8 / 30
まやかし
4
しおりを挟む
「は」
何かを言う暇もなく、手首を引かれて私たちは待機列から離れた。次の呼び込みで入場できたはずだったのに。何度か呼びかけても彼が振り向いてくれることはなく、美術館からも出たところでようやく止まった。
「ごめん。またここのチケット取るから」
「いえ、あの……なんで?」
手を離してこちらに向き直ったカガチさんはじっと私を見下ろした。少しだけ気温は上がってきたとはいえ、まだ冬から抜け出せない空気が顔の熱を冷ましていく。しきりに車が通り過ぎる音や横断歩道が通行可能だと知らせる電子音は聞こえるものの、言葉という形をとっていないだけでだいぶ良くなった。
「辛そうに見えた」
まさか。
「そんなこと、全然……」
キキョウが来たいと思っていた場所なんだから、絶対に見て回るべきだった。初めて見るものばかりだろうと、彼がその目で見たいと思った展示品に出会えたらほんの少しでも記憶が戻ったかもしれない。
「これは俺の想像だけど」
カガチさんは巻いていたマフラーをするするとほどき、目を白黒させる私の首にそれをかけて包み込むように巻いては丁寧に形を整え始めた。表情は違うものの、その様子はキキョウが私を甘やかすときと全く同じで、柔らかく香る彼の匂いが徐々に気持ちを落ち着けてくれているのがわかる。
「彼は少なくとも、無理してるあなたと来ようとしてたんじゃないと思う。だからまた今度だ。どうしてもって言うならカフェだけ行こう」
眉を下げて微笑む顔はどこか子どもっぽくて、今までで一番キキョウによく似ている。薄い唇が綺麗な曲線を描き、目の下には睫毛が影を落としていた。
しかし相変わらず低く落ち着いた声は彼のように弾まず、マフラーから離れるばかりの手が頭を撫でてくれることはない。体を引き寄せてコートで包んで、小さい子をあやすように体を揺らしてくるようなこともない。
キキョウじゃなくて、カガチなんだから。
「……行きたい、です。カフェだけでも」
やっと、自分の中で腑に落ちたような気がする。どこか清々しい気持ちと虚しさ、罪悪感を残して。
「じゃあ行こう。少しだけ歩くが大丈夫か?」
「大丈夫です。ご迷惑を、おかけしました」
迷惑ではないと否定しつつ、彼は優しく背中を押して歩き出した。来るときに気づいたが、ほとんど感覚的に歩幅を合わせてくれていたように見えたキキョウと違って、カガチさんは意図的にこちらを観察しながら歩幅の調節をしているように見える。手を繋いでいたほうが、少しは合わせやすかったりもするのだろうか。
「……実は昨日、彼の高校時代からの日記を見つけた」
「えっ?」
日記を彼が書いていたこと自体は知っていたが、そんなに前から書き続けていたのか。私は一ページだってその中身を見たことはないけれど、カガチさんは読んでいたらしい。最近のものも、昨日見つけたという高校時代のものも。本当のキキョウを知る、一番の情報源だ。
「なんとなく文章に迷いがあったようには見えなかったから、あの部屋にはなかったけれど、それより前も書いていたのかもしれない。……ただ、随分と暗かった」
点滅し始めた横断歩道の前で足を止める。
「家族に関することも書いてあった。暴力とか食べるものがないとか、そんなわかりやすいものじゃなくて、徐々に心を凍らせていくような陰湿な虐待だった。母親だけはそうしたことをしない代わりに、守られることもなかったらしい。良くも悪くも無関心。よく彼が歪まなかったと思う」
明確な言葉にすらしないものの、その残虐性は冷めきった彼の表情が物語っていた。自分のこととしての実感が薄いのだろう、キキョウに比べて感情がわかりやすい。
こうして恋人が自分では晒してくれなかった部分を知れる手がかりを残してくれたことは救いであるとともに、当時の彼が縋れるのは文章だけだったのだと感じさせられた。もっと踏み込むべきだっただろうか、私は。
「彼の文章が明るくなり始めたのは、あなたと出会った頃からだ。今から五年前、あなたがまだ高校二年生のとき。図書館で会ったんだって?」
気がつけば五年も経っていたのか。初めて会った高二のとき、彼は確かに少し暗かったかもしれない。よく笑う人だとは思ったけれど、いつもどこか困ったような微笑みで、からからと笑うようになったのは付き合い始めてからだった気がする。
「そうです。図書館で初めて見かけて……正直、カッコイイ人だなって思いました。読んでる本が気になって、向かいの席からこっそり表紙を見て、同じ本を借りたりして」
懐かしい。おそらく年上であるということ以外何も知らない彼が座っていると、浮き足立って向かいに腰を下ろした。私は読書か受験勉強のどちらかをしていたけれど、彼は必ず本を読んでいて、読み終わったらまた別の本を手に戻ってくる。話しかける勇気はなかったけれど、当たり前に同じ席へ戻ってくることが嬉しかった。
何かを言う暇もなく、手首を引かれて私たちは待機列から離れた。次の呼び込みで入場できたはずだったのに。何度か呼びかけても彼が振り向いてくれることはなく、美術館からも出たところでようやく止まった。
「ごめん。またここのチケット取るから」
「いえ、あの……なんで?」
手を離してこちらに向き直ったカガチさんはじっと私を見下ろした。少しだけ気温は上がってきたとはいえ、まだ冬から抜け出せない空気が顔の熱を冷ましていく。しきりに車が通り過ぎる音や横断歩道が通行可能だと知らせる電子音は聞こえるものの、言葉という形をとっていないだけでだいぶ良くなった。
「辛そうに見えた」
まさか。
「そんなこと、全然……」
キキョウが来たいと思っていた場所なんだから、絶対に見て回るべきだった。初めて見るものばかりだろうと、彼がその目で見たいと思った展示品に出会えたらほんの少しでも記憶が戻ったかもしれない。
「これは俺の想像だけど」
カガチさんは巻いていたマフラーをするするとほどき、目を白黒させる私の首にそれをかけて包み込むように巻いては丁寧に形を整え始めた。表情は違うものの、その様子はキキョウが私を甘やかすときと全く同じで、柔らかく香る彼の匂いが徐々に気持ちを落ち着けてくれているのがわかる。
「彼は少なくとも、無理してるあなたと来ようとしてたんじゃないと思う。だからまた今度だ。どうしてもって言うならカフェだけ行こう」
眉を下げて微笑む顔はどこか子どもっぽくて、今までで一番キキョウによく似ている。薄い唇が綺麗な曲線を描き、目の下には睫毛が影を落としていた。
しかし相変わらず低く落ち着いた声は彼のように弾まず、マフラーから離れるばかりの手が頭を撫でてくれることはない。体を引き寄せてコートで包んで、小さい子をあやすように体を揺らしてくるようなこともない。
キキョウじゃなくて、カガチなんだから。
「……行きたい、です。カフェだけでも」
やっと、自分の中で腑に落ちたような気がする。どこか清々しい気持ちと虚しさ、罪悪感を残して。
「じゃあ行こう。少しだけ歩くが大丈夫か?」
「大丈夫です。ご迷惑を、おかけしました」
迷惑ではないと否定しつつ、彼は優しく背中を押して歩き出した。来るときに気づいたが、ほとんど感覚的に歩幅を合わせてくれていたように見えたキキョウと違って、カガチさんは意図的にこちらを観察しながら歩幅の調節をしているように見える。手を繋いでいたほうが、少しは合わせやすかったりもするのだろうか。
「……実は昨日、彼の高校時代からの日記を見つけた」
「えっ?」
日記を彼が書いていたこと自体は知っていたが、そんなに前から書き続けていたのか。私は一ページだってその中身を見たことはないけれど、カガチさんは読んでいたらしい。最近のものも、昨日見つけたという高校時代のものも。本当のキキョウを知る、一番の情報源だ。
「なんとなく文章に迷いがあったようには見えなかったから、あの部屋にはなかったけれど、それより前も書いていたのかもしれない。……ただ、随分と暗かった」
点滅し始めた横断歩道の前で足を止める。
「家族に関することも書いてあった。暴力とか食べるものがないとか、そんなわかりやすいものじゃなくて、徐々に心を凍らせていくような陰湿な虐待だった。母親だけはそうしたことをしない代わりに、守られることもなかったらしい。良くも悪くも無関心。よく彼が歪まなかったと思う」
明確な言葉にすらしないものの、その残虐性は冷めきった彼の表情が物語っていた。自分のこととしての実感が薄いのだろう、キキョウに比べて感情がわかりやすい。
こうして恋人が自分では晒してくれなかった部分を知れる手がかりを残してくれたことは救いであるとともに、当時の彼が縋れるのは文章だけだったのだと感じさせられた。もっと踏み込むべきだっただろうか、私は。
「彼の文章が明るくなり始めたのは、あなたと出会った頃からだ。今から五年前、あなたがまだ高校二年生のとき。図書館で会ったんだって?」
気がつけば五年も経っていたのか。初めて会った高二のとき、彼は確かに少し暗かったかもしれない。よく笑う人だとは思ったけれど、いつもどこか困ったような微笑みで、からからと笑うようになったのは付き合い始めてからだった気がする。
「そうです。図書館で初めて見かけて……正直、カッコイイ人だなって思いました。読んでる本が気になって、向かいの席からこっそり表紙を見て、同じ本を借りたりして」
懐かしい。おそらく年上であるということ以外何も知らない彼が座っていると、浮き足立って向かいに腰を下ろした。私は読書か受験勉強のどちらかをしていたけれど、彼は必ず本を読んでいて、読み終わったらまた別の本を手に戻ってくる。話しかける勇気はなかったけれど、当たり前に同じ席へ戻ってくることが嬉しかった。
0
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
あなたの片想いを聞いてしまった夜
柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」
公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。
政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。
しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。
「好きな人がいる。……片想いなんだ」
名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。
うわさの行方
下沢翠花(しもざわすいか)
恋愛
まだ十歳で結婚したセシリア。
すぐに戦場へ行ってしまった夫のニールスは優しい人だった。
戦場から帰るまでは。
三年ぶりにあったニールスは、なぜかセシリアを遠ざける。
ニールスの素っ気ない態度に傷つき疲弊していくセシリアは謂れのない酷い噂に追い詰められて行く。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました
ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。
ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。
王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。
そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。
「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる