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まやかし
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予想よりも混みあった休日の電車内、二十分ほどを彼とほとんど密着した状態でいるのは少し居心地が悪いが、吊革の代わりにコートの袖を掴ませてくれたのはありがたい。ふと見上げた顔は窓の外を眺めていたが、私の視線に気がつくと目を合わせて微かに口角を上げた。私の体を長い裾ですっぽり隠すように立つ姿は、傍から見れば恋人のように見えるのだろうか。
温かい体からは柔らかいムスクと混ざった彼の匂いがふわりと香る。懐かしいそれに至近距離で鼻をくすぐられると脳が揺れて、まるで本当にキキョウがいてくれているかのように錯覚してしまう。
思えば、キキョウと出かけるときはいつもこんな風だった。長身で体格も良い彼は必ず私を守るように立っていて、電車が揺れれば空いている腕を回して支えてくれた。おかげで私はヒールがあろうと好きな靴を履けたし、人の波に流されたことも痴漢被害に遭ったこともない。記憶をなくしていてもほとんど同じように振る舞うのは、元々の気質によるものだろうか。生まれ育った家で酷い扱いを受けていたはずなのに、どうしてこんなに優しい人になれたのだろう。
以前から時々、どこまでも美しい彼と自分ほどの人間が一緒にいていいのかわからなくなってしまうことがあった。確かに交際を始めたのは彼が告白してくれたのがきっかけではあったのだが、私の何をそこまで好きになってくれたのだろうか。私は彼のように美徳に満ちた人間なんかじゃなくて、お義兄さんたちが亡くなったときでさえも、陰りのある目で私を抱きしめる彼を心から愛おしく思うくらい、どうしようもなく醜くて。とても彼の横に立てるような人間じゃない。
――記憶のない今のうちに離れてしまおうかと考えてしまうのは、本当に彼のことを思ってのことか、恋人だった男に耐えかねた自分の醜悪な企みなのか、もはや私では判別をつけることはできなかった。
「ヒバナさん」
名前を呼ばれて我に返る。
「降りる駅だから、電車が止まるまでもう少しだけ掴まっていてほしい」
「…………はい」
無意識のうちに掴んでいた袖を離していたらしい。言われるがままに掴み直したところでブレーキがかかり始め、車内のバランスが乱れ始める。完全に止まる直前に少し彼へ寄りかかってしまったが、一切気にする様子はなく体勢を立て直すまで支えていてくれた。
熱のこもった重い空気から逃げるように電車から降りる。沈んだ心を隠すように彼と適当なことを話しながら歩を進め、駅から数分の美術館にようやく足を踏み入れた。家を出てからそこまで時間は経っていないはずなのに嫌な疲労感が頭を締めつけて思考回路を食い潰そうとしている。今はそこまで長くない入場待機列さえ苦痛で仕方がなかった。同じように入場を待っている来場者の会話を意味もなくいくつも拾ってしまって、増え続ける糸がどんどん縺れていく。
考えたところで解決しないのに、そういった物事ほど考えてしまうのはなんでだろう。考えているうちに関係のないことまで思考が分離して、でも解決しないからそれらが消えることはなくて、割り切れない割り算をいくつもいくつも永遠にやらされているような。
脳の容量を超えていそうなほどに膨れ続けるそれに内側から圧迫されているようで苦しい。これだって記憶と同じで質量なんてないはずなのに、なんでこんなにも辛くて、痛くて、気を抜くと頭が破裂してしまいそうで怖いのか。
「見終わったあと、近くのカフェにも付き合ってくれると嬉しい。それも込みでチェックされていたらしくて、デザートメニューが豊富だからあなたが喜ぶだろうとメモが残されてた」
「………………そう、ですか。それなら、はい、一緒に行きましょう」
ごちゃごちゃと散らかった頭から吐き出された言葉は自分でも驚くほど薄っぺらい響きしか持っていなかったが、唐突に話しかけられて戸惑いの空白ができたおかげで少し楽になった。
「本当は今日レポート提出日なんだけど」
「それと、来週の」
「この展示、あと一ヶ月やってるんだっけ」
「日曜日」
「見てる最中にお腹鳴っちゃうかも」
「映画のチケットが」
「間に合うの?」
「あったんだが」
「さっきケーキ食べたばかりでしょ」
「予定は空いてるかな」
「徹夜でギリいける」
楽には、なった気がしたのだけれど。
相変わらず周りの声が無遠慮に頭を掻き乱して、彼との会話に上手く集中できない。いつもはこんなことないのに、少しでも意識を外へ向けるとその分無駄な情報がなだれ込んでくる。言葉を理解できるだけ、話の内容を理解できてしまうだけに全て拾ってしまって気が変になりそうだ。早く、返事をしなきゃないのに。
「……えと、その、ちょっと……待ってください」
カガチさんなんて言ったっけ。来週の日曜日?
ちぎれた紙を繋ぎ合わせるみたいに記憶を思い返して、ようやく彼の発言を飲み込めた。自覚はなかったものの、それなりに疲れているらしい。明日は久々に一日家でのんびり過ごそうか。
「来週の日曜日、ですね。たぶん大丈夫だったと、」
「列、抜けるか」
温かい体からは柔らかいムスクと混ざった彼の匂いがふわりと香る。懐かしいそれに至近距離で鼻をくすぐられると脳が揺れて、まるで本当にキキョウがいてくれているかのように錯覚してしまう。
思えば、キキョウと出かけるときはいつもこんな風だった。長身で体格も良い彼は必ず私を守るように立っていて、電車が揺れれば空いている腕を回して支えてくれた。おかげで私はヒールがあろうと好きな靴を履けたし、人の波に流されたことも痴漢被害に遭ったこともない。記憶をなくしていてもほとんど同じように振る舞うのは、元々の気質によるものだろうか。生まれ育った家で酷い扱いを受けていたはずなのに、どうしてこんなに優しい人になれたのだろう。
以前から時々、どこまでも美しい彼と自分ほどの人間が一緒にいていいのかわからなくなってしまうことがあった。確かに交際を始めたのは彼が告白してくれたのがきっかけではあったのだが、私の何をそこまで好きになってくれたのだろうか。私は彼のように美徳に満ちた人間なんかじゃなくて、お義兄さんたちが亡くなったときでさえも、陰りのある目で私を抱きしめる彼を心から愛おしく思うくらい、どうしようもなく醜くて。とても彼の横に立てるような人間じゃない。
――記憶のない今のうちに離れてしまおうかと考えてしまうのは、本当に彼のことを思ってのことか、恋人だった男に耐えかねた自分の醜悪な企みなのか、もはや私では判別をつけることはできなかった。
「ヒバナさん」
名前を呼ばれて我に返る。
「降りる駅だから、電車が止まるまでもう少しだけ掴まっていてほしい」
「…………はい」
無意識のうちに掴んでいた袖を離していたらしい。言われるがままに掴み直したところでブレーキがかかり始め、車内のバランスが乱れ始める。完全に止まる直前に少し彼へ寄りかかってしまったが、一切気にする様子はなく体勢を立て直すまで支えていてくれた。
熱のこもった重い空気から逃げるように電車から降りる。沈んだ心を隠すように彼と適当なことを話しながら歩を進め、駅から数分の美術館にようやく足を踏み入れた。家を出てからそこまで時間は経っていないはずなのに嫌な疲労感が頭を締めつけて思考回路を食い潰そうとしている。今はそこまで長くない入場待機列さえ苦痛で仕方がなかった。同じように入場を待っている来場者の会話を意味もなくいくつも拾ってしまって、増え続ける糸がどんどん縺れていく。
考えたところで解決しないのに、そういった物事ほど考えてしまうのはなんでだろう。考えているうちに関係のないことまで思考が分離して、でも解決しないからそれらが消えることはなくて、割り切れない割り算をいくつもいくつも永遠にやらされているような。
脳の容量を超えていそうなほどに膨れ続けるそれに内側から圧迫されているようで苦しい。これだって記憶と同じで質量なんてないはずなのに、なんでこんなにも辛くて、痛くて、気を抜くと頭が破裂してしまいそうで怖いのか。
「見終わったあと、近くのカフェにも付き合ってくれると嬉しい。それも込みでチェックされていたらしくて、デザートメニューが豊富だからあなたが喜ぶだろうとメモが残されてた」
「………………そう、ですか。それなら、はい、一緒に行きましょう」
ごちゃごちゃと散らかった頭から吐き出された言葉は自分でも驚くほど薄っぺらい響きしか持っていなかったが、唐突に話しかけられて戸惑いの空白ができたおかげで少し楽になった。
「本当は今日レポート提出日なんだけど」
「それと、来週の」
「この展示、あと一ヶ月やってるんだっけ」
「日曜日」
「見てる最中にお腹鳴っちゃうかも」
「映画のチケットが」
「間に合うの?」
「あったんだが」
「さっきケーキ食べたばかりでしょ」
「予定は空いてるかな」
「徹夜でギリいける」
楽には、なった気がしたのだけれど。
相変わらず周りの声が無遠慮に頭を掻き乱して、彼との会話に上手く集中できない。いつもはこんなことないのに、少しでも意識を外へ向けるとその分無駄な情報がなだれ込んでくる。言葉を理解できるだけ、話の内容を理解できてしまうだけに全て拾ってしまって気が変になりそうだ。早く、返事をしなきゃないのに。
「……えと、その、ちょっと……待ってください」
カガチさんなんて言ったっけ。来週の日曜日?
ちぎれた紙を繋ぎ合わせるみたいに記憶を思い返して、ようやく彼の発言を飲み込めた。自覚はなかったものの、それなりに疲れているらしい。明日は久々に一日家でのんびり過ごそうか。
「来週の日曜日、ですね。たぶん大丈夫だったと、」
「列、抜けるか」
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