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第二部「あなたに贈るシフソフィラ」編
20:ひとりぼっちの魔法使い
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その森には、魔法使いが住んでいる。
深い深い森の奥、人も寄り付かない場所で独りきり。たまに訪れるのは監視役の騎士と、窓辺に止まる鳥たちだけ。
ずっと、時を忘れてしまうほど長い間。魔法使いはひとりぼっちだった。
森の奥の家でひとり、なにもない日々を数えて暮らすだけ。
そんな彼を人は、孤高の魔法使いと呼んだ。
けれど彼が、その呼び名を望んだことは、一度たりともなかった。
※ ※
その出会いを運命とは、間違っても呼ぶことはできない。
魔法使いは孤独なものなのだと、かつて彼を育てた師は言った。
誰にも心許さず、誰にも理解されない。それは人よりも世界の理に寄り添い、ときに人の世に反逆してきた魔法使いにとって、当然の『理《ことわり》』であるのだと。
だから彼——魔法使いイクスにとって、この森の静けさは愛すべきものであった。人はわずかな例外を除き誰も訪れない。それは紛れも無い『孤独』であったが、何者にも侵されることのない静寂を彼は愛した。
耳に届くのは森の木々のざわめきと、遠くで鳴く鳥の声だけ。夜は灯りもなく、輝くのは空の星と月のみ。
そんな日々を、彼は愛していた。たとえどれほど孤独と呼ばれようと、確かに愛していたのだ。
——少なくとも、あの日。森の中でうずくまり震える、小さな子供に出会うまでは。
※ ※
魔法使いは、目の前にうずくまるものを何の感情もなく見つめていた。
少しずつ冬の足音が聞こえる季節。森の木々は静かに葉を落とし、降り積もった枯葉は鮮やかに地面を彩っている。歩めば葉を踏みしめるささやかな音が響き、湿り気を含んだ腐葉土の香りが鼻に届いた、
じきに日も暮れ、夜が訪れるだろう。長く伸びた木々の影。少しずつ陰っていく空を遠目に眺めてから、魔法使いは再び視線を『それ』に戻した。
『それ』は——使い古した布のようにボロボロで、どこもかしこも泥をかぶり汚れていた。
何処かから逃げてきたのだろうか。眉ひとつ動かさずに魔法使いは状況を推察する。
魔法使いにとっては何の興味もないことだったが最近、隣国の王が崩御し国が荒れているという。そのため国境を越えて難民が大量に流入しているのだと、魔法使いの監視役である騎士が言っていた。
その国境とは、まさに魔法使いの森があるこの地域だった。どうでもいいが面倒な話だと、そう感想を漏らしたのはほんの数日前のことではあったが——。
今、その現実が目の前にうずくまっている。
おそらく、隣国の難民の子供であろう。『それ』は小さく、とてもやせ細っていた。身につけている服はボロ切れにしか見えず、靴も履いていない足は傷と土で汚れきってる。
もう、生きてはいまい。魔法使いは、『それ』の死を確信していた。
名も知らぬ、どこの誰ともわからぬ小さな子供であった『それ』。命の消えたその身体は肉塊でしかなく、魔法使いにとって興味の対象ではありえなかった。
たとえばもし、その子供がまだ生きていたなら。
魔法使いはもの言わぬ骸に背を向ける。その顔には珍しく苦笑いが浮かんでいて、監視役の騎士が見たら腰を抜かしたことだろう。それくらいに苦々しい笑いだった。
思わず浮かんだ『もしも』の話はあまりにも無意味だった。その子供が生きていたなら、どうしたというのだろうか。抱き上げて温めて、労わるのか。考えられない。
考えられはしない。魔法使いは孤独な生き物だ。誰かの手をとって救い上げるなど、そんなことは夢にも思いはしない——。
冷たい枯葉の上を歩き出そうとした。そのはずだった。けれどその瞬間、魔法使いは何かに裾を引かれて立ち止まった。
強い力ではなかった。だが、ひどく強い意志を感じる力だった。魔法使いは振り返る。
そして目に映ったのは、最後の力を振り絞るように裾を握りしめる、死んでいたはずの子供の姿だった。
その姿はあまりにも弱々しく、同時に怨念に近いほどの生への執着を感じさせて。魔法使いは、滅多にないことだが言葉を失った。それほどまでに醜く鮮やかな、幼くも激しい黒瞳。
「たす、けて」
乾いてひび割れた唇が、かすれた声を吐き出した。
魔法使いは動けない。振り払うことなど簡単なはずなのに、見捨てることは更に容易いはずなのに。魔法使いは動けない。その瞳から目を離すことができない。
「たすけ、て。たすけて」
繰り返す。壊れたように、狂ったように。それはきっと、本当に恐ろしいまでの執念。生きていたい。生きたい、生き続けたい。
「——助けて!!」
幼くとも、いや幼いからこそ。生への叫びはあまりにも純粋なものだった。
魔法使いは言葉もなく子供を見下ろした。初めて『それ』が人間だと気づいたかのように。
ここから始まるのは、忘れえぬ苦難と優しくも苦い季節の話。
魔法使いは、初めて小さな命を抱きしめる。
それをのちに魔法使いは、人生ただ一度の『奇跡』と呼んだ。
深い深い森の奥、人も寄り付かない場所で独りきり。たまに訪れるのは監視役の騎士と、窓辺に止まる鳥たちだけ。
ずっと、時を忘れてしまうほど長い間。魔法使いはひとりぼっちだった。
森の奥の家でひとり、なにもない日々を数えて暮らすだけ。
そんな彼を人は、孤高の魔法使いと呼んだ。
けれど彼が、その呼び名を望んだことは、一度たりともなかった。
※ ※
その出会いを運命とは、間違っても呼ぶことはできない。
魔法使いは孤独なものなのだと、かつて彼を育てた師は言った。
誰にも心許さず、誰にも理解されない。それは人よりも世界の理に寄り添い、ときに人の世に反逆してきた魔法使いにとって、当然の『理《ことわり》』であるのだと。
だから彼——魔法使いイクスにとって、この森の静けさは愛すべきものであった。人はわずかな例外を除き誰も訪れない。それは紛れも無い『孤独』であったが、何者にも侵されることのない静寂を彼は愛した。
耳に届くのは森の木々のざわめきと、遠くで鳴く鳥の声だけ。夜は灯りもなく、輝くのは空の星と月のみ。
そんな日々を、彼は愛していた。たとえどれほど孤独と呼ばれようと、確かに愛していたのだ。
——少なくとも、あの日。森の中でうずくまり震える、小さな子供に出会うまでは。
※ ※
魔法使いは、目の前にうずくまるものを何の感情もなく見つめていた。
少しずつ冬の足音が聞こえる季節。森の木々は静かに葉を落とし、降り積もった枯葉は鮮やかに地面を彩っている。歩めば葉を踏みしめるささやかな音が響き、湿り気を含んだ腐葉土の香りが鼻に届いた、
じきに日も暮れ、夜が訪れるだろう。長く伸びた木々の影。少しずつ陰っていく空を遠目に眺めてから、魔法使いは再び視線を『それ』に戻した。
『それ』は——使い古した布のようにボロボロで、どこもかしこも泥をかぶり汚れていた。
何処かから逃げてきたのだろうか。眉ひとつ動かさずに魔法使いは状況を推察する。
魔法使いにとっては何の興味もないことだったが最近、隣国の王が崩御し国が荒れているという。そのため国境を越えて難民が大量に流入しているのだと、魔法使いの監視役である騎士が言っていた。
その国境とは、まさに魔法使いの森があるこの地域だった。どうでもいいが面倒な話だと、そう感想を漏らしたのはほんの数日前のことではあったが——。
今、その現実が目の前にうずくまっている。
おそらく、隣国の難民の子供であろう。『それ』は小さく、とてもやせ細っていた。身につけている服はボロ切れにしか見えず、靴も履いていない足は傷と土で汚れきってる。
もう、生きてはいまい。魔法使いは、『それ』の死を確信していた。
名も知らぬ、どこの誰ともわからぬ小さな子供であった『それ』。命の消えたその身体は肉塊でしかなく、魔法使いにとって興味の対象ではありえなかった。
たとえばもし、その子供がまだ生きていたなら。
魔法使いはもの言わぬ骸に背を向ける。その顔には珍しく苦笑いが浮かんでいて、監視役の騎士が見たら腰を抜かしたことだろう。それくらいに苦々しい笑いだった。
思わず浮かんだ『もしも』の話はあまりにも無意味だった。その子供が生きていたなら、どうしたというのだろうか。抱き上げて温めて、労わるのか。考えられない。
考えられはしない。魔法使いは孤独な生き物だ。誰かの手をとって救い上げるなど、そんなことは夢にも思いはしない——。
冷たい枯葉の上を歩き出そうとした。そのはずだった。けれどその瞬間、魔法使いは何かに裾を引かれて立ち止まった。
強い力ではなかった。だが、ひどく強い意志を感じる力だった。魔法使いは振り返る。
そして目に映ったのは、最後の力を振り絞るように裾を握りしめる、死んでいたはずの子供の姿だった。
その姿はあまりにも弱々しく、同時に怨念に近いほどの生への執着を感じさせて。魔法使いは、滅多にないことだが言葉を失った。それほどまでに醜く鮮やかな、幼くも激しい黒瞳。
「たす、けて」
乾いてひび割れた唇が、かすれた声を吐き出した。
魔法使いは動けない。振り払うことなど簡単なはずなのに、見捨てることは更に容易いはずなのに。魔法使いは動けない。その瞳から目を離すことができない。
「たすけ、て。たすけて」
繰り返す。壊れたように、狂ったように。それはきっと、本当に恐ろしいまでの執念。生きていたい。生きたい、生き続けたい。
「——助けて!!」
幼くとも、いや幼いからこそ。生への叫びはあまりにも純粋なものだった。
魔法使いは言葉もなく子供を見下ろした。初めて『それ』が人間だと気づいたかのように。
ここから始まるのは、忘れえぬ苦難と優しくも苦い季節の話。
魔法使いは、初めて小さな命を抱きしめる。
それをのちに魔法使いは、人生ただ一度の『奇跡』と呼んだ。
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