闇息

風まかせ三十郎

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「君は誰だ?」

 こりゃ三途の川まで一直線か……。夢なら早く覚めてくれ。

「安心して。あなたはまだ死んではいないのだから……」

 心を見透かされた? 彼は戸惑いを隠せないまま問い返した。

「どうしてこんな場所にいる? ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ」

 少女はトンネルの天井の一角を指さした。するとそこにスポットライトのような光が射した。彼が故意に見逃そうとした、あのコンクリートの亀裂がくっきりと浮かび上がった。

「あの亀裂が気になって……。かなり広範囲に広がっているわ。もし崩落したら大惨事に繋がるかも」

 亀裂は縦二・五メートル、横三メートルくらいか。もしコンクリート劣化の主要因である中性化現象やアルカリ骨材反応だとしたら、浸食はどの程度進んでいるのか。

「深さは四五センチよ。重量にして約二トンといったところかしら」

 彼は苦笑を隠せなかった。

「君は凄いな。目視検査だけで、そこまで見抜けるなんて」

 どんな熟練作業員でも亀裂の深さまで見抜くことは不可能だ。少女はいい加減なことを言っているのだ。
 少女がクスリと笑った。

「わたしの言葉が信じられないのなら打音検査をしてみるといいわ。本当か嘘かすぐにわかるから」

 もし少女の言うことが事実なら、巨大なコンクリート塊がするはずだ。彼は手にした検査データに目を落とした。確かに以前から亀裂は確認されている。だが亀裂の大きさに変化はなく、崩落の心配はないものと記入されていた。

「検査の必要はないな。あれは以前の検査で調べたから……」
「コンクリートは劣化するものよ。半永久的なものではないわ」
「なんだってそうだろ? 形あるものは必ず壊れる」
「でも高度経済成長期以後に造られたコンクリート構造物は物理的耐用年数、いえ、経済的耐用年数すらも満たしてはいない」

 物理的耐用年数とは構造物の性能低下による寿命のことであり、経済的耐用年数とは構造物の減価償却の寿命のことだ。彼も現場に携わる者として、少女の言うことは熟知していた。ただ見て見ぬ振りをしているだけだ。

「このトンネルはそれ以前の古いものだ。造りはしっかりしているよ」

 少女は不意に笑い出した。その悲鳴にも似た甲高い音がトンネル内に不気味に木霊した。

「皮肉なものね。古い方が安全だなんて……。骨材に塩化物イオンを多量に含んだ海砂を使用したり、コンクリートの流動性を高めるために多量の水を加えたり。これが高度経済成長によって産み落とされたコンクリート構造物の実態よ。繁栄の陰で人々が失ったものを具象化しているとは思わない?」

 思わず頷いてしまった。無力な自分に愛想が尽きたとでもいうように……。
 
「仕方ないよ。国内で良質の骨材を入手するのは難しいし、じゃぶコンの方がポンプ圧送や型枠に流し込むとき扱いやすい」
「そのために鉄骨は腐食してコンクリートは脆くなる。多くの人命が危険に晒されるけど、もし事故が起こったら、誰が責任を取るのかしら?」

 巨大事業の運営に死傷者は付きものだ。だが責任など誰にも取れないのだ。だから責任の所在は体よく分散されている。もし引責辞職する者が一人いたら、陰で何人の者が胸を撫で下ろすことか……。

「人間のやることに100パーセント安全ということはない。でも100パーセントに近づける努力はしているつもりだ」

 誰かが同じことを言っていた。そうだ、これは死んだ親父の言葉だ。

 家の近くで橋脚工事があった。電柱の陰から覗くと鋭い眼差しで工事を監督す親父の姿が目に映った。

「だめだ、だめだ! それじゃスランプが大きいじゃないか!」

 そう言って親父は作業員を叱咤した。仕事には一切手抜きを許さなかった。他人の監督した仕事ですら疑問があれば口を挟んだ。完成したての橋脚を削って鉄筋を配置を自分の眼で確かめたという。工期が遅れて陰で泣いた業者も少なからずいたはずだ。これは親父の同僚から聞いた話だ。コンクリートの神様は家庭では寡黙な男だった。だから一言一言が脳裏に焼き付いているのだろう。幼い頃の心象風景は時々夢に現れて、仕事に励む息子を叱咤する。

「手を抜くな。いい仕事をしろよ」

 二十代の頃はひと月に一回は見ていたように思う。それが結婚して仕事が忙しくなるに連れて、徐々に減っていったのだ。もう見なくなって久しくなる。最後に見たのは確か三年前か、それとも四年前か……。
 自分も息子に誇れる仕事がしたい。息子は小学四年生だ。血は争えないというべきか、建築に興味を持っている。学校の作文には世界一高いビルを建てると書いていた。その夢を摘み取ってはならない。

「ならばあなたはあの亀裂を叩くべきよ」

 あれは叩き落とすべき剥離なのだ。だが彼は逡巡した。
 少女の言うことは事実だ。最近になってトンネル内の崩落事故が相次いだ。鉄道屋のトンネルは丈夫だという思い込みは脆くも崩れ去った。専門家の間からも「列車を運休してでも緊急総点検すべきだ」という声が上がっている。だが鉄道会社の経営陣は「運休して総点検を早めるプラス面と、多くの利用客に迷惑にかけるマイナス面を比べれば、マイナスの方が大きいと判断せざるを得ない」と安全より利潤を優先させた。「より安全に」より「より速く、より安く」なのだ。そして自分は鉄道会社の従業員なのだ。

「できない、できないんだ」

 あの亀裂を叩くことは会社の方針に反することなのだ。リストラで会社を去った同僚の顔が思い浮ぶ。家族を守るためには会社に忠実であらねばならない。だが……、仕事の手を抜くことが会社のためになるなんて。会社の利益と社会の利益は必ずしも一致しないのだ。
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