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夢から醒める
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私はなんて醜いのだろう。傲慢で気の狂った女。彼を愛したり突き放したり、かと思えば彼とは違う彼に恋をしたり、その本性に怯えつつも心を離すことはできなかったり。私の方がずっと捻れ曲がって矛盾に塗れた一貫性のない人間なのだから、彼の矛盾を責める権利は私にはないのだと思う。そして、今後を決める権利もないとも。
「……なに」
彼の指が頬に触れる。少し固い男の指。私が振り払わないと見ると、ゆっくりと頬骨の上を通って手のひらが私の輪郭を覆った。かさついていて温かい。
「…………ここに、残る気は?」
ぎしり、と軋む音が響いた。彼がもう片方の手をベッドに着き体重を預けた音だ。体がこちらに傾いた分顔が近づいて、嗅ぎなれた香水の匂いが届く。長い睫毛に囲まれた目はただただ私を見つめていた。
「お前は人殺しだろうと変わらず愛した女だ。中身が変わったくらいで恋人の体を手放せるとは思えない。……決定権をやったのに何も言わないということは、俺に今後を委ねてくれるのか?」
――小さく首を下ろした。私にはもう、何かを考えられるほどの気力は残っていないのだ。疲れた。疲れてしまった。真面目に考えることに。せめて最後に彼の望みを叶えることがキキョウへの罪滅ぼしになる気がしている。すぐにこの家を出て行けと言われても、ここに残って永遠に召使いのように奉仕しろと言われても、それでいいのかもしれない。もはや戻る道などないのだから。
そう、愛する恋人は死んだ。本当の自分を最後まで私に見せることなく、知ることを私に許さずに死んだ。知ることすらできないというのはこんなに寂しく苦しいことだなんて、初めて知った。
「……そうか、はは、そうか」
彼の手が輪郭を辿って首を撫でる。記憶に新しい息苦しさが蘇るが私は動かなかった。シャツの隙間に忍び込んだ長い指は鎖骨をなぞり、体温を確かめるように少しづつ移動しながら肌をくすぐる。
「今の俺に触れられるのは嫌か?」
低く囁く唇が頬に触れた。マーキングでもするかのように耳のすぐ傍にもそれを押しつけ、今度はわざとらしいリップ音とともに離れる。こんなこと、今までしたことなかったくせに。
「……嫌、だけど、あなたがしたいなら」
「そうか。なら丁度いい」
口先だけの拒絶に気づいているのか気づかないのか、彼は膝からベッドに乗り上げて無抵抗な私の体を押し倒す。もはやそこには嫌悪も愛もなかった。ただ贖罪だけ。数分前まで彼の体に執着していたことも忘れてしまうくらい、もうどうでも良かった。どうしたいか、と問われて自分の望みも浮かばないことに気がついた瞬間、私の存在がまるで宇宙に放り出されたかのような途方もない感覚に襲われてしまって。
「……俺から与えられるのは選択肢だけだ。どちらにするかはお前が決めろ」
睫毛を押し上げた目と視線が絡む。
「ここに残るなら俺の頬に手を添えてキスをしてくれ。お前は俺の恋人として一生添い遂げるんだ。愛などなくていいが、キキョウのことは忘れて死ぬまで恋人を演じてもらう」
言っている意味がよくわからない。恋人? 私が、この人の?
まさか本当に私を好きなはずもないだろうに、傍に置きたがるのはどうしてだろうと考え始めてすぐにやめた。どうせこの男の意図も理解できるはずもない。数年恋人として暮らした男さえ最後まで理解できなかったのだから。
「ここから出て行くなら俺の首を絞めて殺せ。せいぜい恋人だった男を忘れず、その男を殺した記憶とともに生きればいい」
数回瞬きをして、やはりどうすればいいのかわからなくなってしまった。どうすれば、私は、どうしたら。
今も忘れられない、夢と現の狭間で聞いた彼の声。忘れないで、というのが彼の願いだった。
「……なに」
彼の指が頬に触れる。少し固い男の指。私が振り払わないと見ると、ゆっくりと頬骨の上を通って手のひらが私の輪郭を覆った。かさついていて温かい。
「…………ここに、残る気は?」
ぎしり、と軋む音が響いた。彼がもう片方の手をベッドに着き体重を預けた音だ。体がこちらに傾いた分顔が近づいて、嗅ぎなれた香水の匂いが届く。長い睫毛に囲まれた目はただただ私を見つめていた。
「お前は人殺しだろうと変わらず愛した女だ。中身が変わったくらいで恋人の体を手放せるとは思えない。……決定権をやったのに何も言わないということは、俺に今後を委ねてくれるのか?」
――小さく首を下ろした。私にはもう、何かを考えられるほどの気力は残っていないのだ。疲れた。疲れてしまった。真面目に考えることに。せめて最後に彼の望みを叶えることがキキョウへの罪滅ぼしになる気がしている。すぐにこの家を出て行けと言われても、ここに残って永遠に召使いのように奉仕しろと言われても、それでいいのかもしれない。もはや戻る道などないのだから。
そう、愛する恋人は死んだ。本当の自分を最後まで私に見せることなく、知ることを私に許さずに死んだ。知ることすらできないというのはこんなに寂しく苦しいことだなんて、初めて知った。
「……そうか、はは、そうか」
彼の手が輪郭を辿って首を撫でる。記憶に新しい息苦しさが蘇るが私は動かなかった。シャツの隙間に忍び込んだ長い指は鎖骨をなぞり、体温を確かめるように少しづつ移動しながら肌をくすぐる。
「今の俺に触れられるのは嫌か?」
低く囁く唇が頬に触れた。マーキングでもするかのように耳のすぐ傍にもそれを押しつけ、今度はわざとらしいリップ音とともに離れる。こんなこと、今までしたことなかったくせに。
「……嫌、だけど、あなたがしたいなら」
「そうか。なら丁度いい」
口先だけの拒絶に気づいているのか気づかないのか、彼は膝からベッドに乗り上げて無抵抗な私の体を押し倒す。もはやそこには嫌悪も愛もなかった。ただ贖罪だけ。数分前まで彼の体に執着していたことも忘れてしまうくらい、もうどうでも良かった。どうしたいか、と問われて自分の望みも浮かばないことに気がついた瞬間、私の存在がまるで宇宙に放り出されたかのような途方もない感覚に襲われてしまって。
「……俺から与えられるのは選択肢だけだ。どちらにするかはお前が決めろ」
睫毛を押し上げた目と視線が絡む。
「ここに残るなら俺の頬に手を添えてキスをしてくれ。お前は俺の恋人として一生添い遂げるんだ。愛などなくていいが、キキョウのことは忘れて死ぬまで恋人を演じてもらう」
言っている意味がよくわからない。恋人? 私が、この人の?
まさか本当に私を好きなはずもないだろうに、傍に置きたがるのはどうしてだろうと考え始めてすぐにやめた。どうせこの男の意図も理解できるはずもない。数年恋人として暮らした男さえ最後まで理解できなかったのだから。
「ここから出て行くなら俺の首を絞めて殺せ。せいぜい恋人だった男を忘れず、その男を殺した記憶とともに生きればいい」
数回瞬きをして、やはりどうすればいいのかわからなくなってしまった。どうすれば、私は、どうしたら。
今も忘れられない、夢と現の狭間で聞いた彼の声。忘れないで、というのが彼の願いだった。
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