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天花編
非日常は唐突に
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「まぁまぁ、景子ちゃん。それから、朔夜殿ね。ようこそいらっしゃいました」
守宮の屋敷、出迎えてくれた智子は急な訪問にも関わらず、両手を広げて歓迎してくれた。
浮かべる笑みは朗らかで、とても息子が病床に伏しているとは思えない。
「こんなに可愛い子達がお見舞いに来てくれるなんて、本当にあの子は果報者ね」
こちらにどうぞ、と通された部屋は恐らく前に私が内裏から避難……もとい隔離された時と同じ部屋だ。
懐かしさをかみしめながら室内を見回していると、智子が「それじゃあお茶を用意してくるわね」と立ち去って行った。女主人がそれでいいのだろうか。女房はどうした。
「何と言いますか……おおらかな方ですね」
たぶん今この瞬間、私と朔夜の心は一つだったと思う。
言継が倒れたという知らせは、私を大いに動揺させた。
すぐにでも見舞いに駆け付けようとしたのだが、それは紫が許してくれない。
身分とは面倒臭いのだ。
それでもじっとしていられなくて。不安で不安でたまらなくて。
久々にやらかした。
……朔夜があの場にいなかったら、内裏は今頃植物に埋もれていたかもしれない。
ともあれ、力の制御すらもおぼつかなくなってしまった私に、さすがの紫も折れた。
共を付けるならば見舞いに行っても構わないという許可が出たのだ。
嫌な顔ひとつせず巻き込まれてくれた朔夜には最大限の感謝を贈っておこう。
暖かなお茶を口に含むと、肩の力が抜けていくのがわかった。
ほっと息をついて、そうして心を決める。
「言継は、大丈夫なのですよね?」
智子の様子から見れば、そうひどい事にはなっていないと思うが心配なものは心配である。
医療の発達していない平安の世では、何が命取りになるのかわからないからだ。
どうか、大した事ありませんように。祈るように問いかける。
そんな私の不安を吹き飛ばすように、智子は手を振った。
「何の問題もないわ。あの子はとても強い子だもの」
この程度の術でどうにかされるような子ではないわ、と自信に満ちた笑みを浮かべる智子が言い切る。
だが待ってほしい。いま、不穏な言葉があった気がする。
「……術?」
なんだ、それは。言継が倒れたのは疲労でも病でもなく、誰かの手による呪詛の類が原因とでもいうのだろうか。
思わず首をかしげると、智子が眼を瞬かせた。
「あら、やだ。わたくしってばうっかりね! 景子ちゃんが鬼眼の子を連れているから勘違いしちゃったわ」
あらあらうふふ、どうしましょう。だなんて、ちっとも慌てていない様子で智子は頬に手を当てる。
チラリと視線を向ける先にいるのは、朔夜だ。鬼眼の子などと言われていたけれど、どういう意味だろう。
「……私の通り名をご存じだったのですね」
「ええ、とても有名ですもの。安倍の家がとても目をかけているそうね?」
「恐れ多い事です。時に奥方様、姫宮は私の事をあまりご存じではありません。このお話は……」
「それは、ダメよ。景子ちゃん、来年にはうちの子になるのよ? 今から知っておいてもらった方が良いわ」
なんだか私の知らないところで私の知らない次元の会話が繰り広げられている。
おかしい、私は言継のお見舞いに来たはずなのに、どうしてこうなった。
おろおろと視線を彷徨わせれば、智子と目があった。
「景子ちゃんってば、そんなに怖い顔をしてはダメよ? 大丈夫。あの程度に負ける津守の血ではないわ」
反射で強張ってしまった私の頬をつんとつついて、智子は立ち上がる。
「いらっしゃい。実際に自分で見た方が早いと思うわ。説明は、それからでも出来るもの」
ゆるりと手招きされて、私は足を踏み出す。
背後で朔夜が「いけません」と止める声がした。それを断ち切って、私は智子の手を取る。
なんとなくそうしなければいけない気がした。
鬼眼と言う言葉を、私は知らない。津守と言う名字もだ。
そんな設定、ゲームにはなかったはずだ。だからこそ、知りたいと思った。知らなければならないと。
おそらくそれらは、定められた未来を捨てた私に必要な知識なのだと、そう思った。
静寂に包まれた廊下を、迷いのない足取りで智子が進んでいく。
不思議な事に誰ともすれ違う事はなかった。通常ならば部屋の入口で控えているはずの女房の姿もない。
内親王が客として訪れているというのに、だ。
「耐性のない者達は母屋から出て行ってもらっているの」
不思議に思っている事が顔に出たのだろう。景子が教えてくれた。
今この屋敷の母屋に立ち入ることが出来るのは数人だけなのだそうだ。女主人自ら茶を用意しなければならない程度には人手不足らしい。
「私は、大丈夫なのですか?」
「景子ちゃんは大丈夫よ。ダメなら屋敷についた時点で朔夜殿が止めているわ」
何故だろう。さっきから智子の言っている事がわかるようでわからない。
まるで「自分で気付きなさい」と言わんばかりの態度に首を捻っていると、かすかな違和感を覚えた。
……空気が、黒い?
最初は、陽が陰ってきたのかと思った。降り注ぐ太陽の光がさえぎられて、それで廊下が暗くなっているのだと。
けれど違う。進めば進むほど、色が濃くなっているのだ。
一度気付いてしまえば、気のせいなどとは思えない。まるで夜が訪れたかのように、景色が闇に沈んでいる。
「な、に」
こぼれた声は、自分でもびっくりするほどに擦れていた。
思わず喉を抑えた手は、夏だというのに冷たい。
「……やだ!」
黒い靄が、体にまとわりつく。
足がだんだんと重くなっていくのを感じた。まるで水の中を進んでいるかのようだ。
絡みつくそれを振り払おうとよじった体は均衡を崩して、その場に頽れそうになる。
支えてくれたのは、朔夜だった。
「――禁」
朔夜が何かの印を結んで、短く唱える。それだけで、ふっと体が軽くなった。
「……戯れがすぎます」
どこか緊張をはらんだ声が、諌めるように智子に向けられる。
私を庇うように朔夜が半歩、前に出た。その表情は、硬い。
「そんなつもりはなかったのだけれど……景子ちゃんにはちょっと早かったかしら?」
悪気はないのよ、と智子が軽く肩をすくめて手を上げる。
指が何かの紋様を描くように宙を泳いで、そうして最後にパチンと音を鳴らした。
瞬間、空気が透明さを取り戻していく。
「これから行く言継の所はもっと瘴気が濃いと思うのだけれど……大丈夫かしら?」
智子は首をかしげているが、私も首をかしげたい。いったい今、何が起こったというのだろう。
-------
たぶんこの作品の中で一番フリーダムなのが智子です。
このお母さん、いろんな意味でファンタジーなんです。
それはもう、子供が花を咲かせたくらいでは動じないくらいに。
守宮の屋敷、出迎えてくれた智子は急な訪問にも関わらず、両手を広げて歓迎してくれた。
浮かべる笑みは朗らかで、とても息子が病床に伏しているとは思えない。
「こんなに可愛い子達がお見舞いに来てくれるなんて、本当にあの子は果報者ね」
こちらにどうぞ、と通された部屋は恐らく前に私が内裏から避難……もとい隔離された時と同じ部屋だ。
懐かしさをかみしめながら室内を見回していると、智子が「それじゃあお茶を用意してくるわね」と立ち去って行った。女主人がそれでいいのだろうか。女房はどうした。
「何と言いますか……おおらかな方ですね」
たぶん今この瞬間、私と朔夜の心は一つだったと思う。
言継が倒れたという知らせは、私を大いに動揺させた。
すぐにでも見舞いに駆け付けようとしたのだが、それは紫が許してくれない。
身分とは面倒臭いのだ。
それでもじっとしていられなくて。不安で不安でたまらなくて。
久々にやらかした。
……朔夜があの場にいなかったら、内裏は今頃植物に埋もれていたかもしれない。
ともあれ、力の制御すらもおぼつかなくなってしまった私に、さすがの紫も折れた。
共を付けるならば見舞いに行っても構わないという許可が出たのだ。
嫌な顔ひとつせず巻き込まれてくれた朔夜には最大限の感謝を贈っておこう。
暖かなお茶を口に含むと、肩の力が抜けていくのがわかった。
ほっと息をついて、そうして心を決める。
「言継は、大丈夫なのですよね?」
智子の様子から見れば、そうひどい事にはなっていないと思うが心配なものは心配である。
医療の発達していない平安の世では、何が命取りになるのかわからないからだ。
どうか、大した事ありませんように。祈るように問いかける。
そんな私の不安を吹き飛ばすように、智子は手を振った。
「何の問題もないわ。あの子はとても強い子だもの」
この程度の術でどうにかされるような子ではないわ、と自信に満ちた笑みを浮かべる智子が言い切る。
だが待ってほしい。いま、不穏な言葉があった気がする。
「……術?」
なんだ、それは。言継が倒れたのは疲労でも病でもなく、誰かの手による呪詛の類が原因とでもいうのだろうか。
思わず首をかしげると、智子が眼を瞬かせた。
「あら、やだ。わたくしってばうっかりね! 景子ちゃんが鬼眼の子を連れているから勘違いしちゃったわ」
あらあらうふふ、どうしましょう。だなんて、ちっとも慌てていない様子で智子は頬に手を当てる。
チラリと視線を向ける先にいるのは、朔夜だ。鬼眼の子などと言われていたけれど、どういう意味だろう。
「……私の通り名をご存じだったのですね」
「ええ、とても有名ですもの。安倍の家がとても目をかけているそうね?」
「恐れ多い事です。時に奥方様、姫宮は私の事をあまりご存じではありません。このお話は……」
「それは、ダメよ。景子ちゃん、来年にはうちの子になるのよ? 今から知っておいてもらった方が良いわ」
なんだか私の知らないところで私の知らない次元の会話が繰り広げられている。
おかしい、私は言継のお見舞いに来たはずなのに、どうしてこうなった。
おろおろと視線を彷徨わせれば、智子と目があった。
「景子ちゃんってば、そんなに怖い顔をしてはダメよ? 大丈夫。あの程度に負ける津守の血ではないわ」
反射で強張ってしまった私の頬をつんとつついて、智子は立ち上がる。
「いらっしゃい。実際に自分で見た方が早いと思うわ。説明は、それからでも出来るもの」
ゆるりと手招きされて、私は足を踏み出す。
背後で朔夜が「いけません」と止める声がした。それを断ち切って、私は智子の手を取る。
なんとなくそうしなければいけない気がした。
鬼眼と言う言葉を、私は知らない。津守と言う名字もだ。
そんな設定、ゲームにはなかったはずだ。だからこそ、知りたいと思った。知らなければならないと。
おそらくそれらは、定められた未来を捨てた私に必要な知識なのだと、そう思った。
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不思議な事に誰ともすれ違う事はなかった。通常ならば部屋の入口で控えているはずの女房の姿もない。
内親王が客として訪れているというのに、だ。
「耐性のない者達は母屋から出て行ってもらっているの」
不思議に思っている事が顔に出たのだろう。景子が教えてくれた。
今この屋敷の母屋に立ち入ることが出来るのは数人だけなのだそうだ。女主人自ら茶を用意しなければならない程度には人手不足らしい。
「私は、大丈夫なのですか?」
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一度気付いてしまえば、気のせいなどとは思えない。まるで夜が訪れたかのように、景色が闇に沈んでいる。
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こぼれた声は、自分でもびっくりするほどに擦れていた。
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絡みつくそれを振り払おうとよじった体は均衡を崩して、その場に頽れそうになる。
支えてくれたのは、朔夜だった。
「――禁」
朔夜が何かの印を結んで、短く唱える。それだけで、ふっと体が軽くなった。
「……戯れがすぎます」
どこか緊張をはらんだ声が、諌めるように智子に向けられる。
私を庇うように朔夜が半歩、前に出た。その表情は、硬い。
「そんなつもりはなかったのだけれど……景子ちゃんにはちょっと早かったかしら?」
悪気はないのよ、と智子が軽く肩をすくめて手を上げる。
指が何かの紋様を描くように宙を泳いで、そうして最後にパチンと音を鳴らした。
瞬間、空気が透明さを取り戻していく。
「これから行く言継の所はもっと瘴気が濃いと思うのだけれど……大丈夫かしら?」
智子は首をかしげているが、私も首をかしげたい。いったい今、何が起こったというのだろう。
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