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02:アッチェレランド:だんだん速く
14−2 素晴らしい休日
しおりを挟むケヴィンは自分の背後にイゼットが立っていることに気づいていた。
「広いね」
イゼットが言った。全く平坦な声だった。「君と僕が寝ても大丈夫そうだ」
「悪いが、これは家主用だ」
「そんな付き合いたてのカップルじゃないんだから」
「起き抜けにお前の髪に首を絞められるのはもうごめんだ」
「強情だな」
ケヴィンが畳もうとしていた毛布の端にイゼットが腰掛けた。思いがけない重さにケヴィンの手から柔らかい布がすり抜ける。
「それとも、身を固めたのかな?」
「何の話だ」
イゼットはベッドに腕をついて肩をすくめた。そのまま寝てしまいそうな気怠い視線をケヴィンへ向ける。右側の頬だけが廊下から漏れる光で粉をはたいたように輝いている。
「アーキテクト君の押しに負けたのか、カデシュ君とよりを戻したのか。僕としては後者と睨んでいるんだけど、どうかな」
「お前、チェロを辞めて今度は探偵になるのか?」
「勘だよ」
「当てにならない」
「水を買ってこなかっただろ」
と、イゼットが言った。自分の顔の輪郭に手を添えて、まるで顕微鏡の倍率を操作するように指先が頬を撫で、止まる。目はケヴィンを見据えている。「コップを二つ出して、洗わなかった。最近二つとも使って洗ったことがあるから。水ももう補充してある。でも塩胡椒は置いてない。人を招いたけどコーヒーを出して帰っていった。オフの日も外食が多い。それから——SNSでカデシュ君行きつけのケーキ屋が話題になってる、その写真に君が映り込んでいた」
「悪かったよ。お前は探偵になれ。ISCを辞めたら事務はやってやる、一日四時間、週五日。土日祝日は休み」
「なら、今すぐ仕事を辞めてくれ」
「ホリデーシーズンも休みだ、残業はなし。ボーナスは最低年に一回、三ヶ月分」
「いいよ」イゼットは慶応に微笑んだ。「さあ、ISCの人事に連絡をして」
「随分気前がいいな。俺に借りでもあるのか?」
ケヴィンは鼻で笑ったが、イゼットはそれに笑顔を返さなかった。
イゼットはケヴィンに隣へ座るよう言った。中途半端に畳まれたままの毛布もそのままに、ケヴィンもベッドに座る。ベッドが軋んだ。マットレスは上等だが、骨組みは明らかに年代物だ。勿論悪い意味で。
「手を貸して」
イゼットは言った。言っておきながら、言った時にはもうイゼットの手がケヴィンの手を捕まえていた。
「震えているね」
なんという事もなく、呆気なくイゼットは正鵠を射抜いた。一見してもわからないほど小さく、不規則に痙攣するケヴィンの手を自分の手に乗せて、蓋をするようにもう一方の手で挟む。「それに冷えてる」
ケヴィンはすぐに、目の前の男が、ただ一人の心の底からの友人とも呼べる男が、自分の致命的な記憶に関わっていることを確信した。
今までもそれらしい予感はいくつもあったのだ。だがそれは予感に過ぎず、その予感はどれもここまで最悪の確信に至るものではなかった。
あれだけ見事な鶏肉を、レストランが料理もせずに贔屓の演奏家に送るだろうか。
料理人が、料理もせずに、手も加えずに、それをプレゼントするだろうか。
もしそれがイゼットからの要望で、あんなに生々しいままで譲られたなら、そうまでして譲られた肉を、イゼットが扱いに困るのは筋が通らない。
イゼットはただ、ケヴィンの手が震えるかどうかを試すためだけに首無し肉を持ってきた。
「医者に聞いたんだけれどね、記憶喪失には原因が二つあるそうだよ。脳に損傷を受けて物理的に記憶を失ったり思い出すプロセスが実行できなくなるものと、脳自身がその記憶を思い出さないように故意に頭の奥に仕舞い込むもの」
イゼットの両手がケヴィンの手をひっくり返した。
「君は交通事故にあったが、体に大きな怪我はなかった。脳にも損傷はなかった。でも君は記憶喪失になった。ここ一年ほどの、中途半端な期間の記憶だけが思い出せない」
指と指の隙間を、自分ではない人間の指が埋める。
「脳が自分で行う記憶喪失にはトリガーがあって、その人が受け止め切れるストレスを超えた時に、引き金が引かれるんだって」
笑い声がした。リビングのテレビがつけっぱなしだ。誰もいないリビングは電気がついていて、二人いる寝室には電気がついていない。
もう日が暮れた。寝室の中は澱んだ紫色の暗がりがとぐろを巻いている。
グリルの中で肉が焼かれていく。まだ焼き上がってはいない。肉から汁が滴り、鉄板に触れて泡立つ。
「あの事故が最後の引き金になったんだね、でもあの事故はただのきっかけに過ぎない」
君はとっくに。
イゼットの口が言葉を言い切る前に、それは黄金色の髪の向こうへ掻き消えた。
ベッドが激しく軋んだ。床も軋んだ。板張りの床に、おそらくベッドの脚痕がついたことだろう。だがそのことに気を払ったものはいなかった。
「俺は誰を殺した?」
ケヴィンは自分が冷静を保っていると信じていた。手の震えは止まっている。イゼットが離さなかった右手はそのままに、左腕一本で肩を突き飛ばし、押さえ込むのは容易だ。
「知っていることを全て話せ。イゼット、お前の為だ」
「……お前の為、とは大きく出たね」
イゼットもまた平静のままだった。暗い色のシーツと毛布が絡まった上に長い髪が花びらのように広がっている。いくつかは二人の腕に絡みついていた。解けないのは、二人の肌の温度と湿度のせいだ。
アハハ、と作ったような笑い声がした。テレビだ。夕方の子供向けの短いドラマか何かだろう。間違いなく二人以外には誰もいない。
「君が僕に何をしても、それは僕の為にはならないよ」
「なら俺の為に話せ。友達だろ?」
「それが君の望みならそうするさ」イゼットは苦しそうに眉を寄せた。肩に感じる圧力がそうさせたのだろう。「だが忘れるなよケヴィン、君が今知ろうとしていることは、君自身が受け止められずに君自身で忘れたことだ」
「言え」
「僕は……」
イゼットが何か言おうとしたが、ケヴィンが黙らせた。繋いだ手を握る。容赦なく。けれども一瞬だけ。
傷つけたいわけではないのだ。脅迫もしたくはない。だが、そういう手段があることは明かさねばならない。
「イゼット、質問の答え以外は聞きたくない」
アハハ、とまたわざとらしい笑い声がした。今度は中々止まなかった。
けれどもいずれ笑い声は聞こえなくなった。イゼットの喘ぐような息遣いが代わりに聞こえた。
「君は」
イゼットはもう鼻がぶつかる距離のケヴィンから目を逸らさなかった。その美しいヘーゼルの瞳が語っていた。
もう分かっているんだろうと訴えていた。
「僕の——妻を殺そうとした」
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