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第三部「魔法使いの掟とソフィラの願い」編

6-3.だから、目覚めたら「おはよう」と言って

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 と、言うわけで。という話でもないのだろうが。出不精の師匠に代わり、出不精な兄弟子と割りと一般的な弟子のキールが、町に買い物に出かけることになった。何を買うつもりか、とイクスに問いかければ、不機嫌そうな顔で「にく」と答えた。

「って、いや、にくって。肉にしても色々あるでしょう?」
「塊揃えて置いておけばいいだろう。あとはやつがなんとかする。私はもう知らないからな!」
「う、うう。それはそれで問題があると思いますけど。師匠のごはんとか食べられると思います?」
「お前失礼なやつだな! ごはんに謝れ!」
「え、えええ。そっちなんですか⁈」

 と、言うわけで。というのも無理があるとキールは思う。しかしながら、主導権はもともと食事担当のイクスにある。トコトコと石畳を歩いていると、不意にイクスはある店の前で足を止めた。

「キール、見てみろ」

 無言で指差しながら、魔法使いはじっと店先を見つめている。何事かとキールが視線を辿れば、そこには黒い猫が座っていた。美しいビロードのような毛並みの尻尾をくねらせ、猫もイクスを見つめる。

「イクスさん、猫好きなんですか」
「毛皮が好きだ」
「いやそれ語弊ありますよね。確かに綺麗な毛並みの猫ですけど」

 イクスは指を振って猫を呼んでいる。しかし猫はのんびり毛づくろいをするばかりで、魔法使いに近づこうとはしない。奇妙な距離感で呼び合う彼らの関係性は、結局猫が店の中に去ったことで崩れた。

「あ、猫。ネコ待てネコ!」
「イクスさん、買い物は?」
「くぅ……! 許さんぞフラメウめ。私の癒しスポットに呪いをかけたな!」
「それは濡れ衣ですよね」

 イクスに突っ込むのに疲れて、キールはネコネコ言っている背中を押して歩かせる。最初はぶつくさ言っていたイクスだが、肉屋が近づくにつれ今日のメニューについて呟き始める。

「肉料理、といえば何だ。キール?」
「ステーキじゃないですか。焼き加減はブルーがいいですね」
「焼き加減ブルーって、ほぼ生だぞ少年。いやそういうのではなくだな。何か一手間かけたようなやつがいい」
「うーん、ローストビーフ」
「お前真面目に肉の塊食いたいんじゃないのか。もう少し何か……よし、やはりカツにしよう」
「揚げ物ですか。師匠が好きそうですよね」
「年寄りのくせに揚げ物好きとか、真面目にやつの胃袋魔法でできてるのかもしれんな」

 冗談を言い合いながら、歩くことしばし。肉屋の前にたどり着いたキールたちは、早速目的の肉に目星をつける。ああだこうだ言いつつ、結局イクスが選択した肉はもちろん塊ではなかった。

「豚をくれ」
「……あの、豚肉ですよね。豚くれって言い方が」

 兄弟子のとんちんかんに振り回されるのは常のはずだった。だがどうにも要領がつかめず、キールは困惑せずにはいられない。この齟齬《そご》はどこから来るのだろうか。帰りの道すがら、ぼうっと悩んでいるとそっと肩を叩かれる。

「どうした、何か気にかかることでもあるのか」

 色の薄い瞳が、不思議そうに少年を見下ろしていた。その瞳に見つめられると、何故か今まで悩んでいたことが冗談のように消えていく。だから、キールは特に何も疑問に思わなかった。兄弟子の瞳には陰りも何もなく、温かな感情だけが存在していたから。

「ううん、何でもないんです。きっと、気のせいなんです。そう、きっと」
「そうか。朝から様子がおかしい気がしたが……お前がそう言うなら、大丈夫なんだろうな」
「ええ。……イクスさんや師匠がいれば、大丈夫です」

 そう、この世界にはキールの望んだものが揃っている。温かな食卓、穏やかな時間。大切な人たち。何も失われることのないこの場所が、憧れ続けた幸せであることは間違いなかった。

 そして、彼らの暮らす小さな家に戻って。食事の支度をするというイクスの代わりに、遊んでいるであろうフラメウを迎えにいく。師匠といえば、近くの川で釣り糸を垂らしていた。穏やかな川面に魚影はなく、ぼうっと座っているだけの黒外套の男はどう見ても怪しい。

「師匠、買い物に行ってきましたよ。イクスさんがごはん作ってくれてますから、適当なところで切り上げてください」
「ん……なんだ、肉はどうした。さてはお前たち、肉を買ってこなかったな?」
「いや、買ってきましたけど。イクスさんはカツ作るって言ってましたよ」
「カツ? 揚げ物か!」

 突然意気揚々と立ち上がった師匠は、釣竿を担いでそそくさと家路を急ぐ。そんなにカツが好きなのか。今すぐにでも揚げに行きたいとでもいうかのように、その足取りは恐ろしく軽やかだった。

 ほとんどスキップで家にたどり着いたフラメウは、料理ができていないことを知って激怒した。怒りに任せてテーブルをひっくり返そうとしたフラメウが、誤ってテーブルを足に倒したトラブルがあったものの、夕刻に近づく頃、キールたちはなんとか食卓を囲むことができた、

「さて、色々あったがとりあえず食事だ」

 キツネ色の衣がサクサクとして美味しい。宣言通りトンカツが主役となった食事に、フラメウもキールも満ち足りた表情を浮かべた。イクス特製ソースは少し酸味を感じるが、それがアクセントになって食が進む。トマトのサラダや焼きたてのパンも、ついついつまんでしまう。

「このサクサクした感じ、とても食感が良くて美味しいです。肉も柔らかいけど脂っこくなくて、意外に食べられちゃいますね」
「まるで評論家のようだな、キール。それに比べてフラメウのやつは、食べるだけ食べて何も言わないとは」
「うまい、そう言えば満足か。不味ければそもそも食べていない」
「お前ほど作り甲斐のない師匠もいないと思うが。もう少し頭を使って食べてもらいたいものだ」
「まあまあ、美味しいのは確かですから。イクスさんも師匠も、食事中は仲良くしてください」

 苦笑いするしかないキールは、ふと、テーブルに飾られている花に目を奪われた。白い花弁が大きく開いた、少し甘い香りのする花。どこかで記憶を揺さぶられる造形に、少年は花から目を離せなくなる。

「キール、どうした?」

 呼びかける声も、はっきりとは耳に入らない。鼓動が脈打ち、息苦しいほどの焦燥に襲われる。何かを忘れている気がした。いや、きっと忘れているのだ。一体何を?

「ねえ、イクスさん。この花は……何ですか」

 キールの問いかけに、返ってきたのは沈黙だった。のろのろと少年が兄弟子を見れば、彼はどこか寂しそうに眉尻を下げていた。それはフラメウも同様で、何故か、とても良くない予感を感じる。

「キール、お前は……それでいいのだな」
「イクス、さん?」
「お前がそれを選ぶというのなら、私は止めはしない。そんな権利はこの私にありはしないのでな。だから、今一度問おう。キール、本当に良いのだな?」

 引き留めないことが、精一杯の誠意であるように。イクスたちはそれ以上何も言わなかった。食卓の風景、それに咲く白い花。その意味を考えてしまって、キールはどうすることもできない気分に襲われた。

「僕は」

 手の中で、同じように白い花が咲き始める。戻れない証のようなそれを、少年は強く握りしめる。戻りたくない。だが、ここに居続けることも、もう出来ない。

「なあ、キール。楽しかったか?」

 ゆるやかに、けれど確実に、世界は白い花に染め上げられていく。大切だった人は、微笑みながらそっと頷いてくれる。そう、大切だったのだ。だがもう、優しいあの場所には願ってもたどり着けない。

「お前の後悔。永遠の憧憬——ソフィラの花。いつかキール、お前がすべてを受け入れて、本当の意味で再び出会えることを願っている」

 光の中に花は咲く。「いつかまた会おう」——そんな約束を胸に灯して。
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