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プロローグ
私は公爵家の末娘?
意識は、柔らかな羽毛布団と、ほのかな花の香りに包まれて、ゆっくりと現実へと戻ってきた。
瞼を開けると、そこは見たこともないほど優雅で広々とした寝室だった。天蓋付きのベッド、光り輝くシャンデリア、壁には繊細なタペストリー。
一瞬、私はどこにいるのか理解できなかった。侯爵家の新しい罰?
あるいは、あの冷たい雨と痛みは全て悪夢で……?
「目覚めたか?」
優しく、しかし緊張した声に、私ははっと振り向いた。ドアの傍らに立っていたのは、意識を失う直前に見た、紺色の髪をした青年だった。
彼はゆっくりと近づき、私のベッドの傍らに跪き、目線を合わせた。その深い紫の瞳には、安堵と、どこか痛むような哀しみが浮かんでいる。
「すまなかった、セレンティア……いや、今はエリーゼと呼んだ方が、いいのかな」
「!? あ……ぇ……」
セレンティア。また、その名前だ。なぜこの人は、私をそんな名前で呼ぶのだろう?
混乱が頭をよぎる。でも、答えなければ、何か言わなければ―― そうしなければ、怒られる。ご飯をもらえなくなる。侯爵家で刻まれた習慣が、私の体を硬直させ、震えを誘う。
怖いのに、何か言わなきゃいけないのに、何か言って怒らせてしまうのも怖くて、ただ下を向き、シーツを握りしめる指が小刻みに震えていた。
すると、青年がそっと、私の震える手を包み込んだ。その手の温もりは、エドワードのものとも、父のものとも全く異なり、ただただ優しかった。
「怖がらないで」
彼は静かに、しかし力強く言った。
「僕たちは君を傷つけたりはしない。……こんなことが贖罪にはならないと、分かっているんだ。だけど今度こそどうか、君を世界で一番幸せな子にしてあげたい。大変だったね、ごめんね、よく頑張ったね……!」
「っ……!」
その言葉は、あまりにも真摯で、私のこれまでの苦しみを、まるで全て知り尽くしているかのように響いた。誰一人として労わってくれなかった、むしろ私を嘲笑ってきた世界で、初めてそんなふうに言われたから。
涙が、止めようもなく溢れ出した。はしたない、弱虫だ、と罵られると思いながらも、私はただぽろぽろと涙を流し続けた。青年――ギルバートも、目を潤ませながら、私の手を握り返してくれる。
しばらくして、泣き疲れた私は、ふと周囲を見回した。彼の髪の色、瞳の色。それは、ブレスレットを外した今の私自身の色そのままだ。そして、部屋の入り口には、同じ紺色の髪を持つ、威厳のある男性と、凛としたポニーテールの女性が立っている。
あの人たちは……みんな、私と同じ……?
私の戸惑いを見透かしたように、ポニーテールの女性が口を開いた。
「ずっと前に起きた、カルデンシア公爵家で赤子が失踪したという事件を知っているかしら?」
「ぁ……少し、だけ。父が、それらしい、ことを……口にしていました」
侯爵が、酔った勢いで「あの公爵家の鼻をへし折ってやった」と呟いていたのを、ぼんやりと思い出す。
「――そうねえ。この件を話してから、訂正してもらいましょうか」
女性の口調は優しく、しかしその言葉は確信に満ちていた。
「率直に言うと、あの事件で失踪した赤子がセレンティア、貴女なのよ。貴女は正真正銘、我がカルデンシア公爵家の子であり、生まれを祝福され愛されるべきだった末っ子なのよ、私の愛しい妹」
「――!? わ、私、が……!?」
頭が真っ白になる。公爵家の、末っ子? そんな馬鹿な。私は嫌われ者で、魔力もない劣等生で、食べ物を貰えているだけでありがたい存在で……。
「間違えはしない」
冷静沈着な声で、公爵と名乗られる男性が断言した。
「我がカルデンシア公爵家には、秘められた能力がある。この目に宿る光は、我が一族が唯一の祝福を受けて国家を護る力を与えられた証。ゆえにカルデンシア公爵家はこの国一番の重鎮であり、必要不可欠な存在だ。その魔力は膨大であり、それ以上に……我々の魔力には、共鳴という力がある。血を分けた互いのことが、分かるんだよ」
「共鳴、ですか……」
「例のブレスレットを解析したが、あれは君の魔力を封じたうえで吸収する魔道具だ。今まで共鳴が通じなかったのはそれが原因で、またローデンゼン侯爵家の近年の繁栄は、君から吸収した魔力に支えられていたんだろう。そのブレスレットは、定期的に補強、更新しないと君の魔力に耐えられずに破砕してしまう。当主がその周期を見誤ったか、あるいは君の魔力が成長したことで、効果を失い外れたと思われる」
「そんな……! で、では……私がここにいては、侯爵領に生きる人々が……大変になりはしませんか?」
「「「――!」」」
私の問いかけに、家族全員がはっとした表情を見せた。
ギルバートが、優しく微笑んだ。
「――さすがだね。でも心配しないで、君を利用して作られた繁栄は長続きしないし、過酷な税やずさんな管理は既に報告に上がってきている。ローデンゼンを潰してやり直した方がいい。例えば、君のような素晴らしい人に管理してもらえば、人々はより良い生活を手に入れられるよ」
「私が、ですか?」
「そうだ。君の名前はセレンティア。セレンティア・カルデンシア。僕の可愛くて優しい妹……。僕の名はギルバート・カルデンシア。君の兄だ。君に二度とあんな苦しみは味わわせない。公爵家の名をかけて約束する。――どうか、カルデンシア公爵家に戻ってきてくれないかい?」
ギルバートの真っ直ぐな瞳を見つめながら、私はふとまたその言葉を思い出した。
――……どんな時も、生きる希望を失ってはいけないわ。
初めて話した人たちだけれど、彼らは優しくて一生懸命で、その心は私にも強く伝わってきた。この人たちのことを、信じてみたい。
もしも、ここに私の幸せがあるのなら。
こんなにも真剣に、私を求め、愛してくれる家族が居るのなら。
まだ生きる希望を、捨てなくてもいいのなら。
私は、もう一度、この人生を歩きだしてみたかった。年相応に。普通の子みたいに。愛される者として。
「――はい」
そうして、私はエリーゼ・ローデンゼンという偽りの名前を捨てて。
セレンティア・カルデンシアとして、本当の人生を歩み始めた。
瞼を開けると、そこは見たこともないほど優雅で広々とした寝室だった。天蓋付きのベッド、光り輝くシャンデリア、壁には繊細なタペストリー。
一瞬、私はどこにいるのか理解できなかった。侯爵家の新しい罰?
あるいは、あの冷たい雨と痛みは全て悪夢で……?
「目覚めたか?」
優しく、しかし緊張した声に、私ははっと振り向いた。ドアの傍らに立っていたのは、意識を失う直前に見た、紺色の髪をした青年だった。
彼はゆっくりと近づき、私のベッドの傍らに跪き、目線を合わせた。その深い紫の瞳には、安堵と、どこか痛むような哀しみが浮かんでいる。
「すまなかった、セレンティア……いや、今はエリーゼと呼んだ方が、いいのかな」
「!? あ……ぇ……」
セレンティア。また、その名前だ。なぜこの人は、私をそんな名前で呼ぶのだろう?
混乱が頭をよぎる。でも、答えなければ、何か言わなければ―― そうしなければ、怒られる。ご飯をもらえなくなる。侯爵家で刻まれた習慣が、私の体を硬直させ、震えを誘う。
怖いのに、何か言わなきゃいけないのに、何か言って怒らせてしまうのも怖くて、ただ下を向き、シーツを握りしめる指が小刻みに震えていた。
すると、青年がそっと、私の震える手を包み込んだ。その手の温もりは、エドワードのものとも、父のものとも全く異なり、ただただ優しかった。
「怖がらないで」
彼は静かに、しかし力強く言った。
「僕たちは君を傷つけたりはしない。……こんなことが贖罪にはならないと、分かっているんだ。だけど今度こそどうか、君を世界で一番幸せな子にしてあげたい。大変だったね、ごめんね、よく頑張ったね……!」
「っ……!」
その言葉は、あまりにも真摯で、私のこれまでの苦しみを、まるで全て知り尽くしているかのように響いた。誰一人として労わってくれなかった、むしろ私を嘲笑ってきた世界で、初めてそんなふうに言われたから。
涙が、止めようもなく溢れ出した。はしたない、弱虫だ、と罵られると思いながらも、私はただぽろぽろと涙を流し続けた。青年――ギルバートも、目を潤ませながら、私の手を握り返してくれる。
しばらくして、泣き疲れた私は、ふと周囲を見回した。彼の髪の色、瞳の色。それは、ブレスレットを外した今の私自身の色そのままだ。そして、部屋の入り口には、同じ紺色の髪を持つ、威厳のある男性と、凛としたポニーテールの女性が立っている。
あの人たちは……みんな、私と同じ……?
私の戸惑いを見透かしたように、ポニーテールの女性が口を開いた。
「ずっと前に起きた、カルデンシア公爵家で赤子が失踪したという事件を知っているかしら?」
「ぁ……少し、だけ。父が、それらしい、ことを……口にしていました」
侯爵が、酔った勢いで「あの公爵家の鼻をへし折ってやった」と呟いていたのを、ぼんやりと思い出す。
「――そうねえ。この件を話してから、訂正してもらいましょうか」
女性の口調は優しく、しかしその言葉は確信に満ちていた。
「率直に言うと、あの事件で失踪した赤子がセレンティア、貴女なのよ。貴女は正真正銘、我がカルデンシア公爵家の子であり、生まれを祝福され愛されるべきだった末っ子なのよ、私の愛しい妹」
「――!? わ、私、が……!?」
頭が真っ白になる。公爵家の、末っ子? そんな馬鹿な。私は嫌われ者で、魔力もない劣等生で、食べ物を貰えているだけでありがたい存在で……。
「間違えはしない」
冷静沈着な声で、公爵と名乗られる男性が断言した。
「我がカルデンシア公爵家には、秘められた能力がある。この目に宿る光は、我が一族が唯一の祝福を受けて国家を護る力を与えられた証。ゆえにカルデンシア公爵家はこの国一番の重鎮であり、必要不可欠な存在だ。その魔力は膨大であり、それ以上に……我々の魔力には、共鳴という力がある。血を分けた互いのことが、分かるんだよ」
「共鳴、ですか……」
「例のブレスレットを解析したが、あれは君の魔力を封じたうえで吸収する魔道具だ。今まで共鳴が通じなかったのはそれが原因で、またローデンゼン侯爵家の近年の繁栄は、君から吸収した魔力に支えられていたんだろう。そのブレスレットは、定期的に補強、更新しないと君の魔力に耐えられずに破砕してしまう。当主がその周期を見誤ったか、あるいは君の魔力が成長したことで、効果を失い外れたと思われる」
「そんな……! で、では……私がここにいては、侯爵領に生きる人々が……大変になりはしませんか?」
「「「――!」」」
私の問いかけに、家族全員がはっとした表情を見せた。
ギルバートが、優しく微笑んだ。
「――さすがだね。でも心配しないで、君を利用して作られた繁栄は長続きしないし、過酷な税やずさんな管理は既に報告に上がってきている。ローデンゼンを潰してやり直した方がいい。例えば、君のような素晴らしい人に管理してもらえば、人々はより良い生活を手に入れられるよ」
「私が、ですか?」
「そうだ。君の名前はセレンティア。セレンティア・カルデンシア。僕の可愛くて優しい妹……。僕の名はギルバート・カルデンシア。君の兄だ。君に二度とあんな苦しみは味わわせない。公爵家の名をかけて約束する。――どうか、カルデンシア公爵家に戻ってきてくれないかい?」
ギルバートの真っ直ぐな瞳を見つめながら、私はふとまたその言葉を思い出した。
――……どんな時も、生きる希望を失ってはいけないわ。
初めて話した人たちだけれど、彼らは優しくて一生懸命で、その心は私にも強く伝わってきた。この人たちのことを、信じてみたい。
もしも、ここに私の幸せがあるのなら。
こんなにも真剣に、私を求め、愛してくれる家族が居るのなら。
まだ生きる希望を、捨てなくてもいいのなら。
私は、もう一度、この人生を歩きだしてみたかった。年相応に。普通の子みたいに。愛される者として。
「――はい」
そうして、私はエリーゼ・ローデンゼンという偽りの名前を捨てて。
セレンティア・カルデンシアとして、本当の人生を歩み始めた。
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