桔梗の花を手折るとき

三浦イツキ

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堕落

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 じんわり熱のこもった瞼を押し上げた。夢、夢だ。今のは。
 キキョウはいないし、この家にキキョウとカガチさんがひとつずつ部屋を持っていたりしないし、そもそもふたりは兄弟じゃない。ぼやけた記憶しか残っていないけれど、確かな矛盾だけは覚えている。この矛盾が夢の面白いところだ。全く現実と同じでは気が滅入る。
 久しぶりに彼を見た。彼の声を聞いた。
 元々夢を見ない、あるいは毎夜見ているはずだけれど覚えていないだけなんて言われることもあるが、とにかく私がハッキリとした夢を見るのは一ヶ月に一度あるかないかで、彼の夢を毎日のように見るなんてドラマチックなことは一切起こらなかった。彼がいなくなってから今回が初めてだったと思う。薄情、なのだろうか。私。
 久しぶりに緩く首を絞められているような心地がする。ずっしり重い鈍痛が頭から首を伝って背骨を痺れさせる。あの、最後のひとこと。
 戸を叩く固い音に肩が跳ねた。
 誰が叩いたかなんてことはほとんどわかりきっていたから、体を引き摺って上体を起こす。起き上がることもできないなんて思われては癪だ。
「起きてるか」
「はい」
「入っても、いいだろうか」
「どうぞ」
 鼻声を聞かせたくなくてぶっきらぼうな返事になってしまった。つい部屋に入ることを許可してしまったが、今どんな顔で会えばいいのだろう。こんなことならこの家に暮らし始めて一度も働いたことのない、部屋の鍵とかいう存在に役立ってもらうんだった。
 キキョウが戸を叩いてくれたのならどんなに良かったか。恥だって何度も共有した仲だ。弱った姿だって見せられるし、つい甘えてしまったとしても許される。今の彼にそんなことはできない。
「体調はどうかな。熱は?」
 期待に反して、夢と同じようで違う彼が顔を覗かせた。マスクをしている。配慮に感謝しつつ体温計を脇に挟み込んだ。体感では少し上がったように思うが、どうだろう。
「食欲は……なさそうだ」
 表情から察したらしい。ドアストッパーのように挟まれていた足をひとつ進め、彼は部屋の中へ入ると戸を閉めた。片手にビニール袋をぶら下げていて、少し動くたびにがさがさと音を立てるそれが沈黙を和らげてくれている。
「さっきも声をかけたんだが、反応がなかったものだから買い物に行ってきた。飲み物はこれで良かったかな。中に食べられそうなものはあるか?」
 風邪をひいたときいつも飲んでいるスポーツドリンクを受け取り広げられた袋の中身を覗くと、レトルトのお粥やうどん、フルーツゼリーなどが入っている。私の好きな柑橘系のゼリーを中心に選ばれているようだが、なぜ知っているのだろう。例えばこれらを直感で選んだものとして、彼に自覚がないとしてもキキョウの欠片が残っているのであればどんなに救われることか。
 無機質な電子音で体温計を抜くが熱はほとんど変わらない。心配そうに顔をしかめられると、ここぞとばかりに寂しさを訴える胸がうるさくなってしまう。それを誤魔化すようにみかんのゼリーをひとつ手に取った。スポーツドリンクのお礼も伝えると目元が柔らかく笑っていて、以前からマスクをしていても笑顔が溢れていた彼の顔を思い出す。
「スプーン持ってくる。薬も持ってくるから、少しだけ待っていてくれ」
 一分も間を開けずに戻ってきた彼は甲斐甲斐しくサイドテーブルを動かし、ほとんど姿勢を変えずに食事を終えられるよう環境を整えてくれた。木目が気に入って買ったと聞いていたお盆にスプーンとコップ一杯の水、一回分のミシン目で切り取られた風邪薬二錠と冷却シートの袋を乗せ、ゼリーを食べ終えて薬をちゃんと飲むまで見届けてからゴミを持って出ていった。なんでこういうところまでそっくりなんだろう。
 再びベッドに潜ると、先程の夢が蘇ってくる。
 あぁそうだ。あのひとこと。あれは言うべきじゃなかった。だから、意気地のない私は言えなかった。ただの一度も。
 美しい人に毒を飲ませることが、どうしてもできなかった。
 夢の中の彼はどんな顔をしていただろう。当てにはならないけれど、愚かな言葉を許してくれたのだろうか。許してくれたとして、私が欲していたものをそれから伝えてくれるようになったとして、もうそれを現実にできるのはいつになるかわからないのだけれど。
 喧嘩がしたいわけじゃない。でも、友達が恋人と喧嘩をした仲直りをしたって話は羨ましかった。それが世の普通ってものみたいで、滅多に怒らない恋人の話をすると、まるで菩薩だと友人たちから褒め称えられたものだ。
 ――だから、人の身まで引きずり下ろしたくなってしまって。
 壁掛け時計の秒針の音が耳障りだ。皮膚が敏感になっているのか、服の繊維の感触がいやに気になる。汗をかいた足元に熱がこもっているのが不快で、ひんやりとした場所へ移せば今度は寒気がする。冷たいうちはいいものの、温くなった冷却シートが額に貼りついていると剥がしてしまいたくて堪らない。鼻水とともに熱のこもった鼻が苦しい。
 もう一度寝てしまおうか。起きていても些細なことが気になるばかりか、自分の嫌いな部分を鑑賞することくらいしか暇を紛らわせるものがない。寝てしまえばその時間は何も考えなくていいわけだし。
 冷たいスポーツドリンクを飲み、時計を見上げると正午を少し過ぎた頃。できれば明日には熱だけでも下がってほしい。どっちにしろ大学は休むことになるけれど、熱があるといろいろ良くない。
 認めたくはなかったが自覚はしている。筋や血管の浮いた手に惹き付けられる視線、頼り甲斐のある大きな体に伸びようとする腕。体調不良が故の心細さとあの夢で、どうしようもなく彼の温もりを求めてしまっている。あの幸せに満ちた抱擁。彼の匂い。ふとした弾みにやらかしてしまいそうで怖い。
 怠い体を横にして目を閉じる。泥よりも深く、鉛よりも重く眠ってしまえばいい。薬が現実をぼやけさせてくれるまで。ふざけた思考を消し去ってくれるまで。
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