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出会いと8月の空

花火と近すぎる距離

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「月綺麗だね」

 太陽の光を反射して光り輝く満月を見上げたままのほれぼれとした声でそういうモエギに、桜はクスリと笑いながら返事を返す。

「うん」
「ウサギ見える?」
「見える見える」
「かわいいよなぁ」

 月のクレーターでできたウサギをかわいいなんて桜は思ったことはないけれど、モエギがそういうとなんだかかわいく見えてくるから不思議だ。桜はまたクスリと笑みをこぼした。

「あ、馬鹿にしただろ」

 モエギがちょっとふてくされとような顔をしながら桜のほうを向く。ずっとモエギの方を向いていた桜と、至近距離で目が合う。

 ドキドキドキドキ。
 桜の心臓がまた早く鼓動を刻み始める。

「た、ただのクレーターでしょ」

 桜はバッとモエギから目をそらすと、照れ隠しに言葉を紡いだ。自分でもわかるほど上ずってしまった声が情けない。

「う、ウサギだから」

 モエギからも、上ずった声がかえってきて、桜はそのことがうれしいのと同時に気恥しく感じた。

 何となく恥ずかしい沈黙が桜とモエギの間に満ちる。桜は何か話さなくてはと必死に言葉を探した。

「「あ、あのさ」」

 二人の声が重なって静かな神社に響く。同じタイミングで話し出そうとしたことがおかしくて、桜とモエギは顔を見合わせて笑った。近すぎる距離も気にならないくらい、桜は自然に笑うことができた。

「先にどうぞ」

 ひとしきり笑った後で、桜がモエギを促すとモエギはちょっと恥ずかしそうに桜から視線を外し、月を見上げた。三秒くらい月を見上げていたモエギはまた桜に視線をもどすと、赤くなった耳を触りながら、小さな声で言葉を紡いだ。

「浴衣、すごい似合ってる。」

 かああああっと、桜の顔に熱が集まる。
 は、破壊力が、大きすぎる。思考が固まってしまってお礼を言うことすら、桜の頭には浮かんでこない。

「ふはっ、顔真っ赤」

 モエギが柔らかく微笑んで、その笑みが桜の心臓にまた刺さる。桜は思わず胸を押さえた。モエギはそんな桜の様子がツボに入ったのかけらけらと笑い続けている。

 三回ほど深呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻した桜は、まだ笑い続けているモエギの肩を少し強めにたたいた。

「いつまで笑ってんの」
「ごめんって」

 笑いを含んだ声でモエギが謝る。それにかぶるように遠くからアナウンスが聞こえてくる。

「始まる、みたいだね。花火」

 桜の言葉に、やっと笑いが収まったモエギが短く返事をする。

 この花火大会は、競技花火、メッセージ花火。それからフィナーレと三部に分かれている。まず初めは企業が自分たちで決めたテーマに沿って花火をあげ、有料観覧席にいる人たちがどれが一番良かったか投票する競技花火だ。

 もう一度アナウンスが聞こえて、花火が上がる。

 光の筋が、てっぺんまで上がるとそこでパッと光の花が開く。ドンッとおなかに響く音が少し遅れて聞こえてくる。

 花火が上がる風景はただただ圧巻だった。
 途中で色が変わるもの、ハートの形をしたもの、最後にしだれ桜のように垂れ下がるもの。大きな花が咲いた後に、小さな花がたくさん咲くもの。大きな二尺玉の花火。
 そんな色とりどりの花火が、次々と上がる。
 桜は隣にモエギがいることも、屋台を見て回れなかったことも、写真を撮ることも、全部忘れて花火に見入っていた。

「すごい」

 素直な感想が、桜の口から滑り落ちる。


 競技花火が終わると、少しの休憩になる。桜はそこでようやく我に返った。

「すごかった」
「うん」
「すごい、綺麗だった」

 すごいとか、綺麗とか、そんな簡単な言葉では言い表せないような感動を桜は感じていた。この感動を表すもっとうまい言葉を必死で探しても、何も見つからなくて、桜はもう一度すごかったと小さくつぶやいた。

 五分ほど休憩をはさんで、またアナウンスが聞こえてくる。

「メッセージ付き花火、第一号は風海街にお住まいの片瀬 光さん。
『夏恋ちゃん、こんな俺と三年も付き合ってくれてありがとう。結婚してください』」

 アナウンスが終わると、花火が上がる。プロポーズをかけた花火は失敗することなく、夜空に花を咲かせた。こんな風にプロポーズされたら一生忘れられないだろうなぁ。桜はちらりと隣で花火に見入っているモエギを見上げながらそんなことを思った。

 次は亡くなったお母さんへのメッセージで、桜は亡くなった自分の母のことを思い出して、泣きそうになった。

 私だけ、こんなふうにしあわせでいいんだろうか。そんな罪悪感が、桜の心に芽生える。

「桜?」

 モエギに声をかけられて、はっと我に返った桜は慌てて笑顔を作ると心配そうに眉を寄せているモエギの方を向いた。

「どうかした?」
「なんでもないよ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」

 はあ、とため息をついたモエギは桜の頬を両手でムニムニとつまんだ。

「嘘つくのはこの口?」
「嘘じゃないよ」
「悲しいですって顔に書いてあるよ」

 初めて会った日のように、モエギは桜のことをぎゅっと抱きしめた。

「いいよ、泣いて」

 耳元でささやかれたモエギの言葉は魔法みたいに桜の心を溶かす。自然と溢れてきた涙は、止まることなく桜の頬をぬらす。モエギは何も言わずにただ桜の背中をとんとんと優しくたたいていた。

 花火の音の合間に桜の嗚咽が響く静かな神社を、三日月の明かりがそっと照らしていた。



 花火大会がもうそろそろ終わるところでようやく泣き止んだ桜の赤い目を見て、モエギは小さく微笑んだ。

「泣きたいの我慢しなくていいんだよ」
「うん」

 モエギの言葉は荒んだ桜の心の奥までゆっくりとしみ込んだ。その言葉の暖かさに桜はまた泣きそうになったけれど、今度はまばたきを繰り返すことで耐える。

「桜は一人じゃないよ」
「うん、ありがとう」


 桜はもう一度小さく「ありがとう」とつぶやくと、空を見上げた。
 フィナーレを飾るにはふさわしい大きな二尺玉の花火が上がる。
 少し遅れて、ドンッという音がおなかに響く。
 しだれ桜のように垂れ下がった花火はあっという間に消えてしまった。

 そのはかなさは、突然散ってしまった母の命のようで桜はまた泣きたくなった。
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