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第4部:静寂の終焉期
第18話「世界の終わり」
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朝日が、廃墟の王都を照らしていた。
パン屋「麦の穂」の前に、トーマス・ブラウンが立っている。店は半壊したままだが、まだ立っている。それだけで――十分だった。
息子が店の中から出てきた。若いトマスも、疲れ切った表情をしている。昨夜はほとんど眠れなかった。
「父さん」
「ああ」
二人は、通りを見渡した。
瓦礫が散乱している。崩れた建物、焼け焦げた跡、割れた石畳。しかし――人々が、動き始めていた。
隣の店から、商人マルクが出てくる。彼も無事だった。店は大きく損傷しているが、命があれば何とかなる。
通りには、他の生存者たちも姿を現し始めている。皆、呆然としている。昨夜の出来事が、夢だったのか現実だったのか。
しかし――瓦礫が、全てを物語っていた。
トーマスは深く息を吸った。
「...始めよう」
息子が振り向く。
「何を?」
「片付けだ」
トーマスは店に戻り、残った道具を取り出した。シャベル、箒、バケツ。破損しているものもあるが、使える。
瓦礫を片付け始める。一つ一つ、丁寧に。
息子も手伝い始めた。マルクも、自分の店の前で同じことをしている。
やがて――他の人々も、動き始めた。
誰かが声をかける必要はなかった。皆、分かっている。生きるためには、動かなければならない。
瓦礫を運ぶ音。箒で掃く音。人々の小さな会話。
静かだが――確実に、復興が始まっていた。
トーマスは時々手を止めて、遠くを見た。神殿の跡が見える。完全に崩壊し、瓦礫の山になっている。
勇者の像は粉々で、その破片が地面に散らばっていた。誰も――それを片付けようとしない。
もう、必要ないものだから。
王城の執務室は、半壊していた。
壁に大きなひびが入り、天井の一部が崩れている。しかし、まだ使える。机と椅子は残っており、書類を広げることはできた。
レオニス王とヴァルクが、地図を見ている。
王国全体の地図。そこに、被害状況が書き込まれていた。赤い印が、破壊された場所を示している。
「王都の三割が壊滅しています」
ヴァルクが報告した。その声は、疲労で掠れている。
「死者は...約五百名」
レオニスは、黙って聞いていた。
「負傷者は千名を超えます」
五百名――それは、この国の人口の数パーセントに相当する。決して小さくない数字だ。
「食料は?」
レオニスが尋ねた。
「備蓄がありますが、一ヶ月分です」
「それ以降は...」
「近隣の町から調達する」
レオニスは立ち上がり、窓辺に向かった。城下を見下ろすと、人々が瓦礫を片付けている姿が見える。
「国庫は?」
その問いに、ヴァルクは答えるのを躊躇した。
「...ほぼ空です」
レオニスは目を閉じた。予想していたことだが、改めて聞くと重い。
「では、復興資金は――」
「民衆からの寄付と、労働力に頼るしかありません」
長い沈黙が流れた。
レオニスは窓の外を見続けている。小さな人影が、懸命に働いている。あの人々が――この国を支えているのだ。
「エドワードは?」
「重傷ですが、回復しています」
ヴァルクが答えた。
「ベルナール団長も、意識を取り戻しました」
「そうか...」
レオニスの表情が、わずかに和らいだ。二人とも――生きている。
「フィリアは?」
その問いに、ヴァルクは表情を曇らせた。
「...部屋に閉じこもったままです」
レオニスは何も言わなかった。ただ、深いため息をついた。
「時間が必要だろう」
「はい」
ヴァルクも頷く。フィリアは――全てを失ったのだ。信じていたもの、崇拝していたもの。それが、幻想だったと知った。
レオニスは、窓から離れて机に戻った。
「ヴァルク、一つ命令がある」
「何でしょうか」
「勇者に関する全ての記録を封印しろ」
その言葉に、ヴァルクは驚いて顔を上げた。
「封印...ですか?」
「ああ」
レオニスは、まっすぐにヴァルクを見た。
「歴史書から消し、文書を焼却し、語ることを禁じる」
「二度と――同じ過ちを繰り返さぬために」
ヴァルクは、その意味を理解した。忘れることで――再発を防ぐ。
「承知しました」
深く頭を下げる。
魔王領、ザラクの村。
いや――村があった場所、と言うべきだろう。
そこは、完全な廃墟だった。建物は全て崩壊し、瓦礫の山になっている。勇者たちに破壊され、さらに戦闘で被害を受けた。
もう――再建は不可能だった。
魔王ゼファルが、馬を降りてその場に立っている。
瓦礫の前に、老いた魔族が座り込んでいた。ザラクだった。かつて、この村の村長だった男。
「ザラク」
ゼファルが声をかけた。ザラクは、ゆっくりと顔を上げる。
「陛下...」
その声は、力がなかった。
「村は、もう...」
「分かっている」
ゼファルは、ザラクの隣に座った。二人で、廃墟を見つめる。
「他の村に移住させる。準備は整っている」
「...ありがとうございます」
ザラクは頷いた。しかし、その目には――何も映っていないようだった。
「勇者は?」
ザラクが尋ねた。ゼファルは、空を見上げる。
「もういない」
「異界へ還した」
「そうですか...」
ザラクは、わずかに頷いた。それ以上、何も聞かなかった。
側近が、馬で駆けつけてきた。
「陛下、他の被害状況の報告です」
ゼファルは立ち上がり、報告を聞く。
「三つの村が壊滅、二つの町が半壊しています」
「死者は...百名を超えます」
ゼファルは、拳を握りしめた。百名――魔族は人間より少ない。百名という数字は、人間の五百名に匹敵する重さがある。
「復興を最優先にする」
ゼファルは命じた。
「そして――」
側近を見る。
「勇者に関する全ての記録を消す」
「しかし...」
側近が躊躇する。ゼファルは、その言葉を遮った。
「命令だ」
その声には、絶対的な意志があった。
「二度と、この名を口にすることを許さない」
側近は、深く頭を下げた。
ザラクが、小さく呟いた。
「忘れる...ことができれば」
その言葉を、ゼファルは聞いていた。しかし――何も言わなかった。
一週間後、王都の広場には民衆が集まっていた。
瓦礫は大部分が片付けられ、広場として機能できるようになっている。簡素な演台が設けられ、そこにレオニス王が立っていた。
王冠を被り、王衣を纏っている。しかし――その姿には、疲労が色濃く現れていた。
トーマスは、息子と共に群衆の中にいた。周囲には、他の市民たちも集まっている。皆、静かだった。
レオニスが口を開いた。
「民よ」
その声は、静かだが力強い。広場全体に響き渡った。
「我々は、生き延びた」
民衆は、黙って聞いている。
「多くの命が失われた」
レオニスは、一人一人を見渡すように視線を動かした。
「多くのものを失った」
「しかし――我々は、ここにいる」
トーマスは、その言葉を噛みしめていた。生きている。それだけで――意味がある。
「そして、今日」
レオニスの声が、わずかに震えた。
「一つの時代が終わる」
民衆がざわめく。何が起きるのか――予感していた。
「勇者信仰を、禁じる」
静寂。
完全な静寂が、広場を満たした。
「二度と、異界から何かを招かない」
レオニスは、演台に両手をついた。
「勇者の名を語ることを、禁じる」
「これは命令だ」
民衆は――反発しなかった。
誰も、異論を唱えない。もう――誰も、勇者を崇拝していない。恐怖と、喪失だけが残っている。
トーマスは、心の中で呟いた。
これで...終わったのか。
「我々は、前を向く」
レオニスの声が、再び響く。
「新しい時代を、築く」
民衆は、静かに頷いた。
誰も歓声を上げない。拍手もない。
ただ――受け入れた。
時代が――終わったことを。
二週間後、王城の記録庫。
ヴァルクは、山積みになった書類と向き合っていた。勇者に関する全ての文書。報告書、記録、手紙――全てが、ここに集められている。
焼却する準備が整っている。庫の外では、大きな火が焚かれていた。
ヴァルクは、一つ一つ書類を確認しながら、火に投げ入れていく。
燃える紙。煙が上がる。
記録が――消えていく。
その時、棚の奥で一冊の日誌を見つけた。
革装丁の、小さな日誌。表紙に、名前が書かれている。
「クロウ」
ヴァルクは、それを手に取った。ページを開く。
丁寧な文字で、びっしりと書かれていた。
最初のページには、こう記されている。
「これは、俺たちの記録だ」
「俺たちが何をしたのか」
「どれだけの人を傷つけたのか」
ヴァルクは、ページをめくっていった。
フェルナンドの村での惨劇。城壁の崩壊。街の破壊。民衆の死。
全てが――詳細に記録されている。
クロウの視点で、冷静に、しかし苦しみながら書かれた記録。
ヴァルクの手が、震え始めた。
そして――最後のページに辿り着く。
「俺たちは、間違っていた」
「この世界を、壊してしまった」
「俺には、止める力がなかった」
「これを読む者よ、二度と同じ過ちを繰り返すな」
ヴァルクは、日誌を閉じた。
涙が、頬を伝う。
「クロウ...お前だけは」
日誌を胸に抱く。これは――燃やせない。
唯一の真実の記録。唯一の、理性の声。
ヴァルクは決めた。この日誌だけは、密かに保管する。
記録庫の最奥、誰も近づかない場所に。
いつか――誰かが見つけるかもしれない。
そして、学ぶかもしれない。
数ヶ月後。
王都の復興は、着実に進んでいた。建物が再建され、通りが整備される。しかし――規模は、以前の半分だった。
トーマスの店も再建された。小さいが、営業できる。パンを焼き、客に売る。日常が――戻ってきた。
神殿の跡は、空き地になった。誰も、そこに何かを建てようとしない。触れてはいけない場所として、人々は避けて通る。
一年後。
王国は、ゆっくりと安定を取り戻していった。
フィリアが政務に復帰した。冷静で有能な女王となったが――笑うことは、ほとんどなくなった。
「勇者」という言葉は、もう誰も口にしない。それは禁忌となった。
五年後。
新しい世代が育ち始めていた。戦災を知らない子供たち。彼らは、勇者のことを知らない。
親たちも、語らないから。
トーマスの息子が結婚し、子供が生まれた。トーマスは、祖父になった。
小さな孫を抱きながら、トーマスは思う。
この子は――あの恐怖を知らずに育つ。
それで、良いのだ。
十年後。
勇者のことは、完全に忘れられた。
語ることが禁じられているため、記憶も薄れていく。若い世代は、何も知らない。老人たちは、黙っている。
魔王領でも同じだった。
ザラクは新しい村で、静かに暮らしている。孫たちに囲まれて、穏やかな日々。
もう――あの日のことは、語らない。
数十年後。
レオニス王は、高齢になっていた。
玉座に座ることも少なくなり、多くの時間を執務室で過ごしている。政務の大部分は、女王フィリアに任せていた。
ヴァルクも、老人になった。白髪が増え、背中が丸まっている。しかし――まだ宰相として、王に仕えていた。
ある日の夕暮れ、トーマスは孫と共に店を閉めていた。
孫は十歳になり、店を手伝うようになっていた。利発な子で、よく質問をする。
帰り道、孫が尋ねた。
「おじいちゃん、昔この国に何があったの?」
トーマスは、立ち止まった。
「神殿の跡地、ずっと空いてるよね。なんで誰も使わないの?」
トーマスは、孫を見下ろした。無邪気な顔。何も知らない、清らかな目。
「...語ってはいけないことがある」
「なんで?」
孫が首を傾げる。トーマスは、空を見上げた。
「忘れることも、必要なんだ」
「よく分かんない」
孫は笑った。トーマスも、わずかに微笑む。
「分からなくて良い」
二人は、家へと歩いていった。
王城の執務室では、フィリア女王が書類に目を通していた。
中年になったフィリアは、有能な統治者として知られている。しかし――表情に温かみはない。冷静で、理性的で、そして――どこか遠い。
ヴァルクが入ってきた。
「女王陛下、国境地帯の報告です」
「聞きましょう」
フィリアは、書類から目を上げた。
「人間と魔族の交易が、増加しています」
「良いことね」
フィリアは、わずかに微笑んだ――珍しいことだった。
「...あの時のことが、無駄ではなかったのかもしれません」
ヴァルクが呟いた。フィリアは、窓の外を見る。
「そう思いたいわ」
二人は、しばらく窓の外を見つめていた。
王都は、小さいながらも平和だった。人々が行き交い、子供たちが笑っている。
かつての傷跡は――もう、見えない。
国境地帯、廃教会。
かつてレオニスとゼファルが会談した場所に、魔王ゼファルが立っていた。
相変わらず若い姿だが、目には深い疲れがある。
教会の前には、石碑が立てられている。文字は刻まれていない。ただ――無言の警告として。
ゼファルは、石碑に触れた。
「レオニス...お前は逝ったか」
風が吹く。
「しかし、約束は守られている」
「この地に、再び神は招かれていない」
ゼファルは振り向き、馬に乗った。
廃教会に、静寂が戻る。
数十年が過ぎた。
勇者の名は、もう誰も口にしない。記録は封印され、記憶は薄れた。
しかし――一つだけ。
真実は残されている。
王城の記録庫の最奥、誰も近づかない場所に、一冊の日誌が静かに眠っている。
クロウの日誌。
埃をかぶり、誰にも読まれることなく。
しかし――確かに存在している。
いつか――誰かが見つけるかもしれない。
そして、学ぶかもしれない。
世界は、静かになった。
忘れることで――平和を取り戻した。
それが正しかったのかは、誰にも分からない。
ただ――。
風だけが、全てを知っている。
二つの世界を見てきた風。
破壊を見て、再生を見て、そして忘却を見た風。
その風は今も、静かに吹いている。
誰にも語らず。
ただ――吹き続けている。
パン屋「麦の穂」の前に、トーマス・ブラウンが立っている。店は半壊したままだが、まだ立っている。それだけで――十分だった。
息子が店の中から出てきた。若いトマスも、疲れ切った表情をしている。昨夜はほとんど眠れなかった。
「父さん」
「ああ」
二人は、通りを見渡した。
瓦礫が散乱している。崩れた建物、焼け焦げた跡、割れた石畳。しかし――人々が、動き始めていた。
隣の店から、商人マルクが出てくる。彼も無事だった。店は大きく損傷しているが、命があれば何とかなる。
通りには、他の生存者たちも姿を現し始めている。皆、呆然としている。昨夜の出来事が、夢だったのか現実だったのか。
しかし――瓦礫が、全てを物語っていた。
トーマスは深く息を吸った。
「...始めよう」
息子が振り向く。
「何を?」
「片付けだ」
トーマスは店に戻り、残った道具を取り出した。シャベル、箒、バケツ。破損しているものもあるが、使える。
瓦礫を片付け始める。一つ一つ、丁寧に。
息子も手伝い始めた。マルクも、自分の店の前で同じことをしている。
やがて――他の人々も、動き始めた。
誰かが声をかける必要はなかった。皆、分かっている。生きるためには、動かなければならない。
瓦礫を運ぶ音。箒で掃く音。人々の小さな会話。
静かだが――確実に、復興が始まっていた。
トーマスは時々手を止めて、遠くを見た。神殿の跡が見える。完全に崩壊し、瓦礫の山になっている。
勇者の像は粉々で、その破片が地面に散らばっていた。誰も――それを片付けようとしない。
もう、必要ないものだから。
王城の執務室は、半壊していた。
壁に大きなひびが入り、天井の一部が崩れている。しかし、まだ使える。机と椅子は残っており、書類を広げることはできた。
レオニス王とヴァルクが、地図を見ている。
王国全体の地図。そこに、被害状況が書き込まれていた。赤い印が、破壊された場所を示している。
「王都の三割が壊滅しています」
ヴァルクが報告した。その声は、疲労で掠れている。
「死者は...約五百名」
レオニスは、黙って聞いていた。
「負傷者は千名を超えます」
五百名――それは、この国の人口の数パーセントに相当する。決して小さくない数字だ。
「食料は?」
レオニスが尋ねた。
「備蓄がありますが、一ヶ月分です」
「それ以降は...」
「近隣の町から調達する」
レオニスは立ち上がり、窓辺に向かった。城下を見下ろすと、人々が瓦礫を片付けている姿が見える。
「国庫は?」
その問いに、ヴァルクは答えるのを躊躇した。
「...ほぼ空です」
レオニスは目を閉じた。予想していたことだが、改めて聞くと重い。
「では、復興資金は――」
「民衆からの寄付と、労働力に頼るしかありません」
長い沈黙が流れた。
レオニスは窓の外を見続けている。小さな人影が、懸命に働いている。あの人々が――この国を支えているのだ。
「エドワードは?」
「重傷ですが、回復しています」
ヴァルクが答えた。
「ベルナール団長も、意識を取り戻しました」
「そうか...」
レオニスの表情が、わずかに和らいだ。二人とも――生きている。
「フィリアは?」
その問いに、ヴァルクは表情を曇らせた。
「...部屋に閉じこもったままです」
レオニスは何も言わなかった。ただ、深いため息をついた。
「時間が必要だろう」
「はい」
ヴァルクも頷く。フィリアは――全てを失ったのだ。信じていたもの、崇拝していたもの。それが、幻想だったと知った。
レオニスは、窓から離れて机に戻った。
「ヴァルク、一つ命令がある」
「何でしょうか」
「勇者に関する全ての記録を封印しろ」
その言葉に、ヴァルクは驚いて顔を上げた。
「封印...ですか?」
「ああ」
レオニスは、まっすぐにヴァルクを見た。
「歴史書から消し、文書を焼却し、語ることを禁じる」
「二度と――同じ過ちを繰り返さぬために」
ヴァルクは、その意味を理解した。忘れることで――再発を防ぐ。
「承知しました」
深く頭を下げる。
魔王領、ザラクの村。
いや――村があった場所、と言うべきだろう。
そこは、完全な廃墟だった。建物は全て崩壊し、瓦礫の山になっている。勇者たちに破壊され、さらに戦闘で被害を受けた。
もう――再建は不可能だった。
魔王ゼファルが、馬を降りてその場に立っている。
瓦礫の前に、老いた魔族が座り込んでいた。ザラクだった。かつて、この村の村長だった男。
「ザラク」
ゼファルが声をかけた。ザラクは、ゆっくりと顔を上げる。
「陛下...」
その声は、力がなかった。
「村は、もう...」
「分かっている」
ゼファルは、ザラクの隣に座った。二人で、廃墟を見つめる。
「他の村に移住させる。準備は整っている」
「...ありがとうございます」
ザラクは頷いた。しかし、その目には――何も映っていないようだった。
「勇者は?」
ザラクが尋ねた。ゼファルは、空を見上げる。
「もういない」
「異界へ還した」
「そうですか...」
ザラクは、わずかに頷いた。それ以上、何も聞かなかった。
側近が、馬で駆けつけてきた。
「陛下、他の被害状況の報告です」
ゼファルは立ち上がり、報告を聞く。
「三つの村が壊滅、二つの町が半壊しています」
「死者は...百名を超えます」
ゼファルは、拳を握りしめた。百名――魔族は人間より少ない。百名という数字は、人間の五百名に匹敵する重さがある。
「復興を最優先にする」
ゼファルは命じた。
「そして――」
側近を見る。
「勇者に関する全ての記録を消す」
「しかし...」
側近が躊躇する。ゼファルは、その言葉を遮った。
「命令だ」
その声には、絶対的な意志があった。
「二度と、この名を口にすることを許さない」
側近は、深く頭を下げた。
ザラクが、小さく呟いた。
「忘れる...ことができれば」
その言葉を、ゼファルは聞いていた。しかし――何も言わなかった。
一週間後、王都の広場には民衆が集まっていた。
瓦礫は大部分が片付けられ、広場として機能できるようになっている。簡素な演台が設けられ、そこにレオニス王が立っていた。
王冠を被り、王衣を纏っている。しかし――その姿には、疲労が色濃く現れていた。
トーマスは、息子と共に群衆の中にいた。周囲には、他の市民たちも集まっている。皆、静かだった。
レオニスが口を開いた。
「民よ」
その声は、静かだが力強い。広場全体に響き渡った。
「我々は、生き延びた」
民衆は、黙って聞いている。
「多くの命が失われた」
レオニスは、一人一人を見渡すように視線を動かした。
「多くのものを失った」
「しかし――我々は、ここにいる」
トーマスは、その言葉を噛みしめていた。生きている。それだけで――意味がある。
「そして、今日」
レオニスの声が、わずかに震えた。
「一つの時代が終わる」
民衆がざわめく。何が起きるのか――予感していた。
「勇者信仰を、禁じる」
静寂。
完全な静寂が、広場を満たした。
「二度と、異界から何かを招かない」
レオニスは、演台に両手をついた。
「勇者の名を語ることを、禁じる」
「これは命令だ」
民衆は――反発しなかった。
誰も、異論を唱えない。もう――誰も、勇者を崇拝していない。恐怖と、喪失だけが残っている。
トーマスは、心の中で呟いた。
これで...終わったのか。
「我々は、前を向く」
レオニスの声が、再び響く。
「新しい時代を、築く」
民衆は、静かに頷いた。
誰も歓声を上げない。拍手もない。
ただ――受け入れた。
時代が――終わったことを。
二週間後、王城の記録庫。
ヴァルクは、山積みになった書類と向き合っていた。勇者に関する全ての文書。報告書、記録、手紙――全てが、ここに集められている。
焼却する準備が整っている。庫の外では、大きな火が焚かれていた。
ヴァルクは、一つ一つ書類を確認しながら、火に投げ入れていく。
燃える紙。煙が上がる。
記録が――消えていく。
その時、棚の奥で一冊の日誌を見つけた。
革装丁の、小さな日誌。表紙に、名前が書かれている。
「クロウ」
ヴァルクは、それを手に取った。ページを開く。
丁寧な文字で、びっしりと書かれていた。
最初のページには、こう記されている。
「これは、俺たちの記録だ」
「俺たちが何をしたのか」
「どれだけの人を傷つけたのか」
ヴァルクは、ページをめくっていった。
フェルナンドの村での惨劇。城壁の崩壊。街の破壊。民衆の死。
全てが――詳細に記録されている。
クロウの視点で、冷静に、しかし苦しみながら書かれた記録。
ヴァルクの手が、震え始めた。
そして――最後のページに辿り着く。
「俺たちは、間違っていた」
「この世界を、壊してしまった」
「俺には、止める力がなかった」
「これを読む者よ、二度と同じ過ちを繰り返すな」
ヴァルクは、日誌を閉じた。
涙が、頬を伝う。
「クロウ...お前だけは」
日誌を胸に抱く。これは――燃やせない。
唯一の真実の記録。唯一の、理性の声。
ヴァルクは決めた。この日誌だけは、密かに保管する。
記録庫の最奥、誰も近づかない場所に。
いつか――誰かが見つけるかもしれない。
そして、学ぶかもしれない。
数ヶ月後。
王都の復興は、着実に進んでいた。建物が再建され、通りが整備される。しかし――規模は、以前の半分だった。
トーマスの店も再建された。小さいが、営業できる。パンを焼き、客に売る。日常が――戻ってきた。
神殿の跡は、空き地になった。誰も、そこに何かを建てようとしない。触れてはいけない場所として、人々は避けて通る。
一年後。
王国は、ゆっくりと安定を取り戻していった。
フィリアが政務に復帰した。冷静で有能な女王となったが――笑うことは、ほとんどなくなった。
「勇者」という言葉は、もう誰も口にしない。それは禁忌となった。
五年後。
新しい世代が育ち始めていた。戦災を知らない子供たち。彼らは、勇者のことを知らない。
親たちも、語らないから。
トーマスの息子が結婚し、子供が生まれた。トーマスは、祖父になった。
小さな孫を抱きながら、トーマスは思う。
この子は――あの恐怖を知らずに育つ。
それで、良いのだ。
十年後。
勇者のことは、完全に忘れられた。
語ることが禁じられているため、記憶も薄れていく。若い世代は、何も知らない。老人たちは、黙っている。
魔王領でも同じだった。
ザラクは新しい村で、静かに暮らしている。孫たちに囲まれて、穏やかな日々。
もう――あの日のことは、語らない。
数十年後。
レオニス王は、高齢になっていた。
玉座に座ることも少なくなり、多くの時間を執務室で過ごしている。政務の大部分は、女王フィリアに任せていた。
ヴァルクも、老人になった。白髪が増え、背中が丸まっている。しかし――まだ宰相として、王に仕えていた。
ある日の夕暮れ、トーマスは孫と共に店を閉めていた。
孫は十歳になり、店を手伝うようになっていた。利発な子で、よく質問をする。
帰り道、孫が尋ねた。
「おじいちゃん、昔この国に何があったの?」
トーマスは、立ち止まった。
「神殿の跡地、ずっと空いてるよね。なんで誰も使わないの?」
トーマスは、孫を見下ろした。無邪気な顔。何も知らない、清らかな目。
「...語ってはいけないことがある」
「なんで?」
孫が首を傾げる。トーマスは、空を見上げた。
「忘れることも、必要なんだ」
「よく分かんない」
孫は笑った。トーマスも、わずかに微笑む。
「分からなくて良い」
二人は、家へと歩いていった。
王城の執務室では、フィリア女王が書類に目を通していた。
中年になったフィリアは、有能な統治者として知られている。しかし――表情に温かみはない。冷静で、理性的で、そして――どこか遠い。
ヴァルクが入ってきた。
「女王陛下、国境地帯の報告です」
「聞きましょう」
フィリアは、書類から目を上げた。
「人間と魔族の交易が、増加しています」
「良いことね」
フィリアは、わずかに微笑んだ――珍しいことだった。
「...あの時のことが、無駄ではなかったのかもしれません」
ヴァルクが呟いた。フィリアは、窓の外を見る。
「そう思いたいわ」
二人は、しばらく窓の外を見つめていた。
王都は、小さいながらも平和だった。人々が行き交い、子供たちが笑っている。
かつての傷跡は――もう、見えない。
国境地帯、廃教会。
かつてレオニスとゼファルが会談した場所に、魔王ゼファルが立っていた。
相変わらず若い姿だが、目には深い疲れがある。
教会の前には、石碑が立てられている。文字は刻まれていない。ただ――無言の警告として。
ゼファルは、石碑に触れた。
「レオニス...お前は逝ったか」
風が吹く。
「しかし、約束は守られている」
「この地に、再び神は招かれていない」
ゼファルは振り向き、馬に乗った。
廃教会に、静寂が戻る。
数十年が過ぎた。
勇者の名は、もう誰も口にしない。記録は封印され、記憶は薄れた。
しかし――一つだけ。
真実は残されている。
王城の記録庫の最奥、誰も近づかない場所に、一冊の日誌が静かに眠っている。
クロウの日誌。
埃をかぶり、誰にも読まれることなく。
しかし――確かに存在している。
いつか――誰かが見つけるかもしれない。
そして、学ぶかもしれない。
世界は、静かになった。
忘れることで――平和を取り戻した。
それが正しかったのかは、誰にも分からない。
ただ――。
風だけが、全てを知っている。
二つの世界を見てきた風。
破壊を見て、再生を見て、そして忘却を見た風。
その風は今も、静かに吹いている。
誰にも語らず。
ただ――吹き続けている。
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気が付けば誰かがしゃべってる。
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