蝶の乙女が還る街で

一花カナウ

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 満月からわずかに欠けた月が沈む。
 記憶が戻らぬまま、一夜が明けてしまった。フィロスの世話になったカルディアはただ何もせず部屋を借りるのが心苦しく、自分に何かできはしないかと考え、朝食が済んだところで彼に提案した。店を手伝わせてはくれないか、と。
 カルディアの急な申し出に渋った顔をするフィロスに、さらに続ける。

「ほら、部屋に閉じこもっているよりは店で働いていた方が刺激があると思うのです。もしかしたら、それをきっかけに記憶が戻ってくるかもしれないじゃないですか」

 懸命に付け足した台詞。カルディアの必死さも伝わったのか、フィロスは表情を崩した。

「確かに家にこもっているよりは、良いかもしれませんね。――わかりました。ちょっとだけ手伝っていただきましょうか」




 建物の一階が店舗になっているらしい。初めて通された店内をカルディアは興味深く見回した。
 広さは十人程度のお客なら全員が余裕をみて回れるくらいだろうか。通りに面した壁は店内を覗ける大きめの窓、そこに刺繍の入った朱色の紗幕が掛けられている。紗幕が飾り布で可愛らしく括られているのはフィロスの趣味なのだろうか。室内に外の明かりが入るように調整されているらしく、外を歩く人たちの姿が窓の向こう側に見えた。
 出入り口に近いところには木製の小物類が、そして奥に行くにしたがって大きな布製品が並ぶ。入り口の正面に当たる壁には大きな綴れ織壁掛けが掛けられ、その明るい色彩が店内をよりにぎやかに見せる。手の込んだその作品に、カルディアは近付いて見上げた。

(だいぶ趣きが違うけど同じ題材、かしら?)

 カルディアが使っている部屋に置かれた綴れ織壁掛けよりもずっと派手だ。使われている色もあの部屋の蒼き翅の乙女よりもずっと多い。縁に描き込まれた図形も細かく、とにかく凝っていた。

「この意匠はあたしが使わせてもらっている部屋に飾られている綴れ織壁掛けと同じですよね?」
「おや? この街では一般的な題材ですよ。ご存知ないのですか?」

 頷くカルディアに、フィロスは意外そうな顔をする。そしてカルディアの隣に立つと、彼も綴れ織壁掛けに目をやった。

「この蝶の乙女、プシュケっていうんですよ。魂の化身だそうで。この街では、死んだ者の魂がプシュケとなって、残された者に会うためにひと月という期限付きで現れると伝えられているんです」
「プシュケに?」
「はい。ですから、プシュケを模した商品も多いのですよ」

 言われてみればそうだ、とカルディアは思う。織物が目立つからそちらに視線を取られがちだが、よくよく見れば店内に並ぶ小物類もプシュケの意匠を使ったものが多いことに気付く。

「なるほど……。蝶を象ったものではなく、プシュケなのですね」
「――さて、説明はこの辺にして、仕事を教えましょう」




 正午を知らせる鐘に紛れるかのように、様々な物が転がり落ちる音が店内に響く。

「カルディアさん……」

 眉間にわずかにしわを寄せたフィロスがカルディアに迫った。

「す、すみません……で、でも、だ、大丈夫ですから」

 カルディアは詫び、怯みながらじりじり後退する。カルディアの服には色とりどりの染みがついていた。それは彼女がこの店で仕出かしてきたことを物語る。

「あなたが大丈夫でも、僕が大丈夫じゃないんですよっ!」
「ひぃぃごめんなさいっ!」

(うぅぅ……こんなに役立たずだとは思わなかったよ……)

 ぺたんとその場に座り込み、カルディアは自分の頭に手をやる。思い返せば悲惨なことばかりだ。
 掃除の手伝いをしようとして、水の入った桶をひっくり返して床を濡らしてしまったのが事の初め。水気を取るために雑巾で作業をしていたのだが、それにばかり気を取られていて棚に並んでいた商品を落とす。拾い集めようとして慌てて立ち上がり、服の裾を踏んづけて織物を破ってしまうし、さらに商品を並べ直すまでは良かったものの、手に塗料が移っているのに気付かず、そんな手で触れた所為で価値を下げてしまった。それを見てさらに動転し、再び棚をひっくり返して――今に至る。
 そんな苦戦の様子が服の染みに表れているのだった。

「まったく……」

 ぽんぽんっと優しく頭を叩かれて、固く閉ざしていた目を開けるとおそるおそるフィロスを見る。視線を合わせるためにしゃがんでいたフィロスの穏やかな顔が目に入った。

「そんなに頑張らなくていいんですよ? 細々とやっている家業なんですから」

 怒っているはずのフィロスは、しかし安心させるような笑顔を向けていた。

「うぅ……でも、あたし、申し訳なくて」

 涙ぐんでしまいそうだ。カルディアは俯いて、手の甲で目を擦る。

「なんだか気を遣わせてしまったようですね。僕が好きでやっていることだから、気にしなくていいのに」

 言って、フィロスはカルディアの頭を撫でる。

「だって……あたしにはこの身体でできることしかやれないから……」
「そんなに一生懸命にならなくても、僕はあなたを追い出したりしませんよ?」
「でも……」
「……まずは、そうですね。服を脱ぎましょうか」
「は、はい?」

 言われて、カルディアは顔を上げる。

(服を脱げ、とな?)

 どういう意図があるのかわからずにきょとんとしていると、フィロスは続ける。

「その服が身体に合わないからいけないんですよ。その服の裾、何度踏みつけたり引っ掛けたりしたと思っているんです? かなり汚してしまっていますし、着替えましょう」
「あ、ですけど……」

 これ以上いろいろ迷惑を掛けるわけにはいかない。先に立ち上がって手を差し伸べるフィロスを、カルディアは目で追う。

「拒否なさるなら、強制的に脱がしますけど?」

(こ、この人本気だっ!)

 表面的には笑顔でも、目が笑っていない。カルディアは急いで立ち上がる。

「着替えます着替えますっ――って、あうっ!?」

 その拍子に長い裾を踏みつけてしまい、カルディアはつんのめった。

「きゃっ!」

 正面にいたのはフィロス。その彼を押し倒すようにカルディアは崩れた。

「――あなたのそれはわざとですか? カルディアさん……」

 下敷きになっていたフィロスは、小さくうめいたあとに問う。

「ご、ごめんなさい……」

 カルディアはフィロスの上から退こうと上体を起こす。しかし、フィロスの手に阻まれた。そしてカルディアの頭に手が置かれ、そのまま胸に引き寄せられる。

「――お仕置きです。しばらくじっとしてなさい」

 彼にしては珍しい棘のあるきつい口調。それなのに優しくて甘い。

「お仕置き……ですか……?」

 胸が高鳴る。カルディアの耳に届くフィロスの鼓動も早い。

(なんでだろう……懐かしい感じがするなぁ……)

 フィロスの腕の中はとても安らげた。塗料やお香の匂いがして、それが彼がこの店で働いていることを証明しているように思える。この香りが、フィロスの匂いなのだ。

「これで午前の失敗は帳消しにします。ですから、午後も頑張ってください」
「は、はいっ!」

 どのくらい抱き締められていたのだろうか。大した時間ではなかったはずなのに、カルディアはとても長いことそうしていたような気分になっていた。
 フィロスの腕から解放されると、ゆっくりと立ち上がる。焦って行動するからいけない。学習の成果だ。

「……あ」

 カルディアが立ち上がったのを確認してフィロスも立ち上がる。そこで一つ気がついた。

「どうやら僕も着替えないといけないようですね……」
「本当にすみませんっ!」

 ぺこりとカルディアは頭を下げる。フィロスの服にまで塗料が付着していた。濡れていたせいで移りやすくなっていたのだろう。

「あ、あたし、必ず弁償しますっ!」
「気にしないでください。洗えば落ちますから」

 やれやれといった感じで告げると、フィロスは店内を見回す。そしてため息を一つ。

「もう午後はお休みにして、洗濯と掃除にあてますかね」
「あぁぁぁぁっ! ごめんなさいっ!」

 謝っても謝っても謝り足りない。カルディアは申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、何度も頭を下げる。
 結局その日、エフティヒア商店は午後休業となったのだった。
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