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蕾
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殆どの人は自分という人間を深くは知らない。
いや、知ってしまう事が怖いというのが正しいだろうか。
救いたくても救えない命があるように、叶えたくても叶えられない願いを誰しも抱いている。
そんな願いを淘汰して、日々生まれる小さな幸せで隙間を埋めながら生きていく。
でも、それでいいの?
そんなもので一生を全う出来るの?
心まで死に切れるの?
良い筈が無い、死に切れる筈がない。
だから、私が叶えてあげる。
貴方が本当の幸せを得て死ねるように。
朝、耳障りな目覚ましの音に苛まれながらも上半身を起こす。
空虚な部屋に乾いた夏の匂い。
目覚ましを止めたは良いが、外で鳴り響く蝉時雨が休む暇を与えてくれず、朝の一時を邪魔する。
「はぁ、煩いなぁ」
そう言うといつもより強めに窓を閉めた。
夜は暑くてよく寝つけず、朝はこうして夏の風物詩に邪魔をされる。
故に、朝の機嫌は最高潮に悪い。
不本意ながら立ち上がった僕はそのまま洗面所へと向かった。
まず口の中をリフレッシュし、顔に染み付いた汗を洗い流し、最後にタオルで顔を拭う。
この一連の動作がここ最近の、一番の至福の時と言っても過言では無いだろう。
まあ、そんな事はどうでも良くてさっさと着替えを済まし、朝食の準備に取り掛かる。
今から約三年前に両親を亡くし、それ以来一人暮らしをしている。
祖父母に引き取られるという話が出ていたが、祖父母とはあまり仲が良くなかった為に、僕はそれを拒んだ。
今思えば、そっちの方が楽できただろうなとは思うが、ギスギスした関係で近くにいるより、一人を選んだ僕の判断は間違ってはいないと今でも思う。
三年前のあの日を忘れられる事はきっとない。
九月二十日。その時僕はまだ十八歳だった。
偶然にもお母さんと僕の誕生日が同じで、一緒にプレゼントを買いに出掛けていた。
お父さんはその付き添いで。
僕はお母さんのプレゼントを、お母さんは僕のプレゼントを互いに買い、満足気に家へ帰っていた。
しかしその帰り、不運にも事故に遭い両親を失った。
不幸中の幸いだなんて言葉があるけれど、僕にとっては不幸中の不幸だった。
僕なんかが生き残ってしまったのだから。
お父さんと、お母さんの、「ただいま」という声が我が家に響く事はその日以降無かった。
焦げ臭い匂いが鼻を刺し、はっと我に返る。
握っていたフライパンの上には、目玉焼きとは呼びがたい物が出来上がっていた。
「作り直しだ」
そう言うと僕はフライパンを洗い流し、再び朝食作りに取り掛かる。
手短に朝食を済ませると、遅刻ギリギリのラインで家を後にした。
特にやりたい事も無かった僕は、何となくで大学へと進学した。
幼い頃から何かに興味を持ち、それに熱中出来ていればもっと他の人生を歩めたのかと後悔する日々だ。
しかし、そんな事を嘆いていても仕方がないと割り切る自分もいる。
正直どっちが本当の僕なのか分からない。
そもそも今こうして客観的に見ている僕も不正解なのかもしれない。
そんな事を考えてたらキリが無い事くらいは承知しているので考えるのを辞めた。
大学に着くなり、講義を淡々と受け何も無いその日の大学生活を終えた。
正直、単位を取るので必死なレベルだが別に上を目指そうとかそんな事は考えていないので、これでいいだろうと自分を言い聞かせている。
大学を後にし、そのままバイト先へと向かった。
居酒屋でバイトを初めてもう二年が経つ。
両親を亡くして一年。
周りの人との関係という関係から距離を置くようになり、人と接する事や話す事が極端に減った。
辛い時や苦しい時こそ誰かに力を借りるのが普通なのだろう。
だけど僕は違った。
こんな時だからこそ一人で居たかった。
誰の言葉も、助けも必要じゃないと思っていた。
そういう意味では僕は普通じゃなかったのかも知れない。
そんな事もあり、人と接する機会を無理やりにでも増やそうと始めたのが、居酒屋でのバイトだった。
誰かを頼りたくないなら、誰かに頼られる存在になろうと。
店長やバイト仲間とは、仲がいいとは言えない。
仕事仲間といった関係値だろう。
でも、沢山のお客さんと触れていくうちに僕の心は少しずつ前へと向き出していった。
あの日の記憶を少しでも忘れられる時間を増やす事が最善だったのだろう。
しかし根本は何も変わっていない。
それを今朝実感した。不意にあの日の事を思い出して、辛く苦しくなってしまうのだから。
でも、それでいいのかもしれない。
きっと、これで。
バイトを終え、くたくたになりながらも我が家へと帰った。
「ただいま」
そう言っても出迎えてくれる人が居るはずもなく、そこにあるのはただの暗闇だけだった。
今日はいつも以上に疲れたような気がした。
夕飯を済ますこともなくベッドに飛び込む。
明日は幸いにも学校は休みで、あるのはバイトだけだ。
夕方からのバイトに備え、昼頃に目覚ましをセットして横になった。
そのまま寝てしまおうと思ったその時だった。
不意に携帯が鳴る。
それは咲希『さき』からのメッセージだった。
咲希は二年前から付き合っている僕の彼女だ。
大学で知り合い、講義が被るなど接する事が多く、僕は段々と彼女に惹かれていった。
そして、僕はその気持ちを彼女に伝えた。
その返事はこの世で一番嬉しいものだった。
今思えば両親を亡くして以来、初めて心から笑えた日だったかも知れない。
彼女は大学在学中にやりたい事が決まり、中退して今は遠くで頑張っている。
それから僕らは遠距離という形で関係が続いている。
最初はやっと出来た心の拠り所が離れていってしまう辛さに耐えきれなかったけれど、今は互いを信じ合うことで何とかできている。
そんな彼女からの久しぶりのメッセージに心を踊らせながら確認する。
しかし、そこに書かれていたのは、何とも呆気なく結末を迎えてしまう言葉だけだった。
「ごめんなさい。別れよう」
それは簡潔で、受け入れ難く、とても悲しい言葉だった。
この世界ではありふれた言葉だ。
今こうして僕が悲しんでいるこの瞬間に、僕以外にも別れを告げられている人はきっと居るはずだ。形はどうであれ、多くの人が。
でもどうしてだろう、なんで僕だけがこんな結末を迎えるんだと思ってしまうのは。
彼女に返信を返すことの無いまま、僕は現実から逃げるように深い暗闇へと落ちていった。
昼にセットしていた目覚ましが部屋中に鳴り響く。
朦朧とした意識の中で目覚ましを止め、ゆっくりと重い体を起こす。
そして彼女とのメッセージをもう一度確認する。
しかし現実が変わることは無かった。
彼女に考え直して欲しいと言いたかった、どうしてなのか訳を聞きたかった。
でも、僕には出来なかった。
きっと彼女を否定してしまう事になるから。
もう何も失いたくなかった。
失いたくないと言うのは関係とかそういうものじゃなくて、好きでいてくれる愛という形だ。
「分かった。応援してる」
僕は震える手で、悲しみを押し殺しながら返信をして携帯の電源を落とした。
それからというもの、充電の切れかかったラジコンのように全てに対し無気力になってしまった。
バイトや学校も無断で休むようになり、食事すらも怠るような日々が1週間程続いた。
ある日バイト先からメッセージが届いている事に気がつく。
「もうバイトは来なくていい。新しい子も入ったから」
当然の結果だ。
誰も悪くない。悪いのは僕だけだ。
不幸を受け入れられなかった僕の弱さのせいだ。
僕はふと立ち上がり玄関へと向かう。
そのまま空っぽな心を連れて、重い体を引き摺るようにして当てもなく外へと出掛けた。
久しぶりに吸う外の空気はとても美味しかった。
ただ息をする事だけが幸せと感じてしまうほどに。
深く息をする度に何とも言えない哀愁を纏った夏の匂いが鼻を刺す。
空を見上げると、灰色に溶け込むように入る紅がとても幻想的な風景が広がっていた。
この世界はとても広く、綺麗だ。
それに比べて僕の世界はとても小さく生き辛い。
僕は視線を戻すと再び歩き始めた。
横断歩道に差し掛かった時、右横から急激に僕の方へと近づいて来る影に気が付いた。
車だ。僕の直前で車の運転手はブレーキを踏んだようだが間に合わず、接触した。
僕は軽く飛ばされ地面に膝を着く。
慌てた様子で運転手が車から飛び出してくる。
大丈夫ですかと何度も青ざめながら言ってきた。
その後すぐに駆けつけた救急車により僕は病院へと搬送された。
幸いにも大事には至らず、かすり傷と足の指を骨折する程度で済んだ。
何とも不運なものだ。『また』事故に遭うなんて。
念の為にと数日間は入院させられ、その間に幼い頃からの友人がお見舞いに来てくれた。
「おいおい、事故にあったっていうからすげぇ心配したぞ。」
「はは、ごめん。ありがとう。」
彼は小学生からの友人だ。
いつも前向きで、頼りになる存在で、何だかんだで一番側で支えてくれていた。
僕には無いものを沢山持っていた。
「まあ、大きな怪我とかはして無さそうだし良かったわ。しっかり休めよ。じゃあ、バイトあるからまた。今度飲みにでも行こうな」
「うん、楽しみにしてる。バイト頑張って。」
彼はそう言うと病室を後にした。
本当はもっと話して居たかった。
ずっと側にいて欲しかった。無理だと分かっていてもそう願ってしまう自分に嫌気がさす。
退院日、外に出ると当たり前のように何も変わらない風景が広がっていた。
それが幸せだと気付くことも無く。
この先をどう生きていこうかと悩みを抱えながら病院を後にする。
時刻は昼の一時。
アスファルトの上には優雅に陽炎が揺らめいていた。
長い間外にいれば文字通り溶けてしまいそうに感じた僕は足早に家へと向かった。
しかし、真っ直ぐ家へと向かっていたはずが気が付くと見知らぬ道に来ていた。
すぐに来た道を戻ろうとしたが、来た道ですら分からなくなってしまっていた。
道を確認しようと携帯を取り出すが、熱にやられてしまったのか電源がつかない。
不幸はどうして連鎖してしまうのだろうか。
今世界で一番不幸だと思ってしまうのはきっと間違いだ。でも、今だけは許して欲しい。
どうでも良くなってしまった僕は当てなく歩こうと足を進めようとした。
しかしその時、この季節、この瞬間には似合わない程の冷たい風が僕の背中を刺した。
ふと、振り返るとそこには古びた木造の建物が在った。
木は傷み、今にも崩れ落ちてしまいそうな程に古いのが伺える。
しかし、保てているのが不思議なくらいに大きく立派な建物だった。
僕はその建物に誘われるように扉に手を掛けた。
どうして見て見ぬふりをして家に帰らず、それでいて興味を持ってしまったのか。
その全ての行動に疑いをかけなかった僕は、きっとその時には誰かに、或いは何かに運命を決められていたのかも知れない。
悲鳴のような軋む音と共に扉は開いた。
その扉はただの木の扉のはずなのに、鉄の扉を開けているような重みを感じた。
中に入ると、そこには非現実的と言う言葉がとても似合う光景が広がっていた。
外観より遥かに広く、高さが十メートル程ある本棚が奥までぎっしりと連なっている。
天井には大きなシャンデリアが吊るされており、そのシャンデリアから放たれる橙色の光が本棚を優しく照らしていた。
「ふふ、こんばんは」
その声は、とても儚く、何処か悲しげで、優しい声だった。
声のした方へ視線を向けると、奥の方にある階段にぽつんと一人の少女が座っていた。
別に挨拶をされただけで、こっちに来いと呼ばれているわけでも無いのに、僕の足は自然と彼女の方へと歩みを進めていた。
彼女の前に僕は立つ。
近くで見れば見るほど彼女という存在が曖昧になっていくような気がした。
歳は僕よりは確実に下だろう。
十六か十七と言われれば納得出来る見た目だ。
肩にかかるくらいの髪。
その髪は直視しているとふと消えてしまいそうな程に儚く、とても綺麗な白色だった。
瞳は少し赤色を帯びているような気がした。
その彼女の特徴一つ一つが現実味という物を薄れさせている。
「お兄さんも辛いんだね」
「え…?」
僕の事を知っているかのような口ぶりで彼女はそう言った。
「ここは願いを叶える場所。本当の願いを」
「本当の願い?」
「えぇ。人はみんな、救いたくても救えない命があるように、叶えたくても叶えられない願いを抱いているの。そんな願いを私が叶えてあげる。お兄さんもきっとあるはずよ。だからこそここに居るんだから」
本当に叶えたい願い?
そんな物は今の僕にはありはしなかった。
強いて言うなら大切な家族を失いたくなかった。ただそれだけだ。
でもそれは願いではなく「後悔」だ。
今更嘆いてもどうにかなる話ではない。
「お兄さん、聞いてる?」
「あぁ、ごめん。でもどうやって?」
「お兄さん、握手をしましょう」
彼女の唐突な申し出に僕は戸惑いを隠せなかった。
「え?」
彼女はそんな戸惑いを横目に両手で僕の右手を握った。
暖かいようで冷たい。
こんな温もりを感じたのは初めてだった。
「付いてきて」
彼女は握手をし終えると付いてくるように促した。
辺りを見回しても目に入るのは数え切れないほどの本ばかりだ。
当たり前といえば当たり前かも知れないけど、何故か普通だとは思えなかった。
どの本を見てもホコリを被っていて、随分と長い間ここに保管されていたのが伺える。
「着いたよ」
彼女はそう言うと数ある中の一つの本棚の前で止まった。
そして一冊の本を指さす。
「これ」
彼女の身長では届かないみたいだったので、僕が手に取り渡そうとするがそのまま受け取らず行ってしまった。
「それ持ってきて」
「あ、うん。分かった」
会話を簡潔に済ましさっきいた場所へと戻る。
「あ、別のお客さん来たからそこの本棚の裏に隠れていて」
元の場所に着くなり彼女はそう言った。
「分かった」
客が来たから隠れろだなんておかしな話だが、変に疑いを投げかけずに近くの本棚の裏へ、そそくさと隠れた。
本棚の影から覗くと、彼女の前には僕より十歳程歳上であろう男性が立っていた。
その男性は何やら彼女にお礼をしている様子だった。何度も頭を下げ、ありがとうと。
本当に願いを叶えてあげたのだろうか?
でもどうやってそんな事が。
僕はその真実がどうしても知りたくなって仕方がなかった。
もしやましい事があるとすれば彼女が教えてくれない可能性もある。だけど今ならあの男性が何か知っているかも知れない。
そう思うといても立っても居られず、飛び出して話を聞き出そうとしたその時だった。
糸の切れた操り人形のように男性は床に倒れ込んだ。
そしてその直後、なんと光に包まれて男性は瞬く間に消えていってしまった。
(え…?)
何が起きたのか理解をする事も出来ずただ呆然と立ち尽くしてしまった。
彼女が焦っている様子はない。
まるでそうなる事を知っていて、尚淡々とこなす仕事のように受け入れている様子だった。
「これは、一体どういう事だ」
僕が問うと彼女は不敵な笑みを浮かべながら口を開いた。
「あぁ、貴方には一つ説明をし忘れていたわね。願いを叶える代償として、その人自身が持つ大切な『物』を頂くの。」
「大切な物…?」
「えぇ、そう。命よ」
「何だと…」
さっきの光景と、彼女の目を見た時、嘘だという選択肢は僕の前から完全に姿を消した。
密度が高いであろうこの空間も、一瞬だけ空虚に感じる程何も考えられなくなっていた。
「命を貰うと言っても正確には存在ごと。つまり、友人や家族からは死んだと認識されるのでは無く、元々『存在しなかった』と認識される。」
僕はただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
そんな僕を気にもかけず彼女は話を続けた。
「皮肉なものよね。結局は一番大切なのは自分自身の命だなんて。まあ、それも当然だけれど。命あってこその願いだから。でも、願いを叶える為なら命なんて惜しくない。そう思える人間は居ない」
「…」
「人と人の間に、人と物の間に、人と出来事の間に生まれるのは愛なんかじゃない。自分自身が作り出した醜さなの。それを綺麗に言い換えたのが愛」
「それは違う」
「ふん…?」
彼女の言葉には妙な説得力があった。
気を緩めれば全てに納得してしまいそうになるくらいに。
でもそれはきっとだめなんだ。
僕は否定しなければならない、認めてはいけない。そんな気がしていた。
「確かに人間は醜い生き物かもしれない。間違いを犯し続け、それに気づいてやっと成長出来る。でも、家族や友人、恋人は愛がなければ成立なんてしない。だから、」
「ふふ…下らないね」
「え…?」
気持ちを込めて発したその言葉も、彼女の軽い笑みだけで全て無意味になってしまったような気がした。
「私は認めない、愛だなんて。人間は皆自分が一番可愛いと思ってる。貴方が言った関係なんて、所詮は自分自身のエゴで無理矢理、愛なんていう形の無いもので結び付けたものに過ぎない。その行為こそが醜い」
「…」
何も言い返せない自分が腹立たしかった。
「貴方は誰かの為に死ねる?」
「勿論だ。大切な人の為になら…」
「そう、それは大層な事ね」
必死の抵抗だった。
きっと僕は死ねないだろう。結果の変えられない運命でも来なければ。その瞬間になっても寸前のところで躊躇してしまうだろう。
そもそも、家族だ友人だの、恋人だの熱く語ったが最近は失ってばかりだ。これが偶然じゃなくて必然だと言うのであれば、僕にそれらを語る資格は無い。
「でもね、幸せや願いは、愛とは違うの。愛なんて空っぽなもの。一種の呼び方に過ぎない。幸せや願いは人間の醜さや欲望を形にしたもの」
「…」
「ねぇ、綺麗な花ってたった一輪でもとても華やかでしょう?でも、そうじゃない花は沢山集まって、ようやく華やかになるの。幸せや願いも同じ。小さなものは永遠に集め続け、叶え続け、隙間を埋めなくてはならない。でも、その人にとって一番の幸せを、願いを叶えられれば、その人はもう人生を全うしたと言っても過言では無いと思うの。だって、それ以上得られるものなんて何も無いんだから」
「それも間違ってる」
「次はどうして…?」
僕はまた彼女を否定する。
僕が正しい確証なんて何処にもない。
だけど、彼女が僕を否定するように、僕が彼女を否定するのは当然の道理だと自分を言い聞かせた。
「幸せや願いは日々変わりゆく物だ。その人にとっての一番の願いが叶えられた時、また新たな願いが生まれる。その人にとっての一番の幸せを得られた時、また新たな幸せを求める。そうやって尽きること無く人間は生きていくんだ。幸せや願いに終わりなんてない」
「確かにそうね。それは違いないわ」
「なら…」
初めての彼女の共感に少しの安堵を覚えたが、それも束の間だった。
「だけど、その願いを必ずしも叶えられるとでも?その幸せを必ずしも得られるとでも?」
「それは…」
言葉が喉の奥で詰まる。
「一生のうちに、本当に叶えたい願いを叶えられる数なんてせいぜい一回や二回、数えられるほどなの。それにいつ死ぬかなんて分からない。何一つ叶えられず、何一つ得られずに死ぬ可能性だってある」
気がつけば彼女の顔から不敵な笑みは消え、悲しげな表情をしていた。
「そう考えたら良い話だと思わない?いずれ人間は、死という恐怖に蝕まれながら人生を終えるの。だったら幸せを抱いたまま死ねた方が、文字通り幸せなハッピーエンドじゃない。私はそう思う」
「そんなの…」
「それにね、ここに来る人達は皆、生きる意味を見失った人ばかりなの。たった一つの希望に縋ることすら許されなかった人達。そんな人達を助ける、言わば助け舟みたいな物なのよ」
「…」
「貴方も同じなの。彼等と」
僕も同じ。ここに来る人達と。さっき僕の前で消えてしまったあの男性と。
たった一つの希望に縋ることすら出来なかった。
いや、そうしなかった。僕の愚かさを嘆いても嘆き足りないだろう。
「君は一体何者なんだ」
僕は不意に質問を投げかける。
これはきっと、もっと早くにするべきものだったのだろう。
「私は…悪魔。貴方たち人間の願いを叶えて差し上げる、いい悪魔よ」
「そうか」
「あら、驚かないの?否定はしないの?貴方にとって私は間違いの塊みたいなものでしょう?」
確かにそうだ。
僕は彼女を否定し続けた。今でも彼女の考えを、在り方を認めるつもりはない。
だけど、彼女の発する一言一言に偽りが無い確信はあった。
「別に君が何者であっても僕は受け入れる。それに、今僕のやるべきことが、叶えたい願いが決まった」
「ほう…?」
彼女の顔には再び不敵な笑みが浮かび上がった。
「僕は…」
「…?」
「僕は君の願いを叶えたい。それが僕の願いだ」
館内に響き渡る声で僕はそう言った。
誰かの為になりたいと、正面から言えたのはこれが初めてだろう。そしてこれが最後なのだろう。
「な、何を言ってるの。そんなのめちゃくちゃよ」
「言っただろう。願いや幸せは日々、その瞬間に変わりゆくものだ。経った今僕の願いは変わった。いや、正確には決まったの方が正しいかもしれない。僕の願いは君の願いを叶える事だ。」
「それはダメ」
「どうして?」
「願いを叶えた者の命を貰うのは正確には私じゃない」
「…?」
「この図書館と契約を交わすということなの。本を手に取り、開き、願いを叶えると決めた瞬間契約は交わされる。そして、願いが叶った時に命を失う。存在ごとね。だから、私の気分でどうこうしてる訳じゃないの。私は自分の本当の願いを叶えようとしている者にだけ契約を許している。私の願いを叶えるだなんて、それは貴方の願いであって、貴方の願いじゃない。分かったら本をここに置いて、二度とここに近づかないで。意志のない者に用はないから」
「それでいい」
「…?」
僕の目の前から去ろうとする彼女が足を止める。
「僕はそれでいい。君の悲願が叶うなら、存在ごと命なんてくれてやる。君も元は人間だったんだろう?」
「どうしてそう思うのよ」
「君の目を見ればわかる。君の在り方を聞けばわかる」
「…」
「君は本当の願いを叶えられてたのか?叶えられなかったのだろう。だから今こうして、人間ではなく悪魔としてここにいる」
「だとしても、そんな事貴方には関係ない」
彼女はそっと俯く。
「いいや、関係ある。君には愛を否定された。愛の為に、誰かの為に命を掛けられる人間はいないと。なら、僕がここで証明する。この命を持って証明する。」
「…」
彼女は驚いた様子で僕を見る。
綺麗な瞳はさっきよりも赤みを増しているようにも見えた。
僕は彼女からの目を離さないようにその意志を伝えた。
いや、知ってしまう事が怖いというのが正しいだろうか。
救いたくても救えない命があるように、叶えたくても叶えられない願いを誰しも抱いている。
そんな願いを淘汰して、日々生まれる小さな幸せで隙間を埋めながら生きていく。
でも、それでいいの?
そんなもので一生を全う出来るの?
心まで死に切れるの?
良い筈が無い、死に切れる筈がない。
だから、私が叶えてあげる。
貴方が本当の幸せを得て死ねるように。
朝、耳障りな目覚ましの音に苛まれながらも上半身を起こす。
空虚な部屋に乾いた夏の匂い。
目覚ましを止めたは良いが、外で鳴り響く蝉時雨が休む暇を与えてくれず、朝の一時を邪魔する。
「はぁ、煩いなぁ」
そう言うといつもより強めに窓を閉めた。
夜は暑くてよく寝つけず、朝はこうして夏の風物詩に邪魔をされる。
故に、朝の機嫌は最高潮に悪い。
不本意ながら立ち上がった僕はそのまま洗面所へと向かった。
まず口の中をリフレッシュし、顔に染み付いた汗を洗い流し、最後にタオルで顔を拭う。
この一連の動作がここ最近の、一番の至福の時と言っても過言では無いだろう。
まあ、そんな事はどうでも良くてさっさと着替えを済まし、朝食の準備に取り掛かる。
今から約三年前に両親を亡くし、それ以来一人暮らしをしている。
祖父母に引き取られるという話が出ていたが、祖父母とはあまり仲が良くなかった為に、僕はそれを拒んだ。
今思えば、そっちの方が楽できただろうなとは思うが、ギスギスした関係で近くにいるより、一人を選んだ僕の判断は間違ってはいないと今でも思う。
三年前のあの日を忘れられる事はきっとない。
九月二十日。その時僕はまだ十八歳だった。
偶然にもお母さんと僕の誕生日が同じで、一緒にプレゼントを買いに出掛けていた。
お父さんはその付き添いで。
僕はお母さんのプレゼントを、お母さんは僕のプレゼントを互いに買い、満足気に家へ帰っていた。
しかしその帰り、不運にも事故に遭い両親を失った。
不幸中の幸いだなんて言葉があるけれど、僕にとっては不幸中の不幸だった。
僕なんかが生き残ってしまったのだから。
お父さんと、お母さんの、「ただいま」という声が我が家に響く事はその日以降無かった。
焦げ臭い匂いが鼻を刺し、はっと我に返る。
握っていたフライパンの上には、目玉焼きとは呼びがたい物が出来上がっていた。
「作り直しだ」
そう言うと僕はフライパンを洗い流し、再び朝食作りに取り掛かる。
手短に朝食を済ませると、遅刻ギリギリのラインで家を後にした。
特にやりたい事も無かった僕は、何となくで大学へと進学した。
幼い頃から何かに興味を持ち、それに熱中出来ていればもっと他の人生を歩めたのかと後悔する日々だ。
しかし、そんな事を嘆いていても仕方がないと割り切る自分もいる。
正直どっちが本当の僕なのか分からない。
そもそも今こうして客観的に見ている僕も不正解なのかもしれない。
そんな事を考えてたらキリが無い事くらいは承知しているので考えるのを辞めた。
大学に着くなり、講義を淡々と受け何も無いその日の大学生活を終えた。
正直、単位を取るので必死なレベルだが別に上を目指そうとかそんな事は考えていないので、これでいいだろうと自分を言い聞かせている。
大学を後にし、そのままバイト先へと向かった。
居酒屋でバイトを初めてもう二年が経つ。
両親を亡くして一年。
周りの人との関係という関係から距離を置くようになり、人と接する事や話す事が極端に減った。
辛い時や苦しい時こそ誰かに力を借りるのが普通なのだろう。
だけど僕は違った。
こんな時だからこそ一人で居たかった。
誰の言葉も、助けも必要じゃないと思っていた。
そういう意味では僕は普通じゃなかったのかも知れない。
そんな事もあり、人と接する機会を無理やりにでも増やそうと始めたのが、居酒屋でのバイトだった。
誰かを頼りたくないなら、誰かに頼られる存在になろうと。
店長やバイト仲間とは、仲がいいとは言えない。
仕事仲間といった関係値だろう。
でも、沢山のお客さんと触れていくうちに僕の心は少しずつ前へと向き出していった。
あの日の記憶を少しでも忘れられる時間を増やす事が最善だったのだろう。
しかし根本は何も変わっていない。
それを今朝実感した。不意にあの日の事を思い出して、辛く苦しくなってしまうのだから。
でも、それでいいのかもしれない。
きっと、これで。
バイトを終え、くたくたになりながらも我が家へと帰った。
「ただいま」
そう言っても出迎えてくれる人が居るはずもなく、そこにあるのはただの暗闇だけだった。
今日はいつも以上に疲れたような気がした。
夕飯を済ますこともなくベッドに飛び込む。
明日は幸いにも学校は休みで、あるのはバイトだけだ。
夕方からのバイトに備え、昼頃に目覚ましをセットして横になった。
そのまま寝てしまおうと思ったその時だった。
不意に携帯が鳴る。
それは咲希『さき』からのメッセージだった。
咲希は二年前から付き合っている僕の彼女だ。
大学で知り合い、講義が被るなど接する事が多く、僕は段々と彼女に惹かれていった。
そして、僕はその気持ちを彼女に伝えた。
その返事はこの世で一番嬉しいものだった。
今思えば両親を亡くして以来、初めて心から笑えた日だったかも知れない。
彼女は大学在学中にやりたい事が決まり、中退して今は遠くで頑張っている。
それから僕らは遠距離という形で関係が続いている。
最初はやっと出来た心の拠り所が離れていってしまう辛さに耐えきれなかったけれど、今は互いを信じ合うことで何とかできている。
そんな彼女からの久しぶりのメッセージに心を踊らせながら確認する。
しかし、そこに書かれていたのは、何とも呆気なく結末を迎えてしまう言葉だけだった。
「ごめんなさい。別れよう」
それは簡潔で、受け入れ難く、とても悲しい言葉だった。
この世界ではありふれた言葉だ。
今こうして僕が悲しんでいるこの瞬間に、僕以外にも別れを告げられている人はきっと居るはずだ。形はどうであれ、多くの人が。
でもどうしてだろう、なんで僕だけがこんな結末を迎えるんだと思ってしまうのは。
彼女に返信を返すことの無いまま、僕は現実から逃げるように深い暗闇へと落ちていった。
昼にセットしていた目覚ましが部屋中に鳴り響く。
朦朧とした意識の中で目覚ましを止め、ゆっくりと重い体を起こす。
そして彼女とのメッセージをもう一度確認する。
しかし現実が変わることは無かった。
彼女に考え直して欲しいと言いたかった、どうしてなのか訳を聞きたかった。
でも、僕には出来なかった。
きっと彼女を否定してしまう事になるから。
もう何も失いたくなかった。
失いたくないと言うのは関係とかそういうものじゃなくて、好きでいてくれる愛という形だ。
「分かった。応援してる」
僕は震える手で、悲しみを押し殺しながら返信をして携帯の電源を落とした。
それからというもの、充電の切れかかったラジコンのように全てに対し無気力になってしまった。
バイトや学校も無断で休むようになり、食事すらも怠るような日々が1週間程続いた。
ある日バイト先からメッセージが届いている事に気がつく。
「もうバイトは来なくていい。新しい子も入ったから」
当然の結果だ。
誰も悪くない。悪いのは僕だけだ。
不幸を受け入れられなかった僕の弱さのせいだ。
僕はふと立ち上がり玄関へと向かう。
そのまま空っぽな心を連れて、重い体を引き摺るようにして当てもなく外へと出掛けた。
久しぶりに吸う外の空気はとても美味しかった。
ただ息をする事だけが幸せと感じてしまうほどに。
深く息をする度に何とも言えない哀愁を纏った夏の匂いが鼻を刺す。
空を見上げると、灰色に溶け込むように入る紅がとても幻想的な風景が広がっていた。
この世界はとても広く、綺麗だ。
それに比べて僕の世界はとても小さく生き辛い。
僕は視線を戻すと再び歩き始めた。
横断歩道に差し掛かった時、右横から急激に僕の方へと近づいて来る影に気が付いた。
車だ。僕の直前で車の運転手はブレーキを踏んだようだが間に合わず、接触した。
僕は軽く飛ばされ地面に膝を着く。
慌てた様子で運転手が車から飛び出してくる。
大丈夫ですかと何度も青ざめながら言ってきた。
その後すぐに駆けつけた救急車により僕は病院へと搬送された。
幸いにも大事には至らず、かすり傷と足の指を骨折する程度で済んだ。
何とも不運なものだ。『また』事故に遭うなんて。
念の為にと数日間は入院させられ、その間に幼い頃からの友人がお見舞いに来てくれた。
「おいおい、事故にあったっていうからすげぇ心配したぞ。」
「はは、ごめん。ありがとう。」
彼は小学生からの友人だ。
いつも前向きで、頼りになる存在で、何だかんだで一番側で支えてくれていた。
僕には無いものを沢山持っていた。
「まあ、大きな怪我とかはして無さそうだし良かったわ。しっかり休めよ。じゃあ、バイトあるからまた。今度飲みにでも行こうな」
「うん、楽しみにしてる。バイト頑張って。」
彼はそう言うと病室を後にした。
本当はもっと話して居たかった。
ずっと側にいて欲しかった。無理だと分かっていてもそう願ってしまう自分に嫌気がさす。
退院日、外に出ると当たり前のように何も変わらない風景が広がっていた。
それが幸せだと気付くことも無く。
この先をどう生きていこうかと悩みを抱えながら病院を後にする。
時刻は昼の一時。
アスファルトの上には優雅に陽炎が揺らめいていた。
長い間外にいれば文字通り溶けてしまいそうに感じた僕は足早に家へと向かった。
しかし、真っ直ぐ家へと向かっていたはずが気が付くと見知らぬ道に来ていた。
すぐに来た道を戻ろうとしたが、来た道ですら分からなくなってしまっていた。
道を確認しようと携帯を取り出すが、熱にやられてしまったのか電源がつかない。
不幸はどうして連鎖してしまうのだろうか。
今世界で一番不幸だと思ってしまうのはきっと間違いだ。でも、今だけは許して欲しい。
どうでも良くなってしまった僕は当てなく歩こうと足を進めようとした。
しかしその時、この季節、この瞬間には似合わない程の冷たい風が僕の背中を刺した。
ふと、振り返るとそこには古びた木造の建物が在った。
木は傷み、今にも崩れ落ちてしまいそうな程に古いのが伺える。
しかし、保てているのが不思議なくらいに大きく立派な建物だった。
僕はその建物に誘われるように扉に手を掛けた。
どうして見て見ぬふりをして家に帰らず、それでいて興味を持ってしまったのか。
その全ての行動に疑いをかけなかった僕は、きっとその時には誰かに、或いは何かに運命を決められていたのかも知れない。
悲鳴のような軋む音と共に扉は開いた。
その扉はただの木の扉のはずなのに、鉄の扉を開けているような重みを感じた。
中に入ると、そこには非現実的と言う言葉がとても似合う光景が広がっていた。
外観より遥かに広く、高さが十メートル程ある本棚が奥までぎっしりと連なっている。
天井には大きなシャンデリアが吊るされており、そのシャンデリアから放たれる橙色の光が本棚を優しく照らしていた。
「ふふ、こんばんは」
その声は、とても儚く、何処か悲しげで、優しい声だった。
声のした方へ視線を向けると、奥の方にある階段にぽつんと一人の少女が座っていた。
別に挨拶をされただけで、こっちに来いと呼ばれているわけでも無いのに、僕の足は自然と彼女の方へと歩みを進めていた。
彼女の前に僕は立つ。
近くで見れば見るほど彼女という存在が曖昧になっていくような気がした。
歳は僕よりは確実に下だろう。
十六か十七と言われれば納得出来る見た目だ。
肩にかかるくらいの髪。
その髪は直視しているとふと消えてしまいそうな程に儚く、とても綺麗な白色だった。
瞳は少し赤色を帯びているような気がした。
その彼女の特徴一つ一つが現実味という物を薄れさせている。
「お兄さんも辛いんだね」
「え…?」
僕の事を知っているかのような口ぶりで彼女はそう言った。
「ここは願いを叶える場所。本当の願いを」
「本当の願い?」
「えぇ。人はみんな、救いたくても救えない命があるように、叶えたくても叶えられない願いを抱いているの。そんな願いを私が叶えてあげる。お兄さんもきっとあるはずよ。だからこそここに居るんだから」
本当に叶えたい願い?
そんな物は今の僕にはありはしなかった。
強いて言うなら大切な家族を失いたくなかった。ただそれだけだ。
でもそれは願いではなく「後悔」だ。
今更嘆いてもどうにかなる話ではない。
「お兄さん、聞いてる?」
「あぁ、ごめん。でもどうやって?」
「お兄さん、握手をしましょう」
彼女の唐突な申し出に僕は戸惑いを隠せなかった。
「え?」
彼女はそんな戸惑いを横目に両手で僕の右手を握った。
暖かいようで冷たい。
こんな温もりを感じたのは初めてだった。
「付いてきて」
彼女は握手をし終えると付いてくるように促した。
辺りを見回しても目に入るのは数え切れないほどの本ばかりだ。
当たり前といえば当たり前かも知れないけど、何故か普通だとは思えなかった。
どの本を見てもホコリを被っていて、随分と長い間ここに保管されていたのが伺える。
「着いたよ」
彼女はそう言うと数ある中の一つの本棚の前で止まった。
そして一冊の本を指さす。
「これ」
彼女の身長では届かないみたいだったので、僕が手に取り渡そうとするがそのまま受け取らず行ってしまった。
「それ持ってきて」
「あ、うん。分かった」
会話を簡潔に済ましさっきいた場所へと戻る。
「あ、別のお客さん来たからそこの本棚の裏に隠れていて」
元の場所に着くなり彼女はそう言った。
「分かった」
客が来たから隠れろだなんておかしな話だが、変に疑いを投げかけずに近くの本棚の裏へ、そそくさと隠れた。
本棚の影から覗くと、彼女の前には僕より十歳程歳上であろう男性が立っていた。
その男性は何やら彼女にお礼をしている様子だった。何度も頭を下げ、ありがとうと。
本当に願いを叶えてあげたのだろうか?
でもどうやってそんな事が。
僕はその真実がどうしても知りたくなって仕方がなかった。
もしやましい事があるとすれば彼女が教えてくれない可能性もある。だけど今ならあの男性が何か知っているかも知れない。
そう思うといても立っても居られず、飛び出して話を聞き出そうとしたその時だった。
糸の切れた操り人形のように男性は床に倒れ込んだ。
そしてその直後、なんと光に包まれて男性は瞬く間に消えていってしまった。
(え…?)
何が起きたのか理解をする事も出来ずただ呆然と立ち尽くしてしまった。
彼女が焦っている様子はない。
まるでそうなる事を知っていて、尚淡々とこなす仕事のように受け入れている様子だった。
「これは、一体どういう事だ」
僕が問うと彼女は不敵な笑みを浮かべながら口を開いた。
「あぁ、貴方には一つ説明をし忘れていたわね。願いを叶える代償として、その人自身が持つ大切な『物』を頂くの。」
「大切な物…?」
「えぇ、そう。命よ」
「何だと…」
さっきの光景と、彼女の目を見た時、嘘だという選択肢は僕の前から完全に姿を消した。
密度が高いであろうこの空間も、一瞬だけ空虚に感じる程何も考えられなくなっていた。
「命を貰うと言っても正確には存在ごと。つまり、友人や家族からは死んだと認識されるのでは無く、元々『存在しなかった』と認識される。」
僕はただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
そんな僕を気にもかけず彼女は話を続けた。
「皮肉なものよね。結局は一番大切なのは自分自身の命だなんて。まあ、それも当然だけれど。命あってこその願いだから。でも、願いを叶える為なら命なんて惜しくない。そう思える人間は居ない」
「…」
「人と人の間に、人と物の間に、人と出来事の間に生まれるのは愛なんかじゃない。自分自身が作り出した醜さなの。それを綺麗に言い換えたのが愛」
「それは違う」
「ふん…?」
彼女の言葉には妙な説得力があった。
気を緩めれば全てに納得してしまいそうになるくらいに。
でもそれはきっとだめなんだ。
僕は否定しなければならない、認めてはいけない。そんな気がしていた。
「確かに人間は醜い生き物かもしれない。間違いを犯し続け、それに気づいてやっと成長出来る。でも、家族や友人、恋人は愛がなければ成立なんてしない。だから、」
「ふふ…下らないね」
「え…?」
気持ちを込めて発したその言葉も、彼女の軽い笑みだけで全て無意味になってしまったような気がした。
「私は認めない、愛だなんて。人間は皆自分が一番可愛いと思ってる。貴方が言った関係なんて、所詮は自分自身のエゴで無理矢理、愛なんていう形の無いもので結び付けたものに過ぎない。その行為こそが醜い」
「…」
何も言い返せない自分が腹立たしかった。
「貴方は誰かの為に死ねる?」
「勿論だ。大切な人の為になら…」
「そう、それは大層な事ね」
必死の抵抗だった。
きっと僕は死ねないだろう。結果の変えられない運命でも来なければ。その瞬間になっても寸前のところで躊躇してしまうだろう。
そもそも、家族だ友人だの、恋人だの熱く語ったが最近は失ってばかりだ。これが偶然じゃなくて必然だと言うのであれば、僕にそれらを語る資格は無い。
「でもね、幸せや願いは、愛とは違うの。愛なんて空っぽなもの。一種の呼び方に過ぎない。幸せや願いは人間の醜さや欲望を形にしたもの」
「…」
「ねぇ、綺麗な花ってたった一輪でもとても華やかでしょう?でも、そうじゃない花は沢山集まって、ようやく華やかになるの。幸せや願いも同じ。小さなものは永遠に集め続け、叶え続け、隙間を埋めなくてはならない。でも、その人にとって一番の幸せを、願いを叶えられれば、その人はもう人生を全うしたと言っても過言では無いと思うの。だって、それ以上得られるものなんて何も無いんだから」
「それも間違ってる」
「次はどうして…?」
僕はまた彼女を否定する。
僕が正しい確証なんて何処にもない。
だけど、彼女が僕を否定するように、僕が彼女を否定するのは当然の道理だと自分を言い聞かせた。
「幸せや願いは日々変わりゆく物だ。その人にとっての一番の願いが叶えられた時、また新たな願いが生まれる。その人にとっての一番の幸せを得られた時、また新たな幸せを求める。そうやって尽きること無く人間は生きていくんだ。幸せや願いに終わりなんてない」
「確かにそうね。それは違いないわ」
「なら…」
初めての彼女の共感に少しの安堵を覚えたが、それも束の間だった。
「だけど、その願いを必ずしも叶えられるとでも?その幸せを必ずしも得られるとでも?」
「それは…」
言葉が喉の奥で詰まる。
「一生のうちに、本当に叶えたい願いを叶えられる数なんてせいぜい一回や二回、数えられるほどなの。それにいつ死ぬかなんて分からない。何一つ叶えられず、何一つ得られずに死ぬ可能性だってある」
気がつけば彼女の顔から不敵な笑みは消え、悲しげな表情をしていた。
「そう考えたら良い話だと思わない?いずれ人間は、死という恐怖に蝕まれながら人生を終えるの。だったら幸せを抱いたまま死ねた方が、文字通り幸せなハッピーエンドじゃない。私はそう思う」
「そんなの…」
「それにね、ここに来る人達は皆、生きる意味を見失った人ばかりなの。たった一つの希望に縋ることすら許されなかった人達。そんな人達を助ける、言わば助け舟みたいな物なのよ」
「…」
「貴方も同じなの。彼等と」
僕も同じ。ここに来る人達と。さっき僕の前で消えてしまったあの男性と。
たった一つの希望に縋ることすら出来なかった。
いや、そうしなかった。僕の愚かさを嘆いても嘆き足りないだろう。
「君は一体何者なんだ」
僕は不意に質問を投げかける。
これはきっと、もっと早くにするべきものだったのだろう。
「私は…悪魔。貴方たち人間の願いを叶えて差し上げる、いい悪魔よ」
「そうか」
「あら、驚かないの?否定はしないの?貴方にとって私は間違いの塊みたいなものでしょう?」
確かにそうだ。
僕は彼女を否定し続けた。今でも彼女の考えを、在り方を認めるつもりはない。
だけど、彼女の発する一言一言に偽りが無い確信はあった。
「別に君が何者であっても僕は受け入れる。それに、今僕のやるべきことが、叶えたい願いが決まった」
「ほう…?」
彼女の顔には再び不敵な笑みが浮かび上がった。
「僕は…」
「…?」
「僕は君の願いを叶えたい。それが僕の願いだ」
館内に響き渡る声で僕はそう言った。
誰かの為になりたいと、正面から言えたのはこれが初めてだろう。そしてこれが最後なのだろう。
「な、何を言ってるの。そんなのめちゃくちゃよ」
「言っただろう。願いや幸せは日々、その瞬間に変わりゆくものだ。経った今僕の願いは変わった。いや、正確には決まったの方が正しいかもしれない。僕の願いは君の願いを叶える事だ。」
「それはダメ」
「どうして?」
「願いを叶えた者の命を貰うのは正確には私じゃない」
「…?」
「この図書館と契約を交わすということなの。本を手に取り、開き、願いを叶えると決めた瞬間契約は交わされる。そして、願いが叶った時に命を失う。存在ごとね。だから、私の気分でどうこうしてる訳じゃないの。私は自分の本当の願いを叶えようとしている者にだけ契約を許している。私の願いを叶えるだなんて、それは貴方の願いであって、貴方の願いじゃない。分かったら本をここに置いて、二度とここに近づかないで。意志のない者に用はないから」
「それでいい」
「…?」
僕の目の前から去ろうとする彼女が足を止める。
「僕はそれでいい。君の悲願が叶うなら、存在ごと命なんてくれてやる。君も元は人間だったんだろう?」
「どうしてそう思うのよ」
「君の目を見ればわかる。君の在り方を聞けばわかる」
「…」
「君は本当の願いを叶えられてたのか?叶えられなかったのだろう。だから今こうして、人間ではなく悪魔としてここにいる」
「だとしても、そんな事貴方には関係ない」
彼女はそっと俯く。
「いいや、関係ある。君には愛を否定された。愛の為に、誰かの為に命を掛けられる人間はいないと。なら、僕がここで証明する。この命を持って証明する。」
「…」
彼女は驚いた様子で僕を見る。
綺麗な瞳はさっきよりも赤みを増しているようにも見えた。
僕は彼女からの目を離さないようにその意志を伝えた。
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