星幽のワールドエンド(第一章完)

白樹朗

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ワールドエンド邂逅編

夢と青空

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 ――その白い部屋を、至恩はよく知っていた。

 風が、吹いている。梅雨明けの、暑く息苦しい夏風ではない。ひらひらとはためくカーテンの向こうには粉雪が降っている。目に痛いほど鮮やかな夏の空とはまるで違う、冬の空らしく、薄い灰色がかったブルー。
 窓の外の梅が、寒そうにその細い枝を揺らしていた。

 清潔な白いカーテン、白いシーツ、白いベッド、白い天井。そして、窓際には四角に切りとった平坂の空。

 この部屋を、至恩は知っている。
 幼い頃、至恩は身体が弱く、入院することが多かった。ここは、至恩のかかりつけである菅原医院の角部屋だ。
 遠くに平坂タワーを望めて、すぐそばに枝ぶりの立派な梅の木が見えるから、間違いない。

 いまだ目覚めない頭で、至恩はぼんやりと考える。
 別に、入院するようなことをしたような覚えはない。今日はレイゼルの買い物をして、亜門になんやかんや絡まれたあと、コウと荷物を持ってきて、そのままずっと家にいたはずだ。
 疲れていたから簡単にキーマカレーを作って、風呂に入って、寝た。
 レイゼルも疲れたのか、七割寝た目をごしごしこすって、よたよた歩きながら部屋に入っていった。その背中を、至恩は見た。

 だから、夢かな、と思う。子供のころの夢。
 いや、入院していたときの記憶はあんまり覚えていないが、喘息がつらくてつらくて泣いていたことだけは記憶にある。そのころはまだ家に父が居て、至恩が入院すると付き添いで一緒にきていた。

(…………あれは)

 まばたきを二度して、至恩はやはり子供のころの夢だと思った。
 北風にはためくカーテンを、一人の男がゆっくりとした足取りで閉める。その瞬間、風になびいた金髪を、至恩は嫌になるほど知っている。

 金髪には種類がある。
 玉藻のような桃色がかったストロベリーブロンドや、コウのような冷めた金髪。
 ツヤと毛根を捨てたコウの髪は明らかな脱色だからさておき、今、志恩の目の前にある髪はまさしく純金というほかない。
 豪奢に輝く黄金の髪は、至恩のそれとは似ても似つかなくて──髪色がまるで違うから当然なのだが、それで幼いころはずいぶん悩んだ。
 川で拾われてきた捨て子じゃないかと誰かに言われたときは、本気で悩んでしょげていたし、大きくなったら髪を金髪にしようとも思っていた。今はもちろん一ミクロンも考えないが。

 そんなことを思い出していると、

「……寒いですか?」

 不意に、綺麗な声が頭上から聞こえた。
 はっとした顔で至恩は顔を上げる。一度も聞いたことのない、でも泣きたくなるほど懐かしい、そんな声だ。

「え、私は寒くなんて……ああ、そうですね。予定日まで、もう一週間ですもんね」

 父が、その人に、難しい顔で自分のコートをはおらせる。そして、ベッドの近くに椅子を引いて座った。

 至恩から見て背中しか見えない父に向かって、その人は嬉しそうに笑って、黒いトレンチコートを豊満な胸に引き寄せた。
 病衣を着た細い肩に、そのコートはひどく大きいように思えた。

「さっき亜門がきてましたよ。いや、面会人を閉め出したらダメじゃないですか……」

 知った名前をつぶやき、困ったように父に答える横顔に、胸が痛いほど苦しくなる。

 息が止まる。心臓がどくんどくんと跳ねて、まるで自分が心臓そのものになったような気さえする。
 声が、出ない。手も足も動かない。目と心臓だけが動いている。生きている。

 ──母だ。

 母さん、母さん、かあさん。

 至恩は手を伸ばして、その人を見上げた。
 母の話をしたからだろうか。こんな夢をみてしまうのは。
 触れたくて触れたくて手を伸ばしても、何か透明な膜が自分と母を隔てていて、忌々しく苦々しいが、どうにもできない。

 夢なのにと苛立ちながら、至恩は母をじっとみつめた。
 至恩と同じ藍色の髪は、胸まで長さがあり、毛先はふわふわとやわらかく波打っている。肌は白いが健康的で、顔立ちは、なるほど至恩に似ている。正しくは、至恩が、似ているのだが。

 そして、今まで知るよしのなかったその瞳は、蜂蜜を濃く溶かしたような琥珀色。それだけが至恩とは違っていた。

「予定日、クリスマスでしたっけ。楽しみですね。えっ、嫌? えぇ……」

 父が何か言ったのか、母が眉を寄せて苦笑いをしている。
 内容は知らないが、変な顔をして至恩は眩しいほどの金髪頭をにらんだ。八つ当たりがてら、膜を叩く。

 母の声は聞こえても、不思議と父の声は聞こえなくて、それが至恩にとっては好都合だった。父の声など、夢の中でも聞きたくない。

「私はいつ生まれてきても嬉しいですけど。血の繋がった家族ができるなんて奇跡、私にはあり得ないと思って──あっ、ねえ、今動きましたよ。ほら」

 母が微笑んで、志恩に手を差し出す。
 だから、志恩も必死に手を伸ばした。伸ばして伸ばして伸ばして、膜に阻まれて届かなくて、ふと気がついた。

 予定日。クリスマス。家族。それは──。

「そうだ。子供の名前、しおん……志恩ってどうですか。未来を見失わないように、この子の道標になるように、志恩。いいでしょう? それから──」

 俺の事だ。

 俺の事だ、俺の名前だ、俺はここにいる。俺はここにいるのに、母さん。

 泣いて、叫んで、膜を叩いても、母は微笑むばかりで志恩に気づかない。
 いや、志恩に気づいてはいるが、分からないのだ。志恩が、なのだと。

「母さ……!!」

 口を開けた瞬間、どこから現れたのか大量の水が喉の奥から流れ込む。
 肺まで満たした水に、なぜか息苦しさは感じなかったが、手足を動かしても浮き上がれない。

 母が、遠のく。
 足を、手を、胸を、腰を、身体のあらゆる部分に、生温い水が絡みつく。至恩の心を宥めるような暖かさの温度が、今はひどく煩わしい。
 急に水の底に引き込まれ、逃れるようにもがく志恩の手を──誰かが下から掴んだ。

『だめだよ、志恩。こんなところにいては、いけない』

 一度も聞いたことのない、でも泣きたくなるほど知っている、そんな声がした。
 はじかれるように振り返って、至恩は怪訝そうに目を細めた。

 そこにいたのは、肌色のナニカ、だった。
 つるりとした楕円のシルエット。大きな頭と、人形のようなちんまりとした手足、ぽこんとしたお腹からは、なにか長い縄のような管が水の底へと伸びている。

「……おまえ……お前は……」

 それ、は至恩に向かってまぶたをひらいた。
 目が覚めるような新緑の瞳。至恩とおなじ緑の瞳をした──今までテレビや保健体育の映像や知識でしか知らなかった、胎児は、至恩に微笑んだように見えた。

 その姿形はもうほとんど人間の赤ん坊と変わらず、とはいえ至恩が知っている赤ん坊といえば三年前の千影だけだが、そのときとまったく同じに見えた。目の色以外は。

「……──俺?」

 自分の赤ん坊のころなど写真一枚も残っていないのだが、何の確証もなく確信して、至恩は驚いたようにつぶやいた。

 胎児は面白そうに目だけで笑って、至恩の手を離した。名残惜しそうに、出来立てのちいさな指先が、一本一本ゆっくりと離れた。

『もうお帰り、至恩。あの子レイゼルが未来で待ってる』

 待たせたら、きっと怒るよ。

 胎児がそう優しく言った瞬間、水がごぽごぽと激しく動き始め、巻き上がった大量の水流が至恩の身体を引きずりこむ。
 微塵もなかったはずの息苦しさが至恩の喉に吹き上がり、肺が水圧で圧迫され、口から水を吐き出した。
 息ができなくて、首を抑えてもがくが、酸素がどこにもない。
 意識が遠のき、意識を手放す寸前、水の向こう側から悲しいほど綺麗な声が聞こえた。

 母の声だ。

「──が、私に似たら、可哀想でしょう?」

 どういうことだろう。
 俺は、貴女に似てよかったと思っているのに。



 /*/



 頬を濡らす涙の生温さで、至恩は目が覚めた。

 目を開ける。見慣れたベージュの天井に、コバルトブルーのカーテンはきっちりと閉められ、朝日の一つ入ってこない。黒いラックには漫画本や教科書が雑多に並べられ、隣りにはシルバーの勉強机がある。壁にはきちんとしわの伸ばされたワイシャツと学ランがぶらさがっている。

 見紛うことなく、自分の部屋だ。

「シオン」

 涙があふれて、視界がゆがむ。
 不意に視界がクリアになり、まばたきした先で、整った指が至恩の頬から離れていった。

 まだ夜明け前の薄暗さが広がる部屋のベッドの脇に、レイゼルが立っている。どれだけ暗くとも燃えるように輝く赤い瞳が、今にも泣きだしそうに至恩を見ている。

 レイゼル越しに部屋を確認し、至恩はまだぼんやりとした頭で、ぽつりと言った。

「……レイゼル」
「ねえ、シオン」
「レイゼル、あのさ」

 悲しいのか苦しいのか嬉しいのか、ぐるぐると渦巻く感情のすべてが、まだ泡沫の中にある。
 引きずられるように涙が目じりにたまって、それをレイゼルがそっとぬぐった。

 泣いているのは俺なのに、どうしてお前のほうが泣きそうなんだろう。苦笑しながら、至恩は言った。

「……母さんが、いたんだ」

 それだけだ。それだけなのに、感情がうまく機能してくれない。
 夢なのが悲しいのに、夢でも嬉しい。
 身体と心がバラバラに切り離されたように、至恩の意志が伝わらない。レイゼルを部屋に戻して、もう布団をかぶって寝ないといけないのはわかっているけれど、身体がそれを拒否している。

「……うん。そうね。会えてよかったね、シオン。でも」

 レイゼルの手が、至恩の前髪に触れる。前髪から頬になでて、レイゼルは寂しそうに言った。

「あんまり、過去に行かないほうがいいよ。帰れなくなるからね」

 シオンがいなくなったらみんな悲しむし、私も、悲しいから。
 心配したんだよ、シオン。

 レイゼルが至恩の首にぎゅっと抱きつく。肩口にちいさな頭が収まって、シャンプーの匂いがふわりと香った。

 子供の体温の暖かさや、他人の身体の重さに、やっと感情が現実に戻ってきたようだった。
 過去といっても夢の話だし、帰ってこれないというレイゼルの言葉の意味は半分も分からなかったけれど、志恩はとりあえず目の前の問題を対処することにした。
 具体的には、ようやく動き出した腕で、レイゼルが落ちないようその背中を支えて抱き寄せる。ぐすぐす鼻を鳴らす音が聞こえて、至恩はちょっとだけ笑った。

 ──それで、あんなに泣きそうだったのか、と。心配かけたなあと目を細めて至恩は、レイゼルの髪にやさしく指を入れて、二度ほど梳いた。

 そして、静かに目を閉じる。夢はもう見なかった。



 /*/



 今日は、太陽が見当たらない。
 とはいえ、清々しいほどの青天で、夏晴れだったから、気分はよかった。
 普段よりずっと早く出てきたからか、ラッシュ前の駅前に人は少なく、校門前はもっと少ない。夏服に衣替えをしたから、身体的にも身軽で、至恩は鼻歌でも歌いそうな勢いで通学路を歩いていた。

 誰もいない学校というのは、妙にテンションが上がる。昇降口までの桜並木を歩きながら、至恩は空を見上げた。青々とした桜の葉の間から、澄み渡ったブルーが広がっている。
 風もなく、気温も、そんなには高くない。過ごしやすい天気になるでしょうとお天気お姉さんが言っていた通りだ。

「……あれ?」

 気分よく歩きながら、ふと右側を見る。
 至恩は朝早く出てきたが、それはそれとしてもっとはやく学校に来ているであろう運動部の朝練の声が、どこからも聞こえなかった。

 不思議そうに足を止め、至恩は校庭に降りた。普段は運動部がひきめしあっているから、踏み入るのには勇気がいる。朝早くの特権だな、と思う。

 それはさておき、校庭には誰一人いない──いた。
 たった一人だけ。どの運動部にも所属していない(よく頼まれるらしく助っ人はしているらしいが)幼馴染の姿をみつけて、至恩は手を振った。

「瑛里奈!!」
「えっ?」

 瑛里奈が驚いたように振り返る。
 誰もいないと気を緩めていたときに声をかけられると、そりゃびっくりするよなあと思いながら、至恩は足早に駆け寄った。瑛里奈は、校庭の真ん中にいたのだ。

「……至恩?」

 瑛里奈が大きな瞳をさらに大きくさせて、至恩を見た。
 手入れの行き届いた黒髪を右に振り、小首をかしげて、口を開く。

「至恩が、どうしてここにいるんですか?」

 瑛里奈にそう言われ、志恩は一度、校舎のほうを向いた。
 まだ立って数十年も経っていない校舎は新しく、白光りしている。小等部、中等部、高等部に校舎が分かれていて、昇降口から入って右側の一階にある1Aの教室を見ながら、志恩は言った。

「どうしてもこうしても、今日、日直だから早く来たんだけど」

 日直じゃなかったら、あと五分は寝てるよ。
 両手を広げて言った軽口めいたその言葉に、瑛里奈はじっと志恩をのぞきこんだ。

 ──志恩の何もかもを見透かすような、透き通ったブルー。至恩の頭半分ちいさい瑛里奈にびっくりするほどの近さでのぞきこまれ、至恩は身じろいだが、相手はそんなことには微塵も気が付いていないようだった。

 今朝、念入りに顔は洗ったきたが、それでもちょっとだけ残った泣き痕を見つけられたら困るんだけど、と思う。恥ずかしい。しかし、相手はそんなところはみていないようだった。

 どうしようもなくなって、瑛里奈の瞳を見つめたまま、これは今日の空の色だなと至恩は思う。
 目に沁みるような夏の青でも、もの哀しさのある冬の灰青でもない、やわらかくて優しい、どこか甘いライトブルー。

 瞳の印象に隠れがちな瑛里奈のまつげの長さに感嘆していると、瑛里奈がきょとんとした顔をして、それからバッと飛ぶように身体を離した。驚いた猫のような速さだと思う至恩。

「えっ、あの、はい、すみません。日直ですもの、早く来ますよね。……えと、一緒に教室行きませんか?」
「もちろん。一緒に行こう」
「はい、じゃあ行きましょう。至恩と一緒に登校するのって、小学校以来ですね」
「そうか。そうかもね」

 おどおどとした視線から、お姉さんのようなすましたような顔になるまで、数秒もかからない。面白いなあと笑って、瑛里奈と歩き出す。

 校庭を離れ、桜並木を通って、昇降口に入ったところで、瑛里奈は思い出したように手をたたいて顔を赤くさせた。

「至恩、忘れてました!」
「なにが?」
「……おはよう、ございます」
「うん。おはよう、瑛里奈」

 一番大事なことを忘れるなんて、と顔を赤くさせる瑛里奈に、至恩は大丈夫だよと笑いかける。
 あまりにもいつも通りの瑛里奈に、ついつい微笑んでしまったあと、至恩ははたと背後を振り返った。
 
 ──校舎に人の声がする。校庭に、もう一本とグランドを何周もする運動部の声がする。桜並木には数人の生徒の姿が見えて、至恩とおなじく笑いながら学校へと向かってきていた。

 今までは、そんなもの、どこにもなかったはずなのに。

「どうしましたか、至恩?」

 先を行っていた瑛里奈が、至恩のシャツをくいと引っ張って、振り返る。
 ブルーの瞳が、何も知らない雛のように微笑んだから、至恩も気のせいだと思うことにした。

 足取りも軽くさらさらと揺れる黒髪に、昨日買った緑のクローバーのヘアピンが異様なほど輝いていて、それが妙に気にかかった。
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