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元カノの死因
洗脳が解けるとき
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委員会(モイライ)に戻るなり、あやめは縁の元を訪ねた。今日の報告を行うためだ。
紫の扉を叩き、中に入ったあやめは驚いた。
「あぁ……すまないな」
いつ来ても整頓されていた室内が乱れていた。こんなことは初めてだ。
「何かあったのですか?」
苦笑を浮かべる縁の手にはファイルが山になっている。あやめはすぐに彼女の元に向かうと、作業を手伝うことにした。
「地震だ」
「地震? ――え? 委員会(モイライ)でも地震が起こるのですか?」
縁からファイルを受け取ると本棚にしまう。何度もこの部屋を行き来していたからか、どのファイルや本がどこに配置されていたのかわかる。あやめは元通りの位置に書物を入れた。
「下界の日本とは違って、滅多に起きるものではないがな」
「ワタシ、一度もここで地震に遭ったことはありませぬ」
床に散らばった本を縁がまとめ、あやめがそれを受け取って棚に片す。
「――あぁ、そうか。貴様は今の委員長(モイラ)になってからの配属だったな」
「今の委員長(モイラ)さま?」
まるで他にも委員長(モイラ)がいたかのような言い方だ。気になったあやめは手を止めて縁を見つめる。
「……知らないのか?」
縁は目を丸くしていたが、あやめが頷くのを見て慌てて視線を外した。
「なるほど、あやめは……」
ぶつぶつと独り言を呟く。
「今の委員長(モイラ)様以外にも委員長(モイラ)となった方がいらっしゃるのですか?」
「――いや、今の話は忘れてくれ」
縁は作業を再開する。
「ワタシは知りませぬ」
あやめは手を止めたまま縁を見つめ続ける。
「知らされていないなら、貴様には関係のないことなのだろう。失言だった。忘れてくれ」
片付けに集中しろと言わんばかりにてきぱきと床の書物をまとめる縁。
しかしあやめは腑に落ちない。
「今回の地震と委員長(モイラ)様との関係もわかりませぬ。言いかけておきながら、何故隠すのです?」
「重要機密情報だからだ」
あっさりとした回答。だがそれで納得できるあやめではない。
「上位の能力者になれば知ることができる、と?」
「そういう問題でもない」
「ではどのような問題なのです?」
引き下がることのないあやめに、縁は冷たい瞳をやる。
「――貴様、何故そこまでこだわる?」
「話をすり替えないでくださいませ」
「今まで疑問に思ったことはなかったのだろう? それが貴様の、緒方あやめの世界のすべてだ」
「違います」
あやめは一歩もひかない。
「自分の目で見たもの、自分の耳で聴いたものが世界のすべてではありませぬ。ワタシはそんな小さな世界では生きておりませぬ」
「――ふむ」
「ワタシは知りたい。それが許されないほどの存在であるのですか?」
「――緒方あやめよ」
縁は立ち上がる。
「貴様、変わったな。貴家に影響されたか」
「彼とは関係がありませぬ」
噛み付く勢いで言うあやめに対し、縁は緩慢な動作で首を横に振る。
「いや、あるはずだ。委員長(モイラ)の洗脳が解けたのだ。あの少年の影響に違いない」
前にかかった長い髪を後ろにまとめると、縁は一つに結って留める。
「洗脳? 洗脳とはどういうことです?」
あやめは縁の発言に戸惑いを隠せない。今まで自分が信じてきたものが、すべてまわりから、とりわけ委員長(モイラ)から押し付けられたものだとしたら。そう考えると、怖くて気味が悪くて仕方がなかった。
「部下を己が自由に動かすための委員長(モイラ)に与えられる力のことだ。それが消えた貴様は、自由を手にしたということだ」
縁の言葉を聞いて、あやめは額に手を当てて頭を左右に振る。
「何を仰っているのかわかりませぬ」
俯いて、頭の中を整理しようと試みるがうまくいかない。頭痛がする。
「当然だ。巧妙に作られたお芝居だからな」
「――霧島さまは」
「ん?」
あやめは顔を上げる。
「委員長(モイラ)様から洗脳を受けていないのですか?」
あやめの問いに、縁は事も無げに頷く。
「私は監査部(ノルニル)に通じる者。そして監査部(ノルニル)の能力者たちは、その部署の性質上、委員長(モイラ)の洗脳を受けない。――ならば当然だな」
「そうでしたか……」
何故縁は平然としていられるのだろうかと疑問に思う。例え自身が洗脳されていなかったとしても、回りにいる人間のほとんどが委員長(モイラ)の言いなりになっているのだ。それは異常なはずだ。異を唱えないのはおかしい。
「――洗脳が解けたのが貴様だけなら統制はとれよう。しかし、そうでないなら考えものだな」
自身の腕を組み、面倒臭い様子で縁は呟く。
「あなた様は委員長(モイラ)様のやり方が正しいと――支持なさるのですか?」
納得できる答えが欲しい。
あやめは自分でもどうしてここまでこだわるのかわからなかった。ただ、ここで訊かなければ一生訊く機会が失われてしまいそうで、それを恐れていることだけははっきりしている。今、対峙している相手は《紫の断ち切り手(アトロポス)》と呼ばれ畏怖される上位能力者。記憶を消される可能性があったとしても、知りたいという欲求に勝てなかった。
「――今の委員長(モイラ)は気に入らないが、これまでの仕来たりには違いないからな。私がこの任務についてからは一度も揺らいだことはない」
「何故、あなた様は支持なさるのです?」
「仕来たりに従っているだけだ」
「それならば、委員長(モイラ)様に洗脳されていることと同じことではありませぬか!」
あやめの批難の台詞に、縁は口の端を上げた。
「ふん……言うものだな。しかし、何が正しいのかはそのときが訪れねばわからん。例え未来を見ることのできる目を持っていようともな」
「ですが」
「私は自分が敵になろうとも、回りの大多数が是となるならばその役を引き受ける。貴様にはその覚悟があるか? 世界の意志をねじ曲げようとも、自身が正しいと思うことを成す勇気はあるか?」
試されている。
あやめは縁を睨んだまま口をつぐむ。
(霧島さまの意志はかたく、とても強い。それは以前から知っておりました。その彼女を動かすだけの言葉がワタシにありましょうか)
冷や汗が背中を流れてゆく。喉がどんどん渇いていく。
(――勝てませぬ。何を説いたところで綺麗事。ワタシの意見ではありませぬ。ワタシの言葉では届きませぬ。どうしてワタシは――)
視界が歪む。涙があふれていた。
「泣いても私は落とせんぞ、あやめ」
彼女が宣言するように、見た目の態度は全く変わらない。
「わかっております」
(えぇ、そんなことはわかっているのです)
ブラウスの袖で目元を拭うが、涸れる気配は微塵もない。自分の意思で止まるくらいなら、それは演技。だから意思とは関係なしに次から次に湧いてくるこれは演技などではない。
「わかっていながら泣くか」
「悔しいときも涙は出ますゆえ」
あやめはそんな状態でも、顔を背けることなく縁を見つめた。
「――貴様、やはり表情が増えたな」
その台詞には、少しばかり別の感情が含まれていた。
「ほら、これを使え」
縁は懐からハンカチを取り出すとあやめに差し出す。
「……え?」
「存分に泣け。その方がすっきりするだろう」
受け取った真っ白なハンカチはきちんと角が揃えられ畳まれていた。こんなところからも縁の几帳面さがうかがえる。
「あの……」
「なんだ? 席を外したほうが良いか? しかし、ここは私の部屋なんだが?」
「いえ……」
(どうしてこの方はひねた言い方ばかりなさるのでしょう)
縁の態度は見ていて疑問に思うところが多い。しかし、それがまた彼女らしくて愛しく思えてしまうのだから不思議だ。
あやめはクスリと小さく笑う。なんだか幸せな気持ちだった。
「すみませぬ……ありがとうございます」
縁はそれを聞くと、床に散らばった本を端に寄せてソファに座る。彼女が照れているようにあやめから見えたのは、自身の主観が混じっているせいだろう。
「ったく……この私がほだされるとはな。そろそろ後任を探さねばならないかも知れん」
自分らしくないと言いたげな口調。自分の言動に戸惑っているらしかった。
「霧島さまは元から優しい方だと思います」
「ふん。私が優しいだと? 貴様は変わり者だな」
鼻で笑う縁に、あやめは言葉を繋げる。
「素直でいらっしゃらないだけでございましょう?」
「面白いことを言うな」
「はい」
少しは落ち着いてきたのだろう。まともな受け答えができるようになってきた。
「――なぁ、あやめよ。気付いていたか?」
話しかけてきた縁は、しかしあやめに視線を合わせない。
「何をです?」
「私の下で働いている人間の中では、貴様が一番長く働いているということに、だ」
「え? そうなのですか?」
言われて、あやめは思い返す。意識したことはないが、この任務についてからの大半を縁から指示を受けていたのは確かだ。
「大抵、すぐに付き合いきれなくなって私の下から去るものだ。他の能力者たちからも色々言われるようだしな。――あやめは私の下以外でも働いていたことがあると思うが、何故すぐに異動を願わなかった?」
唐突な問いであったが、あやめは素直に答えることにする。
「綾瀬さまが霧島さまを慕っていらっしゃることを知っておりましたゆえ、どんな方なのかと興味があったのです」
嘘ではない。噂に聞く《紫の断ち切り手(アトロポス)》が本当に噂通りの人物なのか、ミコトを見ていてわからなかったのだ。だから、確かめたかった。自分の目で。
「で、どうだった?」
「面倒見の良い、素敵な上司です」
「世辞や社交辞令は結構だ」
「ワタシがどんな人間なのか、あなた様はご存知のはずですが」
「ふん……そういう台詞が言えるようになったなら大したものだ」
「ありがとうございます」
そこで扉が激しく叩かれる。外が騒がしいことに気付いたのはその音に訪問者の焦りを感じ取れたからだ。
「緊急事態です。《紫の断ち切り手(アトロポス)》様、いらっしゃいましたら出てきて下さいませ」
縁は素早く立ち上がり、扉を開ける。そこにはあやめとはほとんど親交のない委員会(モイライ)の能力者が、青い顔をして立っていた。
「何事だ? 騒々しい」
「また、多重世界シンドローム発症者が殺されました。監査部(ノルニル)に照会願います」
早口で告げ、頭を下げる。息が上がっていたのはここまで走ってきたからだろう。
「なんだと? ――わかった。すぐに向かう」
縁は不愉快そうな顔をしてあやめを見る。
「報告をまだ聞いていなかったが後回しだ。留守にするから戻って良いぞ」
「はい」
あやめの返事を聞くなり、縁はやってきた能力者とともに監査部(ノルニル)が置かれている部屋へと走っていく。
(――また誰かを悲しませることが起きるなんて……)
訪ねてきた能力者は「殺された」と告げた。こんなことは前代未聞だ。
(嫌な予感がします)
あやめには遠い未来のことはわからない。せいぜい把握できるのは数分先に何が起こりそうかという可能性だけ。
(どうか、この予感が杞憂でありますよう)
祈りながら、あやめは部屋を立ち去った。
結局その日、縁に報告を行うことはできなかった。
紫の扉を叩き、中に入ったあやめは驚いた。
「あぁ……すまないな」
いつ来ても整頓されていた室内が乱れていた。こんなことは初めてだ。
「何かあったのですか?」
苦笑を浮かべる縁の手にはファイルが山になっている。あやめはすぐに彼女の元に向かうと、作業を手伝うことにした。
「地震だ」
「地震? ――え? 委員会(モイライ)でも地震が起こるのですか?」
縁からファイルを受け取ると本棚にしまう。何度もこの部屋を行き来していたからか、どのファイルや本がどこに配置されていたのかわかる。あやめは元通りの位置に書物を入れた。
「下界の日本とは違って、滅多に起きるものではないがな」
「ワタシ、一度もここで地震に遭ったことはありませぬ」
床に散らばった本を縁がまとめ、あやめがそれを受け取って棚に片す。
「――あぁ、そうか。貴様は今の委員長(モイラ)になってからの配属だったな」
「今の委員長(モイラ)さま?」
まるで他にも委員長(モイラ)がいたかのような言い方だ。気になったあやめは手を止めて縁を見つめる。
「……知らないのか?」
縁は目を丸くしていたが、あやめが頷くのを見て慌てて視線を外した。
「なるほど、あやめは……」
ぶつぶつと独り言を呟く。
「今の委員長(モイラ)様以外にも委員長(モイラ)となった方がいらっしゃるのですか?」
「――いや、今の話は忘れてくれ」
縁は作業を再開する。
「ワタシは知りませぬ」
あやめは手を止めたまま縁を見つめ続ける。
「知らされていないなら、貴様には関係のないことなのだろう。失言だった。忘れてくれ」
片付けに集中しろと言わんばかりにてきぱきと床の書物をまとめる縁。
しかしあやめは腑に落ちない。
「今回の地震と委員長(モイラ)様との関係もわかりませぬ。言いかけておきながら、何故隠すのです?」
「重要機密情報だからだ」
あっさりとした回答。だがそれで納得できるあやめではない。
「上位の能力者になれば知ることができる、と?」
「そういう問題でもない」
「ではどのような問題なのです?」
引き下がることのないあやめに、縁は冷たい瞳をやる。
「――貴様、何故そこまでこだわる?」
「話をすり替えないでくださいませ」
「今まで疑問に思ったことはなかったのだろう? それが貴様の、緒方あやめの世界のすべてだ」
「違います」
あやめは一歩もひかない。
「自分の目で見たもの、自分の耳で聴いたものが世界のすべてではありませぬ。ワタシはそんな小さな世界では生きておりませぬ」
「――ふむ」
「ワタシは知りたい。それが許されないほどの存在であるのですか?」
「――緒方あやめよ」
縁は立ち上がる。
「貴様、変わったな。貴家に影響されたか」
「彼とは関係がありませぬ」
噛み付く勢いで言うあやめに対し、縁は緩慢な動作で首を横に振る。
「いや、あるはずだ。委員長(モイラ)の洗脳が解けたのだ。あの少年の影響に違いない」
前にかかった長い髪を後ろにまとめると、縁は一つに結って留める。
「洗脳? 洗脳とはどういうことです?」
あやめは縁の発言に戸惑いを隠せない。今まで自分が信じてきたものが、すべてまわりから、とりわけ委員長(モイラ)から押し付けられたものだとしたら。そう考えると、怖くて気味が悪くて仕方がなかった。
「部下を己が自由に動かすための委員長(モイラ)に与えられる力のことだ。それが消えた貴様は、自由を手にしたということだ」
縁の言葉を聞いて、あやめは額に手を当てて頭を左右に振る。
「何を仰っているのかわかりませぬ」
俯いて、頭の中を整理しようと試みるがうまくいかない。頭痛がする。
「当然だ。巧妙に作られたお芝居だからな」
「――霧島さまは」
「ん?」
あやめは顔を上げる。
「委員長(モイラ)様から洗脳を受けていないのですか?」
あやめの問いに、縁は事も無げに頷く。
「私は監査部(ノルニル)に通じる者。そして監査部(ノルニル)の能力者たちは、その部署の性質上、委員長(モイラ)の洗脳を受けない。――ならば当然だな」
「そうでしたか……」
何故縁は平然としていられるのだろうかと疑問に思う。例え自身が洗脳されていなかったとしても、回りにいる人間のほとんどが委員長(モイラ)の言いなりになっているのだ。それは異常なはずだ。異を唱えないのはおかしい。
「――洗脳が解けたのが貴様だけなら統制はとれよう。しかし、そうでないなら考えものだな」
自身の腕を組み、面倒臭い様子で縁は呟く。
「あなた様は委員長(モイラ)様のやり方が正しいと――支持なさるのですか?」
納得できる答えが欲しい。
あやめは自分でもどうしてここまでこだわるのかわからなかった。ただ、ここで訊かなければ一生訊く機会が失われてしまいそうで、それを恐れていることだけははっきりしている。今、対峙している相手は《紫の断ち切り手(アトロポス)》と呼ばれ畏怖される上位能力者。記憶を消される可能性があったとしても、知りたいという欲求に勝てなかった。
「――今の委員長(モイラ)は気に入らないが、これまでの仕来たりには違いないからな。私がこの任務についてからは一度も揺らいだことはない」
「何故、あなた様は支持なさるのです?」
「仕来たりに従っているだけだ」
「それならば、委員長(モイラ)様に洗脳されていることと同じことではありませぬか!」
あやめの批難の台詞に、縁は口の端を上げた。
「ふん……言うものだな。しかし、何が正しいのかはそのときが訪れねばわからん。例え未来を見ることのできる目を持っていようともな」
「ですが」
「私は自分が敵になろうとも、回りの大多数が是となるならばその役を引き受ける。貴様にはその覚悟があるか? 世界の意志をねじ曲げようとも、自身が正しいと思うことを成す勇気はあるか?」
試されている。
あやめは縁を睨んだまま口をつぐむ。
(霧島さまの意志はかたく、とても強い。それは以前から知っておりました。その彼女を動かすだけの言葉がワタシにありましょうか)
冷や汗が背中を流れてゆく。喉がどんどん渇いていく。
(――勝てませぬ。何を説いたところで綺麗事。ワタシの意見ではありませぬ。ワタシの言葉では届きませぬ。どうしてワタシは――)
視界が歪む。涙があふれていた。
「泣いても私は落とせんぞ、あやめ」
彼女が宣言するように、見た目の態度は全く変わらない。
「わかっております」
(えぇ、そんなことはわかっているのです)
ブラウスの袖で目元を拭うが、涸れる気配は微塵もない。自分の意思で止まるくらいなら、それは演技。だから意思とは関係なしに次から次に湧いてくるこれは演技などではない。
「わかっていながら泣くか」
「悔しいときも涙は出ますゆえ」
あやめはそんな状態でも、顔を背けることなく縁を見つめた。
「――貴様、やはり表情が増えたな」
その台詞には、少しばかり別の感情が含まれていた。
「ほら、これを使え」
縁は懐からハンカチを取り出すとあやめに差し出す。
「……え?」
「存分に泣け。その方がすっきりするだろう」
受け取った真っ白なハンカチはきちんと角が揃えられ畳まれていた。こんなところからも縁の几帳面さがうかがえる。
「あの……」
「なんだ? 席を外したほうが良いか? しかし、ここは私の部屋なんだが?」
「いえ……」
(どうしてこの方はひねた言い方ばかりなさるのでしょう)
縁の態度は見ていて疑問に思うところが多い。しかし、それがまた彼女らしくて愛しく思えてしまうのだから不思議だ。
あやめはクスリと小さく笑う。なんだか幸せな気持ちだった。
「すみませぬ……ありがとうございます」
縁はそれを聞くと、床に散らばった本を端に寄せてソファに座る。彼女が照れているようにあやめから見えたのは、自身の主観が混じっているせいだろう。
「ったく……この私がほだされるとはな。そろそろ後任を探さねばならないかも知れん」
自分らしくないと言いたげな口調。自分の言動に戸惑っているらしかった。
「霧島さまは元から優しい方だと思います」
「ふん。私が優しいだと? 貴様は変わり者だな」
鼻で笑う縁に、あやめは言葉を繋げる。
「素直でいらっしゃらないだけでございましょう?」
「面白いことを言うな」
「はい」
少しは落ち着いてきたのだろう。まともな受け答えができるようになってきた。
「――なぁ、あやめよ。気付いていたか?」
話しかけてきた縁は、しかしあやめに視線を合わせない。
「何をです?」
「私の下で働いている人間の中では、貴様が一番長く働いているということに、だ」
「え? そうなのですか?」
言われて、あやめは思い返す。意識したことはないが、この任務についてからの大半を縁から指示を受けていたのは確かだ。
「大抵、すぐに付き合いきれなくなって私の下から去るものだ。他の能力者たちからも色々言われるようだしな。――あやめは私の下以外でも働いていたことがあると思うが、何故すぐに異動を願わなかった?」
唐突な問いであったが、あやめは素直に答えることにする。
「綾瀬さまが霧島さまを慕っていらっしゃることを知っておりましたゆえ、どんな方なのかと興味があったのです」
嘘ではない。噂に聞く《紫の断ち切り手(アトロポス)》が本当に噂通りの人物なのか、ミコトを見ていてわからなかったのだ。だから、確かめたかった。自分の目で。
「で、どうだった?」
「面倒見の良い、素敵な上司です」
「世辞や社交辞令は結構だ」
「ワタシがどんな人間なのか、あなた様はご存知のはずですが」
「ふん……そういう台詞が言えるようになったなら大したものだ」
「ありがとうございます」
そこで扉が激しく叩かれる。外が騒がしいことに気付いたのはその音に訪問者の焦りを感じ取れたからだ。
「緊急事態です。《紫の断ち切り手(アトロポス)》様、いらっしゃいましたら出てきて下さいませ」
縁は素早く立ち上がり、扉を開ける。そこにはあやめとはほとんど親交のない委員会(モイライ)の能力者が、青い顔をして立っていた。
「何事だ? 騒々しい」
「また、多重世界シンドローム発症者が殺されました。監査部(ノルニル)に照会願います」
早口で告げ、頭を下げる。息が上がっていたのはここまで走ってきたからだろう。
「なんだと? ――わかった。すぐに向かう」
縁は不愉快そうな顔をしてあやめを見る。
「報告をまだ聞いていなかったが後回しだ。留守にするから戻って良いぞ」
「はい」
あやめの返事を聞くなり、縁はやってきた能力者とともに監査部(ノルニル)が置かれている部屋へと走っていく。
(――また誰かを悲しませることが起きるなんて……)
訪ねてきた能力者は「殺された」と告げた。こんなことは前代未聞だ。
(嫌な予感がします)
あやめには遠い未来のことはわからない。せいぜい把握できるのは数分先に何が起こりそうかという可能性だけ。
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