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堕落
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「僕のこと、忘れないで」
飛び起きるように体を起こした。手を着いたシーツは彼のベッドのものじゃない。ここは彼の部屋じゃなくて私の部屋だ。全力で走り回った後のようにばくばくと気持ち悪いほど心臓が叫んでいる。不快な汗が全身を覆っていて、追い打ちをかけるようにどろりと血が流れるなんとも言えない嫌な感覚。温くなったスポーツドリンクを喉に流し込んで、深く呼吸を繰り返した。
一回。鼓動が内臓を殴っているような気持ち悪さだ。
二回。高いのか低いのかわからない耳鳴りがする。
三回。冷えた汗で寒気が背筋を駆け上がった。
夢にしては彼のひとことがしっかりと耳に残っている。まるでさっきまで隣にいて、耳元で囁いた直後に空気へ溶けてしまったみたいだ。しかもよりにもよってあんな場面を見るなんて。一番恋人らしい瞬間を思い出してしまっては、恋人としての彼が欲しくて堪らなくなる。
夢の中の自分が、キキョウに愛されている自分が心の底から憎い。私だって彼に甘えたい。頭を撫でられて額にキスを贈られたい。柔らかい髪をぐしゃぐしゃに乱したい。ずるい、ずるい。指を絡めて手を繋いで、あの体温を感じながら眠りにつきたい。朝起きたらいの一番に彼におはようって言いたい。なんで、なんで、なんで。
なんで、いないの?
滲んだ涙をパジャマの袖で拭う。最近は平気になってきたのに、受け入れられたと思っていたのに、少しでも心が弱くなれば潰れてしまうくらいには傷が残っていたのだと自覚した。彼がくれた鎮痛剤に代わるものなどない。ただ目が眩んでいただけで、その傷口は今も生々しく血を流していた。一度流れてしまえばなかなか止まらず、サイドテーブルからティッシュを箱ごと引き寄せて目や鼻を何度も拭う。寂しい。いっそ夢の中に引きこもってしまいたい。永遠に騙してくれるなら、ずっと一緒にいてくれるのならこんな現実捨てたって構いやしないのに。
ふと悪魔のような考えが浮かんだ。
駄目だ、こんなこと。必死に引き止める理性をよそに寂しさに震える体はベッドを抜け出し、駄目だと思えば思うほど先へ先へと足を進めていく。冷えきったフローリングはスリッパを履き忘れた熱っぽい足には心地好い。この家の廊下がもっともっと長ければ歩いているうちに冷静にもなるのだろうが、悲しいことにこの廊下は十秒あればどこまでも容易に移動できてしまうのだ。
リビングに続く戸を開けるとちょうど顔を上げた彼の目と視線がかち合う。病人がわざわざマスクをしてまで出てきたということは用があるのだと察したか、手にしていた本を閉じてテーブルに置いて立ち上がろうとするのを慌てて制した。
「まって」
掠れている。マスクを震わすことすらできなかった声は少し気を抜けば聞き漏らしてしまいそうだったが、彼は不自然な体勢のまま固まった。次に私が何を言うのか聞き漏らさないようにしてるのか何も言わない。それを良いことに一歩一歩距離を詰めてすぐ目の前まで辿り着き、ソファに座り直した彼を見下ろす。
言葉が出てこない。当たり前だ。いくら言葉を重ねて繕おうとしても底にある醜悪な思考を隠せる布になんてなるはずもないのに、どうしたって彼には嫌われたくなかった。キキョウに嫌われたくないのか、カガチさんに嫌われたくないのかはもう自分ではわからないのだけれど。
沈黙が耳を貫いて、背中を嫌な冷たい汗が伝い落ちた。いっそ部屋に戻ってしまえればいい。固く根を貼った足を無理やり後ろに引きずって、他人を恋人の代わりにするなんて侮辱的な行為を犯す前に、熱で浮かされた女の奇行として許されるうちに、自分の部屋に戻って冷たい布団の中で震えられればその方がずっと健全だ。
ぐ、となんとか足を動かそうと踵に力を入れた瞬間、あろうことか目の前の男は長い腕を広げた。
「…………は……?」
ほとんど空気のような音が漏れる。
「……風邪のときは、寂しくなるものなんだろう? 俺で良ければ」
素直に甘えてしまって良いものか。
考えはしたものの、思考を追い越した体は結論を出す前にその腕の中へ忍び込む。温かい。そっと遠慮がちに、しかし確かに抱かれて体から力が抜ける。気を遣っているのか何も言わない彼の心拍を聴きながら熱い瞼を閉じて体重を預けた。鼻が詰まっていなければ、キキョウお気に入りのムスクとベルガモットの香水が香っていたかもしれない。
ふと夢と現の間で聞いた声を思い出す。
大丈夫、忘れてなんかいない。私がここまで気を許しているのは他でもないあなたの体だからであって、あなたではない彼に心を寄せているわけではない。そうじゃなきゃ、弱った姿を見せていることに気恥しさを感じたりはしないし、抱きしめる腕の強さや声もなく繰り返される呼吸に奇妙な違和感を覚えたりはしないだろう。あなたが私を腕の中に閉じこめてしまうときは、ぎゅっと強く抱いて優しく頭を撫でて、静かな声でいろいろなことを話してくれる。忘れてない。忘れられない。忘れたくない。
今この場で私を抱いているのは、あなたじゃない。
飛び起きるように体を起こした。手を着いたシーツは彼のベッドのものじゃない。ここは彼の部屋じゃなくて私の部屋だ。全力で走り回った後のようにばくばくと気持ち悪いほど心臓が叫んでいる。不快な汗が全身を覆っていて、追い打ちをかけるようにどろりと血が流れるなんとも言えない嫌な感覚。温くなったスポーツドリンクを喉に流し込んで、深く呼吸を繰り返した。
一回。鼓動が内臓を殴っているような気持ち悪さだ。
二回。高いのか低いのかわからない耳鳴りがする。
三回。冷えた汗で寒気が背筋を駆け上がった。
夢にしては彼のひとことがしっかりと耳に残っている。まるでさっきまで隣にいて、耳元で囁いた直後に空気へ溶けてしまったみたいだ。しかもよりにもよってあんな場面を見るなんて。一番恋人らしい瞬間を思い出してしまっては、恋人としての彼が欲しくて堪らなくなる。
夢の中の自分が、キキョウに愛されている自分が心の底から憎い。私だって彼に甘えたい。頭を撫でられて額にキスを贈られたい。柔らかい髪をぐしゃぐしゃに乱したい。ずるい、ずるい。指を絡めて手を繋いで、あの体温を感じながら眠りにつきたい。朝起きたらいの一番に彼におはようって言いたい。なんで、なんで、なんで。
なんで、いないの?
滲んだ涙をパジャマの袖で拭う。最近は平気になってきたのに、受け入れられたと思っていたのに、少しでも心が弱くなれば潰れてしまうくらいには傷が残っていたのだと自覚した。彼がくれた鎮痛剤に代わるものなどない。ただ目が眩んでいただけで、その傷口は今も生々しく血を流していた。一度流れてしまえばなかなか止まらず、サイドテーブルからティッシュを箱ごと引き寄せて目や鼻を何度も拭う。寂しい。いっそ夢の中に引きこもってしまいたい。永遠に騙してくれるなら、ずっと一緒にいてくれるのならこんな現実捨てたって構いやしないのに。
ふと悪魔のような考えが浮かんだ。
駄目だ、こんなこと。必死に引き止める理性をよそに寂しさに震える体はベッドを抜け出し、駄目だと思えば思うほど先へ先へと足を進めていく。冷えきったフローリングはスリッパを履き忘れた熱っぽい足には心地好い。この家の廊下がもっともっと長ければ歩いているうちに冷静にもなるのだろうが、悲しいことにこの廊下は十秒あればどこまでも容易に移動できてしまうのだ。
リビングに続く戸を開けるとちょうど顔を上げた彼の目と視線がかち合う。病人がわざわざマスクをしてまで出てきたということは用があるのだと察したか、手にしていた本を閉じてテーブルに置いて立ち上がろうとするのを慌てて制した。
「まって」
掠れている。マスクを震わすことすらできなかった声は少し気を抜けば聞き漏らしてしまいそうだったが、彼は不自然な体勢のまま固まった。次に私が何を言うのか聞き漏らさないようにしてるのか何も言わない。それを良いことに一歩一歩距離を詰めてすぐ目の前まで辿り着き、ソファに座り直した彼を見下ろす。
言葉が出てこない。当たり前だ。いくら言葉を重ねて繕おうとしても底にある醜悪な思考を隠せる布になんてなるはずもないのに、どうしたって彼には嫌われたくなかった。キキョウに嫌われたくないのか、カガチさんに嫌われたくないのかはもう自分ではわからないのだけれど。
沈黙が耳を貫いて、背中を嫌な冷たい汗が伝い落ちた。いっそ部屋に戻ってしまえればいい。固く根を貼った足を無理やり後ろに引きずって、他人を恋人の代わりにするなんて侮辱的な行為を犯す前に、熱で浮かされた女の奇行として許されるうちに、自分の部屋に戻って冷たい布団の中で震えられればその方がずっと健全だ。
ぐ、となんとか足を動かそうと踵に力を入れた瞬間、あろうことか目の前の男は長い腕を広げた。
「…………は……?」
ほとんど空気のような音が漏れる。
「……風邪のときは、寂しくなるものなんだろう? 俺で良ければ」
素直に甘えてしまって良いものか。
考えはしたものの、思考を追い越した体は結論を出す前にその腕の中へ忍び込む。温かい。そっと遠慮がちに、しかし確かに抱かれて体から力が抜ける。気を遣っているのか何も言わない彼の心拍を聴きながら熱い瞼を閉じて体重を預けた。鼻が詰まっていなければ、キキョウお気に入りのムスクとベルガモットの香水が香っていたかもしれない。
ふと夢と現の間で聞いた声を思い出す。
大丈夫、忘れてなんかいない。私がここまで気を許しているのは他でもないあなたの体だからであって、あなたではない彼に心を寄せているわけではない。そうじゃなきゃ、弱った姿を見せていることに気恥しさを感じたりはしないし、抱きしめる腕の強さや声もなく繰り返される呼吸に奇妙な違和感を覚えたりはしないだろう。あなたが私を腕の中に閉じこめてしまうときは、ぎゅっと強く抱いて優しく頭を撫でて、静かな声でいろいろなことを話してくれる。忘れてない。忘れられない。忘れたくない。
今この場で私を抱いているのは、あなたじゃない。
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