47 / 48
第五章
婚約式と元妹の企み
それから半年の月日が流れた。
カルデンシア公爵家の庭園には、春の柔らかな日差しが降り注ぎ、色とりどりの花々が咲き誇っている。使用人たちが忙しなく行き交い、邸内は明日の一大行事に向けた準備で賑わっていた。
「ちょっと、その装飾はもう少し左に――そうそう!」
「花の配置はもっと華やかに! 明日は国中が見てるんだぞ!」
アルデリカの凛とした指示が飛び、ギルバートは招待客の最終確認に追われている。アレクサンドルはといえば、書斎で難しい顔をして何やら書類を眺めていた。
「父上、まだ何か?」
ギルバートが声をかけると、アレクサンドルは渋い顔で書類を置いた。
「……これを明日、アイケン裁判長に渡さねばならん。長い裁判の記録だ」
「それなら、私が――」
「いや、よい。これは私の役目だ」
アレクサンドルは立ち上がり、窓の外を見やった。庭園では、セレンティアがレクシードと共に、飾り付けを見ながら歩いている。
「……まさか、あの子が皇后になるとはな」
「父上、それはもう何度も――」
「わかっている」
アレクサンドルは苦笑した。
「ただ、まだ心の整理がつかんのだ。子供なのになあ……」
ギルバートは思わず吹き出した。
「父上、セレンティアはもう十八になりますよ」
「黙れ。お前にはまだこの気持ちはわからん」
親子の微笑ましいやり取りを他所に、庭園ではセレンティアがレクシードの手を取っていた。
「本当に、ここでいいの?」
「十分だよ」
レクシードは優しく笑った。
「派手な式より、君が幸せになれるような式を目指したいんだ」
「……うん」
セレンティアはうなずいた。
「ただ、お父様がね」
「アレクサンドル公爵が?」
「うん。『式が終わったら、すぐに結婚とはいかんからな』って、何度も言ってるの。まるで明日、私がどこかに行ってしまうみたいに」
レクシードは苦笑した。
「……父としては当然だな。僕も、できれば早く正式に妻として迎えたかったんだけど」
「リュークまでそんなこと言うの?」
「いや、もちろん、君の気持ちが第一だ。ただ……」
レクシードは少し照れくさそうに言った。
「公爵の説得には、もう少し時間がかかりそうだな、と」
セレンティアはくすくすと笑った。あの法廷で冷徹な言葉を放っていた皇太子が、父の前ではまるで普通の青年のように縮こまっている姿が愛おしかった。
「大丈夫よ。お父様はリュークのことをちゃんと認めてるから。ただ、素直になれないだけ」
「……そうだと、いいんだけど」
二人は並んで歩き出した。明日の婚約式。その先には、結婚という新しい生活が待っている。
すべてがゆっくりと、しかし確かに、幸せな方向へと進んでいた。
〇
同じ頃、帝都の片隅――
埃っぽい路地裏で、一人の男が倒れていた。かつては伯爵家の嫡男として着飾っていた服も、今は擦り切れ、泥にまみれている。
痩せ細り、髪はぼさぼさで、まるで野良犬のような姿だった。
エドワード・ヘーデル。
いや、今はただのエドワードになった青年。
彼は道端に落ちていた一枚の新聞を、虚ろな目で見つめていた。そこには、大きな見出しが躍っている。
『皇太子殿下、カルデンシア公爵家令嬢と明日婚約式! 国中が祝福ムード』
記事には、幸せそうに微笑むセレンティアとレクシードの肖像画が描かれていた。その美しいドレス姿、優しい笑顔――かつて、彼の婚約者だったはずの少女。
「……エリー……ゼ……」
彼の唇がかすかに動いた。その手が震え、新聞を握りしめる。しかし、力が入らない。
「俺が……本当は、俺が……」
立ち上がろうとした瞬間、彼の体がぐらりと傾いた。
「あ……」
次の瞬間、エドワードはその場にばったりと倒れた。動かない。ただ、手に握りしめた新聞だけが、風に揺れていた。
通りかかった人が、悲鳴を上げる。
「だ、誰か! 誰か倒れてる!」
人だかりができる中、エドワードは微動だにしなかった。生死は、誰にもわからない。
〇
同じ頃、クラーヴァ男爵領の、みすぼらしい屋敷――
「お母様、お金ちょうだい」
クラリスがだるそうにソファに寝転びながら言った。かつての美しいドレスは、今はよれよれで、髪もぼさぼさだ。
カレアは憔悴しきった顔で帳簿を見つめていた。彼女の手は震え、目はくぼみ、風が吹けば倒れそうなほどやつれている。
「……お金なんて、どこにもないわ」
「そんなこと言わないでよ。どうにかしてよ、お母様」
「どうにかって……領民は私たちのこと嫌っているし……」
事実、クラーヴァ男爵領の領民たちは、ローデンゼン侯爵家の横暴をよく知っていた。そして、その家族であるクラリスとカレアがやって来たと知って、誰一人として協力しようとしなかった。
商店は品物を売らず、農民は作物を納めず、ただ冷たい視線を送るだけだった。
クラーヴァ男爵家の面々も爆速でふたりと切れるだけ関係を切っている。
そして二人には、それをどうにかできるだけの資金力も組織力も、何もかもがなかった。
「何とかならないの? あたしはやりたいことがあるのに!」
クラリスは癇癪を起こして、手近にあった新聞を掴んだ。そして、その一面を見て――固まった。
『皇太子殿下、明日婚約式』
写真には、美しく着飾ったセレンティアが微笑んでいる。その姿は、まるで絵画のように優雅で、幸せそうだった。
「……っ!」
クラリスの手が震えた。新聞を握りしめ、破りそうな勢いだ。
「あの女……あの女だけが……!」
「クラリス、やめなさい……」
カレアの弱々しい声も、彼女には届かない。
「あたしだって……あたしだって、あそこに立つべきだったのに……! 魔力さえあれば、あたしだって……!」
彼女の目に、狂気じみた光が宿った。
(……そうだわ。式があるのなら、人が集まるのなら……忍び込めばいい。あの女の晴れの舞台に、忍び込んで……何をするかは、その時考えればいい)
クラリスの唇が、歪んだ笑みを形作った。
「ふふ……ふふふ……」
「クラリス……?」
カレアが不安そうに声をかけるが、クラリスは答えない。ただ、新聞の中のセレンティアを見つめながら、不気味な笑みを浮かべ続けていた。
窓の外では、冷たい風が吹き荒れていた。明日の帝都は、きっと春の陽気に包まれ、祝福の声が響くだろう。しかしこの陰気な屋敷には、まだ光は差し込んでいなかった。
カルデンシア公爵家の庭園には、春の柔らかな日差しが降り注ぎ、色とりどりの花々が咲き誇っている。使用人たちが忙しなく行き交い、邸内は明日の一大行事に向けた準備で賑わっていた。
「ちょっと、その装飾はもう少し左に――そうそう!」
「花の配置はもっと華やかに! 明日は国中が見てるんだぞ!」
アルデリカの凛とした指示が飛び、ギルバートは招待客の最終確認に追われている。アレクサンドルはといえば、書斎で難しい顔をして何やら書類を眺めていた。
「父上、まだ何か?」
ギルバートが声をかけると、アレクサンドルは渋い顔で書類を置いた。
「……これを明日、アイケン裁判長に渡さねばならん。長い裁判の記録だ」
「それなら、私が――」
「いや、よい。これは私の役目だ」
アレクサンドルは立ち上がり、窓の外を見やった。庭園では、セレンティアがレクシードと共に、飾り付けを見ながら歩いている。
「……まさか、あの子が皇后になるとはな」
「父上、それはもう何度も――」
「わかっている」
アレクサンドルは苦笑した。
「ただ、まだ心の整理がつかんのだ。子供なのになあ……」
ギルバートは思わず吹き出した。
「父上、セレンティアはもう十八になりますよ」
「黙れ。お前にはまだこの気持ちはわからん」
親子の微笑ましいやり取りを他所に、庭園ではセレンティアがレクシードの手を取っていた。
「本当に、ここでいいの?」
「十分だよ」
レクシードは優しく笑った。
「派手な式より、君が幸せになれるような式を目指したいんだ」
「……うん」
セレンティアはうなずいた。
「ただ、お父様がね」
「アレクサンドル公爵が?」
「うん。『式が終わったら、すぐに結婚とはいかんからな』って、何度も言ってるの。まるで明日、私がどこかに行ってしまうみたいに」
レクシードは苦笑した。
「……父としては当然だな。僕も、できれば早く正式に妻として迎えたかったんだけど」
「リュークまでそんなこと言うの?」
「いや、もちろん、君の気持ちが第一だ。ただ……」
レクシードは少し照れくさそうに言った。
「公爵の説得には、もう少し時間がかかりそうだな、と」
セレンティアはくすくすと笑った。あの法廷で冷徹な言葉を放っていた皇太子が、父の前ではまるで普通の青年のように縮こまっている姿が愛おしかった。
「大丈夫よ。お父様はリュークのことをちゃんと認めてるから。ただ、素直になれないだけ」
「……そうだと、いいんだけど」
二人は並んで歩き出した。明日の婚約式。その先には、結婚という新しい生活が待っている。
すべてがゆっくりと、しかし確かに、幸せな方向へと進んでいた。
〇
同じ頃、帝都の片隅――
埃っぽい路地裏で、一人の男が倒れていた。かつては伯爵家の嫡男として着飾っていた服も、今は擦り切れ、泥にまみれている。
痩せ細り、髪はぼさぼさで、まるで野良犬のような姿だった。
エドワード・ヘーデル。
いや、今はただのエドワードになった青年。
彼は道端に落ちていた一枚の新聞を、虚ろな目で見つめていた。そこには、大きな見出しが躍っている。
『皇太子殿下、カルデンシア公爵家令嬢と明日婚約式! 国中が祝福ムード』
記事には、幸せそうに微笑むセレンティアとレクシードの肖像画が描かれていた。その美しいドレス姿、優しい笑顔――かつて、彼の婚約者だったはずの少女。
「……エリー……ゼ……」
彼の唇がかすかに動いた。その手が震え、新聞を握りしめる。しかし、力が入らない。
「俺が……本当は、俺が……」
立ち上がろうとした瞬間、彼の体がぐらりと傾いた。
「あ……」
次の瞬間、エドワードはその場にばったりと倒れた。動かない。ただ、手に握りしめた新聞だけが、風に揺れていた。
通りかかった人が、悲鳴を上げる。
「だ、誰か! 誰か倒れてる!」
人だかりができる中、エドワードは微動だにしなかった。生死は、誰にもわからない。
〇
同じ頃、クラーヴァ男爵領の、みすぼらしい屋敷――
「お母様、お金ちょうだい」
クラリスがだるそうにソファに寝転びながら言った。かつての美しいドレスは、今はよれよれで、髪もぼさぼさだ。
カレアは憔悴しきった顔で帳簿を見つめていた。彼女の手は震え、目はくぼみ、風が吹けば倒れそうなほどやつれている。
「……お金なんて、どこにもないわ」
「そんなこと言わないでよ。どうにかしてよ、お母様」
「どうにかって……領民は私たちのこと嫌っているし……」
事実、クラーヴァ男爵領の領民たちは、ローデンゼン侯爵家の横暴をよく知っていた。そして、その家族であるクラリスとカレアがやって来たと知って、誰一人として協力しようとしなかった。
商店は品物を売らず、農民は作物を納めず、ただ冷たい視線を送るだけだった。
クラーヴァ男爵家の面々も爆速でふたりと切れるだけ関係を切っている。
そして二人には、それをどうにかできるだけの資金力も組織力も、何もかもがなかった。
「何とかならないの? あたしはやりたいことがあるのに!」
クラリスは癇癪を起こして、手近にあった新聞を掴んだ。そして、その一面を見て――固まった。
『皇太子殿下、明日婚約式』
写真には、美しく着飾ったセレンティアが微笑んでいる。その姿は、まるで絵画のように優雅で、幸せそうだった。
「……っ!」
クラリスの手が震えた。新聞を握りしめ、破りそうな勢いだ。
「あの女……あの女だけが……!」
「クラリス、やめなさい……」
カレアの弱々しい声も、彼女には届かない。
「あたしだって……あたしだって、あそこに立つべきだったのに……! 魔力さえあれば、あたしだって……!」
彼女の目に、狂気じみた光が宿った。
(……そうだわ。式があるのなら、人が集まるのなら……忍び込めばいい。あの女の晴れの舞台に、忍び込んで……何をするかは、その時考えればいい)
クラリスの唇が、歪んだ笑みを形作った。
「ふふ……ふふふ……」
「クラリス……?」
カレアが不安そうに声をかけるが、クラリスは答えない。ただ、新聞の中のセレンティアを見つめながら、不気味な笑みを浮かべ続けていた。
窓の外では、冷たい風が吹き荒れていた。明日の帝都は、きっと春の陽気に包まれ、祝福の声が響くだろう。しかしこの陰気な屋敷には、まだ光は差し込んでいなかった。
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった
歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。
だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」
追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。
一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。
誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。
「その言葉は、もう翻訳できません」
『お前の顔は見飽きた!』内心ガッツポーズで辺境へ
夏乃みのり
恋愛
「リーナ・フォン・アトラス! 貴様との婚約を破棄する!」
華やかな王宮の夜会で、第一王子ジュリアンに突きつけられた非情な宣告。冤罪を被せられ、冷酷な悪役令嬢として追放を言い渡されたリーナだったが、彼女の内心は……「やったーーー! これでやっとトレーニングに専念できるわ!」と歓喜に震えていた!
強い祝福が原因だった
棗
恋愛
大魔法使いと呼ばれる父と前公爵夫人である母の不貞により生まれた令嬢エイレーネー。
父を憎む義父や義父に同調する使用人達から冷遇されながらも、エイレーネーにしか姿が見えないうさぎのイヴのお陰で孤独にはならずに済んでいた。
大魔法使いを王国に留めておきたい王家の思惑により、王弟を父に持つソレイユ公爵家の公子ラウルと婚約関係にある。しかし、彼が愛情に満ち、優しく笑い合うのは義父の娘ガブリエルで。
愛される未来がないのなら、全てを捨てて実父の許へ行くと決意した。
※「殿下が好きなのは私だった」と同じ世界観となりますが此方の話を読まなくても大丈夫です。
※なろうさんにも公開しています。
王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!
ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。
なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。
婚約破棄される前に、帰らせていただきます!
パリパリかぷちーの
恋愛
ある日、マリス王国の侯爵令嬢クロナは、王子が男爵令嬢リリィと密会し、自分を「可愛げのない女」と罵り、卒業パーティーで「婚約破棄」を言い渡そうと画策している現場を目撃してしまう。
普通なら嘆き悲しむ場面だが、クロナの反応は違った。
悪役令嬢として断罪? 残念、全員が私を庇うので処刑されませんでした
ゆっこ
恋愛
豪奢な大広間の中心で、私はただひとり立たされていた。
玉座の上には婚約者である王太子・レオンハルト殿下。その隣には、涙を浮かべながら震えている聖女――いえ、平民出身の婚約者候補、ミリア嬢。
そして取り巻くように並ぶ廷臣や貴族たちの視線は、一斉に私へと向けられていた。
そう、これは断罪劇。
「アリシア・フォン・ヴァレンシュタイン! お前は聖女ミリアを虐げ、幾度も侮辱し、王宮の秩序を乱した。その罪により、婚約破棄を宣告し、さらには……」
殿下が声を張り上げた。
「――処刑とする!」
広間がざわめいた。
けれど私は、ただ静かに微笑んだ。
(あぁ……やっぱり、来たわね。この展開)
「失礼いたしますわ」と唇を噛む悪役令嬢は、破滅という結末から外れた?
パリパリかぷちーの
恋愛
「失礼いたしますわ」――断罪の広場で令嬢が告げたのは、たった一言の沈黙だった。
侯爵令嬢レオノーラ=ヴァン=エーデルハイトは、“涙の聖女”によって悪役とされ、王太子に婚約を破棄され、すべてを失った。だが彼女は泣かない。反論しない。赦しも求めない。ただ静かに、矛盾なき言葉と香りの力で、歪められた真実と制度の綻びに向き合っていく。
「誰にも属さず、誰も裁かず、それでもわたくしは、生きてまいりますわ」
これは、断罪劇という筋書きを拒んだ“悪役令嬢”が、沈黙と香りで“未来”という舞台を歩んだ、静かなる反抗と再生の物語。