桔梗の花を手折るとき

三浦イツキ

文字の大きさ
15 / 30
堕落

5

しおりを挟む
「僕のこと、忘れないで」
 飛び起きるように体を起こした。手を着いたシーツは彼のベッドのものじゃない。ここは彼の部屋じゃなくて私の部屋だ。全力で走り回った後のようにばくばくと気持ち悪いほど心臓が叫んでいる。不快な汗が全身を覆っていて、追い打ちをかけるようにどろりと血が流れるなんとも言えない嫌な感覚。温くなったスポーツドリンクを喉に流し込んで、深く呼吸を繰り返した。
 一回。鼓動が内臓を殴っているような気持ち悪さだ。
 二回。高いのか低いのかわからない耳鳴りがする。
 三回。冷えた汗で寒気が背筋を駆け上がった。
 夢にしては彼のひとことがしっかりと耳に残っている。まるでさっきまで隣にいて、耳元で囁いた直後に空気へ溶けてしまったみたいだ。しかもよりにもよってあんな場面を見るなんて。一番恋人らしい瞬間を思い出してしまっては、恋人としての彼が欲しくて堪らなくなる。
 夢の中の自分が、キキョウに愛されている自分が心の底から憎い。私だって彼に甘えたい。頭を撫でられて額にキスを贈られたい。柔らかい髪をぐしゃぐしゃに乱したい。ずるい、ずるい。指を絡めて手を繋いで、あの体温を感じながら眠りにつきたい。朝起きたらいの一番に彼におはようって言いたい。なんで、なんで、なんで。
 なんで、いないの?
 滲んだ涙をパジャマの袖で拭う。最近は平気になってきたのに、受け入れられたと思っていたのに、少しでも心が弱くなれば潰れてしまうくらいには傷が残っていたのだと自覚した。彼がくれた鎮痛剤に代わるものなどない。ただ目が眩んでいただけで、その傷口は今も生々しく血を流していた。一度流れてしまえばなかなか止まらず、サイドテーブルからティッシュを箱ごと引き寄せて目や鼻を何度も拭う。寂しい。いっそ夢の中に引きこもってしまいたい。永遠に騙してくれるなら、ずっと一緒にいてくれるのならこんな現実捨てたって構いやしないのに。
 ふと悪魔のような考えが浮かんだ。
 駄目だ、こんなこと。必死に引き止める理性をよそに寂しさに震える体はベッドを抜け出し、駄目だと思えば思うほど先へ先へと足を進めていく。冷えきったフローリングはスリッパを履き忘れた熱っぽい足には心地好い。この家の廊下がもっともっと長ければ歩いているうちに冷静にもなるのだろうが、悲しいことにこの廊下は十秒あればどこまでも容易に移動できてしまうのだ。
 リビングに続く戸を開けるとちょうど顔を上げた彼の目と視線がかち合う。病人がわざわざマスクをしてまで出てきたということは用があるのだと察したか、手にしていた本を閉じてテーブルに置いて立ち上がろうとするのを慌てて制した。
「まって」
 掠れている。マスクを震わすことすらできなかった声は少し気を抜けば聞き漏らしてしまいそうだったが、彼は不自然な体勢のまま固まった。次に私が何を言うのか聞き漏らさないようにしてるのか何も言わない。それを良いことに一歩一歩距離を詰めてすぐ目の前まで辿り着き、ソファに座り直した彼を見下ろす。
 言葉が出てこない。当たり前だ。いくら言葉を重ねて繕おうとしても底にある醜悪な思考を隠せる布になんてなるはずもないのに、どうしたって彼には嫌われたくなかった。キキョウに嫌われたくないのか、カガチさんに嫌われたくないのかはもう自分ではわからないのだけれど。
 沈黙が耳を貫いて、背中を嫌な冷たい汗が伝い落ちた。いっそ部屋に戻ってしまえればいい。固く根を貼った足を無理やり後ろに引きずって、他人を恋人の代わりにするなんて侮辱的な行為を犯す前に、熱で浮かされた女の奇行として許されるうちに、自分の部屋に戻って冷たい布団の中で震えられればその方がずっと健全だ。
 ぐ、となんとか足を動かそうと踵に力を入れた瞬間、あろうことか目の前の男は長い腕を広げた。
「…………は……?」
 ほとんど空気のような音が漏れる。
「……風邪のときは、寂しくなるものなんだろう? 俺で良ければ」
 素直に甘えてしまって良いものか。
 考えはしたものの、思考を追い越した体は結論を出す前にその腕の中へ忍び込む。温かい。そっと遠慮がちに、しかし確かに抱かれて体から力が抜ける。気を遣っているのか何も言わない彼の心拍を聴きながら熱い瞼を閉じて体重を預けた。鼻が詰まっていなければ、キキョウお気に入りのムスクとベルガモットの香水が香っていたかもしれない。
 ふと夢と現の間で聞いた声を思い出す。
 大丈夫、忘れてなんかいない。私がここまで気を許しているのは他でもないあなたの体だからであって、あなたではない彼に心を寄せているわけではない。そうじゃなきゃ、弱った姿を見せていることに気恥しさを感じたりはしないし、抱きしめる腕の強さや声もなく繰り返される呼吸に奇妙な違和感を覚えたりはしないだろう。あなたが私を腕の中に閉じこめてしまうときは、ぎゅっと強く抱いて優しく頭を撫でて、静かな声でいろいろなことを話してくれる。忘れてない。忘れられない。忘れたくない。
 今この場で私を抱いているのは、あなたじゃない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」 公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。 政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。 しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。 「好きな人がいる。……片想いなんだ」 名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。

うわさの行方

下沢翠花(しもざわすいか)
恋愛
まだ十歳で結婚したセシリア。 すぐに戦場へ行ってしまった夫のニールスは優しい人だった。 戦場から帰るまでは。 三年ぶりにあったニールスは、なぜかセシリアを遠ざける。 ニールスの素っ気ない態度に傷つき疲弊していくセシリアは謂れのない酷い噂に追い詰められて行く。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

優しい雨が降る夜は

葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン 無自覚にモテる地味子に 余裕もなく翻弄されるイケメン 二人の恋は一筋縄ではいかなくて…… 雨降る夜に心に届いた 優しい恋の物語 ⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡ 風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格 雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました

ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。 ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。 王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。 そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。 「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。

処理中です...