膝小僧を擦りむいて

阿沙🌷

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 疲れた。けれど、それは酒田のおかげで心地いい疲労になった。
 スキップで玄関までたどり着く。独り身でも少し狭いアパートに住んでいるのはほとんど外に出ているからだ。仕事かレッスン。そんな生活をしているせいで、プライベートな空間は結構散らかっていたりする。
 そういえば、前に千尋さんが、可愛いエプロン姿で、ご飯を作ってくれていたこともあったなぁなんて、心の奥にストックしてある新崎の千尋メモリーを思い出したりする。
 あの日、仕事で疲れて帰ってきて、玄関開けたら千尋さんがいた。あんな奇跡みたいな幸せなことってないだろう。その後、少しは恋人らしいいい感じの雰囲気になって――最終的にはすこし失敗してしまったが、それでも千尋さんの肌に触れることができたのは、本当に幸せなことだった。
 なんてことを考えていたら、顔がにやけてしまう。
 そうだ。新崎は気が付いた。
 自分にはいつだって千尋さんがいたんだ。彼のことを思い出すだけで、勝手に元気になるのだから。
 新崎はドアノブに手をかけた。それは鍵を開錠しなくとも、開いた。
「え?」
 もしかして、朝、出る前に閉め忘れたのか? それとも、空き巣――? 脳裏に嫌な想像が走る。しかし、それは次の瞬間、打ち砕かれた。
「おかえりなさい」
 自分の部屋から現れたのは、最愛のひと。
「千尋さんっ!!」
 新崎は靴を脱ぎ捨てると彼のもとに駆け寄った。
「千尋さん!! いらしていたんですね!!」
「もう……なんだっていつもきみはそんなに大げさなんだ? まるでしっぽ振って走ってくる子犬じゃないか」
「はい、犬です。もう俺は千尋さんの犬になります」
「はあはあしてないで、お靴綺麗にしていらっしゃい」
「はい!」
 自分がとことんダメな男になりさがっていることに新崎はまだ気が付いていない。
「千尋さん、千尋さん」
「何? ご飯にする? お風呂も沸いてるけれど」
「千尋さん!」
「はいはい。そうですね。どうせ、きみはぼくが一番ですもんね」
「どうしてわかったんですか?」
「前にも、ご飯よりお風呂より千尋さんって言われました」
「……覚えていてくれたんですか」
「ほら、何ひとりでぼーっとして! ご飯、温めるから、食べて! ね?」
「はわ~、幸せだ。もう俺、死んでもいい」
「よくないよくない。さ、生き延びるためにご飯にしようね」
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