桔梗の花を手折るとき

三浦イツキ

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堕落

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「ヒバナ、ココア飲む?」
「もう作っちゃってるみたいだから、もらう」
 部屋に充満する甘い香り。疑問形ではあったけれど、彼の真面目な視線は下に向いていて、また小鍋で手の込んだココアを作っていることは明白だった。粉を煎って牛乳を注いで蜂蜜を入れる、やけに美味しいいつものやつだ。
 やっぱりオープンキッチンの部屋を選んだのは正解だった。料理好きな彼が立つ姿を見るたびにしみじみと実感する。
「バレた?」
 楽しそうな笑い声を上げたキキョウはすぐに私と彼のマグカップに注いだココアを目の前に置いて隣に腰を下ろした。抱えていたクッションを一旦自分と肘置きの隙間に挟み込み、感謝を伝えてから遠慮なく熱いココアを一口飲む。指先が冷えていた体の芯にぽとりと火の玉を落とされたように温もりが広がって、蜂蜜の甘さが口に残った。
  一口飲んでカップから唇を離す。ほんの少しずつ口に含むようにしてはいたものの、微妙に舌先がぴりぴりと火傷を訴えていた。どうせ数時間で治るそれも、この熱々出来たてココアの醍醐味。何回か繰り返した後にテーブルに置くと、その手の甲をなぞるように彼の手が寄り添った。腕を辿って顔まで視線を移す。じっと私を見つめるブラウンの瞳と少しひそめた眉。
「ハグ、したい。いい?」
「いいよ。もちろん」
 ソファの上に正座して両手を広げる。片足を乗り上げた彼は長い腕を私の体に回して、私はというとすっかり触り心地の好いニットに埋もれてしまった。香水と彼の匂いが混ざった香りは何度も嗅ぎたくなるほどにかぐわしく、本能をくすぐる男の匂いを見つけると胸が高鳴る。こればかりは慣れないが、全てをひっくるめて私はこの匂いが好きだ。
 柔らかくて温かくて、頭を撫でてくれる手は優しい。こうして私を抱きしめるときの彼には何かしら理由があったりするのだが、なるべく自分から話すまで聞かないことにしている。それはただ単に創作活動に行き詰まったとか恋人に触れたくなったとかいうときだけじゃなくて、過去のトラウマに苛まれているときや漠然とした不安に怯えているときもあるから。ただ抱きしめて、彼が満足して離れられるまで待っている。
「僕さ、ヒバナが好きだよ」
 静かにかさついた声は耳に近く、背筋を駆け登るくすぐったさがある。逃げようとしても後頭部を支えるかのように添えられた大きな手に阻まれて身動きが取れない。普段優しい彼がこういうときにだけちょっぴり覗かせる執着も、私にとってはこの上なく甘美で嬉しいものだった。
「その短い髪も、つり目も、白い首も、ちっちゃい口も好き。僕の体にすっぽり収まっちゃうのもすごく好き。好きだよ」
「どうしたの、急に」
 突拍子もない話をする彼の背中をさすりながらからかうように笑うが、腕が緩まることはない。少しも照れることなくこういうことを言うのは珍しくないし、こっちが恥ずかしい以外は特に問題もないからいいのだけれど、毎回私は海外のすごく大きな犬を思い出す。ああいう犬を飼ったとして、散歩中に走り出されたら私はきっと制御できずに引き摺られてしまうんだろうなー、とか考える。
「今度さ、舞台観に行こうよ。再来月にチケットはもうあるんだけれど、海外の小説が元になってるやつ。きみ、きっと気に入るよ。後で日にち確認するから、バイト入れないでほしいんだ」
 また取ったんだ。まだまだ消化してないチケット、舞台も展覧会も映画もいっぱいあるのに。あんなに手帳に挟み込んでいてもまだ足りないのだろうか。足りないのだろう。芸術に生かされてるような人だから。美しいものを見れば見るほど彼は輝く。そういう人だ。
 あぁそういえば。あの大量の紙束を見せて、一緒に使おうって言っていたっけ、彼。
「カガチさんは?」
 彼の姿が見当たらないけれど、まだ部屋にいるのだろうか。
 抱きしめる力が強くなる。腰を抱いていた腕は腹と腹をもっとくっつけるように、頭に添えられた手は決して私が彼の胸から離れないように。微かに少し速まった心臓の音が響いている。そこに、震えを押さえ込んだ彼の声。
「僕といるのに、兄さんの話はしないで」
 彼は双子の兄のことを良く思っていない。なんで忘れてしまっていたのだろう。ごめん、とこもった声で謝ると、返事の代わりに少しだけ指先で髪を梳かれる。不快な思いをさせてしまった罪悪感で、縋るように大きな体を抱きしめた。どうか嫌わないで。
 正直、カガチさんを嫌う理由はよくわからない。キキョウとよく似た顔だけれど大人っぽく落ち着いていて、それでいてよく笑う人。良い人だと思うし、少なくとも私には汚点などひとつも見当たらない。明確に明かさないということは話したくない、話せないことがあるのかもしれないが、私の接触を禁じてはいないのだからとりあえず悪人ではないと思う。人の道を外れているなんてことがあれば、きっと一緒に暮らしたりなんかはしないだろうから。
 でも、一緒に暮らすのにも理由が必要なわけで。未だに私はなぜ彼がこの家で生活しているのか知らない。
「……ココア、冷めちゃうね」
 するりと拘束が解け、名残惜しそうにゆっくり温もりが離れた。端正な顔は深く沈んでおり、長い睫毛が明るい瞳に影を落として曇らせた様には物悲しい色香すら感じてしまう。濡れているんじゃないかと疑ってしまうくらい。
 いつもこうだ。まだ気持ちは晴れていないくせに、満足していないくせに自ら私を手放す。諦めがいいようには見えず、優しいというには後味が悪い。彼の中に越えられない一線があるのか、欲や怒りをぶつけることもせずに抱え込む。私が嫌と言ったことはしないし、出先の不機嫌を家に持ち込まない。よく出来た人と言ってしまえばそれまでだが、彼が自分の感情を押し込めることに慣れていることが私には悲しくて仕方がない。
 私はそれらを受け止める資格すらないのだろうか。
「キキョウ」
 身を乗り出して彼の頬を両の手のひらで包んだ。なぜだか、こんなに近くでこの顔を見るのはひどく久しぶりな気がする。
「私、どんなあなたでも嫌いにならないよ。怒りもぶつけてほしいし愚痴だって聞きたい。あなたにこれ以上我慢してほしくない」
 これはただのエゴだ。本来ならば口にすべきじゃない。わかっていながら、そっと、
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