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15年目の小さな試練
14.相談事
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「ハルちゃん、今日はここまでにしようか?」
レッスンを始めて、二十分。
二曲目に入ってから2回目のレッスンだった。
退院してすぐの先週、新しい曲を渡して教えはしたものの、毎日の練習は無理にする必要はないと伝えた。なのに、ちゃんと練習してあった。疲れてると思うのに、それでもやってしまう生真面目さはすごいと思う。
ただ、ピアノは身体に鞭を打ってまで弾くようなものではない。音大を受験するとか、本職のピアニストとかなら別だけど、ハルちゃんの場合は趣味で楽しむだけなのだから。それは、ちゃんと言っておかなくちゃとも思う。
「……ごめんなさい」
俺がなぜ止めたのか、ハルちゃんは分かったのかな?
「なに謝ってるの」
いかにも申し訳なさそうなハルちゃんの顔を覗き込み、思わず頭をなでてしまう。
「疲れてる? ……というか、なにか悩みある?」
体調があまり良くないのは叶太から聞いている。
先週の月曜日に退院して、火曜日から週末までは何とか登校して、その後、土日にまた熱を出して寝込んでいたという。そうして、また始まったウィークデイ。
ハルちゃんは多少の不調では疲れた顔など見せないから、多分、普通に一緒にいるだけだったら気付かなかった。
だけど、音には出るんだよなぁ。
そして、疲れ以上に、迷いを感じた今日の音。
「……えっと、……はい」
悩みなんてないと言われるかと思ったら、思いがけないハルちゃんの言葉。
思わず目を見開いて見返すと、ハルちゃんは少し困ったような微笑を浮かべた。
「晃太くん、相談に乗ってくれる?」
「もちろん!」
思いもかけない言葉に、頭で考える前に返事をしていた。
あまりに早い返事にハルちゃんは驚いたように目を丸くして、その後すぐに嬉しそうに口元をほころばせた。
「ありがとう」
「どういたしまして。……というか、力になれると良いのだけど」
そう答えながら、ピアノの片付けに入る。
ハルちゃんが手伝おうとするのを制して、
「ここでいいのかな? それとも、ハルちゃんの部屋の方がいい?」
沙代さんはキッチンで夕食の準備中だし、叶太は部活。おじさんもおばさんもまだ帰って来ていないから、どこで話しても支障はない。とは言え、あえて相談と言われたのだからハルちゃんが落ち着いて話せる場所が良いだろうと聞いてみると、一瞬悩んだ後、ハルちゃんは
「……じゃあ、リビングで」
と小首を傾げて、そう言った。
「了解」
「あ、お茶、入れて来るね」
「いや、俺がもらってくるよ。ハルちゃんは座っておいで」
「え、でも……」
「いいから、いいから」
そのまま、ハルちゃんの肩をトンとソファの方に軽く押すと、俺は足早に沙代さんの元へと向かった。
「お待たせ」
「ありがとう」
ハルちゃんの前に甘い香りを放つティーカップを置くと、
「あ、ストロベリーティー」
と嬉しそうに頬を緩ませた。
「好きなんだってね」
「うん。この甘い匂いが好き。……晃太くんもストロベリーティー?」
「うん。せっかくだから、同じのにしてもらったよ」
沙代さんからは違う葉っぱにしようかと言ってもらったけど、特にこだわりはないので同じものを入れてもらった。
確かに、この甘い香りは女の子が好きそうだ。
ハルちゃんは小声で、
「いただきます」
と、スッとカップを持ち上げた。
でも、すぐには口を付けず、嬉しそうに微笑を浮かべて香りを楽しんでいる。
俺もカップを手に取り、まずは一口。
漂う香りは甘いけど、味はほぼ普通の紅茶の気がする。
ハルちゃんはしばらく香りを楽しんでから、ゆっくりとストロベリーティーを飲み、カップを置くと、スッと真顔になった。そしておもむろに、俺の方に視線を向けた。
「……突然、ごめんね」
「いや、むしろ嬉しいよ」
ニコッと笑いかけると、ハルちゃんはホッとしたように笑顔を返してくれた。
「……あのね」
そう言ったところで、ハルちゃんは何をどう言っていいのか分からなくなったのか、言葉を途切れさせた。
叶太は思ったことがすぐ口にも顔にも出るタイプだし、過去に付き合った女の子たちも、とってもおしゃべりだった。それに比べると、ハルちゃんはとても口下手。いや、口下手と言うか口が重い。いわゆる、失言というものが、多分ほとんどないんじゃないかな。
時間はある。さっき沙代さんに、ハルちゃんの相談事が終わったら声をかけるから、それまで夕飯は待って欲しいと頼んできたから。
だけど、ここは俺から切り出した方が良いのかもしれない。
「もしかして、山野先生のこと?」
俺が言うと、ハルちゃんは大きな目を見開き何度か瞬きをして、それから小さく頷いた。
「えっと、ね。……山野先生と話をしたいの」
「山野先生と、話?」
「うん。……あの、ね、わたし、ちゃんと説明できる自信がなくて。もし、分かりにくかったら、そう言ってね?」
ハルちゃんはとても申し訳なさそうに俺を伺い見た。
「了解。ゆっくりでいいし、思った順番から話してくれて大丈夫だよ」
「ありがとう」
ホッとしたように一つ息を吐いてから、ハルちゃんは話し出した。
「あのね、山野先生、わたしにだけ、少し難しい課題を出しているの」
うん。知ってる。
って言うか、少しじゃなくて、かなりだと思うよ、ハルちゃん。
そう思ったけど、話の腰を折るのはダメだろうと突っ込まずにスルー。
「この前、見せてもらったね」
「うん」
ハルちゃんは小さく頷いた。
「あの課題、もう止めさせてもらおうと思っていて」
「そうなんだ」
叶太が動いたかな?
そうは思ったけど、これまで何度か話した時、とても楽しそうに、そして嬉しそうに語っていたハルちゃんだったから、ちょっと驚いた。
よく受け入れたな、と。
ただ、あれはやっぱり普通じゃなかったから、ホッとしたのも本当。
俺の驚きは声に出ていたかも知れない。ハルちゃんはきまりが悪そうに表情を硬くした。
「恥ずかしいんだけど……身体が持たなくて」
「あ、いや、恥ずかしがる必要はなにもないから! あれを、入学して数ヶ月のハルちゃんが解いてることが普通じゃないから!」
俺の言葉を聞いて、ホッとするどころか、何故か悲しそうな顔をしたハルちゃん。
「……やっぱり、そんなに、普通じゃないんだよね」
「ああ、……うん。幾ら専門の授業だからって、ちょっと行き過ぎかなと思うよ。普通なら、もっと入門的な演習問題をやるはずだから」
1年から2年の前期の演習は学年全体、2年後期からは少人数制での演習、つまりいわゆるゼミナール。基礎を勉強するはずの今、ハルちゃん一人応用編ってのは普通じゃない。
「そうか。あれを止めてもらうんだ」
「そうしようかなって。……それで、山野先生と個人的にお話をしたいのだけど、どうすればいいのか分からなくて。わたし、部屋の移動に時間がかかるから、授業の後に話すのも難しくて」
「ああ、十五分じゃ棟移動があるといっぱいいっぱいだよね。それに、他の学生の前で話すのも微妙だしね」
そう言うと、
「うん」
と、ハルちゃんは小さく頷いた。
「研究室にお邪魔すれば、多分ゆっくり話せるよ」
「研究室?」
「そう。うちの学部は学生課のある棟の三階にある。うちの教授の研究室のお向かいだし、よかったら案内するよ」
入学してすぐなんて、先生の研究室にお邪魔するような事はない。先生方が研究室と呼ばれる個室を持っている事くらいは知っているかもしれないけど。
「迷惑じゃない?」
「全然」
それにしても、珍しい。
こんな割とディープな話を、叶太抜きでハルちゃんから聞くなんて。
「ああ、そうだ。山野先生の空き時間を調べておこうか」
「……空き時間?」
「そう。ハルちゃんの授業がない時間で、山野先生も空いている時間に研究室に行けば、確実じゃないかな」
「そんな面倒かけちゃって良いのかな?」
いかにも申しわけなさそうなハルちゃんに笑顔を返す。
「山野先生の研究室に入ってる友人がいるから問題ないよ」
「ありがとう。それじゃあ、お願いします」
ハルちゃんは律儀にぺこりと頭を下げた。
「うん、任せて。……あ、ねえ、ところで、この話って叶太も知ってる?」
「うん。カナは学長先生に話に行くって言ったんだけど、わたしが自分で山野先生に話をするからって言ったの」
「あーなるほど。学長かぁ」
確かに、あれだけの額の寄付金を出してりゃ、学長に直接話した方が早いよな。
「ハルちゃんはなんで叶太に任せなかったの? あいつじゃ頼りなかった?」
「え!? まさか!」
ハルちゃんは大きな目をまん丸にして、両手を振って否定した。
半分冗談だったんだけど、その反応があまりに可愛くて思わず笑ってしまう。
「晃太くん?」
「あはは。ごめんね。……別に叶太に任せられなくってもいいと思うよ?」
「あの、そうじゃなくって……」
ハルちゃんは困ったように眉尻を下げた。
「ただ、自分で話さなきゃと思って」
「課題を止めて欲しいと頼むだけじゃないの?」
まあ、自分で言えるならそれに越したことないけど、絶対自分で言わなきゃいけない内容でもないだろう。何しろ、多分誰に聞いても、山野先生に問題ありと言われるだろうし、ハルちゃん側に非はないのだから。
ハルちゃんが結婚してて間に叶太が入るから若干ややこしくなってるけど、未婚だったら、親がクレーム付けたって何もおかしくない。
だけど、ハルちゃんは俺の質問に、困ったように小首を傾げた。
「……どう言えばいいのか、正直、悩んでるんだけど」
「ん? 普通に、体調が悪いから、もうできませんって」
途中まで言ったところで、ハルちゃんがとても辛そうにキュッと唇を引き結んだ。ので、俺は、質問を変えた。
「……のは、言いたくないんだ?」
ハルちゃんは、
「なんか違う気がして……」
と小声で言った。
「でも、何を話せばいいのかは分からなくて」
なるほど、相談の内容はいつどうやって話すかと、何を話すかの2つな訳だ。
だけど、さてこれはどうしたものか?
取りあえず、
「じゃあさ、ハルちゃん、一度ご飯でも食べて、ちょっと気分転換しよっか?」
「え? ……あ」
ハルちゃんはふっと我に返って、壁の時計を見て、慌てて立ち上がった。
「ごめんね!」
時計は七時過ぎという時刻を指していた。
「俺は全然問題ないよ。普段から、そんな早く食べてる訳じゃないし。大体、沙代さんに話が終わるまで声をかけないように頼んだのは俺だから」
笑ってそう言うと、ハルちゃんはホッとしたように表情をゆるめた。
「ううん。でも、わたしが気が付かなきゃいけなかったのに。沙代さんにお夕飯にしてくださいって頼んでくるね」
いや、俺がと言う間もなく、ハルちゃんはそのままキッチンに向かった。
今更止めるのも何だし、俺は二人分のティーカップを持って、ハルちゃんの後に続くことにした。
「とにかく、まずは会いに行って、それから考えたらどうかな?」
食事を終えて、沙代さんが用意してくれた果物を食べながら、会話の続きに入る。
俺にはデザートだったけど、ハルちゃんは食欲がないようで、途中から果物が主食のようになっていた。
「会いに行ってから、考えるの?」
「そう。課題を止めてもらうようにお願いするのが、一番の目的だよね?」
「……うん」
「あれ? 違うの?」
「……そうなんだけど」
「うーん。そこで引っかかってるのか」
俺は顎に手を当て、しばし思案する。
「ハルちゃんは山野先生に何を伝えたいの?」
「え?」
「違うかな。じゃあ、何が聞きたいの?」
その言葉に、ハルちゃんははっとしたように俺を見た。すぐに何か言ってくれるのかと思ったのだけど、ハルちゃんは何も言わなかった。
とても慎重に言葉を選んでいるように見えるし、言葉が見つからなくて探しているようにも見えた。
果物に手を伸ばしつつ、じっくりと待つ。あまり時間を取るのもなんだけど、慌てる必要はない。
「……なんで、だったのかな、って」
「なんで?」
「ん。それから……もし、わたしが途中でギブアップしてたら、それか、おかしな解答を出していたら、どうしたのかなって」
ああ。なるほど。
ハルちゃんが知りたいのは、山野先生の心の内側か。
それから、またしばしの躊躇いの後、小さな声でつぶやいた。
「先生は、わたしに……どうなって欲しかったのかな?」
ハルちゃんの目は少し潤んでいて、とても悲しそうな光が浮かんでいた。
それから、間もなく叶太が帰ってきた。
「あれ? 兄貴、まだいたの?」
ハルちゃんが叶太の袖を引く。
「わたしがお引き留めしたの」
ハルちゃんの目には「失礼なことを言っちゃダメ」とでも言いたげな、とがめるような表情が浮かんでいた。
でもハルちゃん、大丈夫。叶太に他意がないのは分かってるから。
「長々とごめんね。じゃあ、今日は帰るね」
「ううん。晃太くん、本当にありがとう」
「いや、嬉しかったよ。また連絡するね」
そう言って、ハルちゃんの頭をなでると叶太が素早くハルちゃんを抱き込んで、オレから隠そうとした。
思わず笑ってしまうと、ハルちゃんは居たたまれないといった様子で呆然としつつ、俺に小さく頭を下げた。
レッスンを始めて、二十分。
二曲目に入ってから2回目のレッスンだった。
退院してすぐの先週、新しい曲を渡して教えはしたものの、毎日の練習は無理にする必要はないと伝えた。なのに、ちゃんと練習してあった。疲れてると思うのに、それでもやってしまう生真面目さはすごいと思う。
ただ、ピアノは身体に鞭を打ってまで弾くようなものではない。音大を受験するとか、本職のピアニストとかなら別だけど、ハルちゃんの場合は趣味で楽しむだけなのだから。それは、ちゃんと言っておかなくちゃとも思う。
「……ごめんなさい」
俺がなぜ止めたのか、ハルちゃんは分かったのかな?
「なに謝ってるの」
いかにも申し訳なさそうなハルちゃんの顔を覗き込み、思わず頭をなでてしまう。
「疲れてる? ……というか、なにか悩みある?」
体調があまり良くないのは叶太から聞いている。
先週の月曜日に退院して、火曜日から週末までは何とか登校して、その後、土日にまた熱を出して寝込んでいたという。そうして、また始まったウィークデイ。
ハルちゃんは多少の不調では疲れた顔など見せないから、多分、普通に一緒にいるだけだったら気付かなかった。
だけど、音には出るんだよなぁ。
そして、疲れ以上に、迷いを感じた今日の音。
「……えっと、……はい」
悩みなんてないと言われるかと思ったら、思いがけないハルちゃんの言葉。
思わず目を見開いて見返すと、ハルちゃんは少し困ったような微笑を浮かべた。
「晃太くん、相談に乗ってくれる?」
「もちろん!」
思いもかけない言葉に、頭で考える前に返事をしていた。
あまりに早い返事にハルちゃんは驚いたように目を丸くして、その後すぐに嬉しそうに口元をほころばせた。
「ありがとう」
「どういたしまして。……というか、力になれると良いのだけど」
そう答えながら、ピアノの片付けに入る。
ハルちゃんが手伝おうとするのを制して、
「ここでいいのかな? それとも、ハルちゃんの部屋の方がいい?」
沙代さんはキッチンで夕食の準備中だし、叶太は部活。おじさんもおばさんもまだ帰って来ていないから、どこで話しても支障はない。とは言え、あえて相談と言われたのだからハルちゃんが落ち着いて話せる場所が良いだろうと聞いてみると、一瞬悩んだ後、ハルちゃんは
「……じゃあ、リビングで」
と小首を傾げて、そう言った。
「了解」
「あ、お茶、入れて来るね」
「いや、俺がもらってくるよ。ハルちゃんは座っておいで」
「え、でも……」
「いいから、いいから」
そのまま、ハルちゃんの肩をトンとソファの方に軽く押すと、俺は足早に沙代さんの元へと向かった。
「お待たせ」
「ありがとう」
ハルちゃんの前に甘い香りを放つティーカップを置くと、
「あ、ストロベリーティー」
と嬉しそうに頬を緩ませた。
「好きなんだってね」
「うん。この甘い匂いが好き。……晃太くんもストロベリーティー?」
「うん。せっかくだから、同じのにしてもらったよ」
沙代さんからは違う葉っぱにしようかと言ってもらったけど、特にこだわりはないので同じものを入れてもらった。
確かに、この甘い香りは女の子が好きそうだ。
ハルちゃんは小声で、
「いただきます」
と、スッとカップを持ち上げた。
でも、すぐには口を付けず、嬉しそうに微笑を浮かべて香りを楽しんでいる。
俺もカップを手に取り、まずは一口。
漂う香りは甘いけど、味はほぼ普通の紅茶の気がする。
ハルちゃんはしばらく香りを楽しんでから、ゆっくりとストロベリーティーを飲み、カップを置くと、スッと真顔になった。そしておもむろに、俺の方に視線を向けた。
「……突然、ごめんね」
「いや、むしろ嬉しいよ」
ニコッと笑いかけると、ハルちゃんはホッとしたように笑顔を返してくれた。
「……あのね」
そう言ったところで、ハルちゃんは何をどう言っていいのか分からなくなったのか、言葉を途切れさせた。
叶太は思ったことがすぐ口にも顔にも出るタイプだし、過去に付き合った女の子たちも、とってもおしゃべりだった。それに比べると、ハルちゃんはとても口下手。いや、口下手と言うか口が重い。いわゆる、失言というものが、多分ほとんどないんじゃないかな。
時間はある。さっき沙代さんに、ハルちゃんの相談事が終わったら声をかけるから、それまで夕飯は待って欲しいと頼んできたから。
だけど、ここは俺から切り出した方が良いのかもしれない。
「もしかして、山野先生のこと?」
俺が言うと、ハルちゃんは大きな目を見開き何度か瞬きをして、それから小さく頷いた。
「えっと、ね。……山野先生と話をしたいの」
「山野先生と、話?」
「うん。……あの、ね、わたし、ちゃんと説明できる自信がなくて。もし、分かりにくかったら、そう言ってね?」
ハルちゃんはとても申し訳なさそうに俺を伺い見た。
「了解。ゆっくりでいいし、思った順番から話してくれて大丈夫だよ」
「ありがとう」
ホッとしたように一つ息を吐いてから、ハルちゃんは話し出した。
「あのね、山野先生、わたしにだけ、少し難しい課題を出しているの」
うん。知ってる。
って言うか、少しじゃなくて、かなりだと思うよ、ハルちゃん。
そう思ったけど、話の腰を折るのはダメだろうと突っ込まずにスルー。
「この前、見せてもらったね」
「うん」
ハルちゃんは小さく頷いた。
「あの課題、もう止めさせてもらおうと思っていて」
「そうなんだ」
叶太が動いたかな?
そうは思ったけど、これまで何度か話した時、とても楽しそうに、そして嬉しそうに語っていたハルちゃんだったから、ちょっと驚いた。
よく受け入れたな、と。
ただ、あれはやっぱり普通じゃなかったから、ホッとしたのも本当。
俺の驚きは声に出ていたかも知れない。ハルちゃんはきまりが悪そうに表情を硬くした。
「恥ずかしいんだけど……身体が持たなくて」
「あ、いや、恥ずかしがる必要はなにもないから! あれを、入学して数ヶ月のハルちゃんが解いてることが普通じゃないから!」
俺の言葉を聞いて、ホッとするどころか、何故か悲しそうな顔をしたハルちゃん。
「……やっぱり、そんなに、普通じゃないんだよね」
「ああ、……うん。幾ら専門の授業だからって、ちょっと行き過ぎかなと思うよ。普通なら、もっと入門的な演習問題をやるはずだから」
1年から2年の前期の演習は学年全体、2年後期からは少人数制での演習、つまりいわゆるゼミナール。基礎を勉強するはずの今、ハルちゃん一人応用編ってのは普通じゃない。
「そうか。あれを止めてもらうんだ」
「そうしようかなって。……それで、山野先生と個人的にお話をしたいのだけど、どうすればいいのか分からなくて。わたし、部屋の移動に時間がかかるから、授業の後に話すのも難しくて」
「ああ、十五分じゃ棟移動があるといっぱいいっぱいだよね。それに、他の学生の前で話すのも微妙だしね」
そう言うと、
「うん」
と、ハルちゃんは小さく頷いた。
「研究室にお邪魔すれば、多分ゆっくり話せるよ」
「研究室?」
「そう。うちの学部は学生課のある棟の三階にある。うちの教授の研究室のお向かいだし、よかったら案内するよ」
入学してすぐなんて、先生の研究室にお邪魔するような事はない。先生方が研究室と呼ばれる個室を持っている事くらいは知っているかもしれないけど。
「迷惑じゃない?」
「全然」
それにしても、珍しい。
こんな割とディープな話を、叶太抜きでハルちゃんから聞くなんて。
「ああ、そうだ。山野先生の空き時間を調べておこうか」
「……空き時間?」
「そう。ハルちゃんの授業がない時間で、山野先生も空いている時間に研究室に行けば、確実じゃないかな」
「そんな面倒かけちゃって良いのかな?」
いかにも申しわけなさそうなハルちゃんに笑顔を返す。
「山野先生の研究室に入ってる友人がいるから問題ないよ」
「ありがとう。それじゃあ、お願いします」
ハルちゃんは律儀にぺこりと頭を下げた。
「うん、任せて。……あ、ねえ、ところで、この話って叶太も知ってる?」
「うん。カナは学長先生に話に行くって言ったんだけど、わたしが自分で山野先生に話をするからって言ったの」
「あーなるほど。学長かぁ」
確かに、あれだけの額の寄付金を出してりゃ、学長に直接話した方が早いよな。
「ハルちゃんはなんで叶太に任せなかったの? あいつじゃ頼りなかった?」
「え!? まさか!」
ハルちゃんは大きな目をまん丸にして、両手を振って否定した。
半分冗談だったんだけど、その反応があまりに可愛くて思わず笑ってしまう。
「晃太くん?」
「あはは。ごめんね。……別に叶太に任せられなくってもいいと思うよ?」
「あの、そうじゃなくって……」
ハルちゃんは困ったように眉尻を下げた。
「ただ、自分で話さなきゃと思って」
「課題を止めて欲しいと頼むだけじゃないの?」
まあ、自分で言えるならそれに越したことないけど、絶対自分で言わなきゃいけない内容でもないだろう。何しろ、多分誰に聞いても、山野先生に問題ありと言われるだろうし、ハルちゃん側に非はないのだから。
ハルちゃんが結婚してて間に叶太が入るから若干ややこしくなってるけど、未婚だったら、親がクレーム付けたって何もおかしくない。
だけど、ハルちゃんは俺の質問に、困ったように小首を傾げた。
「……どう言えばいいのか、正直、悩んでるんだけど」
「ん? 普通に、体調が悪いから、もうできませんって」
途中まで言ったところで、ハルちゃんがとても辛そうにキュッと唇を引き結んだ。ので、俺は、質問を変えた。
「……のは、言いたくないんだ?」
ハルちゃんは、
「なんか違う気がして……」
と小声で言った。
「でも、何を話せばいいのかは分からなくて」
なるほど、相談の内容はいつどうやって話すかと、何を話すかの2つな訳だ。
だけど、さてこれはどうしたものか?
取りあえず、
「じゃあさ、ハルちゃん、一度ご飯でも食べて、ちょっと気分転換しよっか?」
「え? ……あ」
ハルちゃんはふっと我に返って、壁の時計を見て、慌てて立ち上がった。
「ごめんね!」
時計は七時過ぎという時刻を指していた。
「俺は全然問題ないよ。普段から、そんな早く食べてる訳じゃないし。大体、沙代さんに話が終わるまで声をかけないように頼んだのは俺だから」
笑ってそう言うと、ハルちゃんはホッとしたように表情をゆるめた。
「ううん。でも、わたしが気が付かなきゃいけなかったのに。沙代さんにお夕飯にしてくださいって頼んでくるね」
いや、俺がと言う間もなく、ハルちゃんはそのままキッチンに向かった。
今更止めるのも何だし、俺は二人分のティーカップを持って、ハルちゃんの後に続くことにした。
「とにかく、まずは会いに行って、それから考えたらどうかな?」
食事を終えて、沙代さんが用意してくれた果物を食べながら、会話の続きに入る。
俺にはデザートだったけど、ハルちゃんは食欲がないようで、途中から果物が主食のようになっていた。
「会いに行ってから、考えるの?」
「そう。課題を止めてもらうようにお願いするのが、一番の目的だよね?」
「……うん」
「あれ? 違うの?」
「……そうなんだけど」
「うーん。そこで引っかかってるのか」
俺は顎に手を当て、しばし思案する。
「ハルちゃんは山野先生に何を伝えたいの?」
「え?」
「違うかな。じゃあ、何が聞きたいの?」
その言葉に、ハルちゃんははっとしたように俺を見た。すぐに何か言ってくれるのかと思ったのだけど、ハルちゃんは何も言わなかった。
とても慎重に言葉を選んでいるように見えるし、言葉が見つからなくて探しているようにも見えた。
果物に手を伸ばしつつ、じっくりと待つ。あまり時間を取るのもなんだけど、慌てる必要はない。
「……なんで、だったのかな、って」
「なんで?」
「ん。それから……もし、わたしが途中でギブアップしてたら、それか、おかしな解答を出していたら、どうしたのかなって」
ああ。なるほど。
ハルちゃんが知りたいのは、山野先生の心の内側か。
それから、またしばしの躊躇いの後、小さな声でつぶやいた。
「先生は、わたしに……どうなって欲しかったのかな?」
ハルちゃんの目は少し潤んでいて、とても悲しそうな光が浮かんでいた。
それから、間もなく叶太が帰ってきた。
「あれ? 兄貴、まだいたの?」
ハルちゃんが叶太の袖を引く。
「わたしがお引き留めしたの」
ハルちゃんの目には「失礼なことを言っちゃダメ」とでも言いたげな、とがめるような表情が浮かんでいた。
でもハルちゃん、大丈夫。叶太に他意がないのは分かってるから。
「長々とごめんね。じゃあ、今日は帰るね」
「ううん。晃太くん、本当にありがとう」
「いや、嬉しかったよ。また連絡するね」
そう言って、ハルちゃんの頭をなでると叶太が素早くハルちゃんを抱き込んで、オレから隠そうとした。
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