ユリオリ

不安定なアスファルト

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#1

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 放課後の教室に、少女は少女を呼び出した。恋する少女は夕焼けがライトアップしたステージで待っていて。実直な少女は「お話したいな」と誘われ「どうか来て欲しい」と請われて、断る理由もなく舞台に上がる。
 暖かなオレンジと濃度の高い二酸化炭素で満ちた、二人だけの微睡んだ密室。上々だ。冗長な口上なんて好まない。招待状を送ったのは、確実にあなたを手に入れるため。私はあなたを知っている。イシューさん。繊維の「維」に難しい「楸」の字でイシューさん。毅然として、その奥には深い優しさがあって。凛としたストレートヘアと、長い睫毛に守られたブラウンの瞳。背が高くて脚が綺麗で姿勢が整っていて、私を恋に落とした張本人。
「来てくれてありがとう」
 震える声でそう告げると、あなたは頷いて
「私も、絵合さんとは話してみたかったから」
 なんて言ってくれる。とても真っ直ぐな目で、そんな嬉しいことを言ってくれる。私の心もこの教室の空気も、クリーム色で輪郭が判然としないのに、あなたはこんなにも一直線だ。だから私は、あなたに恋したよ。だから私は──
 
「その、イシューさん」
「うん」 
 
 想いが先に動いて体の内側から押してくる。制御出来ない私の精神は、実のところ手放し運転を望んでいた。事故っても良い。故意で良い。私はあなたが欲しいの。私はあなたの恋人になりたいの。その欲を満たす為に必要な強引さを私は知っているから、私は机の上に膝を乗せる。
 あなたが背筋よく座る席。するする私の肉体は動いて、しなやかな豹にでもなった気分。照らされた表情と鼻筋を境にして反対側の影、コントラスト。いつもよりドラマチックに鳴る心臓。ポケットに仕舞ったリップクリームが太腿に感触を与える。私は完全に机に乗っかって、そして右手をそっと伸ばした。怖がられないようにゆっくりと、でも有無を言わさぬよう滑らかに。灯障維楸。あなたの頬、私の指が触れてしまった。私はこの時を夢見てきた。堰を壊してしまおう。綺麗なあなたに、私の熱を混ぜてしまおう。
 顔を近付ける。
 唇が言葉をなぞる。息が真っ白に想いを吐く。
「好き──」
 ぼやけそうになるイシューさんを見失わぬように、私の心が惑わぬ内に、告白してしまった勢いのまま、私はキスを──
「やめろ」
「うひゃぃ!?」
 トン、と衝撃が肩を通る。たった一言が痛い。そうして私の上体はゆっくりと仰け反る。ぐら、とバランスが崩れた。けれど私は──イシューさんに突き飛ばされた事実が未だ呑み込めずに、呆けたまま落下した。
「痛い! フツーにすごく痛いよ!?」
 尻餅をついて床に転がった私は……とか冷静になれないよ! いたい! 追い打ちに机が倒れてきて派手な音を立てた。ロマンチックな静寂も甘い脳内イメージも、机の中から飛び出した教科書やノートと同じ様相。散り散りになって、もうどこにも存在しない。拒絶された事実と痛みと、みっともなく転けた体勢を客観視して恥ずかしいのがミックスされて混乱してしまう。
 そんな少女に対してクラスメイトを机から転落させておきながら全く表情を変えない彼女、灯障維楸。教材と机の瓦礫に埋もれた少女を助けるでもなく、睨んだ目線がぐっと寄る。──ああ、私の真横で膝をついてしゃがんでくれたんだ。助けてくれるのかな──なんて甘かった。彼女の方から縮めてきた物理的な距離に、恋する少女の心臓は惚けたまま無邪気に跳ねる。「殺気立った」と表現したって間違いじゃない雰囲気のイシューさんを見るに、ドキドキしてる場合じゃない筈だけど。浮かれた私にはそれが分からなかった。
「いきなりキスしようとして、一体何のつもり?」
 冷たい口調。棘を隠さない言い方だった。ようやく嫌悪が私の心に伝わってきて、呑気な危機感が今更息急き切って駆けてきた。
「わ、私……あなたのことが好きで──」
「好きなら突然キスしても許されるって?」
 遮られてまで突き付けられた言葉が、恋のドキドキよりも深く心臓に刺さる。イシューさんの瞳の奥で火が揺れている。揺らいでいても、それは火であることは変わらない。多分動揺が無い訳じゃないんだろうけど、それより強い意志があるんだ。対して、弱くて狡い私は禁句を持ち出してしまう。
 
おんなのこに好かれるのは、嫌……?」
 
 論点のズレた、私の奥底に眠る不安が漏れてしまって。まさかここまであからさまに拒絶されるとは思ってなかった私のブレが、こんな卑怯な言葉を持ち出してしまった。
 あなたは一瞬目を見開いて、それから鋭く目を細めた。
 怖い。
 嫌われるつもりなんてなかったのに。
 
「もしあなたが……私の好きな男だったとしても、いきなりは嫌。無理矢理は嫌。それが問題で、男女どうこうは問題じゃないでしょ」
「っ……」
……その通りだ。私は何を勘違いしていたんだろう? 私の事情で、今まではこれくらい攻めたら陥落してくれる女の子しか知らなかったからって、皆がみんな私を許容してくれる訳じゃない。当然だ。なのに私は、そんな簡単で大事なことを忘れて……言い訳はいっぱいある。焦ってしまうこと、暴走してしまったこと、不安を紛らわしたい気持ち。
「ほら、手」
 差し伸べられた慈悲に頼ることがどうしても出来なくて。私は泣きそうになるのを堪えながら、立ち上がって逃げるように教室から出た。
 
 そうして二度とイシューさんに会うことは──
 
 
「おはよう、絵合さん」
 翌日、昨日と同じ形をしたままの教室。うん。そりゃ、同じクラスなんだから会うよね……灯障維楸さん。イシューさん。強い目が好き。孤高の在り方が好き。肩に触れるストレートの髪が好き。直線に通る声が好き。そんな貴女が、不意に私に挨拶してくれた。昨日の今日で絶対無視されると思ってたのに、まさか声を掛けられるなんて。表情は穏やかで、わだかまりを感じさせない。そうしてくれているのだろう。なら、私がすべき事は一つだ。まずは謝らなきゃ。
「お、おはよう……その、昨日はごめんなさい」
 さらり、と髪を流す仕草。目線が斜めに流れる。綺麗だ。
「分かったんなら良いよ。それより、怪我とかしてない?」
「うん、大丈夫」
「そっか。私こそ、ついカッとなって……痛かったよね。ごめん」
 ああ──どうせなら怪我しとけば良かった、なんて良からぬ考えが過ぎる。傷を理由にしてもっと押して……いやダメダメ、そういうのが駄目なんだって、昨日イシューさんが言ったんじゃない。
 どうしても私は私の考え方から抜け出せていない。結局はイシューさんの気持ちを考えられていない。私のやり方は「まず先に私を意識させる」っていう力技だから。私は私のやり方で恋を成就させてきたから、本来はじめに考えるべき「相手の気持ち」を蔑ろにしてたんだ。
……なら、こんな私は。
 きっと貴方には釣り合わないよね……
 
「絵合さん?」
「ひゃい!?」
 心配そうに私を覗き込むイシューさん。考え込んで黙ってしまってたんだ、私。目が合う。鼻先が触れそう。ち、近いよ……瞳はやっぱり優しくて、何度もフラッシュバックした昨日の冷たい目とは全然違う。
「あの、大丈夫?」
「はい! 大丈夫です!」
 あなたが私を気遣ってくれてる状況については全く大丈夫じゃないけれど。
「なら良かった。それでさ、私お返事してなかったよね」
「返事……?」
 恋に正常な呼吸を阻害されている私はすぐに理解出来ない。
「ほら、その……昨日絵合さんが……」
 珍しく歯切れの悪いイシューさんを見てやっと得心がいった。そうじゃん、私「好き」って告白してたじゃん。答えを待つ前に唇を奪う算段だったから忘れてた。いや、そもそも答えを求めてはいなかったんだ。だって「いつも通り」私に恋させてしまえば付き合うなんて当然の流れだから。そうだ、私はこれまで女の子に最初から拒否されたことなんて無かった。運が良かっただけだったんだ。
「でも……私は嫌でしょ? あんなことをしてしまったから」
「行為は嫌だった。でも、あなたが嫌な訳じゃない」
……言うは易く行うは難し、なんて言葉があるけれど。イシューさんの視線は揺るぎなく直線で。一秒の間も置かず告げられた言葉。こんな風に言える人がどれだけいるだろう。「言う」ことだって十分難しいことなのに。ああ、なんて清いひとなんだろう。ううん、そんな貴女だから私は恋をしたんだ。
「だからさ、その……」
 またイシューさんが言葉に詰まっている。というか、恥ずかしがってる? ほんのちょっぴり頬が紅い。昨日私があれだけ迫った時は夕暮れにも染まらなかった表情が、今は薄く紅潮している。すごく、かわいい。普段クールだから破壊力がすごい。胸がきゅんと締まって肋骨が軋みそう。そのまま砕けて骨の破片が心臓を刺してしまっても、私はイシューさんを好きなままでいられるな……なんて、何考えてるんだろ、私。
 イシューさんは未だ喉の奥の言葉と格闘しているようで、私はじっと待った。返事、と言っていたのにこの反応。少なくとも否定的な予感はしない。でも昨日を思い出すとあんまり期待は出来なかった。花を一輪持っていたなら、「期待していい」「しない方がいい」で交互に花弁を千切っていただろう。現実には私の指が所在なく髪で遊ぶだけだったけれど。
「絵合さん」
 イシューさんは決心がついたようにハキハキと告げる。私の名前がイシューさんの声で再生されるの、堪らない……じゃなくて。私もきっちりぱっちり目を開いて定規で引いたくらい真っ直ぐ見つめ返した。何て言われようと受け止める覚悟を決める。
「私と……」
 息を吞む。
「──お友達に、なってくれませんか?」
 
 
「……はい?」
 意外な答えに変なトーンの声が出る。高校一年生の二学期が始まって三日目。教室が騒がしくなってくる朝の一幕。彼女に返球を待たせたまま、周囲の情報が急速に四方を囲む。目。声。私が木偶になっているのに釣られてイシューさんが周りを見渡す。ああくそ──忘れてた。昨日とは違うんだ。観客の存在に今更気付いて頭を抱えたくなる。いや、後回しだ。まずはとっても嬉しい申し出に応えよう。
「イシューさんが良いなら、是非」
 ぱあ、っと笑顔が咲く。あれ、イシューさんってこんなに明るく微笑むんだ。一学期の間ずっと見てきたけど、こんな笑顔は初めて見る気が……
「じゃあ、よろしく……絵合さん」
 好きな人の、初めて見る笑顔が自分に向けられていると悟り、私は思わず歓びの雄叫びを上げそうになる。昨日はほんと、家に帰ってからずっと落ち込んでいたけれど、何とか今の結末になってくれて良かった。とりあえずは一件落着にしておこう。
 
 兎にも角にも、私達の関係は始まったのだから。
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