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第二部「あなたに贈るシフソフィラ」編

0:かつてと今と、『いつか』に贈る

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「トワル、邪魔するぞ」

 大抵の場合、無遠慮に踏み込んでくるのは身内ばかりである。

 筆を走らせていた手を止め、顔を上げた彼——トワル・シュタイツェン=ヴァールハイトは、黒い目を何度も瞬かせた。

 視線の先で開かれた扉は、勢い余って壁にぶつかり大きな音を立てる。毎度のこととはいえ、そのうち書斎は風通しが良くなるのではないか。半ば諦めきった顔で扉を眺めていると、戸口に見慣れた姿が現れる。

「何だ、妙な顔をして。まさか私が誰だかわからないなどとは言うまいな」
「それこそまさかだよ。……ただ毎度のことながら、あなたは神経質なくせに、どうでもいいところが雑だなと思って」

 暗に壊れるからやめろと匂わせても、まともに取り合わないのが身内の恐ろしいところだ。
 何の反応も見せず書斎に踏み込んできた『彼』は、本棚のそばに置かれたソファに倒れこむ。勝手知ったるトワルの家。そんな言葉が浮かんでしまうほど、その姿はだらけきっている。

 だが、まあ。トワルは書き物を片付けながら笑う。この人物に関しては、文句を言うこと自体が今更なのだとも思うのだが。

「……トワル。お前は大抵のことはどうでもいいくせに、妙に神経質だな。そんなことだから、奥方にいつも刺されるのだ」
「その言い方、語弊がありすぎるんだけど。一般的に刺されるっていうのは、色恋沙汰とかに使うものじゃないのか? どうしてフォークで背中を突かれることが刺されるうちに入るんだよ」
「普通、何もないならフォークでも突かないと思うのだが」
「さてさて、稚拙な愛情表現ってやつを知らないのかな? それより悪かったね。子供たちがまたまとわりついたみたいで」

 突き詰められると困ることは受け流すに限る。にこやかに話を変えたトワルを、彼は遠いもののように見つめた。これだから大人は嫌なんだ。当たり前のことをつぶやかれでも、トワルが可愛くなるわけもない。

 しかし彼がぼやくのは今に始まった事ではないし、そもそもぼやきはトワルのことばかりではない。ソファに座りなおすと、彼は棒切れと称された細い肩をすくめて見せた。

「本当にな、疲れた。『お土産クレクレ』攻撃はまだしも、そのあとの『ナンデナンデ』追撃はなかなかに厳しいぞ。問いの答えがさらなる問いを呼ぶのだから、子供たちの頭はどうかしているとしか思えない」

 親を前にして言う台詞ではないとは思うが、子供たちの『知りたがり』が激しいのは事実だ。トワルは机の上で手を組むと、苦笑いを浮かべながら労をねぎらう。

「お疲れさま。だが、そうぼやくなよ。あなたにだって子供の頃はあっただろう?」
「そんな大昔のことを覚えていると思うのか? ああ、だが、お前の父が幼い頃のことは覚えているな。アレはアレで激しく可愛げのない子供だった……」
「父さんが聞いたら笑い転げそうだな。可愛くないって言うのは、愛情の裏返しだ、とか言って」
「……訳の分からんことを言う口には、ほうれん草を詰めた上で『お前万年独身貴族』と貼り付けてやる」
「仮の話だけでそこまでの仕打ちって、本当にあなたたちは仲がいいよなぁ……」

 苦笑いもそこそこに、トワルは本を片手に立ち上がる。だらけきっていた彼も、背筋を伸ばしてソファに座りなおす。仕切り直しというには少々遅い気はするが、そこはいつものことで二人は気にも留めない。

 向かいのソファに腰を下ろし、トワルは彼を真正面から捉えた。年月を経ても変わることのない姿、変わらないまなざし。それでも時の流れを示すように、彼が浮かべた微笑みはかつてよりも深さを増す。

 変わらないもの、変わっていくもの。それら全てを見つめてきた『彼』の瞳。かつても今も、変わらず大切なものであり続けるそれを、トワルは優しい笑顔で見つめ返した。

「さて、前置きが長くなったけど。そろそろ私の仕事を始めさせてもらおうかな」

 手にした本を開き、トワルはペンを手に取る。静かに開かれたページは白く、何も書かれていない。
 それは未だ描かれぬ物語であり、始まりを待つ白紙のページだ。静かに促してくる黒い瞳に向かって、『彼』は深く頷き——始まりとなる言葉を告げた。

「ああ——を始めよう」


 ここから先にあるのは、
 ただ、未だ語られることもなく眠り続ける——


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