桔梗の花を手折るとき

三浦イツキ

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堕落

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「……体調は大丈夫かな。無理して話さなくていいから、好きなだけいると良い」
 ぽつりぽつりと彼は語り始めた。日記を読んでいくうちに空白の記憶が少しずつ記録としてだが補完されることに安心感を覚えていること、自分の体が書いたはずなのに全く新鮮な気持ちでキキョウの本を楽しめたこと、一緒に観に行った映画が配信されるからまた観たいと思っていること。普段の彼よりずっと多くを語る。
 少しぎこちなく後頭部に添えられた手は時折髪を梳きながら頭蓋骨の曲線を撫で、うなじへ辿り着くとまた上へ戻り同じ動作を繰り返した。
 それらはまるで、かつての彼のようで。
 ざわざわと騒ぎ始める胸の内を自覚した瞬間にその腕から抜け出すべきだったのに、それができなかった。あまりにも温かかったものだから。
 なんで、この人を好きになっちゃいけないんだっけ。
 キキョウじゃないから? でも、体は正真正銘彼のものだ。声も、体温も、頭を撫でてくれる手も、全て彼のもの。記憶がないだけ。なんで、人格とか記憶だとか、目に見えないものをここまで気にして押し潰されそうにならなきゃいけないんだろう。記憶が戻ったら大好きな彼に戻るのだ。なら、今も好きなままでいることは罪じゃないのではないだろうか。記憶があろうとなかろうと彼は彼なのだから。
 記憶をなくして抜け殻のようになったとき、私があんな態度をとらなければこんなに苦しくなることはなかったのだと今になって後悔で溺れている。拒絶することなくちゃんと言葉を交わして、空白の世界でひとりぼっちの彼に寄り添えていれば。恋人としてのスキンシップはなくとも、名前をつけてまで区別をしなければこんな地獄に堕ちることもなかっただろうと考えてしまう。
 たまに真澄さんから近況を尋ねるメッセージが届くが、私は上手く返信できていない。彼女のあのアドバイスが悪かったなんて浅ましいことは言わないが、この心境を吐き出してしまえば優しい彼女は気にしてしまうだろう。私はこの迷宮に自分で立ち向かわなければいけない。
「何か温かい飲み物でも飲まないか?」
 迷った末に小さく頷いた。後ろ髪を引かれながら体を離し、気恥しさを誤魔化してすぐ隣に座る。入れ替わりに立ち上がった彼は羽織っていたカーディガンを私の肩にかけてキッチンへ向かってしまった。
 薄ら何かぼんやりした情景を思い出しかけながら、目を伏して手元を動かす彼を眺める。理性のタガを病魔に外されてしまったようで、普段は考えることすら控えていたような物事が頭の中をぐるぐると巡っていた。恋人とまでは望まないが、もう少し、彼に甘えられるくらいには関係を深められたらと。――全て彼さえ良ければの話だ。二人で出かけたりしているし先程も受け入れてくれたのだから少なくとも嫌われてはいないとは思うが、いまいち何を考えているか読めないものだからどうしたって不安になってしまう。できる限り嫌がることはしたくないというのは傲慢だろうか。
 思えば、随分昔に限界は迎えていたのだろう。彼の体温を感じた瞬間に悟った。私は飢えていたのだ。空腹も感じ取れなくなくなるほどに。そして、一度腹が満たされる感覚を思い出してしまうともう耐えられない。薄情な私を置いて出て行ってしまってもおかしくない彼を何としてでもこの家に縛りつけていたいと願うほど。
 ふと汚泥のような独占欲に気がつくと背筋が冷えた。嫌悪していたはずの彼の家族のような獣に成り果てているような気がして。
「ヒバナさん、できたよ」
 いつの間にか彼は私のマグカップとともに戻ってきていた。甘い香りは感じ取れなかったが、テーブルに置かれたブラウンで満たされたカップを覗き込んだ瞬間に心臓がぎゅうと縮こまる。
「……あなたはこれが好きだって知ったから。蜂蜜も入ってる。少しは楽になるかもしれない」
 口に含んだ熱々のハニーココア。隣に腰を下ろして柔らかく微笑むカガチさん。
 胸の内に、火の玉がぽとりと落ちたような心地がした。
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