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噂の令嬢

恋の嵐

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突然の大雨に逃げ惑う人々の中、ヴィンセントは私の手をひいて建物のひさしに入ると重々しい磨き上げられた真鍮の扉の中へと入った。

そこはお金持ち用の王都での宿泊施設になっていて、私のぐっしょりと濡れそぼった姿を一瞥すると、ヴィンセントはカウンターに何か話をしに近づいて行った。下着まで染み込んだ雨の滴を手で払っていると、ヴィンセントが私の手を引いて階段を登り始めた。


今でもあの時私は、どうして何も言わなかったのかと不思議な気持ちになる。私は17歳の伯爵令嬢で、見も知らない男と二人きりになるなどと、そんな危ない真似をする様な躾も受けていなかったし、そんな事をするつもりもなかった。

けれども実際そうなってみないと自分がどう行動するかなんて事は分からない。私はヴィンセントと離れたく無かった。この奇跡の様な出会いを、私はただ盲目的に受け入れていた。


部屋に着くと、ヴィンセントは少し強張った表情で私をじっと見つめて言った。

「…エリザベス、君をそのまま帰すには濡れすぎてしまったね。今下で代わりのドレスを頼んだから、届き次第着替えたまえ。私はこのロングジャケットのお陰で中身は無事だ。君はすっかり水浴びした鳥の様になってしまったからね。」

そう言いながらヴィンセントは上に着ていたロングジャケットをおもむろに脱いだ。その時に一緒に仮面が外れて、私の目の前には想像よりいかめしい眼差しの大人の男が現れた。


一緒にふわりと匂うヴィンセントの男らしい香りに、私はクラクラとしてしまいそうだった。じっと見つめる私にヴィンセントは息を吐き出して言った。

「エリザベス、風邪をひいてしまうかもしれないね。どうするか…。とりあえず仮面を外してはどうかな。」

そう言われて、私はそっとピンで止められた水鳥の羽根の仮面を外した。普段仮面など着けていないのに、急に顔を晒すとなると酷く心細い気持ちになる。


私が仮面を外してテーブルの上のヴィンセントの仮面にそれを並べると、ヴィンセントの黒い羽根の仮面と私の白い羽根の仮面はまるで対の様に見えた。私が微笑みながらその事をヴィンセントに教えてあげようと顔を上げると、息を呑む音がした。

まるで時間が止まってしまったかの様に、ヴィンセントと私は見つめ合っていた。

「エリザベス、君は…。なんて事だ。」

意味の分からない言葉を発するヴィンセントは酷く動揺していて、でも私たちは一歩も動けなくなっていた。


丁度その時部屋の扉がノックされて、私たちの凍りついた時間を終わらせた。扉の方から戻って来たヴィンセントは大きな箱を手にしていて、それは多分ヴィンセントが手配してくれたドレスなのだろう。

ヴィンセントから受け取って箱を台の上に置いて広げると、そこには見た感じ私に合いそうなサイズのドレスが入っていた。私の緑色の瞳に似合いそうなサーモンピンクのドレスは、上等な品だということが一眼で分かる代物だった。

私を一瞥しただけで女のドレスのサイズが分かるほどには、ヴィンセントは女に慣れているという事なのかもしれない。それは私の胸に鋭い痛みを与えたし、同時に感じたことのない炎が燃え始めた気がした。


「…下の方に下着も入っているはずだ。キツいよりは緩い方が良いかと思って、注文しておいた。」

そう言い放つヴィンセントに、私はくるりと向き直って知らず強い口調で言った。

「まさかこのまま私を着せ替えて帰すつもりですか?」

ヴィンセントは強張った顔で私に言った。

「…私は君の様な若い令嬢と火遊びをするつもりは無いんだ。近く王都を離れなくちゃいけないし、今日は見納めの気持ちで仮面祭りに参加しただけだからね。」


そう言いながらも落ち着かなげに、ヴィンセントは自分の仮面を手で弄っていた。私はその仮面を見つめながら言った。

「私は若い女ですけど、女の子ではありませんわ。それにその仮面が対に見える様に、運命を感じたのは私だけだったのでしょうか。もしそうなら、私はさっさと着替えてここを一人で出ていきます。

貴方には二度とお会いする事はないでしょう。…最後に私からヴィンセント様に、ドレスのお返しに贈り物を差し上げます。」

そう言って、何を考えているのか読めない眼差しで私を見つめるヴィンセントに近づいた。そして雨に濡れた自分の姿が、ヴィンセントからどう見えるかなど全く考えもせずに腕を伸ばすと、首のカラーの後ろに指を這わせてヴィンセントを引き寄せた。


近づくほどにドキドキするクセになる香りを感じながら、私はヴィンセントの分厚い唇に自分のぼったりとした唇を押し当てた。初めての身内以外の男性への口づけは、柔らかくも切なかった。

反応のないヴィンセントの唇に、最後の足掻きで舌を伸ばしてそっとなぞると、ハッとした様にヴィンセントが私の腕を掴んで引き剥がした。そして私の顔を情欲に滲んだ苦しげな表情で見つめてつぶやいた。


「エリザベス、泣くな。…お願いだ。私を紳士のまま帰してくれ。」

その一言で私はヴィンセントの苦しげな表情の意味を悟った。私は自分の頬が濡れていることにも気づかずに言った。

「私をこのまま帰す方が紳士ではありませんわ。私たちは運命なのではありませんか?運命の相手と引き裂かれるのなら、私は淑女になんてなりたくない。…私は貴方のものなのに。」

苦しげな呻き声と共にヴィンセントの腕の中に引き寄せられた瞬間、私は安堵して微笑んでいた。私は自分だけの愛を見つけたと知っていたからだ。
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