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一章 第一話

1.やまのすゝめ

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 目の前の光景が、おそらく異世界なんだろうということは、なんとなく確信が持てている。

 というか、光に包まれた玄関を抜けると、一面の森であった。
 ……いや、本当だよ?
 メトロンさんと居た夢の世界のアパート。そこの玄関から異世界に行けるとは聞いていたけれど、別に景色の移り変わりとか、感触があった訳でもなく、気づいたら一面の森の中に居た。

 とりあえず今解ることは……装備が重い。
 こっちに来る前にあの部屋でも装備を着けていたが、今の方がはるかに重さを感じる。夢の世界ではどこか感覚がぼやけていたが、今は確かな肉体と五感を感じる。今試しに二の腕をつねってみると、普通に痛い。使い古された手法だが、いままでの日本での生活と変わらず、自分が確かにここに生きて存在している事が解る。

 そんな事を考えながら呆けていると、目の前に光の玉が現れた。
 驚いて一瞬構えたが、なんとなくこれには察しがついた。
 光の下に右手を添えると、光が革袋に変わって手のひらに納まる。 革袋の中には、硬貨と折られた地図が入っていた。メトロンさんと約束していた転生後の支給物資である。

 とりあえず、革袋を確保するとすぐに近くの木のそばに身を潜めた。
 なぜなら既に異世界生活は始まっているのだ。しかも、ここは何処とも知れぬ森の中。少なくともこの森を抜けるまでは、賊や野生動物を警戒し、誰にも見付からないよう頭を低く、茂みに紛れながら隠密行動を心掛ける必要がある。問題ない。地べたに這いつくばって気配を消して社会を生きていくのは元の世界でも得意技だ。

 木に背中を預け、前方の視界を確保しながら地図を開く。地図には「アトスキム王国  コーク領周辺  ベイノック山北西部」と書かれてある。地図の南西側、左下三分の一くらいまで、ベイノック山という山が拡がっていて、山の南側から北東へカウイ川が流れている。山の北側から南東にかけては平野が拡がり、コークという大きな街を中心に集落の名前が幾つか描かれていた。

 見える範囲で周囲を確認し、もう一度地図を見る。地図には山以外にも小規模な森が幾つか載っているが、景色で解る範囲では、森の終わりが見えず、背中側に向かって明らかな登りになっている。現在地はおそらく、地図に載っているベイノック山の何処かなのだろう。
 磁石を取り出すため、周りを警戒しながら背負った荷物を解く。磁石を取り出し、真ん中に括り付けてある糸をつまむと、N極が前を向いた。

 方角が解ったので今後の向かうべき目標を決めよう。まずはこの紛うことなきの遭難状態を抜け出し、夕方までには少なくとも山を下りたい。

(山から一番近い集落は……東の山裾近くにヨアン村。他には……ヨアン村から南に行った所にもエニム村があるな)

 現状、現在地を特定する為に周りの地形を確認してみる。北側が下りになっていて、東西に尾根がはしっているようだ。地図上のベイノック山は幾つか、東に大きく山裾が張り出している所がある。そして山から見て東側に2つの村はある――。

 少し考え、とりあえず東向きに、この尾根に沿って行く事に決めた。
 根拠としては、まず遭難状態でわざわざ地図外の南西を目指すことはない。
 北側に下らない理由としては、遭難時の基本として「無闇に下らない」というのがある。目の前を下って行った先が何処に出るか判らないからだ。今回に関しても、仮に現在地が山の南側だった場合、最悪さらに山の深みに入ってしまう可能性がある。
 反対に南方向。登ってみてはどうだろう。登りは下りよりも迷いにくいとも言う。登ることで山の小ピークにでも出られれば、視界も開け現在地の把握が出来るかもしれない。通常なら登りは選択肢の一つだろう。しかし今回は賊や野獣のいる可能性のある山中を、限られた装備と体力で、一人で行動しなければならない。となれば、可及的速やかに治安の安定している集落に辿り着きたい。
 これらの現状を考慮した結果、最善策は「東に尾根に沿って移動する」という結論に至った。早速、地図を革袋に戻し腰に着け、とりあえず東へ歩き始めた。
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