セーニョまで戻れ(第1.5部)

寒星

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01 zuruckhalten(ツリュックハルテン):抑制して弾く

02-4 雨は夜更け過ぎに雪に変わり、そして泥と混じる

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「……俺があの教師の尻を蹴飛ばすには身長が足りなかったから?」

 弟が噴き出した。マグカップの中身が零れないように堪えているのだろうが、背中を丸めて、かぶったブランケットがずり落ちないように自分の体を抱きしめて、弟はそれからしばらく笑っていた。

「フフ、あはっ……だってのにお前、お前が、だって、あの日突然、庭一面に外国語の詩なんか書くもんだから……あ、あの教師、お前の後ろですっかり青ざめて……ふ、ハハハ……」

 落ち着く頃には、弟の頬はうっすらと赤くなり、首元には汗をかいていた。今の弟にとっては温かい紅茶は熱すぎるのだろう、ちらほらとカップの中に落ちてゆく雪もそのままに手で足元の雪をすくい、それを顔に当てた。
 淡雪は体温にたちまち溶けだし、水滴が弟の頬を滑り落ちておとがいに吊り下がる。それも一滴、二滴と続けばついに落ちて襟元を濡らした。

「俺はただお前が、あの教師の尻でも叩いてくれたら満足だった。枝をやってお前をそそのかしたのは俺で、あとは俺があの教師の無礼をあげつらえば済む。そうすればあの教師は家からの解雇通知を晴れ晴れとした気持ちで受け取り、残りの人生を、あの子供はとんだ馬鹿者だったと嘲笑いながら穏やかに生きていけるはずだった」

 だが、現実はそうはならなかった。
 現実はそうではない。
 

「弟」
「うん?」
「俺は別に、あの教師の自尊心をへし折るためにブリテン島の御伽噺を綴っていたわけじゃない」

 弟が首を反らし、怪訝な顔をした。

「当時の俺には今ほど兄の自覚は無かった。それでも、お前が俺の弟だということは理解していた。俺にはお前を監督し、お前を危険から守る義務があることぐらいは理解していたさ」
「もしかして怖い話しようとしてないか?」
「遠くへ行くな、と俺が言ったらお前は喜び勇んで崖のほうへ走っていく。大人しくしていろ、と言ったら反発しろと言っているようなものだ。
 だから俺はお前がくれた枝で庭に御伽噺を延々と書いていた。そうしていればお前は自然とその場に留まり、注意深く足元を見ているだろう」

 弟が軽く左手を浮かべた。静止を求めようとしたのか、軽く開いた手のひらがヒースに向けられている。手のひらは雪を掴んだときの名残で濡れていた。ピアノを弾く弟の手のひらは広く、それ以上に指が長い。
 弟の誕生日祝いの品に指輪を加えようかとヒースは思った。
 いい考えだった。検討に値する事柄だ。

「やはり俺の考えは正しかった。俺が兄であろうとし、お前が弟であることで、あらゆる問題が解決される。お前に降りかかる障害は意義をなくし、お前にも喜びがもたらされる」
「あー」弟は目を泳がせた。「そういえば会った時から思ってたんだが、顔が赤いな、熱があるんじゃないか? さっきから言動も支離滅裂だ」
「弟、アカデミーを出たら俺と暮らそう」
「人を集めなきゃな」弟は手首を回した。「あとは保健所に連絡か? この知能が高いゴリラを叩きのめせるだけの人手が必要だ」
「お前には俺が必要だ」
「そうだな、そしてお前に必要なのは睡眠薬だ。心配するな、幸い人間の体にはおあつらえ向きに穴がたくさんある。どれかに入りゃいい」
「俺と喧嘩がしたいのか?」
「そういうことだ」
「いいとも、勿論だ」ヒースは笑顔で右手の紅茶を飲んだ。「左手だけで相手してやる、かかっておいで」

 そして結果から言えば、やはりこの日もヒースが勝った。そうなることが当然のこととはいえ、弟はほとんど毎日部屋に籠ってピアノを弾いているだけとは思えないほど健やかに、そして強靭に育っていた。

「あと数年もしたら、片手で相手してやるなんて格好をつけることも出来なくなるんだろうな……」

 気絶した弟を左腕で抱きかかえ、ヒースは中庭に面したバルコニーの段差に腰かけて紅茶を飲んだ。保温性に優れたカップに注がれた紅茶はまだ仄かに温かく、そして甘い。
 崩した自分の両足の間に座らせ、懐に抱きこんだ弟の体は重く、それもまた着実な成長を感じさせた。もう二十一歳だ。まだ二十一歳とも言える。

 世間一般的な兄弟というのは、なかなか信じ難いことだが、その象徴の絶頂期は幼少期にあたり、十代も後半になれば自然と互いへの責任を互いの合意のもとで放棄してしまうのだという。兄弟というのは通称になり下がり、それは緊急装置のような、あるいは命綱のような、けして途切れないが、有事の際にのみ思い出されるような存在として仕舞いこまれてしまうらしい。
 だがヒースにとって兄弟とは、兄と弟の間に横たわる距離や概念ではなくて、個人と個人を強烈に意味付ける定義そのものだ。ヒースは何よりもまず兄であり、ケヴィンもまた何よりもまず弟だ。

 そこまでしなくてもよいのではないか、とごくわずかな一部の人間はヒースに言う。君がそこまで弟に尽くさなくてもよいのでは、と。同じ兄という責務を負うものでさえ。
 そこまでしなくてもいい、と。

 言われるたびにヒースは思う。そこまで、とはどこまでだ、と。
 ヒースは何も自分の体に鞭打って弟に尽くしているわけではない。ヒースにもヒースの時間があり、それは事実として、ヒースが弟に対して何かしている時間よりよほど多い。
 それこそ、一般的な兄弟たちが兄弟としての象徴を果たす幼少期に、ヒースは一切何もしてこなかったのだ。あの頃のヒース・カタギリはただケヴィン・カタギリから二年早く生まれただけの子供でしかなかった。
 だから二歳下の弟が危険を冒さないよう注意を払っていたし、彼の安全について自分に責任があることは理解していても、それだけだった。

 あの頃のヒースは無自覚で、そして怠惰だった。

 そして何より致命的なのは____そんな無自覚な兄に対して、弟は自覚的だった。
 そのことをヒースが思い知ったとき、既にヒースはもう十五歳だった。十三年間も明らかな事実に気づかずにのうのうと生きていて、あの夜ヒースはようやく思い知った。
 ヒースが誘拐され、その誘拐犯の拠点からヒースが自分の足で、傷一つなく帰宅したあの夜。

「弟、」

 ヒースはついに両手を自由にし、その自由になった両手で弟を抱きしめた。その全身にはまだ熱を持っていて、背後から前に回したヒースの両腕は弟の鼓動を感じた。体のあちこちには雪が纏わりついているが、それらは音も無く溶けて毛先や肌の上を滑っていく。

「お前が俺を追い越してしまうまでに、俺はお前にどれだけのことをしてやれるだろうな?」

 他でもないヒースの掌底によって赤くなった左頬にこめかみを当てれば、響くような熱とざらついた皮膚の感触。

「あるいは、お前がずっと……」

 その先をヒースは口にしなかった。例えほんの冗談でも、兄が弟の成長を妨げるような、足を引っ張るような言動は慎むべきだ。ヒースは弟の成長を願っているし、彼が彼自身の理想へ到達できることを祈っている。
 けれども、そのために弟自身が傷ついてしまったら、ヒースはそれでもなお弟の自主性を尊重すべきだろうか?
 もう弟は子供ではない。ヒースが御伽噺を書いてみても、諳んじてやっても、もう弟はそれだけに夢中になってはいないだろう。それこそ今の弟は既に自分で物語を作り、音をつけ、それに調子をつけて歌うことを覚えた。
 
 ____お前がアカデミーを卒業したら、そのときは。

 ヒースはうっすらと考えていたことを、このとき再考した。弟自分は死ぬまで、そして毎日、如何なる時間と場所においても兄と弟である。有事の際にはっと思い出す命綱ではなく、毎朝毎晩鏡を覗き込んだ時に自分を見つめ返してくる眼差しだ。

(だが____お前はこんなに大きくなった)

 知見を深め、多くの友人を持ち、慈しみを覚えて、自分で自分へ喜びをもたらす術を持っている。
 お前が何処かへ行こうとするなら、俺はもはやそれを止めるべきではないのかもしれない。お前はまだ俺には届かないが、それでも十分に成長した。
 お前が多くの者を愛し、それらも十分にお前に報いているのなら、お前はそれで自分の身を守ることも、自分の船を進めるための櫂とすることも出来るのだろう。
 きっと、年が明けたら。
 アカデミーを卒業したら。
 あの馬鹿げた白くきらびやかな張りぼてが、精々お前の栄光の一部に加わりたいとするなら。
 その時は俺もまた、お前の歩く道から退いて、お前を見送ることにしよう。
 ヒースは密かに、しかし多大な苦しみを自分に強いてそう決めた。

 この決断が、間もなく最悪の事態によって覆ることになるなど知らずに。
 ヒースにとって弟以外がどうでもよいように、ヒース以外にとって、ヒースの愛する弟は時として路頭の小石と同じように数えられるのだということを、ヒースは思い知ることになる。
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