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第一章 花嫁試験編

8. 図書室の少年

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 今日の試験も早々に終わらせたアレクサンドラは、試験会場を退出した。午後は座学の試験が一個だけだったため、時間が空いている。
 
 (……そういえば、図書館があるのでしたわね)
 
 明日は地理学と法律学の試験だ。今さら勉強しなくても最高の成績を取る自信はあるが、記憶を補強しておけばよりスピーディに解答できるかもしれない。

 図書館は城の本館を通り抜けた反対側にあった。灰色の石壁で覆われた建物の中はひんやりとしていて、寒く感じるほどだ。入り口からすぐの場所にテーブルと椅子が並べてあり、窓から日光が注いでいる。読書コーナーだろう。窓からは長椅子を並べた中庭も見える。本棚は奥にあるようだ。

 入り口付近にいた司書へ花嫁候補であることを告げると、注意事項を伝えてくれた。

「館内ではあまり大きな声を出されないようにお願いします。ご滞在中は本を持ち出して頂いても構いませんが、城外へは持ち出し禁止です。あと、二階の奥は禁書庫エリアですので近づかないで下さい。無理に入ろうとすると警報が鳴ります」

 張られた案内を頼りに棚を見つけ、何冊か取りだして物色する。なかなか希望する本が見つからず、棚を移動した。
 
 「この本は読んだことがありますわね。うーん、この本はちょっと簡単すぎますわ……」
 
 独り言をつぶやきながら本をたどるその手が止まる。

 「これは!トレーノス戦記のマルティーノ版ではありませんこと!?」

 いつの間にか、歴史文学の棚に移動してしまったらしい。そこには、トレーノス戦記の本が何種類も置いてあった。

 トレーノス戦記は歴史家コラント・バロニエが編纂した初版に始まり、様々に内容を改変されたものがある。それぞれ執筆者の名前を取り〇〇版と呼ばれている。
 特に人気が高いのは王国暦2000年頃に書かれたサミュエル版だ。初代魔王が魔族の争いを平定するという大枠のストーリーは同じであるものの、オリジナルの人物が登場する、史実にはないエピソードを練り込むなど、かなり創作色が強く、ファンの間でも賛否両論のある歴史小説だ。
 
 (さすがは魔王城。我がデュヴィラール家ですらなかなか入手できないマルティーノ版が置いてあるとは……!)

 マルティーノ版五冊を手に取り、アレクサンドラはホクホクしながら読書コーナーに向かった。コーナーの横には中庭へ続く扉がある。
 せっかくの良い天気だ。外での読書も悪くはない。

 司書にひとこと断りを入れて中庭へ出た。庭園の奥にはテーブルと椅子を備えたガゼポがある。あそこならゆっくり読めそうだ。
 誰もいないと思ってガゼポの階段を登った所で、椅子に座っている人物に気がつく。こちらからは死角になっていて気づかなかったのだ。

 「君は……?」

 読書をしていたその人物は、アレクサンドラに気づいて顔を上げる。端正な顔立ちの少年だった。年の頃は自分より少し年下だろうか。
 アレクサンドラは慌てて一礼をする。

「アレクサンドラ・デュヴィラールと申します。空いている椅子を探していたもので……。読書中にお騒がせして申し訳ございませんでした」
「ああ、花嫁候補の女性ひとだね。構わないよ。ここは城に滞在している者なら誰が利用しても良いのだから」

 微笑みをたたえながらこちらを見た少年が、ふと手にした本に目を止めた。

「それはトレーノス戦記のマルティーノ版だね」
「はい。以前からこの版を読みたいと思っていたのですが、なかなか入手できなくて。さすがは魔王様の図書館でございますね」
「他の版は読んだことがあるの?」
「サミュエル版はもう何十回も読んでおります。ディディエ版とリュディガー版、キアーラ版も読みました。新作のヴァレリー版も先日入手しましたので、いま読んでいるところですわ」

 それを聞いた少年が目を輝かせた。

「そんなに読んでるの?実は僕もトレーノス戦記が好きなんだ。少し話を聞かせておくれ」

 座るよう促され、アレクサンドラはそれに従った。向かい合う少年の短く揃えられた黒髪には艶があり、来ている服はかなり上等な布を使用している。高位貴族の子息に違いない。

「アレクサンドラ、だっけ?僕は……ヴィルと呼んでくれ。女性でトレーノス戦記が好きっていうのは珍しいね」
「よく言われますわ」
「どの版が好きなんだい?」
「王妃の視点で描かれたキアーラ版好きですが、やはりサミュエル版ですわね」
「僕もサミュエル版が好きだよ。周囲にはあんなのは作り話だ、読むなら初版かディディエ版を読めといってくる者も多いけどね」

「コラント・バロニエが偉大な歴史家であり、彼の書いた初版本が史実準拠であることは否定しませんわ。しかし、山あり谷ありのストーリーで読む者を魅了し、トレーノス戦記をここまで広く知られる人気小説にしたのはサミュエルです。その功績は称えられるべきだと思います」

 喋っているうちに感情が高ぶってきたアレクサンドラは、どんどん早口になってきた。

「我々は物語に描かれた人物の信念を貫こうとする生き方に憧れ、時に熱い闘いに心踊らせ、時に悲しい別れに涙するのです。それを否定するのならば、最初から王国史でも読めばよいのですわ」

 一気に語ってから我に返る。相手の反応も省みず、長々と高説を垂れてしまった。引かれてしまっただろうか。

「その通り!僕もその意見には賛成だ。物語を読む、というのはそういうことだよね」

 ヴィルと名乗った少年は、身を乗り出して頷いてくれた。心配は無用だったようだ。しばし、二人はトレーノス戦記について語った。

「どの章が好きなの?」
「やはり剣の章でしょうか。ミュルミドーン族との闘いのシーンは何度読んでも心躍ります」
「へぇ、勇ましいね。女性なら、恋愛のシーンが好きなのかと思ってたよ」
「女が全て色恋が好きとは思わないで頂きたいものですわ」
「はは、そうだね。ごめんごめん」

 盛り上がる会話に水を差すように鐘が鳴った。ヴィルが慌てて立ち上がる。

「もうこんな時間か。すまないが、用事があるので失礼するよ。楽しいひと時をありがとう」
「いえ、こちらこそ有意義な時間を過ごさせて頂きましたわ」
「毎日とはいかないが、僕はこの時間ならよくここにいる。君さえ良ければ、また話がしたいな」

 そう言いながら軽く手を振り、彼は去っていった。アレクサンドラも、また話がしたいと思ってしまう。ここまでトレーノス戦記について濃い会話ができる相手は初めてだったのだ。

(それにしても、あの方、どこかでお会いしたような気がするのですが……思い出せませんわ)
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