の色合いは、青ざめた思考の色に染まり、崇高で偉大なる企ても、色あせて、流れがそれて、行動という名前を失うのだ!」
突如。
カンッ。と乾いた音が体育館内に響き渡り、見ると、そこには八千草が立っていた。音の正体は、彼女が落とした玩具の王冠のよう。
何故、どうしてあいつがここに。もう帰った筈じゃあ、三島と澤野も居るのか。
そんな事よりも、見られた。芝居をしている所を見られた。
……いや、芝居とは本来、誰かに見て貰う為にやるものだ。
俺は、呆然と立つ彼女に向かい手を差し伸べ、台詞を語る。
「美しいオフィーリア。妖精よ。君の祈りに我が罪の許しも加えてくれ」
「え、え……?」
訳も分からずに突っ立ち、狼狽える八千草が可笑しくて、俺は声を出して笑ってしまった。
思えばこうして笑うのも久しぶりで、彼女の顔を見たおかげなのか、ようやく決心がついた。
「なんだ……? 忘れ物か?」
「う、うん……そう」
どうやら三島と澤野は居ないようで、一人で戻って来たみたいだ。
八千草は、よいしょ、と舞台に上がると袖奥に引っ込み、鞄を持って再登場する。
「お前、鞄忘れたのかよ……? バカだな」
「う、うっさい! 教師の癖に生徒にバカとかいうな!」
「事実は事実だ」
恥ずかしそうに顔を赤らめた八千草は、そそくさと俺の横を通り過ぎて舞台から降りようとする。
彼女が言ってしまう前に伝えなければと、
「八千草」
呼び止めた。
「な、なに……?」
どうしてか挙動のおかしい八千草。いつもの刺々しさが無い。俺が泣きじゃくる姿を見たからか、それともさっきの演技を見てか、知らないが、まあどうでも良い。
「顧問。俺で良ければ引き受けさせてもらうよ」
「え……本当に……?」
ずっと逃げてきた。俺が確かに歩んだ過去から。
でも分かっていたんだ。このままじゃいけない。
これからは、あのお姫様を見習って、未来に向かうのも悪くはない。
「不満か……?」
「いや、まあ、いいけど……」
八千草の事だから、不満だらけだと思っていたが。彼女がそんな事を言う様子は無かった。
「一体どういう風の吹き回し? あんだけ私達の芝居をズタボロに言っていたのに……本当は私達の芝居に感動してたわけ?」
「ああ。そうだ。お前たちに感動した」
「え……?」
八千草は冗談交じりに言ったのだろうが、それを俺は強く肯定した。
「完成度としてはさっき言った通り、正直言うと、今の今まで、俺は顧問を受けるべきか受けないべきか、悩んでいた……でも、さっきお前の顔を見た瞬間。決心した」
「え、な……?」
戸惑いを顕わにする八千草。自分が何を言われているのか分かっていなさそう。
それでも、俺は彼女の目をしっかりと見つめ、思った事を包み隠さずに告げる。
「俺は、お前の芝居をまた見たいと思った……! もう、お前の芝居が見られないのかと思うと、惜しい……! お前に芝居を教える事で、俺はもっともっと、お前の芝居を見ていたい!」
「は、はあああぁ……! あんた何言ってんのよ……!」
「事実は事実だ」
顔を真っ赤にし、声を大にして後ろに飛びのく八千草。
その姿が可笑しくて、また笑った。
「それじゃあ、そういう事だから。来週、月曜日から活動していこうと思うから、三島と澤野に連絡入れといてくれ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ……!」
「嫌だよ、煙草吸って帰るんだから。お前も早く帰れよ」
胸ポケットから眼鏡を取り出して掛け、舞台から降りる。
職員室に戻って帰り支度、の前にステージの電気消さなくちゃ。
「ほらほら、出ろ出ろ」
「お、押さないでよ……!」
八千草の背中を押して、無理やりに体育館から追い出し扉を閉めた。
まだ何か気になっている事があるのか、扉をガンガン叩きながら、おーい、と叫んでいるが、答えてやるつもりは無い。
振り返り、舞台上を見つめて、ふっと笑みがこぼれた。
演劇なんてものは、ただの娯楽にすぎない。娯楽に人生を捧げるのは、愚かなことだ。
しかし、そんな娯楽が、誰かの人生を大きく左右し、影響を与えた時、それは芸術になる。
俺にとって、演劇は芸術だ。
芸術には、人生の全てを掛ける価値がある。
小さい頃から教師になりたかった。ワケじゃない。
でも今、俺は、演劇を教える教師になりたい。
俺は拍手もせずにじっと腕を組んで見えなくなった舞台上を見続ける。
そして、体育館に明かりが点いて、調整室から金久保先生が降りてやって来た。
「どうだったかしら。逍遥先生」
「ええ。見ましたよ」
感想とも言えない感想を述べて、座ったままだった。
程なくしてから舞台横から八千草、三島、澤野の三人が現れ、俺の前に集まる。
「どうよ。私達のお芝居は」
自信満々といった具合に笑みを浮かべながら胸を張り、八千草がその生意気な口を開いた。
「あの、先生……結果は……?」
対して、三島は怖々と勝負の結果を尋ねる。
澤野も口を一文字に引き紡いだまま、表情を硬くしていた。
それでは、結果を言い渡すとしよう。
「そうだな……まずはっきり言って、全然なっていない。声は小さいし、細い。台詞がこちらまで届いてこない。おまけに滑舌が悪くて所々何を言っているのか分からない。聞こえない台詞ってのは、客にとってストレスでしかない」
つらつらと吐き出されるダメ出しの数々に、三人は面食らい、三島は泣き出しそうだった。
「それとミザンス……立ち位置や導線なんかのことだが、それももっと効果的なものがあった筈だ。気になって仕方がねえよ。身振り手振りも雑だし、感情全てが表に出ていない。演技面では、やっぱ素人って感じだな」
「あんたねえ、黙って聞いてりゃ……!」
声を荒げる八千草だったが、すぐに黙り込んだ。
なんだよ、何も言わないなら続けるぞ。
「それと戯曲についてだが、20分の短い芝居には適していない。壮大過ぎて返って情報過多。登場人物も多すぎてキャラが切り替わる度にこちらの意識が切れる。それと、俺がシェイクスピア好きなのを知ってその要素を所々入れたんだろうけど、無理やりすぎ」
俺が心なく辛辣な言葉を浴びせ続けても、誰も割って入ってこない。
その理由を俺自身分かっているのだが、構わず言い続けた。
「あと、音楽と照明。折角の機材が泣いてるよ。使わない方がマシだったろうな。音源もどうせテレビドラマとかで使われてたものを使用したんだろうけど、時々入る電子音が世界観と合っていない。ミスチョイスだ」
まだだ。まだ言い足りない。
「小道具は安っぽいし、メイクもなってない……」
言い出したらキリが無い。それこそ粗なら無限数見つかりそうだ。全部言ってやろうと思ったら一晩で足りるかどうかという所。
でも、言えば言う程俺の体は震え、ひくひくと頬が引き攣る。
目からは、涙が零れていた。
それでも構わずに俺は喋り続ける。
「下手くそすぎる……! 舞台の技法を知らなさすぎ。演技におけるテクニック。効果的な導線の取り方。客に対しての自分の魅せ方。声の出し方、全部ダメだ……!」
現時点での彼女たちは、どうしようも無い位に下手くそだ。救い様が無い位に。
でも、そんな彼女たちの拙い芝居に、俺は心を動かされたのだろう。じゃないとここまで取り乱したりしない。
「それから……! それから……!」
彼女たちは、自分が下手だと分かっていながらも、舞台の上に、実に活き活きと、楽しそうに演じていた。
上手いとか、下手とか関係なく、ただ自分たちのやりたいことをやりたいように、好きなだけやっていた。演劇を始めたばかりの俺自身がそうだったように。
その光景の輝かしさときたら、今のくすみきった俺には眩し過ぎる。
「う……うぐぅ……!」
ついに俺は崩れ、何も言えなくなってしまう。
生徒の前とかそんなの関係なしに、泣きじゃくっていた。
この芝居を通して、三島が何を伝えたかったのかが、今分かった。
全編を通して、王子は登場しなかった。
これはおそらく形の無い物を表していたんだ。形の無い物、それは演劇だ。形が無いゆえに、どんな姿にもなれる。
姫は王子を愛していた。俺も演劇を愛していた。
姫は王子を失った。俺も演劇を失った。
でも演劇によって残されたものが、俺の中にもある。
そして姫は、その残されたものを胸に抱き、未来へと歩み出した。
もしも、もしも俺が、他の誰でも無い俺が、この子たちに演劇を教えたとしたら……
◇
誰も居ない暗い体育館の中で、折り畳み椅子に腰かけたまま、照らされるステージをジッと見つめる。
八千草達は既に下校しており、俺は一人で考え事がしたいとこの場に残った。
いつからだっただろう。演劇を心から楽しめなくなったのは、あの事件は俺にとって役者を辞めるきっかけになっただけで、その兆しは随分と前からあったと思う。
俺にとっての演劇とは一体何だったのだろうか。昔は台詞を語っている時が楽しくて仕方が無かった。毎日毎日、朝から晩まで台本を読み、稽古をし、肉体改造をしたりしたものだ。全身隈なく演劇に浸っていた。
それがいつからか、芝居をすることが苦になっていた。
それだというのにあいつらときたら……
緊張しながらもあんなに楽しそうな顔をしやがって。
ガキのように涙を流しておきながら、顧問の件について、俺はまだ答えを出せないでいた。もう一度演劇と関わる事が、ただ単純に怖い。
椅子から立ち上がり、スッと歩き出し、舞台上へ上る。
舞台中央にどっしりと立ち、体育館の中を見渡す。良い舞台だ。こうやって暗い中で見ると、バスケやバレーコートのラインも見えず、本当にホールの舞台に立っているよう。
チリチリと照明の熱を感じながら、眼鏡を外してワイシャツの胸ポケットにしまう。
目を閉じ、肺の中に溜まった空気を全て吐き出す。そして、大きく息を吸って新鮮な空気を取り込む。
想像力を膨らませる。
ここは舞台の上で、本番真っ最中。
切り取られた世界の上には俺一人しかおらず、観客は皆俺に釘付け。
もう一度深呼吸を繰り返し、大きく吸った所で息を止め、ゆっくりとした動作で口を開いた。
「生きるべき死ぬべきか、それが問題だ」
語るのはシェイクスピアの最高傑作、『ハムレット』の第三幕、第一場。ハムレットの独白シーン。
イメージを拡大させていく。強く、強く。
目を開き、見る。
ここはデンマーク。エルシノア。父を殺され、母を汚された王子、ハムレット。
城の中に立ち並ぶ豪奢な作りの壁や柱にステンドグラス。煌びやかな装飾品の数々。
豪華な作りの建物でありながらも、ここは汚れきっていた。
「どちらが気高い心に相応しいのか……非道な運命の矢弾をじっと耐え忍ぶか、それとも怒涛の苦難に敢然と斬り掛かり、戦って相果てるか」
ハムレットは復讐に燃えていた。実の叔父に対して。
討つべき相手はすぐそこに居る。それだというのに実行に移す事が出来ない。
その事が彼の心を弱くし、気分を憂鬱にさせる。
「死ぬことは……眠る事、それだけだ。眠りによって心の痛みも、肉体が抱える数限りない苦しみも終わりを告げる。それこそ願っても無い、最上の結末だ」
そうだ。そうだ。
全てを投げ出してしまえばいい。
そうする事で苦しみから解放され、晴れて自由の身になれる。
「死ぬ。眠る。眠る。おそらくは夢を見る……そこだ、引っかかるのは」
見る夢が良い夢ならば何も問題は無い。だが果たして、やるべきことをやらずして、良い夢など見れるものだろうか。
「一体、死という眠りの中でどんな夢を見るのか? ようやく人生のしがらみを振り切ったというのに……!」
いいぞ。いい。乗ってきた。
考えなくても自然と言葉が出てくる。ハムレットの台詞を通して、俺自身の気持ちを言葉の、一文字一文字に乗せる。
久しぶりの感覚だ。懐かしい……!
だが、まだ、まだ足りない。
八千草の芝居は、もっとのびのびとしていた。もっと純粋で真っ直ぐに。もっと心の奥底から感情や想いや意思、覚悟をひねり出していた。
まだ、まだまだ。もっともっともっと俺自身の感情を出せ……!
「そして、苦しい人生をおめおめと生き延びてしまうのだ。さもなけば誰が我慢するものか!」
吐き出す。全てを吐き出す。
「世間の非難中傷、権力者の不正、高慢な輩の無礼、失恋の痛手、長引く裁判、役人の横柄、優れた人物が耐え忍ぶ、くだらぬ奴らの言いたい放題……! そんなものに耐えずとも、短剣の一突きで人生にけりを付けられるというのに……?」
違う! イメージが足りない!
「誰が不満を抱え、汗水たらして辛い人生という重荷に耐えるものか。死後の世界の恐怖さえなければ……!」
愚直に、荒々しく、でも冷静に、熱く、熱く、熱く……!
「行けば帰らぬ人となる黄泉の国。それを恐れて、意志はゆらぎ、想像もつかぬ苦しみに身を任せるよりは、今の苦しみに耐える方がましだと思ってしまう」
さあ、いよいよ最後だ。
いつまでもグズグズしてんなよ、ハムレット!
「こうして、物思う心は我々を臆病にしてしまう。決意本来の色合いは、青ざめた思考の色に染まり、崇高で偉大なる企ても、色あせて、流れがそれて、行動という名前を失うのだ!」
突如。
カンッ。と乾いた音が体育館内に響き渡り、見ると、そこには八千草が立っていた。音の正体は、彼女が落とした玩具の王冠のよう。
何故、どうしてあいつがここに。もう帰った筈じゃあ、三島と澤野も居るのか。
そんな事よりも、見られた。芝居をしている所を見られた。
……いや、芝居とは本来、誰かに見て貰う為にやるものだ。
俺は、呆然と立つ彼女に向かい手を差し伸べ、台詞を語る。
「美しいオフィーリア。妖精よ。君の祈りに我が罪の許しも加えてくれ」
「え、え……?」
訳も分からずに突っ立ち、狼狽える八千草が可笑しくて、俺は声を出して笑ってしまった。
思えばこうして笑うのも久しぶりで、彼女の顔を見たおかげなのか、ようやく決心がついた。
「なんだ……? 忘れ物か?」
「う、うん……そう」
どうやら三島と澤野は居ないようで、一人で戻って来たみたいだ。
八千草は、よいしょ、と舞台に上がると袖奥に引っ込み、鞄を持って再登場する。
「お前、鞄忘れたのかよ……? バカだな」
「う、うっさい! 教師の癖に生徒にバカとかいうな!」
「事実は事実だ」
恥ずかしそうに顔を赤らめた八千草は、そそくさと俺の横を通り過ぎて舞台から降りようとする。
彼女が言ってしまう前に伝えなければと、
「八千草」
呼び止めた。
「な、なに……?」
どうしてか挙動のおかしい八千草。いつもの刺々しさが無い。俺が泣きじゃくる姿を見たからか、それともさっきの演技を見てか、知らないが、まあどうでも良い。
「顧問。俺で良ければ引き受けさせてもらうよ」
「え……本当に……?」
ずっと逃げてきた。俺が確かに歩んだ過去から。
でも分かっていたんだ。このままじゃいけない。
これからは、あのお姫様を見習って、未来に向かうのも悪くはない。
「不満か……?」
「いや、まあ、いいけど……」
八千草の事だから、不満だらけだと思っていたが。彼女がそんな事を言う様子は無かった。
「一体どういう風の吹き回し? あんだけ私達の芝居をズタボロに言っていたのに……本当は私達の芝居に感動してたわけ?」
「ああ。そうだ。お前たちに感動した」
「え……?」
八千草は冗談交じりに言ったのだろうが、それを俺は強く肯定した。
「完成度としてはさっき言った通り、正直言うと、今の今まで、俺は顧問を受けるべきか受けないべきか、悩んでいた……でも、さっきお前の顔を見た瞬間。決心した」
「え、な……?」
戸惑いを顕わにする八千草。自分が何を言われているのか分かっていなさそう。
それでも、俺は彼女の目をしっかりと見つめ、思った事を包み隠さずに告げる。
「俺は、お前の芝居をまた見たいと思った……! もう、お前の芝居が見られないのかと思うと、惜しい……! お前に芝居を教える事で、俺はもっともっと、お前の芝居を見ていたい!」
「は、はあああぁ……! あんた何言ってんのよ……!」
「事実は事実だ」
顔を真っ赤にし、声を大にして後ろに飛びのく八千草。
その姿が可笑しくて、また笑った。
「それじゃあ、そういう事だから。来週、月曜日から活動していこうと思うから、三島と澤野に連絡入れといてくれ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ……!」
「嫌だよ、煙草吸って帰るんだから。お前も早く帰れよ」
胸ポケットから眼鏡を取り出して掛け、舞台から降りる。
職員室に戻って帰り支度、の前にステージの電気消さなくちゃ。
「ほらほら、出ろ出ろ」
「お、押さないでよ……!」
八千草の背中を押して、無理やりに体育館から追い出し扉を閉めた。
まだ何か気になっている事があるのか、扉をガンガン叩きながら、おーい、と叫んでいるが、答えてやるつもりは無い。
振り返り、舞台上を見つめて、ふっと笑みがこぼれた。
演劇なんてものは、ただの娯楽にすぎない。娯楽に人生を捧げるのは、愚かなことだ。
しかし、そんな娯楽が、誰かの人生を大きく左右し、影響を与えた時、それは芸術になる。
俺にとって、演劇は芸術だ。
芸術には、人生の全てを掛ける価値がある。
小さい頃から教師になりたかった。ワケじゃない。
でも今、俺は、演劇を教える教師になりたい。
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入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
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支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
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