12年目の恋物語

真矢すみれ

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15年目の小さな試練

13.イヤな理由

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 体調が許せば、できる限り早くに課題を片付けるハルは、熱を出して入院する前になんと山野先生の課題を片付けていた。
 そうして、ハルは退院翌日にあった山野先生の授業でハルはいつものように、課題を提出してしまった。
 課題を出す前にコッソリ、

「来週にしたら?」

 と言ってみたけど、ハルからは

「……え? なんで?」

 と不思議そうに聞き返された。

「2週間以内に出せばいいし」

 と言っても、ハルは

「でも、もうできてるよ?」

 と、オレが何を言いたいのか、まったく分からないようで小首を傾げる。
 できてないふりをして提出を遅らせたら、新しい課題は渡されない。そうしたら、一週間身体が休められるよね?
 と懇切丁寧に説明したかった。だけど、なにせ授業中だ。それ以上の会話はできず、ハルは当然のように完成した課題を出して、先週の課題と新しい課題をもらってきてしまった。
 同じ班のメンバーは、そんなハルを見て、小声で、

「ハルちゃん、真面目だね~」

「ムリしない方が良いんじゃない?」

 なんて言っていたけど、ハルは何を言われているのか、やっぱり分かっていない。
 サボるって言葉、ハルの辞書にはない気がする。



 そして今。放課後の自宅で、ハルはもらってしまった新しい課題に向かっていた。
 向かってはいるが、ハルの視線は最初のページで止まったまま、シャーペンを持った手も止まっている。
 熱はないし、呼吸状態も悪くはない。だけど、顔色は良くなかった。普通に生活できるまで体調が戻ったからって退院したところなのに、もう疲れがたまってきている。
 こんな事を続けていたら、高熱のせいで食事も取れなくて、すっかり体力が落ちたハルの身体はもたないだろう。せっかく退院したのに、またすぐに入院する羽目になる気がしてならない。

「ハル」

 開いてはいるがまともに課題を読めていないらしいハルを見て、オレは意を決して声をかけた。だけど、何を考えているのか、ハルにオレの声は届かなかった。

「ねえ、ハル」

 もう一度、呼びかけると、ハルはようやくオレの方に視線を向けた。

「山野先生に言って、個人課題は止めてもらおう」

 兄貴に忠告されたからと言うのもあるけど、それ以前に、もう見ていられなかった。
 もう十分、先に進んでる。
 前期どころか後期まで合わせた今年の残りの授業をすべて休んだって、ハルの成績がトップクラス、と言うか断トツトップなのは変わらない気がする。それくらい、ハル一人全く違う次元の課題をもらっている。いや、やらされている。
 さすがに、これは行き過ぎだろ?



「そんなに奥様が心配? 牧村さんてば愛されてるわね~」

 少し前、オレが、ハルは体調が良くなくて休んでいるから、課題は遠慮したいと伝えた時に返された言葉。
 山野先生はクスクス笑っていた。
 冗談とか軽いからかいに聞こえるかも知れない。
 だけど、その中に小さな悪意を感じたんだ。

「無理にとは言わないわよ。できたらでいいんだから」

 そう言って、オレが返そうとした課題を当然のように差し出して来た山野先生。

「はい、お願いね」

 と笑顔で渡された物を、オレは突き返すことができなかった。
 オレに求められているのはメッセンジャー機能だけなのだと、先生の目が語っていたから。そして、ハルから、課題を止めて欲しいと頼まれた訳ではなかったから。



「……でも」

「ハルは、何がイヤ?」

「え?」

 オレの言葉を聞いたハルは、驚いたようにオレの方に顔を向けた。
 オレも自分の机からイスを持ってきて、ハルの向かい側に陣取った。

「ハルがイヤなのは、何?」

 もう一度聞く。
 できるなら、ハルが望むようにしてあげたい。でも、今まで通りにやるのは、もう無理だ。
 じゃあ、どこを妥協すればいいのか? ハルの気持ちを聞きたかった。
 ハルは困ったように小首を傾げた。
 オレは急かすことなく、ハルの答えを待つ。
 結婚した頃から、ハルは以前よりもずっと色んな言葉を口にしてくれるようになった。だけど、元々、ハルは口が重い。相当考えた後でしか言葉に出さないんだ。

「教えて、ハル」

 そう言葉を重ねると、ハルはオレの目をじっと見つめた後、観念したようにスーッと思考の海へと潜り込んだ。
 そういう時のハルはとても静かな表情をする。いつも浮かんでいる微笑みなんかも、すっかり消えてしまって、まるで人形のように無表情になる。
 抜けるように白い肌に、伏せた目を縁取る長いまつげ、赤い唇、柔らかくて少し色の薄い髪。整った容姿が人間離れして際立ちすぎて、ハルがこのままどこかに行ってしまうのではないかと少し不安になる。
 それでも、ハルに触れたい思いを抑えながら、オレはハルが答えてくれるのを待っていた。

 数分後、ハルは伏せていた目を上げた。
 そして、小さく息を吸ってから少しかすれた声で静かに言った。

「……特別扱い、が、イヤなんだと思う」

「そっか。特別扱いがイヤ、か」

 思いもかけなかった言葉が飛びだし、思わず復唱してしまう。

「……いつも、誰も、……わたしに、勉強しなさいって言わないの」

 ハルはキュッと唇を噛んだ。
 それはハルを気遣う気持ちからくるものだから、それをハルは痛いほど感じているから、多分言葉にするのに迷ったのだと思う。ハルの目にははっきりと躊躇する様子が見えた。

「分かってるの、ちゃんと。……みんな、心配してくれているのだって」

 もしかしたら、オレに問われてすぐ、ハルはその答えを見つけていたのかもしれない。ただ、言えなかっただけで……。

「……だけど、本当はいつも不安だった」

「不安?」

「こんな風で大丈夫なのかなって。みんな頑張ってるのに、わたしだけ……」

 ハルの目が潤む。

「……わたしだけ、何もしなくて、いいって……言われて」

 いつだって、抜群に成績が良かったハル。体調が悪くて休んだって、授業を受けられていなくたって、いつだってオレより成績が良かったハル。
 一体、どこに不安があったのだろう、そう思った。
 だけど、目の前のハルは今にも泣き出しそうで、その不安はきっとハルにしか分からないものなのだろうと思った。
 そして、ああそうかと納得もする。
 誰に言われなくても、むしろ止められても勉強をしようとしたハル。
 いつだって、とても真面目に一人、黙々と頑張るハル。
 もしかして、誰にも求められない中で、むしろ誰からも止められる中で、一人その意志を貫こうとするのは、オレが思うよりずっと辛い事なのかも知れない、そう、初めて気が付く。

「……ハル」

 力いっぱい頑張りたいのに、頑張れない。余力がある時だって止められる。
 一人、今のままでいいじゃないと言われる。
 もう、それだけできたら十分だと言われる。
 だけど、誰かが言う「大丈夫」なんて言葉は、ハルには不安の元でしかなかったのかも知れない。
 例えその時、学年トップクラスにいたとしても、体調を崩して長期入院でもしようものなら、呆気なく、一気に転がり落ちる可能性があるのだから……。
 実際には、ハルはずっといい成績を保ち続けていた。
 多分、ハルはそのために、ずっと、誰が「しなくていい」と言っても、できる限りの努力をし続けていた。

「……なんでかな?」

 ハルはポツリと言った。

「けっこう、元気な時だって、無理するなって言われるの」

「……ごめんね、ハル」

 多分、その筆頭はオレだ。
 ハルはオレの言葉を聞くと、目を大きく見開いて驚いたような表情を見せた。

「ううん。違うの。責めているんじゃないのよ?」

 ハルは小さく左右に首を振る。
 ああ、また我慢させた、そう思った。
 オレになんて気を使う必要ないし、言いたいことを言えばいいのに。
 気が付くと、オレは立ち上がってハルを抱きしめていた。背中を丸めたオレのお腹の辺りにハルの頭が来る。

「……カナ?」

「何となく……ホント、何となくなんだけど、ハルの気持ちが分かった気がする」

 手加減なく、次から次へと「できるものなら、やってみなさい」とばかりに難題を渡してくる山野先生。きっと、ハルにはすごく新鮮に感じられたんだろう。
 ハルも立ち上がって、ギュッとオレにしがみついてきた。

「……嬉しかったんだもん」

 ハルはぽつりと小さな声で言う。

「そっか。嬉しかったんだ」

 オレが繰り返すと、ハルは小さく頷いた。
 オレはハルをベッドに座らせ、隣に腰掛ける。

「……はじめてだったから」

「山野先生?」

「……ん。どんどん勉強しなさいって言ってもらえたの、はじめてだった」

 ハルはふわっと優しい笑顔を浮かべた。

「思う存分勉強していいよって言われた気がしたの」

「そっか」

「……わたし、走ったりの運動は一つもできないけど、……頭を動かすことなら、できるんだよ」

 ハルは遠くを見つめて、そう言った。

「うん。……知ってる」

 オレよりずっと賢いハル。
 記憶力も良くて、頭の回転だって抜群に速い。
 ハルがふうっと息を吐く。

「ごめんね。……疲れちゃった。寝ようかな」

 ハルはそう言うと、ゆっくりと、気だるげに立ち上がった。オレも一緒に立ち上がって、ハルの肩を抱いて支える。
 ベッドの掛け布団をめくり、ハルが中に入るのを見届けていると、キュッとハルがオレの袖を引いた。

「……カナも、一緒に、寝よ?」

 ハルがオレを真っ直ぐ見上げてきた。
 そんなハルの誘いを、オレが断れる訳もなく、

「じゃ、そうしよっかな」

 と、オレはいそいそと部屋の電気を消すとハルの隣に潜り込んだ。
 そして、ふと思う。

「ね、ハル」

「なあに?」

「特別扱いが、イヤだったんだよね?」

「……ん」

「でもさ、今、嬉しかった山野先生の授業で、ハル、明らかに特別扱いされてるよね?」

 オレの言葉に、ハルは、

「……え?」

 と小さく声を上げ、その身体が瞬時に固まった。

「だって、ハルだけ明らかに次元の違う課題もらってる訳だし」

「……そう、かな?」

 オレの課題もたまに見ているハル。
 だから、そこにある大きな難易度の差はきっと分かっている。

「兄貴がさ、ハルがやってるのは、大学四年でやる課題って言われてもおかしくないとか言ってたよ」

「……まさか」

 そう言うハルの声には力が入らない。
 まさかと言いつつも、きっとハルは分かってしまったと思う。

「そっちの特別扱いなら、気にならない?」

 オレの問いは、意地が悪かっただろうか?
 ハルの身体がビクリと震えて、ハルが薄明かりの中、オレの方に目を向けた。

「あのさ、寝る前にごめんね。でも、ちょっと気になって……。ちょうどいいから、今、話してもいい?」

「うん」

「山野先生のあれ、ホントのところ、特別扱いとも違う気がする」

「……違う?」

 その先を言うかどうか、オレは一瞬迷った。
 こんな事をハルの耳に入れるかどうか。

「…………あれは、ハルに目をかけて、特別力を入れて育てようとか、そういうのじゃなくって、……ただの、意地悪、な気がする」

「……意地…悪?」

 オレの言葉に何か反論するかと思ったけど、ハルは何も言わなかった。そして、少しの沈黙の後、ぽつりと言った。

「………そうかも、しれない」

 そうして、深い深いため息を吐いた。
 オレはハルをそっと抱き寄せた。そのまま、ハルの背中に手を回す。

「……わたし、もしかしたら、そうかも知れないって……分かってたかも知れない。何となくだけど……好意だけじゃないのかなって」

 ハルは訥々と語り出した。

「最初の頃はそうでもなかったと思うんだけど、……最近、もしかしたら、わたし、嫌われているのかもって思ってた……」

 ハルは一度深い深呼吸をしてから、言葉を続けた。

「山野先生、口では誉めてくれるの。頑張ったわね、さすが牧村さんって。だけどね、目は笑っていないの。そして、嫌なものでも見るような目で、わたしの出した課題を見ていた」

 オレには腕の中のハルの表情を見ることはできなかったけど、ハルの悲しそうな笑みが目に浮かぶようだった。

「……分かるよね、そういうのって」

 それから、ハルはまた深いため息を吐いた。
 思慮深いハルがそんな言葉を口にするくらいには、感じるものは多かったのだろう。

「なにが……いけなかったのかなぁ」

 誰よりも可愛くて、抜群に頭のいいハル。
 愛らしく整った容姿に、華奢な身体は折れそうに細くて、守られてなきゃ簡単に壊れそうに見える。なのに、ハルの笑顔は何もかも包み込むような包容力にあふれている。
 人当たりがよくて、優しくて、誰にでも好かれるハル。ハルは自覚していないけど、ハルに好意を持つ人は男女ともにとても多い。
 それだけでも妬みの元になりそうなものなのに、父親は大きな会社を経営していて、祖父は大病院の院長で母親も医者。
 その上、高校時代に学生結婚をしていて、夫であるオレからは溺愛されている。
 大学へは運転手さん付きの高級車での送迎で、着ている服も持っている鞄も履いている靴も、全部ブランドもの。それも、流行を追った若者向けの物では決してない、知ってる人じゃなきゃ分からないけど、誰が見ても良いものだろうな、と分かるようなもの。
 そこにハルのこだわりはなくて、主にばあちゃんの趣味。だけど、そんなの見る人は知らないから。
 こんなハルの状況を腹立たしく思う人もいるだろう。

 ハルの人柄や言動に何か問題があるとも思えない。そう思うと、山野先生がハルを嫌う理由はいわゆる妬みや嫉みだとしか考えられなかった。
 高等部からの上がりの学生たちの多くは割と裕福な家庭に育っている。だけど、俺たちみたいに学生結婚をしているようなヤツはもちろんいない。それに多分、オレたちのために出された寄付金の額は学内でもトップクラスだろう。
 大学への要求は、大学の職員、それも限られた人間しか知らないだろうけど、知っていたら苦々しく思う人間がいてもおかしくない。札束で頬をはたいているつもりはない。実際、必要だと思って頼んでいるのだから。だけど、そう感じない人もいると分からないほど、オレは脳天気ではないつもりだ。
 ハルはただ、山野先生の授業を真面目に、一生懸命に受けただけ。もらった課題を懸命にこなしただけ。

 最初はちょっとした意地悪だったのかも知れない。小難しい問題を渡して泣きを入れてくるのを見てやろうとか、出来の悪い課題を見て溜飲を下そうとか、そんなささやかなもの。
 だけど、課題を加速度的に難しくしても、ハルは躓くことなく解き続けた。渡した次の週には完ぺきな回答を出してくる。
 ……面白くない、と、そう思ってもおかしくないのかもしれない。

 オレは、ハルの頭をそっとなでた。
 背中をトントンと叩き、ゆっくりと頭をなでる。
 ハルは何も悪くない。
 多分、それは先生の心の問題でしかなくて、いわゆる妬みって言う感情は、妬まれる側にどうこうできるものでもない。ましてや、先生と生徒っていう関係で現れてしまったら……。

「きっと、さ、先生はハルが妬ましかったんだよ」

 ハルは長い長い沈黙の後、小さな声で

「……まさか」

 と呟いた。
 だけど、その呟きには力はない。何となく、それが真実にとても近いところにあるのだろうと気が付いたようだった。

「……そっか」

 ハルは小さい声で、そう言った。
 それから、オレは、ハルが課題をもらう度に感じていた小さな違和感を教えてもらった。
 思い返せば出て来るという、小さな違和感について教えてもらうたびに、オレの心はズシリと重くなる。
 一通り、話を聞いたところで、ウトウトし始めたハル。

「……ねえ、ハル。オレ、明日にでも学長に話してくるね」

 これはもう、『意地悪』という言葉では片付けられないんじゃなかろうか。
 いや、オレが片付けたくない。
 ハルの持病については、診断書も提出してあるし、高等部の保健室からの申し送りもしてもらった。寄付金を出す際には、ハルの体調への配慮を願いたい旨をしっかり伝えてもあった。
 なのに、配慮してもらうどころか、さりげなくプレッシャーをかけて、少しずつハルを追い込んでいった山野先生。

「……なんで?」

 半分眠りに突入しかけたような、少し寝ぼけた声でハルが聞き返す。

「ちょっと、ひどいなって思って」

「……いいよ。わたし、……楽しかったし」

 いや、確かにハルは楽しそうだった。特に最初の方は、本当に楽しそうだった。
 だけど、山野先生は、そんなハルの気持ちを踏みにじるようなことをしていたんだ。
 ハルを挑発するようなことを言ってプレッシャーをかけて、ハルはそれに応えようと頑張った。実際に応えもした。
 でもきっと、疲れが取れきれずに微熱が出ることが増えていたのだって、少し前の高熱だって、通院のたびに、心臓の調子が良くないから無理するなと言われるのだって、多分、山野先生のそんな行動にも一因がある。
 何より、そういう行動は本来、教師が取るべきものではないよな?
 教育者だって人間だから、多少は顔に出たり嫌みを言ってしまったりはあると思う。それは仕方ないと分かってる。だけど、今回のは、そういうレベルじゃないと思うんだ……。

「ハル、だけどさ。もし他の子が同じ目に遭ってたら?」

「……同じ、目?」

「例えばさ、すっごく美人な女の子が先生に嫉まれて、ハルみたいに無理を強いられて、……で、心を病むようなことになったりしたら、どう思う?」

 いや、ハルは無理を強いられたというのとは違うかも知れない。無理だと言わずにやり続けただけで……。
 だけど、眠気に侵食されたハルの思考は、そこに引っかかりを覚えなかったらしい。

「……こころ?」

「うつ病とか」

「……うつ、病。……それは、大変…だね」

 途切れ途切れに、夢の世界に片足を突っ込みながらも、ハルは言葉を紡ぐ。

「でしょ? だから、ちゃんと釘は指しておかないと」

 ハルが身じろぎして、オレの手を探して握った。

「……わたしが、話す」

「ん? 学長室、一緒に行く?」

「……ううん。……山野先生、と、わたしが…話すの」

「え?」

「……だって、わたしの、ことだよ。……ちゃんと…話す、から」

 ハルはその言葉を最後に、スーッと眠りに落ちてしまった。

「……えっと、で、ハル、なにを話すの?」

 だけど、オレの質問に眠ってしまったハルからの答えが返ってくることはなかった。
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