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懐かしいきみと
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並木の桜が、だんだんと春めいてきていた。つぼみがぽつぽつと灯り、優しげに行きかう人々を見下ろしている。
ふと男は足を止めた。
どこかで、子供たちの合唱が聞こえてくる。近くに学校でもあるのだろうか。曲は、仰げば尊し。そういえば、もうそんな季節なのか。男はため息をついた。木々の彩りを眼窩に焼き付けていても季節感を感じることがなくなっていた。改めて今現在が春へと突き進もうとしていることに気がつき、それに乗れていない自分をも発見してしまったような、どこか世界に取り残されたような心情だった。
彼は、今年で三十二になる。
歩みを進めると、四角い灰色の建物が目に入るようになった。中学校だろうか。ちらほらと学ランやセーラー服に身を包んだ幼い顔立ちの姿が流れてくる。
男が中学校を卒業したのも、もう昔の話だ。弾けるような若さを目の当たりにして、男は自分の引きずっている身体が重たく鈍いもののように感じられる。あの頃は良かった。けれど、あの頃が遠くて、甦らせることはもう出来はしないだろう。耳奥に残ったメロディの懐かしさに胸を打たれ、男も口ずさみ始めた。
「近藤?」
背後で誰かが誰かを呼ぶ声がする。男は自分の名前だと認識したが、自分が呼ばれているとは思いもしなかった。ここには自分を知っている人間はいないはずだ。
「なあ、近藤だろ!」
声の持ち主は、男の肩をつかみ、無理やりに男を振り向かせた。急に知らない男に背後からつかまれたので、どきりと心臓を弾ませる。だが、男の心臓はそれ以上に長身の男の顔を見て、激しく心拍を打った。
「に、しだ……?」
頭の中にぼんやりと浮かんできた名前は、中学の頃の同級生の名前だった。にっかりと白い歯を見せて笑うこの男の名前を彼は、覚えていた。いや、忘れることすらできなかったのである。
「どうしたんだよ、こんな場所で会うなんて!」
西田は、喜びを隠せないといった勢いで、男につかみかかった。それを軽くよけながら、男は手に持っていたアタッシュケースを掲げた。
「いや、近くに用があったんで」
「なんだ、仕事か」
西田の表情から、落胆の色が見える。喜怒哀楽がはっきりと外に放出されるのも、西田らしい。男は変わっていないなと内心苦笑いした。
「そういうことだ」
「てっきり、ここの近くに住んでいるんじゃないかって思っちまったじゃねえかよ。そんな漫画みたいなことないよな」
西田は、せっかく再会したんだからと、連絡先を男にねだった。男は少し逡巡したが、彼に携帯の番号を教えた。
「それにしても懐かしいよな」
彼が話題にしているのは、どこからか聞こえる子供たちの合唱だ。
「ああ」
男が、うなずくと、聞かれたわけでもないのに、西田が嬉しそうに話し出した。
「ここの通りをまっすぐ行った先に中学校があるんだ。いまどき、この曲歌うのは、ここらへんくらいだぜ。歌詞覚えているか?」
「いや、忘れた」
男は嘘をついた。
「そうか」
西田はそれきり黙った。その瞳に映ったのは無機質な光だった。ずっと彼を見ていると内側から狂ってしまいそうだ。男は軽く手をあげる。
「じゃ、俺これで」
男は彼にあいさつすると、西田は小さくうなづいた。それじゃあなと白い歯を見せて笑う。男は、その場を立ち去った。
振り返らなかった。
いや、振り返ることが出来なかった。
振り払うことの出来ない想い出が男の内よりふつふつと湧きあがり、がんじがらめにとらえようとする。それもつまらない青臭い歪な、思い出だ。
彼と同級生だったのは、中学の三年間だけだ。いや、三年間も同じクラスになれたのだから、かなりの縁だったのだろう。
西田との関係は、ただの友人、という枠には、収まりきらなかった。
当時は、思春期ということもあり、そういうことに、興味があった時期だった。彼とは興味本位で、もしくは遊びで、そういう関係になっていた。
けれど、その秘密の関係は高校に進学する時期になって、それは終わりを迎える。
西田は地元の高校へ進学、男は東京の進学校への進学を決めた。
恋人とは言えない関係だったかもしれない。
けれど、その終わりの日、西田は自身に群がっていた第二ボタンをねだる女子を蹴散らし、彼は男に駆け寄った。
そして、男のうなじにキスをした。
あのキスの意味を彼に聞いたことはない。
そのまま二人は、互いの高校に進学し、その後もなんとなく連絡が取れずにいた。就職も東京でし、故郷とは疎遠になってしまった為、彼との連絡も取れなくなっていた。
それが、今更になって、会ったところで何になるんだ。
今までの人生で、何人か女性と、お付き合いもした。
それでも忘れられなかった、あの日の――あの一瞬を思い出して、男は思わず自身のうなじに触れた。
甘酸っぱい過去への回顧に浸っていたふたりの間に、ざっと下校中の生徒の群れがぼつぼつと現れる。彼らの話し声に現実に帰った男は、女生徒の集団の話し声にどきりと心臓を弾ませた。
「ねえ、知ってる? キスの格言っていうのがあってね」
「へえ、何それ」
「まずね、手の上なら尊敬のキスなんだって」
「へえ、じゃあ、おでこ!」
「それは友情のキス」
「じゃあ、首は?」
無邪気なことだ。男が足を速めようとしたその時。ある女生徒の声が鼓膜を揺らした。
「それは、欲望のキスなんだって」
男は足を止めた。いや、男の足が勝手に歩みを止めていたのだ。
「へえ、そうなんだ」
「じゃあさ、次は……」
遠ざかっていく女子の笑い声。彼女たちは青春のまっただなかにいるのだ。そしてその枠の外でただひとり、男は何か大切なものを道の途中で落としてきてしまったことに気が付いて、ぎょっとした形相で立ちすくんでいた。
欲望のキス。
お前を自分のものにしたい。
これから、遠ざかっていくお前を。
「……っ」
男の顔面は、誰が見ても明らかに真っ赤に染まっていた。彼の内側では、心臓激しく脈打ち、熱く血液が沸騰しそうなくらいにどくどくと全身を巡っている。彼の神髄に生まれてきたそれが、男の身を激しく駆り立てた。
「ごめんっ、ごめんね」
思わず口にでたのはそんな言葉だった。うなだれるように下を向いた男は地面にその言葉を吐きだすと、きっと目を見開いて顔をあげた。
男は来た道を振り返った。道は遠い。けれど、男は足を踏み出した。
そして全力で走りだした。
桜だけが、男を見守っていた。
つぼみはもうすぐ開く。
春風が、ふっと流れていった。
(了)
ふと男は足を止めた。
どこかで、子供たちの合唱が聞こえてくる。近くに学校でもあるのだろうか。曲は、仰げば尊し。そういえば、もうそんな季節なのか。男はため息をついた。木々の彩りを眼窩に焼き付けていても季節感を感じることがなくなっていた。改めて今現在が春へと突き進もうとしていることに気がつき、それに乗れていない自分をも発見してしまったような、どこか世界に取り残されたような心情だった。
彼は、今年で三十二になる。
歩みを進めると、四角い灰色の建物が目に入るようになった。中学校だろうか。ちらほらと学ランやセーラー服に身を包んだ幼い顔立ちの姿が流れてくる。
男が中学校を卒業したのも、もう昔の話だ。弾けるような若さを目の当たりにして、男は自分の引きずっている身体が重たく鈍いもののように感じられる。あの頃は良かった。けれど、あの頃が遠くて、甦らせることはもう出来はしないだろう。耳奥に残ったメロディの懐かしさに胸を打たれ、男も口ずさみ始めた。
「近藤?」
背後で誰かが誰かを呼ぶ声がする。男は自分の名前だと認識したが、自分が呼ばれているとは思いもしなかった。ここには自分を知っている人間はいないはずだ。
「なあ、近藤だろ!」
声の持ち主は、男の肩をつかみ、無理やりに男を振り向かせた。急に知らない男に背後からつかまれたので、どきりと心臓を弾ませる。だが、男の心臓はそれ以上に長身の男の顔を見て、激しく心拍を打った。
「に、しだ……?」
頭の中にぼんやりと浮かんできた名前は、中学の頃の同級生の名前だった。にっかりと白い歯を見せて笑うこの男の名前を彼は、覚えていた。いや、忘れることすらできなかったのである。
「どうしたんだよ、こんな場所で会うなんて!」
西田は、喜びを隠せないといった勢いで、男につかみかかった。それを軽くよけながら、男は手に持っていたアタッシュケースを掲げた。
「いや、近くに用があったんで」
「なんだ、仕事か」
西田の表情から、落胆の色が見える。喜怒哀楽がはっきりと外に放出されるのも、西田らしい。男は変わっていないなと内心苦笑いした。
「そういうことだ」
「てっきり、ここの近くに住んでいるんじゃないかって思っちまったじゃねえかよ。そんな漫画みたいなことないよな」
西田は、せっかく再会したんだからと、連絡先を男にねだった。男は少し逡巡したが、彼に携帯の番号を教えた。
「それにしても懐かしいよな」
彼が話題にしているのは、どこからか聞こえる子供たちの合唱だ。
「ああ」
男が、うなずくと、聞かれたわけでもないのに、西田が嬉しそうに話し出した。
「ここの通りをまっすぐ行った先に中学校があるんだ。いまどき、この曲歌うのは、ここらへんくらいだぜ。歌詞覚えているか?」
「いや、忘れた」
男は嘘をついた。
「そうか」
西田はそれきり黙った。その瞳に映ったのは無機質な光だった。ずっと彼を見ていると内側から狂ってしまいそうだ。男は軽く手をあげる。
「じゃ、俺これで」
男は彼にあいさつすると、西田は小さくうなづいた。それじゃあなと白い歯を見せて笑う。男は、その場を立ち去った。
振り返らなかった。
いや、振り返ることが出来なかった。
振り払うことの出来ない想い出が男の内よりふつふつと湧きあがり、がんじがらめにとらえようとする。それもつまらない青臭い歪な、思い出だ。
彼と同級生だったのは、中学の三年間だけだ。いや、三年間も同じクラスになれたのだから、かなりの縁だったのだろう。
西田との関係は、ただの友人、という枠には、収まりきらなかった。
当時は、思春期ということもあり、そういうことに、興味があった時期だった。彼とは興味本位で、もしくは遊びで、そういう関係になっていた。
けれど、その秘密の関係は高校に進学する時期になって、それは終わりを迎える。
西田は地元の高校へ進学、男は東京の進学校への進学を決めた。
恋人とは言えない関係だったかもしれない。
けれど、その終わりの日、西田は自身に群がっていた第二ボタンをねだる女子を蹴散らし、彼は男に駆け寄った。
そして、男のうなじにキスをした。
あのキスの意味を彼に聞いたことはない。
そのまま二人は、互いの高校に進学し、その後もなんとなく連絡が取れずにいた。就職も東京でし、故郷とは疎遠になってしまった為、彼との連絡も取れなくなっていた。
それが、今更になって、会ったところで何になるんだ。
今までの人生で、何人か女性と、お付き合いもした。
それでも忘れられなかった、あの日の――あの一瞬を思い出して、男は思わず自身のうなじに触れた。
甘酸っぱい過去への回顧に浸っていたふたりの間に、ざっと下校中の生徒の群れがぼつぼつと現れる。彼らの話し声に現実に帰った男は、女生徒の集団の話し声にどきりと心臓を弾ませた。
「ねえ、知ってる? キスの格言っていうのがあってね」
「へえ、何それ」
「まずね、手の上なら尊敬のキスなんだって」
「へえ、じゃあ、おでこ!」
「それは友情のキス」
「じゃあ、首は?」
無邪気なことだ。男が足を速めようとしたその時。ある女生徒の声が鼓膜を揺らした。
「それは、欲望のキスなんだって」
男は足を止めた。いや、男の足が勝手に歩みを止めていたのだ。
「へえ、そうなんだ」
「じゃあさ、次は……」
遠ざかっていく女子の笑い声。彼女たちは青春のまっただなかにいるのだ。そしてその枠の外でただひとり、男は何か大切なものを道の途中で落としてきてしまったことに気が付いて、ぎょっとした形相で立ちすくんでいた。
欲望のキス。
お前を自分のものにしたい。
これから、遠ざかっていくお前を。
「……っ」
男の顔面は、誰が見ても明らかに真っ赤に染まっていた。彼の内側では、心臓激しく脈打ち、熱く血液が沸騰しそうなくらいにどくどくと全身を巡っている。彼の神髄に生まれてきたそれが、男の身を激しく駆り立てた。
「ごめんっ、ごめんね」
思わず口にでたのはそんな言葉だった。うなだれるように下を向いた男は地面にその言葉を吐きだすと、きっと目を見開いて顔をあげた。
男は来た道を振り返った。道は遠い。けれど、男は足を踏み出した。
そして全力で走りだした。
桜だけが、男を見守っていた。
つぼみはもうすぐ開く。
春風が、ふっと流れていった。
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