23 / 309
青玉の求婚は突然に
*1* 7月23日火曜日、朝
しおりを挟む
七月二十三日火曜日。
世の中は夏休みであるが、宝杖学院には希望者に対して夏期講習を行っている。紅は予備校に通うよりも学校の夏期講習を選んだ。使い慣れた教室で見知った仲間とともに過ごせるならそちらの方が良いと思ったのだ。
梅雨も明け、青空が広がる。天気が良いからと思い切って自転車通学に切り替えた紅だったが、宝杖学院が見晴らしの良い坂の上にあることはすっかり忘れていた。走っているときは気持ちが良いが、止まると汗が噴き出して適わない。ある程度想定して、学校指定の体操着とハーフパンツという運動部スタイルで臨んだが、制服だったら今頃酷い姿になっていただろう。
――このくらい、交通機関のトラブルに巻き込まれて遅刻するくらいなら安いもんよ。でも、日焼け対策は考えたほうが良さそうね。
学校までの長い坂道を駆け上がり、大きな屋敷の脇を歩きながら進むと、スマートフォンが鳴る。スポーツバッグから引き抜くと、電話は星章蒼衣からだった。
「おはよう、紅。家に寄っていきませんか?」
言われて、この通りが彼の部屋から見えることを紅は思い出す。屋敷を見上げると、蒼衣が部屋から手を振っている。
腕時計で時間に余裕があるのを確認して、「寄っていく」と紅は答えた。
屋敷に入ると使用人にまず挨拶。久し振りですね、などと言われながら食堂に案内される。朝食の席にお邪魔することになったようだ。
――変わってないなぁ……。
広い庭園を眺められる大きな窓。その奥に広がるイングリッシュガーデンは鮮やかな緑の葉と色とりどりの花で彩られ、食堂を明るく華やかに飾る。視線を手前に向ければ、十数人は座れるだろうテーブルに真っ白なクロス。その中央の席に宝杖学院の制服を校則の規定通りに着た蒼衣の姿があった。
「ようこそ。何か飲みますか?」
汗だくの姿を見て、蒼衣が微笑みながら問う。こんな風に優しく笑むのは二人きりのときだけだと紅は知っている。
「そうね……水をお願いできます?」
こんな格好で申し訳ないなと思う。スポーツバッグに入れておいたハンドタオルで汗を拭うが、流れ落ちる雫はなかなか減らない。
すると、お腹がぐぅと鳴った。
「ちょっ……!?」
静かな食堂に響いた不躾な音に、紅は恥ずかしくて狼狽える。朝食は済ませてきたのだが、三十分を超えるサイクリングで消耗したらしい。
それを見ていた蒼衣はくすくすと笑った。
「一緒に食べましょうか」
言って、蒼衣は使用人を呼びつけ、朝食の準備を始めさせる。
そんな蒼衣の日常的行動を見ながら、紅は彼の前の席に腰を下ろした。
「自転車通学にしたんですか?」
厚めのトースト、スクランブルエッグとソーセージ、サラダにはレタスとキュウリ、ミニトマト。デザートにはオレンジが添えられている。皿が並び終わると蒼衣は尋ねてきた。
手を合わせてありがたく食事を頂戴しながら、紅は答える。
「バスも電車もトラブル続きだったからね。思い切って」
「知りませんでした。迎えを出しましょうか?」
スクランブルエッグのほどけるような食感に舌鼓を打ちつつ、紅は首を小さく横に振る。
「自転車で充分に通えるからご心配なく。そんなことされたら、噂が増えるわ」
「白浪との噂ですか?」
「うぐっ!?」
そんな返しをされるとは思っておらず、むせてしまう。グラスに注がれた冷水を飲んで落ち着けたところで、蒼衣は続けて問う。
「あれ、どこまで本当なんです?」
問い掛けてきた蒼衣の瞳は暗い。雑談として訊いてきたわけではなく、確認をしたいようだ。
「モデルを頼まれたのも、ホテル――ってかアトリエに連れ込まれたのも本当だけど、それだけよ。気になるの?」
そんなことを気にかけてくれていたとは意外だった。校内では面倒ごとを寄せ付けないために距離を置いている。幼い頃のように互いを気にするようなこともないのだろうと、紅は思い込んでいたのだ。
紅の問いに、蒼衣は小さく息を吐いた。
「気になりますよ。可愛い妹だと思っているんですから。よからぬ噂を聞けば心配します」
「ゴメン。――ところで、その左手の絆創膏はどうしたの?」
グラスを手にした彼の薬指には絆創膏が巻かれている。そんな場所を怪我する状況がわからない。
「ちょっとしたおまじないですよ。――そうそう、次の日曜日、空けておいて下さいね」
「良いけど、なに?」
休日の誘いなど数年振りだ。星章家と火群家は家族ぐるみで付き合いがあるので、休日をともに過ごすようなこともあるが、これは二人きりでということだろう。
首を小さく傾げて問うと、彼は満足げに笑んだ。
「それはそのときまでのお楽しみで」
世の中は夏休みであるが、宝杖学院には希望者に対して夏期講習を行っている。紅は予備校に通うよりも学校の夏期講習を選んだ。使い慣れた教室で見知った仲間とともに過ごせるならそちらの方が良いと思ったのだ。
梅雨も明け、青空が広がる。天気が良いからと思い切って自転車通学に切り替えた紅だったが、宝杖学院が見晴らしの良い坂の上にあることはすっかり忘れていた。走っているときは気持ちが良いが、止まると汗が噴き出して適わない。ある程度想定して、学校指定の体操着とハーフパンツという運動部スタイルで臨んだが、制服だったら今頃酷い姿になっていただろう。
――このくらい、交通機関のトラブルに巻き込まれて遅刻するくらいなら安いもんよ。でも、日焼け対策は考えたほうが良さそうね。
学校までの長い坂道を駆け上がり、大きな屋敷の脇を歩きながら進むと、スマートフォンが鳴る。スポーツバッグから引き抜くと、電話は星章蒼衣からだった。
「おはよう、紅。家に寄っていきませんか?」
言われて、この通りが彼の部屋から見えることを紅は思い出す。屋敷を見上げると、蒼衣が部屋から手を振っている。
腕時計で時間に余裕があるのを確認して、「寄っていく」と紅は答えた。
屋敷に入ると使用人にまず挨拶。久し振りですね、などと言われながら食堂に案内される。朝食の席にお邪魔することになったようだ。
――変わってないなぁ……。
広い庭園を眺められる大きな窓。その奥に広がるイングリッシュガーデンは鮮やかな緑の葉と色とりどりの花で彩られ、食堂を明るく華やかに飾る。視線を手前に向ければ、十数人は座れるだろうテーブルに真っ白なクロス。その中央の席に宝杖学院の制服を校則の規定通りに着た蒼衣の姿があった。
「ようこそ。何か飲みますか?」
汗だくの姿を見て、蒼衣が微笑みながら問う。こんな風に優しく笑むのは二人きりのときだけだと紅は知っている。
「そうね……水をお願いできます?」
こんな格好で申し訳ないなと思う。スポーツバッグに入れておいたハンドタオルで汗を拭うが、流れ落ちる雫はなかなか減らない。
すると、お腹がぐぅと鳴った。
「ちょっ……!?」
静かな食堂に響いた不躾な音に、紅は恥ずかしくて狼狽える。朝食は済ませてきたのだが、三十分を超えるサイクリングで消耗したらしい。
それを見ていた蒼衣はくすくすと笑った。
「一緒に食べましょうか」
言って、蒼衣は使用人を呼びつけ、朝食の準備を始めさせる。
そんな蒼衣の日常的行動を見ながら、紅は彼の前の席に腰を下ろした。
「自転車通学にしたんですか?」
厚めのトースト、スクランブルエッグとソーセージ、サラダにはレタスとキュウリ、ミニトマト。デザートにはオレンジが添えられている。皿が並び終わると蒼衣は尋ねてきた。
手を合わせてありがたく食事を頂戴しながら、紅は答える。
「バスも電車もトラブル続きだったからね。思い切って」
「知りませんでした。迎えを出しましょうか?」
スクランブルエッグのほどけるような食感に舌鼓を打ちつつ、紅は首を小さく横に振る。
「自転車で充分に通えるからご心配なく。そんなことされたら、噂が増えるわ」
「白浪との噂ですか?」
「うぐっ!?」
そんな返しをされるとは思っておらず、むせてしまう。グラスに注がれた冷水を飲んで落ち着けたところで、蒼衣は続けて問う。
「あれ、どこまで本当なんです?」
問い掛けてきた蒼衣の瞳は暗い。雑談として訊いてきたわけではなく、確認をしたいようだ。
「モデルを頼まれたのも、ホテル――ってかアトリエに連れ込まれたのも本当だけど、それだけよ。気になるの?」
そんなことを気にかけてくれていたとは意外だった。校内では面倒ごとを寄せ付けないために距離を置いている。幼い頃のように互いを気にするようなこともないのだろうと、紅は思い込んでいたのだ。
紅の問いに、蒼衣は小さく息を吐いた。
「気になりますよ。可愛い妹だと思っているんですから。よからぬ噂を聞けば心配します」
「ゴメン。――ところで、その左手の絆創膏はどうしたの?」
グラスを手にした彼の薬指には絆創膏が巻かれている。そんな場所を怪我する状況がわからない。
「ちょっとしたおまじないですよ。――そうそう、次の日曜日、空けておいて下さいね」
「良いけど、なに?」
休日の誘いなど数年振りだ。星章家と火群家は家族ぐるみで付き合いがあるので、休日をともに過ごすようなこともあるが、これは二人きりでということだろう。
首を小さく傾げて問うと、彼は満足げに笑んだ。
「それはそのときまでのお楽しみで」
0
あなたにおすすめの小説
[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった
ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン
モデル事務所で
メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕
男が少ない世界に転生して
美鈴
ファンタジー
※よりよいものにする為に改稿する事にしました!どうかお付き合い下さいますと幸いです!
旧稿版も一応残しておきますがあのままいくと当初のプロットよりも大幅におかしくなりましたのですいませんが宜しくお願いします!
交通事故に合い意識がどんどん遠くなっていく1人の男性。次に意識が戻った時は病院?前世の一部の記憶はあるが自分に関する事は全て忘れた男が転生したのは男女比が異なる世界。彼はどの様にこの世界で生きていくのだろうか?それはまだ誰も知らないお話。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた
兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。
クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について
沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。
かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。
しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。
現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。
その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。
「今日から私、あなたのメイドになります!」
なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!?
謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける!
カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!
【完結】『大江戸妖怪診療所~奇病を治すは鬼の医者~』
月影 朔
歴史・時代
江戸の町外れ、鬼灯横丁で「玄庵診療所」を営むのは、人間離れした美貌を持つ謎の医師・玄庵。常人には視えぬ妖怪や穢れを視る力で、奇病に苦しむ人間や妖怪たちを癒やしています。ひょんなことから助手を務めることになった町娘のおみつは、妖怪の存在に戸惑いながらも、持ち前の行動力と共感力で玄庵の治療を手伝い、彼と共に成長していきます。
飄々とした情報屋の古狐妖怪・古尾や、言葉を解する化け猫・玉藻など、個性豊かな面々が診療所を彩ります。玄庵の過去にまつわる深い謎、人間と妖怪の間に立つ退魔師・竜胆との衝突、そして世界を混乱に陥れる「穢れ」の存在。様々な事件を通して、人間と妖怪の間に紡がれる絆と、未来への希望が描かれる、和風ファンタジー医療譚です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる