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仕事が終わると、辺りはすっかり暗くなっていた。
十一月の始め。気が付けば、もうすぐ今年も終わりだ。
なんか、今年は色々ありすぎたせいで、一年があっという間だった気がする。
櫻井さんに言われた通り、仕事が終わってからすぐに連絡を入れた。
どこかで待ち合わせかな?って思ってたんだけど、しっかり店の前まで迎えに来てくれて、ついこの間も司馬が同じように迎えにきてくれたのを思い出す。
「なんか、オレが女の子だったら櫻井さんのファンに刺されそうですね」
冗談っぽく言ってみたけど、櫻井さんはちょっと嫌な顔をしていた。
あ、地雷踏んだかも……
そういえば、オレを突き落としたって人、櫻井さんのストーカーをしてたんだっけ……
なんか、イケメンはイケメンで苦労してるんだろうなぁ……
ってことは、司馬も気を付けないとダメなんじゃないか?
ん~、オレの周り、イケメン率高いような気がする。
当のオレは平凡たぬき顔という不名誉な称号をもらっているけど……
というか、これ、誰が言ってたんだっけ……覚えてないや……
「竹内くん、なんか変なこと考えてるだろ……」
オレの考えを読み取ったのか、櫻井さんが呆れ顔で言ってきた。
オレは慌てて否定したけど、軽くペチンとデコピンをもらってしまった。
「朝陽は、誰よりも可愛い。大切な人を心配するのは当然だろ?」
なんか、当然のように恥ずかしいことを言われて、顔が熱くてしかたない。
櫻井さん、時々オレのこと、【朝陽】って名前で呼ぶからドキドキする。
オレたち、そんな名前を呼ぶ仲でもないのに……
そんな調子で、オレたちはよく散歩に来ていた高台のある広い公園に来た。
本当は、櫻井さんも仕事終わりだから、どこかの店に食事に行こうって言うつもりだったのに、気付けばこの公園へと向かっていた。
目の前には、秋の夜風に揺れる木々の影が街灯に照らされ、地面に細長い模様を描いている。
ベンチの冷たい感触がジーンズ越しに伝わり、ほのかに湿った空気が鼻腔をくすぐる。
「ここ、よく一緒に来たよな……」
櫻井さんの声は低く、どこか懐かしむような、寂し気な声色を含んでいた。
「……すみません。オレ、よく覚えてなくて……。オレの家が近所だから、つい、ここに来ちゃうんですよね……。ここから見える夜景が、なんとなく好きで……」
ここの夜景を見るのが好きなことに嘘はない。
でも、いつも誰かと一緒に見るから好きだったんだと思う。
ただ、その相手が誰だったのか、今のオレには思い出せない。
「俺もここ、好きな場所だよ。春はこの公園でお花見もしたし、この時期は月見酒を飲んだこともあったかな。まぁ、コンビニで買ったビールだったけどな」
何かを思い出したのか、クスクス笑いながら話す櫻井さんの表情に、ツキンと小さく胸が痛む。
別に、櫻井さんがここに来るのはおかしいことじゃない。
本社からは離れてるけど、お花見スポットとして有名な公園だし……
お月見とかも、ここなら綺麗だと思う。
オレの職場が近いから、打ち合わせの帰りに寄ってたってのもきっとあるだろうし……
オレが……櫻井さんの言う通り、付き合ってたなら……よくここに来ていたってのも、おかしな話じゃない。
それなのに……オレだけがその記憶を持っていないと思うと、なんだか胸がモヤモヤする。
まるでパズルのピースがひとつ足りないような、言いようのない違和感が心をざわつかせる。
質問したら、櫻井さんは答えてくれると思う。
でも……なんだろ。なんでか、聞きたくない。
「あ、櫻井さんちょっと待っててください。そこの自販機ですけど、飲み物買って来るんで。もちろん、オレの奢りですよ♪」
少し離れた場所で煌々と光る自販機を指差し、飲み物を買ってくるのを提案する。
本当は、ほんの少しだけでもいいから、ひとりになりたくなった。
櫻井さんが、誰かを思い出す姿を見たくなくて、離れたくなった。
「ありがとう。じゃあ、俺も一緒に行くよ」
それなのに、櫻井さんはオレの意図を理解してくれなくて、当たり前のように手を握ってくる。
そのあまりにも自然な仕草に、手を振り払うことも、文句を言うこともできない。
ただ、握られた手の熱さが、妙に心をざわつかせてくる。
「あ、今日は普通のコンポタがある」
自販機に表示されている商品を見て、つい声が出る。
「……鯛茶漬け、蜜芋ブリュレ、かに鍋スープ(お米入り)、おでん……ん~、いつ見てもここのラインナップはおかしいと思う」
変わり種の商品しか並んでいない自販機の内容についいぶしがってしまう。
「あ……櫻井さん、お好きなのをどうぞ!」
オレはポケットから小銭を取り出し、お金を投入した後、満面の笑顔でラーメンスープのボタンを指差す。
「……竹内くん、ホントこういうの好きだよな……。濃厚とんこつラーメンって……。俺がこれにしたら、お前はこっちにしろよ?」
呆れたような笑みを浮かべつつ、商品選択のボタンをカチッと押し、自販機から商品を取り出してオレに手渡してきた。
「ちょっ!何それ!あはははっ、コレ何?出汁って書いてんだけど」
櫻井さんから手渡された商品を見て、つい笑ってしまう。
淡い茶色のパッケージに、黄金色のスープが描かれた缶。
『ゴクっ!と旨い和だし』とキャッチフレーズまで書かれた商品は、某有名な企業が出した商品だった。
「これ美味しいの?も~、じゃあ、櫻井さんはこっち飲んでくださいよ」
櫻井さんの悪戯の仕返しをするため、オレは先ほど提案した【濃厚とんこつラーメンスープ】を選択して、彼に手渡す。
「オレが奢ったんだから、ちゃんと飲んで感想まで言ってくださいよ!これで不味かったら、明日のお昼は櫻井さんの奢りでお願いします!」
我ながら理不尽なお願いをしている気はする。
けど、せっかくお金を出して買ったのに、不味いのは嫌じゃん。
櫻井さんのが不味かったら……ちょっと面白そう。
ひと口だけもらって、一緒に不味さを共有して笑って許してもらおうかな。
そんなことを考えながら、ちょっと熱い缶のプルタブを開ける。
鼻孔をくすぐる香ばしい出汁の匂いに、無意識に喉がゴクリと鳴る。
恐る恐る缶に口を付け、ひと口飲み干した瞬間、目をカッと見開き声が出た。
「えっ!うまっ!?」
「嘘だろ、コレ!美味すぎる!」
櫻井さんもスープを口にしていたのか、ふたり同時に驚きの声が上がる。
「これ、めちゃくちゃ美味い。面とチャーシュー入れたら完全にラーメンだ。うっわぁ~、ビール欲しい!餃子も食いてぇ~」
ゴクゴクとスープを飲みながら悶絶している櫻井さんの様子を見て、興味がそそられる。
「櫻井さん、こっちもヤバいよ。この出汁でお茶漬けやったら絶対美味いと思う!あぁ~、でも、このゴクゴク飲めるお出汁ってなんか背徳感あるかも」
温かい出汁の芳しい旨味が口いっぱいに広がり、強張っていた心が解きほぐされていく。
「はぁぁ……、さっきまで緊張してたのがバカみたい。ねぇ、櫻井さん。オレの話、聞いてくれる?」
さっきまで強張っていた身体がウソみたいだ。
じんわりと温かな缶が冷えたオレの指先を温めてくれ、勇気を与えてくれる。
「オレ、今年いっぱいで会社を辞めることにしました。色々考えたんだけど、事件が起こる前にオレが、オレ自身が決めてたことをしようかなって思って」
くるっと櫻井さんの正面に立ち、伝えようと思っていたことを話し始める。
「今年いっぱいって言っても、有給が残ってるから、退職するのは来年の一月の半ばまで。でも、今の店で働くのは、年末の最終営業日までって話になったんだよね」
缶を両手のひらでコロコロと転がしながら、ポツポツと説明する。
「引継ぎは、今してる。週明けには新しい人が入って来るし、オレが居なくても、店は回るってわかったから……。あと、ここじゃないどこかに引っ越そうと思ってる」
しっかりと櫻井さんの目を見て話しかける。
「ここじゃないどこか……。場所はまだ決めてないし、仕事がどうなるのかもわかってないけど……。心機一転、一から頑張ってみようかな?って思って」
話しているうちに、なぜか視界が歪む。
泣きそうなのがバレないように、震えそうになる声を呼吸でなんとか誤魔化し、ニッコリ笑って見せる。
「…………」
驚いているのか、目を真ん丸く見開いた後に悲し気に顔を歪ませる櫻井さんを見て、胸が締め付けられる思いだった。
本当は、そんな顔、見たくなかった。
でも、これだけは伝えなきゃいけない。
オレのためにも……
櫻井さんのためにも……
「十二月に入ったら、店も今より忙しくなっちゃうと思うんだよね。だから……」
喉の奥に詰まる感情を飲み込むように、冷たくなっていく缶を握りしめる。
指先に伝わる金属の硬さが、まるで自分の決意を試すようだった。
「だから、こうやって会うのは今月いっぱいで終わりにしてください。次の休日の約束は、ちゃんと行くから……だから、お願い、します……」
声が震えてしまう。
櫻井さんを嫌いなわけじゃない。
でも、好きになりたくない。
心のどこかで、彼の笑顔や温もりに縋りたくなる自分を必死で抑えつける。
「……そっか……。朝陽が……朝陽がそう決めたなら、俺は反対することはないよ。俺のことを忘れる原因を作ったのは、俺自身だから……仕方、ないよな……」
櫻井さんの彼の声が震えているのがわかる。
泣いているのかもしれない。
でも、今顔を見たら、せっかく決めた気持ちが揺らいでしまいそうだった。
ずっとここに居たら、オレは前に進めない気がしたから……
夜風が頬を撫で、冷たい空気が目尻に滲んだ熱を冷ます。
「朝陽、ごめん。でも、俺は諦めきれない。だから、今月いっぱいは俺にチャンスをくれないか?もう一度、朝陽に好きになって欲しい。だから……今月いっぱいまで、朝陽を口説かせて欲しい」
櫻井さんに手を握られ、深く頭を下げられる。
櫻井さんの手は、微かに震えていた。
本当は断らなきゃいけないのに、なんでだろ……
こんなやり取り、前にもしたことがあった気がする……
彼の俯いた姿に、胸の奥で何かが疼く。
まるで遠い記憶の欠片が、ほんの一瞬だけ光を放ったような感覚。
思い出したい気持ちはあるけど、思い出したくない。
断らなきゃ……でも……
「今月、だけですよ……。今月、だけ……貴方に、口説かれてあげます」
オレの声は、小さく震えていた。
断るつもりだったのに、無意識に口から出ていた。
静かな夜の公園に、虫の鳴き声が軽やかに響いている。
まるでその決意を見守るように静かに鳴き続けていた。
十一月の始め。気が付けば、もうすぐ今年も終わりだ。
なんか、今年は色々ありすぎたせいで、一年があっという間だった気がする。
櫻井さんに言われた通り、仕事が終わってからすぐに連絡を入れた。
どこかで待ち合わせかな?って思ってたんだけど、しっかり店の前まで迎えに来てくれて、ついこの間も司馬が同じように迎えにきてくれたのを思い出す。
「なんか、オレが女の子だったら櫻井さんのファンに刺されそうですね」
冗談っぽく言ってみたけど、櫻井さんはちょっと嫌な顔をしていた。
あ、地雷踏んだかも……
そういえば、オレを突き落としたって人、櫻井さんのストーカーをしてたんだっけ……
なんか、イケメンはイケメンで苦労してるんだろうなぁ……
ってことは、司馬も気を付けないとダメなんじゃないか?
ん~、オレの周り、イケメン率高いような気がする。
当のオレは平凡たぬき顔という不名誉な称号をもらっているけど……
というか、これ、誰が言ってたんだっけ……覚えてないや……
「竹内くん、なんか変なこと考えてるだろ……」
オレの考えを読み取ったのか、櫻井さんが呆れ顔で言ってきた。
オレは慌てて否定したけど、軽くペチンとデコピンをもらってしまった。
「朝陽は、誰よりも可愛い。大切な人を心配するのは当然だろ?」
なんか、当然のように恥ずかしいことを言われて、顔が熱くてしかたない。
櫻井さん、時々オレのこと、【朝陽】って名前で呼ぶからドキドキする。
オレたち、そんな名前を呼ぶ仲でもないのに……
そんな調子で、オレたちはよく散歩に来ていた高台のある広い公園に来た。
本当は、櫻井さんも仕事終わりだから、どこかの店に食事に行こうって言うつもりだったのに、気付けばこの公園へと向かっていた。
目の前には、秋の夜風に揺れる木々の影が街灯に照らされ、地面に細長い模様を描いている。
ベンチの冷たい感触がジーンズ越しに伝わり、ほのかに湿った空気が鼻腔をくすぐる。
「ここ、よく一緒に来たよな……」
櫻井さんの声は低く、どこか懐かしむような、寂し気な声色を含んでいた。
「……すみません。オレ、よく覚えてなくて……。オレの家が近所だから、つい、ここに来ちゃうんですよね……。ここから見える夜景が、なんとなく好きで……」
ここの夜景を見るのが好きなことに嘘はない。
でも、いつも誰かと一緒に見るから好きだったんだと思う。
ただ、その相手が誰だったのか、今のオレには思い出せない。
「俺もここ、好きな場所だよ。春はこの公園でお花見もしたし、この時期は月見酒を飲んだこともあったかな。まぁ、コンビニで買ったビールだったけどな」
何かを思い出したのか、クスクス笑いながら話す櫻井さんの表情に、ツキンと小さく胸が痛む。
別に、櫻井さんがここに来るのはおかしいことじゃない。
本社からは離れてるけど、お花見スポットとして有名な公園だし……
お月見とかも、ここなら綺麗だと思う。
オレの職場が近いから、打ち合わせの帰りに寄ってたってのもきっとあるだろうし……
オレが……櫻井さんの言う通り、付き合ってたなら……よくここに来ていたってのも、おかしな話じゃない。
それなのに……オレだけがその記憶を持っていないと思うと、なんだか胸がモヤモヤする。
まるでパズルのピースがひとつ足りないような、言いようのない違和感が心をざわつかせる。
質問したら、櫻井さんは答えてくれると思う。
でも……なんだろ。なんでか、聞きたくない。
「あ、櫻井さんちょっと待っててください。そこの自販機ですけど、飲み物買って来るんで。もちろん、オレの奢りですよ♪」
少し離れた場所で煌々と光る自販機を指差し、飲み物を買ってくるのを提案する。
本当は、ほんの少しだけでもいいから、ひとりになりたくなった。
櫻井さんが、誰かを思い出す姿を見たくなくて、離れたくなった。
「ありがとう。じゃあ、俺も一緒に行くよ」
それなのに、櫻井さんはオレの意図を理解してくれなくて、当たり前のように手を握ってくる。
そのあまりにも自然な仕草に、手を振り払うことも、文句を言うこともできない。
ただ、握られた手の熱さが、妙に心をざわつかせてくる。
「あ、今日は普通のコンポタがある」
自販機に表示されている商品を見て、つい声が出る。
「……鯛茶漬け、蜜芋ブリュレ、かに鍋スープ(お米入り)、おでん……ん~、いつ見てもここのラインナップはおかしいと思う」
変わり種の商品しか並んでいない自販機の内容についいぶしがってしまう。
「あ……櫻井さん、お好きなのをどうぞ!」
オレはポケットから小銭を取り出し、お金を投入した後、満面の笑顔でラーメンスープのボタンを指差す。
「……竹内くん、ホントこういうの好きだよな……。濃厚とんこつラーメンって……。俺がこれにしたら、お前はこっちにしろよ?」
呆れたような笑みを浮かべつつ、商品選択のボタンをカチッと押し、自販機から商品を取り出してオレに手渡してきた。
「ちょっ!何それ!あはははっ、コレ何?出汁って書いてんだけど」
櫻井さんから手渡された商品を見て、つい笑ってしまう。
淡い茶色のパッケージに、黄金色のスープが描かれた缶。
『ゴクっ!と旨い和だし』とキャッチフレーズまで書かれた商品は、某有名な企業が出した商品だった。
「これ美味しいの?も~、じゃあ、櫻井さんはこっち飲んでくださいよ」
櫻井さんの悪戯の仕返しをするため、オレは先ほど提案した【濃厚とんこつラーメンスープ】を選択して、彼に手渡す。
「オレが奢ったんだから、ちゃんと飲んで感想まで言ってくださいよ!これで不味かったら、明日のお昼は櫻井さんの奢りでお願いします!」
我ながら理不尽なお願いをしている気はする。
けど、せっかくお金を出して買ったのに、不味いのは嫌じゃん。
櫻井さんのが不味かったら……ちょっと面白そう。
ひと口だけもらって、一緒に不味さを共有して笑って許してもらおうかな。
そんなことを考えながら、ちょっと熱い缶のプルタブを開ける。
鼻孔をくすぐる香ばしい出汁の匂いに、無意識に喉がゴクリと鳴る。
恐る恐る缶に口を付け、ひと口飲み干した瞬間、目をカッと見開き声が出た。
「えっ!うまっ!?」
「嘘だろ、コレ!美味すぎる!」
櫻井さんもスープを口にしていたのか、ふたり同時に驚きの声が上がる。
「これ、めちゃくちゃ美味い。面とチャーシュー入れたら完全にラーメンだ。うっわぁ~、ビール欲しい!餃子も食いてぇ~」
ゴクゴクとスープを飲みながら悶絶している櫻井さんの様子を見て、興味がそそられる。
「櫻井さん、こっちもヤバいよ。この出汁でお茶漬けやったら絶対美味いと思う!あぁ~、でも、このゴクゴク飲めるお出汁ってなんか背徳感あるかも」
温かい出汁の芳しい旨味が口いっぱいに広がり、強張っていた心が解きほぐされていく。
「はぁぁ……、さっきまで緊張してたのがバカみたい。ねぇ、櫻井さん。オレの話、聞いてくれる?」
さっきまで強張っていた身体がウソみたいだ。
じんわりと温かな缶が冷えたオレの指先を温めてくれ、勇気を与えてくれる。
「オレ、今年いっぱいで会社を辞めることにしました。色々考えたんだけど、事件が起こる前にオレが、オレ自身が決めてたことをしようかなって思って」
くるっと櫻井さんの正面に立ち、伝えようと思っていたことを話し始める。
「今年いっぱいって言っても、有給が残ってるから、退職するのは来年の一月の半ばまで。でも、今の店で働くのは、年末の最終営業日までって話になったんだよね」
缶を両手のひらでコロコロと転がしながら、ポツポツと説明する。
「引継ぎは、今してる。週明けには新しい人が入って来るし、オレが居なくても、店は回るってわかったから……。あと、ここじゃないどこかに引っ越そうと思ってる」
しっかりと櫻井さんの目を見て話しかける。
「ここじゃないどこか……。場所はまだ決めてないし、仕事がどうなるのかもわかってないけど……。心機一転、一から頑張ってみようかな?って思って」
話しているうちに、なぜか視界が歪む。
泣きそうなのがバレないように、震えそうになる声を呼吸でなんとか誤魔化し、ニッコリ笑って見せる。
「…………」
驚いているのか、目を真ん丸く見開いた後に悲し気に顔を歪ませる櫻井さんを見て、胸が締め付けられる思いだった。
本当は、そんな顔、見たくなかった。
でも、これだけは伝えなきゃいけない。
オレのためにも……
櫻井さんのためにも……
「十二月に入ったら、店も今より忙しくなっちゃうと思うんだよね。だから……」
喉の奥に詰まる感情を飲み込むように、冷たくなっていく缶を握りしめる。
指先に伝わる金属の硬さが、まるで自分の決意を試すようだった。
「だから、こうやって会うのは今月いっぱいで終わりにしてください。次の休日の約束は、ちゃんと行くから……だから、お願い、します……」
声が震えてしまう。
櫻井さんを嫌いなわけじゃない。
でも、好きになりたくない。
心のどこかで、彼の笑顔や温もりに縋りたくなる自分を必死で抑えつける。
「……そっか……。朝陽が……朝陽がそう決めたなら、俺は反対することはないよ。俺のことを忘れる原因を作ったのは、俺自身だから……仕方、ないよな……」
櫻井さんの彼の声が震えているのがわかる。
泣いているのかもしれない。
でも、今顔を見たら、せっかく決めた気持ちが揺らいでしまいそうだった。
ずっとここに居たら、オレは前に進めない気がしたから……
夜風が頬を撫で、冷たい空気が目尻に滲んだ熱を冷ます。
「朝陽、ごめん。でも、俺は諦めきれない。だから、今月いっぱいは俺にチャンスをくれないか?もう一度、朝陽に好きになって欲しい。だから……今月いっぱいまで、朝陽を口説かせて欲しい」
櫻井さんに手を握られ、深く頭を下げられる。
櫻井さんの手は、微かに震えていた。
本当は断らなきゃいけないのに、なんでだろ……
こんなやり取り、前にもしたことがあった気がする……
彼の俯いた姿に、胸の奥で何かが疼く。
まるで遠い記憶の欠片が、ほんの一瞬だけ光を放ったような感覚。
思い出したい気持ちはあるけど、思い出したくない。
断らなきゃ……でも……
「今月、だけですよ……。今月、だけ……貴方に、口説かれてあげます」
オレの声は、小さく震えていた。
断るつもりだったのに、無意識に口から出ていた。
静かな夜の公園に、虫の鳴き声が軽やかに響いている。
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