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第一章「和」国大乱
第三十六節「変容」
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一日の諸々の作業が終わり、日もすっかり沈んだ、凛とした夜。
煌々とした月が、半妖の隠れ里を照らし続けている。
二日目の共同生活も、もう終わる。結界の修復を終えた俺や、他の作務をしていた結は、夕飯を食べ、一日の業務を全てこなしたのだ。
昨日はここで、他の半妖の皆と共に就寝をした。しかし、今日はそういうわけにもいかない。
何故なら、明日の朝、俺たちは答えを告げなければならないからだ――この里の主である八百比丘尼さんに、俺たちが考える『黒幕』の真の目的を伝えなければならないからだ。
それを的中させることが出来れば、晴れて彼女から、人と妖怪の仲を引き裂いた『黒幕』の情報を聞き出すことが出来る。そういう条件の下、俺たち三人は、この里での滞在を許されていたのだ。
だから、今夜はさっさと床に就くわけにはいかない。その答えを出すために、日常の居住空間とは別の棟を借り、俺と結と酒呑童子のみで、頭を捻る予定になっている。
の、だが――
「……あいつ、一体どこに行ったんだ? 今から会議をするってのに」
「俺も放蕩な質(たち)だが、お前の嫁も大概だな。こんな火急の事態によ」
「日中にサボりまくってたお前にだけは言われたくないと思うけどな」
こいつは相も変わらず、常習的に怠けて仕事をしなかったのだ。その度に、八百比丘尼さんにどつきまわされていた――と、そんなことはともかく。
肝心のメンバーの一人、俺の妻の御縁結が、姿を消してしまったのだ。先ほどから俺と酒吞で、彼女の捜索を行っている。
「こんな寒い夜に、わざわざ散歩なんていかないだろうし。とはいえ、部屋に閉じこもってじっとしてるってこともないだろうし……何か、あったのか?」
「さあな。案外、嫌になって逃げ出したのかもよ?」
「お前は一々、茶々を入れないと喋れないのかよ……、と」
無駄話をしつつ、広い屋敷の中を探索していると――いた。
外に面した部屋、月が照らす縁側の近くに、見慣れた人影が一つ。ショートヘアで胸が大きい、いつも通りの姿かたちの結だ。
「おーい――っ!?」
「ちょっと待て、様子を見ようぜ」
俺が彼女に呼びかけようとすると――後ろに居た酒吞童子が俺の口をおさえ、彼女の視界から外れる扉の奥へと引きずられる。
「お、おい、何を……?」
「ほら、あそこを見てみろ」
事態が呑み込めない俺に対し、酒呑童子は物陰から覗き込むような姿勢で、結が居た方向を指さす。
何がなんだか分からないが――俺は一旦それに従い、同じ動きで少しだけ頭を出し、彼が指さす方を覗く。
そこには、さっき見たように、見慣れた結の人影が――いや。
人影は、その一つではなかった。もうひとつ、真っ黒な影が……特徴的な獣の耳と尾を持つ影が、縁側に腰を下ろしている。
「あ、深雪ちゃん。やっぱりここに居たんだ」
「……なんだ、お前か」
結が、その黒い影に向かって話しかける。影は不愛想に、彼女に返事を返す。
その影の正体は、俺たちが初めて遭遇した半妖――この里への侵入者を排除する役割を担っている警備。猫の半妖の、『深雪』さんであった。
「せっかく一人で夜坐をしていたのに……何故ここが分かった?」
「いやー、深雪ちゃんと話したくなってさー。杏豆さんに、どこにいるかきいたんだよねー」
「杏豆さんが……全く、口が軽いな、あの人は」
にこやかな顔で隣に座った結に対し、億劫な顔でしぶしぶ同席を許す深雪さん。
杏豆さん、というのは、結に掃除を指南していた、あの極端に小さな女性のことか。ただ幼いだけかとも考えたが、深雪さんが『さん』付けをしているので、そういうわけではないのだろう。
「……で、話したいって、何を? というかお前、明日の朝には、答えを出さなければならないのだろうが。こんなところで、油を売っている暇があるのか?」
「まあ、それもそうだけど……、出会ったときに言ったでしょ? 私は、深雪ちゃんのことを知りたいの」
知らないから、知りたい――それは、結が深雪さんを説得するときに、言っていた言葉だ。
俺たちは、ほんの数日前まで、半妖のことを、存在すら知らなかった。『黒幕』の動機も、単なる復讐だと考えていた――でも、それは違った。
なればこそ、それをきちんと理解した上で、『黒幕』の真意を考えたいと思ったのだろう。だから、一人抜け出して、彼女を尋ねたわけだ。男二人が混じった三人で行くよりも、女子どうしのほうが話しやすいから。
「話せる範囲で良いから、話してほしいな。あなた自身のことを」
「……」
結が促すと、深雪さんはしばらく逡巡していたが――しかし、ふっと目を結から逸らし、やおら一言。
「……先だ」
「えっ?」
「お前が、先だ。お前のことを、先に話せ。お前は、転生者なのだろう? だったら、異世界のこと、どうしてこの世界に来たのか、どのような生活をしているのか――すべて話せ。私の話は、それからだ」
と、気難しい顔で、そう言った。
「……! うんっ! ありがとうっ!!」
「は、早合点するな。まだ話すと決めたわけではない。お前の話に価値があると判断した場合のみ、私も私の身の上を話す」
「それでもいいのっ! じゃあ今夜は、女子トークだねっ!」
「と、とおく……?」
ぱあっと顔を明るくし、深雪さんに詰め寄る結。相変わらず、人の心を開くのが上手いな。ああいうところは、やはりあいつの得意分野なのだと思い知らされる。
(お前があの娘を説得しようとしたら、朝までかかりそうだもんな)
(黙れ)
酒呑童子が小声でちょっかいをかけてくるのは置いといて。
そこから結は、あっちの世界のことを――俺たちが元いた現代日本のことを話しだした。
こちらとあちらでは、文明レベルが300年ほど違うこと――この世界では手作業でやっている洗濯や炊爨が、向こうでは機会が自動でやってくれること。近代的な教育機関や工場、レジャーなど、この世界にはない施設が沢山あること。
更に、彼女自身のことも。田舎の一人娘として生まれ、小中高は地元で暮らしていたこと。大学に進学するに際して上京し、都会へと引っ越してきたこと。
そして――俺と、出会ったこと。
「初めてはじめちゃんと会ったときは、何だこの陰気な男子はって思ったんだよね」
「ああ、あいつは、見るからに陰気だしな――何故、お前はあいつと結婚したのだ?」
結と深雪さんは苦笑しながら、俺の内面を評する――おい、何を俺の陰口で盛り上がってるんだ。ちくちく言葉は止めろ。
(ぶふっ! おい、言われてんぞ!)
(うるせえ)
こらえきれず噴き出した酒呑童子の頭を、軽く小突きつつ――俺は、結の言葉に耳を傾ける。
「なんで結婚したかって……、そんなの、愛してるからだよ」
「……愛」
「うん。私は、はじめちゃんが好きで、この人となら一生やってけるなって思ったから、結婚したの。結婚って、そういうもんでしょっ?」
と、臆面もなく内心を吐露する結。相変わらず、聞いているこっちが恥ずかしくなってくるほどに、愚直だ……。
「――一生やっていける、か。しかし、所詮は赤の他人だろう。どうしてそこまで、深く信頼することができる?」
顔を伏せ、暗澹たる口調で、深雪さんが漏らす。
――彼女からすれば。過去に排斥を受けた経験を持つ彼女からすれば、心の底から誰かを信用するということそのものが、ありえない事なのかもしれない。
だが、結はそんな重々しい問いに対しても、いつも通りの軽い口調で答えを返す。
「うーん、理由かあ。あんまりそういうことは、考えたこと無かったけど……、ひとつは、生まれ育った環境かな」
「環境……?」
「ほら、私の身の周りの人たちって、皆いい人だったじゃん?」
「いや、知るか」
結のボケに対し、適切なツッコミをする深雪さん。案外、そういう素養はあるのか。何か意外だ。
「家族も、友達も、近所の人も、皆いい人だったの。人を蹴落とそうとしたり、いじめたり、そういうことする人が、いなかったんだよね」
彼女の突っ込みに満足気な顔をしながらも、身の上話をする結。
「そういう良い環境で育ったっていうのも、やっぱりあると思う。人って、そんなに悪いもんじゃないな、って、心から思えたから」
結の、眩しいほど真っ直ぐな性格の基盤には、だからそれがあるのだろう――現代日本ではもはや稀有な部類に入るほどの前向きさは、類稀なる整った環境により、涵養されたのだ。
「……はは、そりゃあ、おめでたいことだ」
結の明るい言葉を聞くも、沈痛な面持ちはそのままに、深雪さんは暗くつぶやく。
確かに、そんなことを聞かされたら――『結局、先天的な環境ですべてが決まる』という救いようのないことを聞かされたら、気が落ちるのも分かる。
「でもね、確かにそれは、要因の一つだけど……、例え生まれ育った環境が悪くても、人を信頼できるようになるって、私は信じてるよ」
「……は?」
だが、結はそこに、追って楽天的な言葉を紡ぐ。それだけがすべてではないと。
「……適当なことを言うな。お前みたいなのは、希少なんだよ。皆が皆、お前のように、愚直に人を信頼できるわけじゃない――私のようなひねくれものならば、尚更だ」
仲間の半妖に諭されても、こびりついた宿弊を払拭できない私には――と、彼女は言う。
『仲間の半妖』というのは、『覚』の半妖の、識季さんのことだろう。
彼女はこの里の住人の説得を試みたが、失敗したと語っていた――それは、彼らの心に蓄積された怨嗟の澱が、途轍もなく強固だったから。知識として頭に入ったとしても、その心の澱が、腑に落ちることを妨げたから。
だから、深雪さんからすれば、そんな綺麗ごとめいたことを言われても、今更心に響くことが無いのだろうが――
「できるよっ。だって元々は、はじめちゃんだってそうだったんだしっ」
結は深雪さんの両手を取り、力強く言う。素早い動きに気圧されたのか、たじろいだ深雪さんに、結は構わずつづける。
「はじめちゃんは、今でも暗いけど……私が初めてあの人と会ったときは、その比じゃないくらい世をひねてたよ。そりゃー、深雪ちゃんとは比べ物にならないくらいだったね」
「……私より?」
「うん。顔つきが険しすぎて、何かに憑りつかれたみたいだったもん! もう、逆に心配になるくらいだったんだからっ!」
……うん、まあ、事実と言えば事実だ。俺は結ほど、良い環境で育っていなかったし――周りの人間関係も、はっきり言って鬱陶しく、じめじめとしたものだった。
片手で数えられる友達と、親身になってくれる姉がいたのが、救いだったが――それでも、大学に入学した当初、まだまだガキの俺は、厭世的な思想の持ち主だった。
どうせ人間は。どうせ社会は。どうせ世界は――そんな風に、意味もなく意味を否定していた。無意味に無意味を肯定していた。
「でも、私と会って、生活して、遊んで……そんな風に過ごしてたら、憑き物が落ちたみたいに、良い顔になったんだよね。性格も、見違えるほど丸くなってさ」
――ただ、そんな俺が、現在その思想を持っているかと言うと、全く持ってそんなことはない。むしろ今となっては、恥ずかしい黒歴史だと思えるほどだ。
それは結の言う通り、彼女と大学で過ごす中で、気付いたからだ。俺が見ていたのは、世界のほんの一部で、実際の世界は、もっと広いのだということに。
この世には、悪人と同じくらい、善人もいるのだということに。心から信頼に値する人が、いるのだということに――それこそ、結のような。
「つまり、その後の過ごし方次第で、十分変わる可能性があるってことっ!」
「……だがそれも、ひとによるだろう。あの男は変容したのかも知れないけど、私は……」
「そんなことないっ! はじめちゃんを直々に見てた私ならわかる! 深雪ちゃんは――ううん、この里に居る半妖たちは、絶対に変われるよっ!」
それでも後ろ向きなことを言う深雪さんに、結は握る力を強めながら、力説をする。歯切れのよい口調で、言い切る形で。これでもかというほど、自信満々に。
「……変われる、のかな。私は。これまで一切、そんなやり方を知らなかったのに……」
「大丈夫! 私が保障するよっ!!」
なんてったって、あの偏屈の唐変木を変えたのは、他ならぬ私なんだしねっ! と。
とんでもなく不遜な物言いで――それでも、聞き手に快活さを覚えさせるような言い方で、結は言葉を締める。
(……うーん。色々と言いたいことはあるが、まあ概ねそうであると言っても差し支えないから、今回だけは許してやるか)
(くはっ、めっちゃ早口で照れてるじゃん!)
(お前は許さねえからな)
酒吞童子を後でしばくことが確定したのはともあれ。
深雪さんは、何とも言えない表情で――羞恥と期待の入り混じった表情で、おもむろに口を開く。
「……私の話をしようか。つまらない話だが」
どうやら、彼女自身の身上を話してくれる気になったらしい。結の力説が、効いたのだろう。
傍から盗み聞きしているのに、多少の罪悪感を覚えつつも――しかし俺たちは、次の言葉により、彼女の話に釘付けになってしまう。
「――私は、人為的に作られた半妖なのだ」
懐古と――そして、怒りを多少孕んだ声色で、彼女はそう言い放つ。
満月に照らされた二人の影が、部屋の畳に落とされて――光に浮かぶ闇が、一層際立っていた。
煌々とした月が、半妖の隠れ里を照らし続けている。
二日目の共同生活も、もう終わる。結界の修復を終えた俺や、他の作務をしていた結は、夕飯を食べ、一日の業務を全てこなしたのだ。
昨日はここで、他の半妖の皆と共に就寝をした。しかし、今日はそういうわけにもいかない。
何故なら、明日の朝、俺たちは答えを告げなければならないからだ――この里の主である八百比丘尼さんに、俺たちが考える『黒幕』の真の目的を伝えなければならないからだ。
それを的中させることが出来れば、晴れて彼女から、人と妖怪の仲を引き裂いた『黒幕』の情報を聞き出すことが出来る。そういう条件の下、俺たち三人は、この里での滞在を許されていたのだ。
だから、今夜はさっさと床に就くわけにはいかない。その答えを出すために、日常の居住空間とは別の棟を借り、俺と結と酒呑童子のみで、頭を捻る予定になっている。
の、だが――
「……あいつ、一体どこに行ったんだ? 今から会議をするってのに」
「俺も放蕩な質(たち)だが、お前の嫁も大概だな。こんな火急の事態によ」
「日中にサボりまくってたお前にだけは言われたくないと思うけどな」
こいつは相も変わらず、常習的に怠けて仕事をしなかったのだ。その度に、八百比丘尼さんにどつきまわされていた――と、そんなことはともかく。
肝心のメンバーの一人、俺の妻の御縁結が、姿を消してしまったのだ。先ほどから俺と酒吞で、彼女の捜索を行っている。
「こんな寒い夜に、わざわざ散歩なんていかないだろうし。とはいえ、部屋に閉じこもってじっとしてるってこともないだろうし……何か、あったのか?」
「さあな。案外、嫌になって逃げ出したのかもよ?」
「お前は一々、茶々を入れないと喋れないのかよ……、と」
無駄話をしつつ、広い屋敷の中を探索していると――いた。
外に面した部屋、月が照らす縁側の近くに、見慣れた人影が一つ。ショートヘアで胸が大きい、いつも通りの姿かたちの結だ。
「おーい――っ!?」
「ちょっと待て、様子を見ようぜ」
俺が彼女に呼びかけようとすると――後ろに居た酒吞童子が俺の口をおさえ、彼女の視界から外れる扉の奥へと引きずられる。
「お、おい、何を……?」
「ほら、あそこを見てみろ」
事態が呑み込めない俺に対し、酒呑童子は物陰から覗き込むような姿勢で、結が居た方向を指さす。
何がなんだか分からないが――俺は一旦それに従い、同じ動きで少しだけ頭を出し、彼が指さす方を覗く。
そこには、さっき見たように、見慣れた結の人影が――いや。
人影は、その一つではなかった。もうひとつ、真っ黒な影が……特徴的な獣の耳と尾を持つ影が、縁側に腰を下ろしている。
「あ、深雪ちゃん。やっぱりここに居たんだ」
「……なんだ、お前か」
結が、その黒い影に向かって話しかける。影は不愛想に、彼女に返事を返す。
その影の正体は、俺たちが初めて遭遇した半妖――この里への侵入者を排除する役割を担っている警備。猫の半妖の、『深雪』さんであった。
「せっかく一人で夜坐をしていたのに……何故ここが分かった?」
「いやー、深雪ちゃんと話したくなってさー。杏豆さんに、どこにいるかきいたんだよねー」
「杏豆さんが……全く、口が軽いな、あの人は」
にこやかな顔で隣に座った結に対し、億劫な顔でしぶしぶ同席を許す深雪さん。
杏豆さん、というのは、結に掃除を指南していた、あの極端に小さな女性のことか。ただ幼いだけかとも考えたが、深雪さんが『さん』付けをしているので、そういうわけではないのだろう。
「……で、話したいって、何を? というかお前、明日の朝には、答えを出さなければならないのだろうが。こんなところで、油を売っている暇があるのか?」
「まあ、それもそうだけど……、出会ったときに言ったでしょ? 私は、深雪ちゃんのことを知りたいの」
知らないから、知りたい――それは、結が深雪さんを説得するときに、言っていた言葉だ。
俺たちは、ほんの数日前まで、半妖のことを、存在すら知らなかった。『黒幕』の動機も、単なる復讐だと考えていた――でも、それは違った。
なればこそ、それをきちんと理解した上で、『黒幕』の真意を考えたいと思ったのだろう。だから、一人抜け出して、彼女を尋ねたわけだ。男二人が混じった三人で行くよりも、女子どうしのほうが話しやすいから。
「話せる範囲で良いから、話してほしいな。あなた自身のことを」
「……」
結が促すと、深雪さんはしばらく逡巡していたが――しかし、ふっと目を結から逸らし、やおら一言。
「……先だ」
「えっ?」
「お前が、先だ。お前のことを、先に話せ。お前は、転生者なのだろう? だったら、異世界のこと、どうしてこの世界に来たのか、どのような生活をしているのか――すべて話せ。私の話は、それからだ」
と、気難しい顔で、そう言った。
「……! うんっ! ありがとうっ!!」
「は、早合点するな。まだ話すと決めたわけではない。お前の話に価値があると判断した場合のみ、私も私の身の上を話す」
「それでもいいのっ! じゃあ今夜は、女子トークだねっ!」
「と、とおく……?」
ぱあっと顔を明るくし、深雪さんに詰め寄る結。相変わらず、人の心を開くのが上手いな。ああいうところは、やはりあいつの得意分野なのだと思い知らされる。
(お前があの娘を説得しようとしたら、朝までかかりそうだもんな)
(黙れ)
酒呑童子が小声でちょっかいをかけてくるのは置いといて。
そこから結は、あっちの世界のことを――俺たちが元いた現代日本のことを話しだした。
こちらとあちらでは、文明レベルが300年ほど違うこと――この世界では手作業でやっている洗濯や炊爨が、向こうでは機会が自動でやってくれること。近代的な教育機関や工場、レジャーなど、この世界にはない施設が沢山あること。
更に、彼女自身のことも。田舎の一人娘として生まれ、小中高は地元で暮らしていたこと。大学に進学するに際して上京し、都会へと引っ越してきたこと。
そして――俺と、出会ったこと。
「初めてはじめちゃんと会ったときは、何だこの陰気な男子はって思ったんだよね」
「ああ、あいつは、見るからに陰気だしな――何故、お前はあいつと結婚したのだ?」
結と深雪さんは苦笑しながら、俺の内面を評する――おい、何を俺の陰口で盛り上がってるんだ。ちくちく言葉は止めろ。
(ぶふっ! おい、言われてんぞ!)
(うるせえ)
こらえきれず噴き出した酒呑童子の頭を、軽く小突きつつ――俺は、結の言葉に耳を傾ける。
「なんで結婚したかって……、そんなの、愛してるからだよ」
「……愛」
「うん。私は、はじめちゃんが好きで、この人となら一生やってけるなって思ったから、結婚したの。結婚って、そういうもんでしょっ?」
と、臆面もなく内心を吐露する結。相変わらず、聞いているこっちが恥ずかしくなってくるほどに、愚直だ……。
「――一生やっていける、か。しかし、所詮は赤の他人だろう。どうしてそこまで、深く信頼することができる?」
顔を伏せ、暗澹たる口調で、深雪さんが漏らす。
――彼女からすれば。過去に排斥を受けた経験を持つ彼女からすれば、心の底から誰かを信用するということそのものが、ありえない事なのかもしれない。
だが、結はそんな重々しい問いに対しても、いつも通りの軽い口調で答えを返す。
「うーん、理由かあ。あんまりそういうことは、考えたこと無かったけど……、ひとつは、生まれ育った環境かな」
「環境……?」
「ほら、私の身の周りの人たちって、皆いい人だったじゃん?」
「いや、知るか」
結のボケに対し、適切なツッコミをする深雪さん。案外、そういう素養はあるのか。何か意外だ。
「家族も、友達も、近所の人も、皆いい人だったの。人を蹴落とそうとしたり、いじめたり、そういうことする人が、いなかったんだよね」
彼女の突っ込みに満足気な顔をしながらも、身の上話をする結。
「そういう良い環境で育ったっていうのも、やっぱりあると思う。人って、そんなに悪いもんじゃないな、って、心から思えたから」
結の、眩しいほど真っ直ぐな性格の基盤には、だからそれがあるのだろう――現代日本ではもはや稀有な部類に入るほどの前向きさは、類稀なる整った環境により、涵養されたのだ。
「……はは、そりゃあ、おめでたいことだ」
結の明るい言葉を聞くも、沈痛な面持ちはそのままに、深雪さんは暗くつぶやく。
確かに、そんなことを聞かされたら――『結局、先天的な環境ですべてが決まる』という救いようのないことを聞かされたら、気が落ちるのも分かる。
「でもね、確かにそれは、要因の一つだけど……、例え生まれ育った環境が悪くても、人を信頼できるようになるって、私は信じてるよ」
「……は?」
だが、結はそこに、追って楽天的な言葉を紡ぐ。それだけがすべてではないと。
「……適当なことを言うな。お前みたいなのは、希少なんだよ。皆が皆、お前のように、愚直に人を信頼できるわけじゃない――私のようなひねくれものならば、尚更だ」
仲間の半妖に諭されても、こびりついた宿弊を払拭できない私には――と、彼女は言う。
『仲間の半妖』というのは、『覚』の半妖の、識季さんのことだろう。
彼女はこの里の住人の説得を試みたが、失敗したと語っていた――それは、彼らの心に蓄積された怨嗟の澱が、途轍もなく強固だったから。知識として頭に入ったとしても、その心の澱が、腑に落ちることを妨げたから。
だから、深雪さんからすれば、そんな綺麗ごとめいたことを言われても、今更心に響くことが無いのだろうが――
「できるよっ。だって元々は、はじめちゃんだってそうだったんだしっ」
結は深雪さんの両手を取り、力強く言う。素早い動きに気圧されたのか、たじろいだ深雪さんに、結は構わずつづける。
「はじめちゃんは、今でも暗いけど……私が初めてあの人と会ったときは、その比じゃないくらい世をひねてたよ。そりゃー、深雪ちゃんとは比べ物にならないくらいだったね」
「……私より?」
「うん。顔つきが険しすぎて、何かに憑りつかれたみたいだったもん! もう、逆に心配になるくらいだったんだからっ!」
……うん、まあ、事実と言えば事実だ。俺は結ほど、良い環境で育っていなかったし――周りの人間関係も、はっきり言って鬱陶しく、じめじめとしたものだった。
片手で数えられる友達と、親身になってくれる姉がいたのが、救いだったが――それでも、大学に入学した当初、まだまだガキの俺は、厭世的な思想の持ち主だった。
どうせ人間は。どうせ社会は。どうせ世界は――そんな風に、意味もなく意味を否定していた。無意味に無意味を肯定していた。
「でも、私と会って、生活して、遊んで……そんな風に過ごしてたら、憑き物が落ちたみたいに、良い顔になったんだよね。性格も、見違えるほど丸くなってさ」
――ただ、そんな俺が、現在その思想を持っているかと言うと、全く持ってそんなことはない。むしろ今となっては、恥ずかしい黒歴史だと思えるほどだ。
それは結の言う通り、彼女と大学で過ごす中で、気付いたからだ。俺が見ていたのは、世界のほんの一部で、実際の世界は、もっと広いのだということに。
この世には、悪人と同じくらい、善人もいるのだということに。心から信頼に値する人が、いるのだということに――それこそ、結のような。
「つまり、その後の過ごし方次第で、十分変わる可能性があるってことっ!」
「……だがそれも、ひとによるだろう。あの男は変容したのかも知れないけど、私は……」
「そんなことないっ! はじめちゃんを直々に見てた私ならわかる! 深雪ちゃんは――ううん、この里に居る半妖たちは、絶対に変われるよっ!」
それでも後ろ向きなことを言う深雪さんに、結は握る力を強めながら、力説をする。歯切れのよい口調で、言い切る形で。これでもかというほど、自信満々に。
「……変われる、のかな。私は。これまで一切、そんなやり方を知らなかったのに……」
「大丈夫! 私が保障するよっ!!」
なんてったって、あの偏屈の唐変木を変えたのは、他ならぬ私なんだしねっ! と。
とんでもなく不遜な物言いで――それでも、聞き手に快活さを覚えさせるような言い方で、結は言葉を締める。
(……うーん。色々と言いたいことはあるが、まあ概ねそうであると言っても差し支えないから、今回だけは許してやるか)
(くはっ、めっちゃ早口で照れてるじゃん!)
(お前は許さねえからな)
酒吞童子を後でしばくことが確定したのはともあれ。
深雪さんは、何とも言えない表情で――羞恥と期待の入り混じった表情で、おもむろに口を開く。
「……私の話をしようか。つまらない話だが」
どうやら、彼女自身の身上を話してくれる気になったらしい。結の力説が、効いたのだろう。
傍から盗み聞きしているのに、多少の罪悪感を覚えつつも――しかし俺たちは、次の言葉により、彼女の話に釘付けになってしまう。
「――私は、人為的に作られた半妖なのだ」
懐古と――そして、怒りを多少孕んだ声色で、彼女はそう言い放つ。
満月に照らされた二人の影が、部屋の畳に落とされて――光に浮かぶ闇が、一層際立っていた。
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