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27 さんま
「ティーリティティティティ ティーリティティティティ」
体のふくよかな女性が体を揺らしながら笑顔で歌うのは裸の男の子が野菜と踊るかの有名なCMソングである。
少しばかり外れたメロディーに真守は「ブフッ」と吹き出した。
『あなたには笑う権利はないと思うわ……』
水萌里は真守の調子っぱずれで自作の鼻歌をしょっちゅう聞いているので呆れてため息を吐いた。
「はい! 本日の材料はこちら!」
真守の吹き出しをまるっと無視した女性が両手を広げて見せたパッドにツヤツヤとした秋刀魚が並んでいるのは、田中家自慢のダイニングテーブルだ。
「一夏さん。すごく立派なさんまね。おいしそう!」
一夏はすばらしく破顔する。清井一夏はアラフィフの旭市在住半生という主婦で、出身は隣の匝瑳市であるため生粋の九十九里浜北部人間である。『おひさまテラス』の主催する読書会で水萌里と出会ってから何かと水萌里を誘い、すでに真守と洋太とも顔見知り以上である。
「さんまを使った家庭料理は何を知ってる?」
「塩焼きだよな? あとは煮付け」
「最近では蒲焼というのもあるわ。旭市はさんまが安くて大きくて新鮮だから作ろうと思っているの」
「え? 刺し身だろう?」
洋太のビックリ顔にさらにビックリ顔で返した真守と水萌里は顔の前で右手を左右に振った。
「「ないない」」
「あのね、洋太。さんまとかの青魚は生では食べられないのよ」
「ええ!!! でもシュンさんが連れていってくれる店ではさんまは刺し身以外食べたことないぞ。メニューにはあるけどみんな刺し身かなめろうで食べる」
「「えええ!!!!」」
三人の会話を嬉しそうに聞いていた一夏はついに腹を抱えて笑い出した。
「あーははは! みもちゃんの意見は一般的には正解! でもようちゃんの話も本当だよ。
青魚には寄生虫がいることが多いの。それは内臓に生息していて魚の鮮度が落ちると筋肉にまで侵入してくる。だから鮮度の落ちたものは生では食べられないし、鮮度がよくても内蔵は食べられない。冷凍技術のおかげでいつの季節でも冷凍さんまは食べられるけど、刺し身やなめろうとして食べることはできないわ。
だから、この地域でも「今日中なら刺し身で食べられます」とか「火を通してください」とか書かれて売られているの」
「え…………でも俺苦手かも…………」
一歩退いた真守に一夏がうんうんと頷いた。
「だよね。青魚は足が早くて焼いても煮ても臭いときがあるもんね。それを生っていうのは敬遠する気持ちもわかる。
まあ、とにかくやってみるね」
一夏は長年主婦の慣れた手付きでさんまを捌いていく。刺し身包丁と出刃包丁は一夏の自前である。
「さっきも言ったけど、内臓はダメだから最初からきっちりと切り落とす」
「うわあ。一番美味しい部分……」
水萌里は思わず呟いた。
「ふふふ。その気持ちはわかるわ。でもこれは大切な作業」
水萌里も素直に首肯する。
頭を落とした首部分からゆっくりと皮を引くときれいに剥がれていく。
「これが簡単に剥がれるかどうかも鮮度の目安よ。鮮度がいいとよく剥がれるの。そうじゃない場合は軽く塩をしてシソを乗せて焼くといいわ」
三枚におろしたさんまは四つほどにそぎ切りされツマと千切りみょうがとおろししょうがとわさびともに平皿に並べられた。
「おお! 店のとあまり変わらないな!」
「やだ、ようちゃん。それはほめすぎ。やっぱり、油の部分の手さばきとか、プロとは違うよ。まあ、食べてみて」
洋太と水萌里はさっそく食べ始める。洋太は食べ慣れた味なのでこくりこくりとわかり顔をしながら食べた。
「えええ! 臭くない。あぶらがのってて美味しいわ」
水萌里は薬味を変えては次々に食べていった。それを見た真守が恐る恐る一枚つまみ醤油皿に少し付けると醤油にあぶらの膜がすうっと現れた。そして口に運ぶと目を見開く。
「俺が悪かった。先入観を持ってお前を見いていた……。お前はなんて美味なヤツなんだ」
つまみ上げたさんまの刺し身に話かけて口へ運ぶ。
「おおお! しょうがのさっぱり感は定番だな。
わさびだと寿司みたいでこれはこれでいい。
みょうがの苦みが合うなんて、みょうがと刺し身ってハマりそう!」
「定番って、さっきまでビビって食えなかったくせに」
洋太のツッコミに一夏は大笑いした。一夏が捌いた四匹はあっという間になくなったが、ご飯がすでに二杯目に突入していた洋太は淋しげな顔をする。
「ようちゃんに朗報です」
一夏が足元に置いたクーラーボックスからタッパーをいくつも取り出した。折りたたみ椅子から立ち上がった洋太は取り皿を取りにいく。真守自慢のマイチェアは今日は一夏に貸していた。
「これは今朝作ったさんまのなめろうよ。それと、さっき説明したけど、皮を剥いたけど新鮮じゃなかったときのシソ塩やきとバターソテー。冷めてもおいしいのよ。今日のさんまは新鮮だけど食べてほしくて作ってきたの」
真守がさっそくなめろうをつまんで醤油皿へ箸を運ぶと、一夏が素早く動いてその皿を取り上げた。
「真守君。なめろうはお醤油をつけちゃダメ! しょうがと味噌でしっかり味がついてるから。お店でもお醤油が必要か聞いてから食べるようにしたほうがいい。アジでもイワシでもね」
真守がそれを口に入れ、ぱあっと顔を明るくする。
「口への広がりがすごい。醤油が邪魔をするところだった、あぶないあぶない。これはこうするべきだろう!」
もうひとつまみをご飯の上にのせてご飯と一緒に食べて顔をゆるませた。
「こういう食べ方もある」
洋太が別の醤油皿に酢を入れそれに少し浸けてからご飯の上に乗せた。
「あら、ようちゃん。通ね」
一夏に褒められて洋太は照れた。
真守がそれをマネる。
「ふをををを! 寿司寿司寿司!!」
「母さん! これ、弁当に入れてくれ!」
一人喜びに震える真守を無視した洋太のご飯の上には火を通されたさんまが乗っていた。
「わかったわ。一夏さんにちゃんと作り方教わっておくわ」
こうして田中家のサンマ三昧昼食会が終わった。真守と水萌里は夕食が食べられないほどであったため、洋太は一人ウキウキと昼の残りでご飯を平らげていた。
☆☆☆
一夏さんのモデルが誰かわかる人はいないと思いますが、わかっても内緒で♪
体のふくよかな女性が体を揺らしながら笑顔で歌うのは裸の男の子が野菜と踊るかの有名なCMソングである。
少しばかり外れたメロディーに真守は「ブフッ」と吹き出した。
『あなたには笑う権利はないと思うわ……』
水萌里は真守の調子っぱずれで自作の鼻歌をしょっちゅう聞いているので呆れてため息を吐いた。
「はい! 本日の材料はこちら!」
真守の吹き出しをまるっと無視した女性が両手を広げて見せたパッドにツヤツヤとした秋刀魚が並んでいるのは、田中家自慢のダイニングテーブルだ。
「一夏さん。すごく立派なさんまね。おいしそう!」
一夏はすばらしく破顔する。清井一夏はアラフィフの旭市在住半生という主婦で、出身は隣の匝瑳市であるため生粋の九十九里浜北部人間である。『おひさまテラス』の主催する読書会で水萌里と出会ってから何かと水萌里を誘い、すでに真守と洋太とも顔見知り以上である。
「さんまを使った家庭料理は何を知ってる?」
「塩焼きだよな? あとは煮付け」
「最近では蒲焼というのもあるわ。旭市はさんまが安くて大きくて新鮮だから作ろうと思っているの」
「え? 刺し身だろう?」
洋太のビックリ顔にさらにビックリ顔で返した真守と水萌里は顔の前で右手を左右に振った。
「「ないない」」
「あのね、洋太。さんまとかの青魚は生では食べられないのよ」
「ええ!!! でもシュンさんが連れていってくれる店ではさんまは刺し身以外食べたことないぞ。メニューにはあるけどみんな刺し身かなめろうで食べる」
「「えええ!!!!」」
三人の会話を嬉しそうに聞いていた一夏はついに腹を抱えて笑い出した。
「あーははは! みもちゃんの意見は一般的には正解! でもようちゃんの話も本当だよ。
青魚には寄生虫がいることが多いの。それは内臓に生息していて魚の鮮度が落ちると筋肉にまで侵入してくる。だから鮮度の落ちたものは生では食べられないし、鮮度がよくても内蔵は食べられない。冷凍技術のおかげでいつの季節でも冷凍さんまは食べられるけど、刺し身やなめろうとして食べることはできないわ。
だから、この地域でも「今日中なら刺し身で食べられます」とか「火を通してください」とか書かれて売られているの」
「え…………でも俺苦手かも…………」
一歩退いた真守に一夏がうんうんと頷いた。
「だよね。青魚は足が早くて焼いても煮ても臭いときがあるもんね。それを生っていうのは敬遠する気持ちもわかる。
まあ、とにかくやってみるね」
一夏は長年主婦の慣れた手付きでさんまを捌いていく。刺し身包丁と出刃包丁は一夏の自前である。
「さっきも言ったけど、内臓はダメだから最初からきっちりと切り落とす」
「うわあ。一番美味しい部分……」
水萌里は思わず呟いた。
「ふふふ。その気持ちはわかるわ。でもこれは大切な作業」
水萌里も素直に首肯する。
頭を落とした首部分からゆっくりと皮を引くときれいに剥がれていく。
「これが簡単に剥がれるかどうかも鮮度の目安よ。鮮度がいいとよく剥がれるの。そうじゃない場合は軽く塩をしてシソを乗せて焼くといいわ」
三枚におろしたさんまは四つほどにそぎ切りされツマと千切りみょうがとおろししょうがとわさびともに平皿に並べられた。
「おお! 店のとあまり変わらないな!」
「やだ、ようちゃん。それはほめすぎ。やっぱり、油の部分の手さばきとか、プロとは違うよ。まあ、食べてみて」
洋太と水萌里はさっそく食べ始める。洋太は食べ慣れた味なのでこくりこくりとわかり顔をしながら食べた。
「えええ! 臭くない。あぶらがのってて美味しいわ」
水萌里は薬味を変えては次々に食べていった。それを見た真守が恐る恐る一枚つまみ醤油皿に少し付けると醤油にあぶらの膜がすうっと現れた。そして口に運ぶと目を見開く。
「俺が悪かった。先入観を持ってお前を見いていた……。お前はなんて美味なヤツなんだ」
つまみ上げたさんまの刺し身に話かけて口へ運ぶ。
「おおお! しょうがのさっぱり感は定番だな。
わさびだと寿司みたいでこれはこれでいい。
みょうがの苦みが合うなんて、みょうがと刺し身ってハマりそう!」
「定番って、さっきまでビビって食えなかったくせに」
洋太のツッコミに一夏は大笑いした。一夏が捌いた四匹はあっという間になくなったが、ご飯がすでに二杯目に突入していた洋太は淋しげな顔をする。
「ようちゃんに朗報です」
一夏が足元に置いたクーラーボックスからタッパーをいくつも取り出した。折りたたみ椅子から立ち上がった洋太は取り皿を取りにいく。真守自慢のマイチェアは今日は一夏に貸していた。
「これは今朝作ったさんまのなめろうよ。それと、さっき説明したけど、皮を剥いたけど新鮮じゃなかったときのシソ塩やきとバターソテー。冷めてもおいしいのよ。今日のさんまは新鮮だけど食べてほしくて作ってきたの」
真守がさっそくなめろうをつまんで醤油皿へ箸を運ぶと、一夏が素早く動いてその皿を取り上げた。
「真守君。なめろうはお醤油をつけちゃダメ! しょうがと味噌でしっかり味がついてるから。お店でもお醤油が必要か聞いてから食べるようにしたほうがいい。アジでもイワシでもね」
真守がそれを口に入れ、ぱあっと顔を明るくする。
「口への広がりがすごい。醤油が邪魔をするところだった、あぶないあぶない。これはこうするべきだろう!」
もうひとつまみをご飯の上にのせてご飯と一緒に食べて顔をゆるませた。
「こういう食べ方もある」
洋太が別の醤油皿に酢を入れそれに少し浸けてからご飯の上に乗せた。
「あら、ようちゃん。通ね」
一夏に褒められて洋太は照れた。
真守がそれをマネる。
「ふをををを! 寿司寿司寿司!!」
「母さん! これ、弁当に入れてくれ!」
一人喜びに震える真守を無視した洋太のご飯の上には火を通されたさんまが乗っていた。
「わかったわ。一夏さんにちゃんと作り方教わっておくわ」
こうして田中家のサンマ三昧昼食会が終わった。真守と水萌里は夕食が食べられないほどであったため、洋太は一人ウキウキと昼の残りでご飯を平らげていた。
☆☆☆
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