桔梗の花を手折るとき

三浦イツキ

文字の大きさ
14 / 30
堕落

4

しおりを挟む
 二人分の体温で温まったベッドの温度。ドライヤーまで丁寧にかけられた髪を丁寧に梳く指先の感触。私はこの時間が好きだ。時間という概念すらどろどろに溶け出してあやふやになっているようなこの時間が。まるでダリが描いた時計みたい。あの絵のタイトルはなんだったか。何だかの固執? 何に固執しているというのだろう。
「……かわいいね、きみ」
 ぼんやりと私を眺めながら、彼はそんなことをかさついた声で呟いた。指先が耳の縁を掠める。賛辞の声を受け止めるたびに気恥ずかしくなってしまうが、こんなことを言うのもいつものことだ。ただ、ベッドの中では少し数が多くなるってだけ。
「おかげさまで。あなたも、かわいいよ」
「僕も? ……ふふ、おかげさまで、ね」
 ぎしりと軋んだ音の後に、額へ柔らかいキスが降ってきた。愛に満ちたそれは少しくすぐったい。
 それぞれの部屋にそれぞれのベッドはあるものの、いつの間にかタイミングさえ合えば二人で眠るようになっていた。元々彼のベッドは身長に合わせて大きめだったし、どうせならということで横幅もかなり広いベッドを買っていた過去の彼には感謝しかない。二人でベッドに入ると寝つけずに悶々とすることもなく、朝のアラームが鳴るまで起きることもないのだ。びっくりするほど安眠効果抜群でできれば毎日こうしたいのだが、元々夜型な彼と朝から授業のある私ではそうもいかない。
「朝ごはん、トーストでいい? ハムとかチーズもあるし、ジャムもあるよ。和食がいいなら今から仕込んでくるけど」
「普通のトーストで十分だから、今はここにいてほしいかな」
「そう。なら、かわいい僕はきみの隣でぐっすりだ」
 つい笑ってしまい、髪がぐしゃぐしゃになるほど撫で回された。私の悲鳴を気にもとめず、顔までもみくちゃにしながら何度も唇で啄んでくる。防御を諦めて手を伸ばし、全く同じように彼の頭を愛でてやるとようやく彼も笑い転げるように隣へ崩れ落ちた。可愛い、可愛い人だ。
「かわいい、ねぇ」
「……かわいいでしょ、僕。…………いつまで笑うの、ヒバナちゃん」
 あぁ愛おしい。また頭を撫でようとする手を捕まえて頬を擦り寄せる。少し硬い皮膚、丸っこい深爪、節の目立つ長い指。この手ばかりは可愛くないと言おうとして踏みとどまった。拗ねるから。
 手のひらに唇で触れたり指を絡めてみたり、好きなだけ遊び尽くそうとする私を困ったように眉を下げた微笑で見守る彼。まだ寝ないの、とでも言いたげだ。いつも思うが、いつ寝ていつ起きてるのかわからないような生活を送っている彼に言われるようなことではない。現に彼は一切眠くなさそうだし。こちらからすれば『今日は日がどれくらい出てから寝る予定?』とでも聞きたい。
「かわいいあなたが一緒に寝てくれるなら、なんでも言うこと聞いちゃいそう」
 あるいはこう言ってみれば、寝てくれるのだろうか。
「……どこでそんなの覚えたの?」
「ないしょ」
 はぐらかすように笑ってみれば、指先が頬をなぞって耳を辿っていく。二本指で挟まれた薄い耳朶には、彼に頼んで開けてもらった十六ゲージの小さな穴がひとつ。
「もういっぱい好きなことさせてもらってるけどなぁ」
 ぼんやり呟くとまた眉を下げた。
「ピアッサーで穴開けたとか、お義父さんに知られたら殴り飛ばされそうだよ……」
「そんなことしないよ。私もう成人してるし、頼んだの私だし」
「いやあ……娘がいる父親ってそういうもんじゃないかな、たぶん」
 じゃあ、言うこと聞かなくてもいい?
 笑いながら聞いてみると、少しだけ目を逸らして唇を引き結んだ。欲しいって顔。堪えきれずに小さく笑いながら彼が口を開くのを待っていると、意を決したように揺れる瞳が私の元に戻ってきた。
「……欲張ってもいい?」
「いいよ。なんでも」
「じゃあ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」 公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。 政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。 しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。 「好きな人がいる。……片想いなんだ」 名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。

うわさの行方

下沢翠花(しもざわすいか)
恋愛
まだ十歳で結婚したセシリア。 すぐに戦場へ行ってしまった夫のニールスは優しい人だった。 戦場から帰るまでは。 三年ぶりにあったニールスは、なぜかセシリアを遠ざける。 ニールスの素っ気ない態度に傷つき疲弊していくセシリアは謂れのない酷い噂に追い詰められて行く。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

優しい雨が降る夜は

葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン 無自覚にモテる地味子に 余裕もなく翻弄されるイケメン 二人の恋は一筋縄ではいかなくて…… 雨降る夜に心に届いた 優しい恋の物語 ⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡ 風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格 雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました

ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。 ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。 王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。 そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。 「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。

処理中です...